キッド と クロナ と ラグナロク
1
暖炉の火が消えて少し経った部屋は、灰が燻る匂いがするだけでシンと冷えている。
僕は部屋に通されてキッドのコートと死神様に借りたマフラーを持ったまま、所在なくぼんやり立っていた。
「……ず、ずいぶん、いい部屋、だね」
「奥の部屋にベッドがある。お前はそこで休め。おれはこっちのソファで寝る」
苦し紛れに出したセリフが鼻を気で括ったようなセリフで潰されて、僕はしょんぼりと下を向いた。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められていて、ふわふわと心もとない靴の下だ。まるで雲の上にでもいるみたい。
「……いいいい、いいよ!僕が押し掛けてるんだし……床でだって、寝慣れてるから」
慌てて両手を胸の前で振りながらノーサンキューのボディランゲージ(これって全世界共通だよね?)をしてみたけれど、意に介するそぶりさえないキッド。
「お前は一応人間だから凍死する可能性がある。文句言わずにベッドへ行け」
「いいいい、いいってば……」
死神様、ほんと、恨むよ。なんだってちょうど宿代に足りない金額しか渡さないかな。
旅費だと言って貰ったバッグの中の財布は本当にきれいに高額貨幣が入っていなかった。……もしかして小銭とお札を分けたのはいいけど、大きなお金の方を入れ忘れちゃったんだろうか?
僕が財布を持ったまま唸っていると、襟首を掴まれてずるずるとキッドの部屋に連れて行かれた。……そりゃ、寝具一式借りて相部屋するぐらいの金額はあるけどさ。
「……ところで、珍しくラグナロクが出てこないな。いつもなら頼んでも引っこんでおらんのに」
暖炉に薪をくべてマッチを擦るキッドがなんとか話題を探しているのが解って、僕はあわててそれに乗る。
「う、うん。ほら、ラグナロクって血だから僕の体温が下がると動けなくなるんだ」
「…………なんだと?」
「心臓を動かさないと僕死んじゃうでしょ? もともと血って、ラジエーターの役目も……」
そこまで言った所で、キッドが僕の手を掴む。
「きゃ……!」
「なんだこの冷たさは!お前、どうなってる? まるで氷じゃないか!」
取り上げられた手が彼の手の温度を受けてひりひり痛む。手の甲に並べられた4本の指の形に色が付いてく。固まって動かない手のひらに押し付けられている親指から脈さえ感じられる気がした。
「……へ、平気だよこのくらい。いつものことさ」
「そうだ……まず気付くべきではないか……何故こんな場所で上着も着ずに居られるんだ!?」
ワナワナと自分の失態に驚愕しながら語調をますます荒げる彼が踏んじゃいけない地雷を踏んだ。
「……空を飛ばないといけなかったから。上着を着ちゃうと、羽根が出せないんだよ」
僕はなんだか興醒めしたみたいな気分。
そうだった、そうだった。
僕はここにピクニックに来たんじゃなかったんだっけ。
「そんな問題か!死ぬぞお前!」
「――――――――死なないよ。ラグナロクが居るもの」
僕の言葉に焦るキッドの顔がすっとその熱気を失ったのが解る。窓の外の吹雪がガラスをガタガタと鳴らした。
夢現でふわふわ頼りなかった毛足の長い絨毯が、牛乳を擦った雑巾みたくに思えてならない。無暗に腹立たしさが僕を襲う。
だけど僕はそれに慌て、かぶりを振って心臓よ静まれと何度か口の中で唱えた。
いけない。いけない。こんな感情、理性もなくぶつけちゃいけない。
「ラグナロクは僕を生かすためならどんな事だってする」
暖炉に火が灯って、ゆらゆら。
影がゆれる。
もどかしいみたいに、キッドの視線が僕を彷徨ってどこかへ墜ちた。
「……ラグナロクは助けてやるなんて言ってくれない代わりに、助けられないなんて言わない」
本当は
嬉しかった。
必死に
足掻いてくれることが。
僕の為に
心を砕いてくれることが。
2
でも、それを受け入れてしまった時こそ、僕の魂は本当の意味で腐り始めるのだろう。
でも、それを怨みに変換してしまった時こそ、僕の魂は本当の意味で堕ちるのだろう。
誰かの心配は僕にとって甘い毒だ。自分を憐れむことは僕にとって楽な薬だ。うっとりしている僕を殺す。最後は蝕まれて、朽ち果ててゆくだけ。
緩んじゃ駄目だ。甘えちゃいけない。復讐さえ望むべくもない。
僕は戦わなくてはならない。
