キッド と クロナ と ラグナロク
ここは大人しく死んだ振りをしておこう……そのまま
6
ああパニックで考えがまとまらない!開け放してあるドアの向こうでごそごそ音がする。
僕はもう観念して大人しく死んだふりをしておくことにした。どうせ向こうは失神してると思ってるんだ、黙ってじっとしてれば妙な事にはなるまいと、何とか心臓を鎮めるよう、努めて僕は無関係な事を考えた。
死神様とデスルームで話したこと。実習先でのお土産楽しみにしてって笑ったマカとソウル。リズとパティと一緒に行ったショッピング。ブラックスターとした釣りの約束。椿が作ってくれたお弁当。やさしいマリー先生、ちょっと妙なシュタイン博士。そして……
「……………………」
一人でなんか、居られない。
あの人達は僕の一部なのだ。どんなに離れても、どんな事があっても、もう、僕の中にはラグナロクが座り場所にも困るぐらいどっさり思い出を抱えた人達がいる。
例えこの先何が起ころうと、この記憶だけは誰にも取り上げられない。例えそれが―――――メデューサ様であろうとも。
僕はソウルに言わせればすごく我慢強いのだそうだ。……マカと平気で暮らしてるあのソウルが言うのだからきっと相当なものだのだろう。(関係ないけど利害が一致すればマカとラグナロクは意外に気が合うと僕は思う
だけど自分ではそうは思えない。
だって、今だって……君たちのことを思うだけで涙が出てくるもの……ちっとも、我慢なんか、できない。
込み上げてくる嗚咽が封じられなくて、でも必死に声を殺した。
僕は、人を殺したのだ。
こんな思いを抱える、僕と同じ人間を。
このささやかで強力な思い出を、奪い取っては踏み潰してきたのだ。
「――――――――なんてことを――――――――!」
苦しい。切ない。罪悪感で身が焼き切れそうだ。自己嫌悪が僕の魂を切り刻む。ああ、ああ、ああ!
否定しろ、とラグナロクは言った。お前を否定し続けてきた世界を、お前が否定してやれと。そのために俺はお前の剣になってやる。その言葉が嬉しくて、初めて誰かが僕に“僕”という意味をくれたようで……それが何を意味するのかも考えず、僕はただ、ただ、ただ……!
今考えれば、ラグナロクとメデューサ様の利害は一致していたのだろう。だからラグナロクは僕を唆し、唆された僕をメデューサ様は褒めたのだ。
そして僕は何も考えず、自分で決めることをせず、ただ流されて心地いい今を壊したくないばかりで人を殺した。
身体が震える。どうしようもないほど、涙が溢れて止まらない。もう全身くまなく痺れて動けない。
荒れ狂う嵐のような頭の中はまさに地獄で、上も下も分らない。悲鳴と怒号が飽くなきルフランを続けてはところどころで耳が痛くなるような静寂の中、自分の掠れた声が聞こえる。
『……人殺し……!』
ガタガタ震えて歯の根がかみ合わない。まるで氷の中に封じ込められたようだ。ゾクゾク背筋が戦慄いて、これが寒さ故なのか、自分に対する憤りなのか、恐怖におののく反射なのかも分らない。
加速する。
加速する。
僕の中の狂気が加速する――――――――
7
「……クロナ?」
ぎくっと僕の中の全てがフリーズした。思考も、震えも、心臓の鼓動さえも。
「寒いのか? 心配するな、体温の調節なら一千度の火の玉をも操れ……」
いつの間に掛け布団を捲られたのだろう? 左手に布団の端を持って呆然と立ち尽くす寝間着姿のキッドが、オレンジ色のランプの弱々しい光を反射させてベッドの脇に立っていた。
「……………………〜〜〜ううぅぃうぅぅぅ……!」
へんなの。
そんなボケボケッとした死神の姿を見ただけで。
全身に漲っていたおかしなパワーが霧散して、全身に圧し掛かっていた重さが消えて、全身を戒めていた石化の呪いが壊されたみたいに楽になった。
「お、おい、冗談だ! 焼き殺そうっていうんじゃない! まて、こら、きゅ、急に泣くな!」
「む、む、むりだよォ〜!だって急にキミが布団剥ぐんだもん〜!と、とまんないよォ!」
「ちちちちちがうからな!おれは決して不埒な考えなどなく!純粋に好意で……いやその!好意といってもだな、好きとか嫌いとかそう言うのではなく、善意とかそういう意……」
あたふた慌てる彼が何を言ってるのかなんかどうでも良かった。
不安で、寂しくて、気がおかしくなりそうな時、なぜかこいつは僕の前に現れる。
いつも。
「……!」
黒龍号のあの時、僕はメデューサ様が鬼神阿修羅奪取の計画を聞かされていた。
捨てられる、と直感的に思った。僕がなかなか鬼神にならないから、阿修羅で間に合わせようとしたのだとしか思えなかった。
「な、なんだ!服