優しい人たちの為に。僕を許してくれた人たちの為に。僕が犯した罪を償う為に。……そして、メデューサ様と―――自分自身に向かい合う為に。
「……生意気を言ってごめんね。
キミの気持ちはありがたいけど、でも……いいんだ。心配してくれて、嬉しかったよ」
キッドの手から自分の手を離して笑った。大丈夫、笑えている。大丈夫、きっと変じゃない。
「――――――――お前は、いつもそうやっていたのか」
「………………」
「そうやって、我慢して、堪えるのか」
「………………」
「たった一人で」
泣いている子供だ。聞き分けのない赤子だ。まるで、まるで、あの日の僕のようだ。たったひとつ与えられなかったものを求めて暗い廊下をうろつく、さ迷える亡霊だ。
彼がぶるぶると震えながら、唇を噛んだまま下を向いた。
……やさしい人だと思う。他人の為に憤れる、真っ当な人だと思う。マカやブラックスターのように、きっと心の底から僕を憐れんでくれているのだろう。
だけど僕はそれが訳も分からず不愉快だった。
あの二人とどこが違うのか僕には言い当てられそうもないけれど、それでも確かに怒りとも悲しみともつかない感情だけは腹の底に溜まっている。
「ラグナロクが居るから、僕は一人にはならないよ」
理解してもらえないのは慣れているつもりだ。けれども、ソウルや椿、リズとパティにはきっと言葉にせずとも解って貰えるだろうに。武器の心は職人には分からないのだろうか? 心を委ねることは、決して溶け合うことじゃない。理解し、沿うことだ。感情の流れに、筋肉の流れに、思いの流れに、逆らわないことだ。
僕とラグナロクは悲鳴で共鳴する。それは荒ぶる魂を掛け合わせて燃やすこと。恨みと嫉みと不安と癇癪、怖れと疎外と齟齬。そんなものをどんどん感情の窯にくべてゆくこと。……そんなの、一人じゃ絶対に無理だ。特に、意気地無しの僕には……
「……それではラグナロク以外は必要でないと聞こえる……」
キッドの絞り出すような言葉を聞いてしまってから、何とはなしに窓の外を見た。白い雪がガラスにへばりついて、向こう側がもうほとんど見えない。雪の室に閉じ込められてしまったような気分。息苦しくて、少しイライラしている。
そしてちょっとドキドキして、軽く軽く……ゾクゾクする。
「ラグナロクは絶対に僕を裏切らないもの」
いつもなら外には出さない言葉を口にして、なんだか変な高揚感。少しラグナロクの皮肉っぽいところが似て来たみたい。
3
「……………………」
何か言いたそうな目をこちらに向けて、だけど彼は何も言わずにただ唇を震わせる。
僕はその行動にひどく落胆と似た物を感じ、すっとその場を離れた。もう、ベッドだのソファだの、どうでも良くなってしまった。この人の目の前に立ち尽すことと同じくらいに。
「……ごめん。今日はちょっと疲れて気が高ぶってるのかもしれない。不愉快にさせそうだから、僕もう寝るね。ベッド、使わせてもらうよ」
ベッドルームに滑り込んでドアを閉める。そうすれば安心な気がした。自分と彼を隔てる物がこんな板切れ一枚でも、僕にとってはジェリコの壁より強固で信頼が置ける。何故なら、キッドは絶対にこの壁を乗り越えてこないから。
「……本当はなんて言って欲しかったんだよ? クロナ……」
独り言で自分に問いかけて、だがしかし答えは返ってこない。もちろんのことだけれども。
彼は僕と同じで、どこも傷だらけなのだ。
僕は彼と同じで、苦痛はうんざりなのだ。
マカみたいに無理やり僕の中に踏み込んでは来ない。ラグナロクみたいに面白半分に掻きまわしたりしない。だからこうして扉一枚挟んでしまえば、僕たちは寸断される。
きっと、永遠に。
ここにお節介焼きのリズが居なくてよかった。彼女はきっと僕の機嫌を伺いながらキッドと何とか橋渡しをしようと四苦八苦するだろう。そして上手くいかなくて気落ちするに違いない。
ここに怖いものなしのパティが居なくてよかった。彼女はきっとキッドの袖を引張りながらみんなでトランプをしようとテーブルに着かせるだろう。そして一人はしゃいで空回ったのだ。
そしてもしもラグナロクが眠っていなかったら。……きっとこう言ったと思う。
「面倒くさいから一緒に寝ればいいじゃねーか」
ぞぞぞぞぞぞ!いやあああああ!寒い!サムイ!さーむーいー!!背筋が凍るーッ!
キッドの手前ラグナロクは裏切らないとか言ったけど!あいつ結構簡単に僕のこと裏切るからね!? 最高に嫌なタイミングで嫌がらせしてくるんだから! この前だってトイレに行きたいってのにマリー先生と立ち話させたりさ!
「ううう〜絶対言う!ラグナロクは絶対に言うよ!」
「何を?」
「だから!一緒に寝ろとかさ!」
「なんでダメなんだよ?」
「駄目に決まってるだろ!どうせ布団に入ったとたん僕の服を血に戻したりするんだ!」
「フーン。ようやくお前にも危機感って奴が芽生えてきたんだな」
「芽生えるよいい加減!ちょっと油断したら生理重くして死神君に抱っこさせたりさ!もうホントああいうの困るんだよ!」
「なんで?」
「変な気持になるからだよ!!」
「……変な気持ちってのは、あれか。股倉が濡れてきたりとかそういう……」
「ちちちちちがう!違うよ!そんなんじゃ……そんなんじゃなくてこう……もうちょっと精神的な……なんつーの、つまり、その、むむむねが、熱くなってドキドキしてくるって言うか……」
頬を染め、両手の指先をくっつけたり離したりしながらぶつぶつ小声で喋りながらハッと気付く。
僕、一体誰と喋って――――――――
4
「いいいいい……いやーーーー!?」
ラグナロクがいつもみたいに僕の頭の上に肩ひじをついていた。……あまりに自然に出てきてたから気付かなかったけれど。
「ようクロナ。妄想お楽しみ中のとこ悪ィなゲラゲラ」
聞きなれた意地の悪い声が粘っこく引き伸ばされて実に楽しそう。
「なななななんで!? 体温下がってたから出てこれないんじゃないの!?」
「おめーがガンガン心臓動かすからうるさくて起きちまったぜ、このドエロが」
ぽこっと頭を殴られて、ラグナロクの呆れた声。その仕草も力加減ももうまるっきりいつもの調子で、僕はゾクゾクする背中が恐ろしい事を無理やり思い出させてくれて足元が震えた。
「……い、いつから起きてたの……」
「死神野郎がお前の襟首つかんだあたり」
「け、結構前じゃないかぁ!」
温いキッドの指が確かに四本、僕のうなじをなぞった。順番だって思い出せるよ。最初は中指、次に薬指、人差し指と来て最後に小指だ。
「ぐぴぴぴぴ。部屋のドアが閉じた音で完全に眼が覚めて、死神野郎に腕を掴まれたときに動けるよーになったぞ」
「う、う、う、うぅぅ〜……」
みっともなく反応する身体が火照って恥ずかしくてたまらないものだから唇を噛んで声を殺した。その努力が全くの無駄だったなんて!
「俺様お前の血だから? お前のテンションが上がれば活動活発になるんだぜ?」
「や、やめてぇ……やめてぇ……言わないでぇ……!」
もう顔が真っ赤になっちゃう。心臓がドキドキ音を立てるのが情けなくて死にそう!全部、全部ばれてたなんて!
変な汗をかいてきた。狂ったように目の前が瞬いて、ズキズキ頭が悲鳴を上げる。
「俺様お前をいろいろ唆しはしたけど、ベッドに入れとは言ったことねぇなぁ〜」
「キャーッ!きゃーっ!」
しゃがんで丸まって床の上を転げまわる僕にラグナロクが心底呆れ返ったように言った。
「クロナよ。――――お前本当に――――エロいな」
「もう勘弁してーっ!」
蔑んだような哀れんだような面白がっているような。そんなラグナロクに怒りと羞恥とヤケクソを含んだ叫び声を上げた途端、へばり付いてたドアが大きな音を立てて軋み、震える。ドンドンドンドン!
「どうしたクロナ!」
キッドの焦ったような声がくぐもって聞こえる。そうだ、ここ、壁が薄いんだった!
「な、なんでもな――――――――」
い、と言って立ち上がる寸前で口がラグナロクに塞がれ、足元をバチンと弾かれた。体勢が崩れて危ないと思った時にはすでに倒れていて、床で顔面をしたたかに打つ。
「おお、助かったぜ死神野郎。クロナが倒れちまってよ!」
「その声はラグナロクか? 一体何事だ!ともかくドアを開けるぞ!」
バン、とドアが開かれたらしいけど、リノリウムとキスしてる僕には何にも見えない。額と頬がジンジン痛くて仰け反ってじたばた喚きたいのに、ラグナロクが完全に僕の体の支配権を乗っ取っているらしくて小指一本動かせないんですけど!?
「どうしたんだ一体!」
「過労だよ、過労!デスシティからここまでほぼノンストップでぶっ飛んで来たんだぞ? おまけに低体温で凍死寸前だし!全く死神の酷使ときたら魔女の扱いよりヒデェ!」
ラグナロクがもうそれはそれは流暢に、立て板に水といった勢いでペラペラペラペラと有ること無いこと巻くし立てる。僕はもうその変わり身の早さにあっけにとられるしかない。
「やはりあの体温はおかしいと思ったんだ!」
5
キッドが頷いたのか責めているのかよくわからない口調で声を荒げてる。
「俺だけじゃベッドに運べねぇんだよ、頼むわ」
「無論だ」
ひょいと、まるで掻い巻きでも持ち上げるような軽やかさで僕を起してその腕に抱え込むものだから。
……ギャー!
もちろん声は出ないし、表情だって変えられない。それでも僕はやっと動く瞳だけを白黒させて自分の膝小僧だけを見ていた。他のどこを見ても頭がおかしくなりそうだったんだもの。
「暖炉の前のソファに連れて行った方が良いのではないか?」
僕の手をさすりながらその冷たさに顔をしかめたのか、何とも言えず不安そうな声のキッドが暗い頭の上でする。
『だってよ? どうする?』
耳元でこっそりとラグナロクの声が聞こえた。質問でも何でもない、ただいたずらに僕の心臓を狂わせるために。僕が一切体を動かせないことを一番知ってるくせに!!
「いや、急に上げちまうとクロナがイカれる。これで黒血ってのはなかなか繊細でね。徐々に温度上げていかないとまずいんだ。人間で言う凍傷になりかかってるのと同じだからな」
「……それでは宿の主人に頼んで風呂にでも……」
「おめーさえ良ければ同衾してくれりゃそれで済むけど?」
ぶは。
思わず噴き出した。……もちろん、身体は一切が自由にならないので心の中でだけど。
「……む、雪山の緊急手段だな。聞いたことはある」
「お前を探すポイントのマーキングでこいつ手首切ってるんだよ。風呂入ったらせっかく傷口固まってるのが融けてやばいだろ? その点お前は死神だしな」
「……ふん、あれほど無差別に魂を刈っていたお前が随分気遣いするのだな」
「当たり前だろ、うっかり俺様が魂盗っちまえば、死武専は今度こそクロナを殺すだろうしな。俺様は一秒でも長く生きていてぇだけなんだよ。それが叶うなら何でもするさ」
「…………よかろう。では寝間着を取ってくる」
ギャーッ!ちょっとちょっとちょっと!なにあっさり魔剣に納得させられてんだよ死神!お前に自分の意見はないのかーッ!
「……んじゃ、あとはヨロシクやんな。俺様寝るから」
「どどどうしろっていうの!? ベッドでの接し方なんて解らないよ!!」
「知るかバーカ。お前がいっつも脳内でやってるお花畑みてーなことやっとれや」
ひらひらと手を振って、ラグナロクが僕の身体の主導権を返した。本当にあっさりと、ただ無意味に僕を困らせることだけが目的だったみたいに。
「ひどいっ!こんな状況でおいて行かないでよ!ちょっと!ラグナロク!? ラグナロク!?」
呼ぼうが焦ろうが返事など返ってこない。そんなことは良く知っている。でも呼ばずには居られない。
ドキドキドキドキ、心臓がうるさい。どくどくどくどく、嫌な汗が出てくる。ズキズキズキズキ、頭が痛い。ばくばくばくばく、魂が震える。
ああ、ああ、どうしよう!どうすればいいの!
ここは大人しく死んだ振りをしておこう……そのまま
とにかくこの場から逃げなくちゃ!……窓から逃げる
14:29 2009/08/19
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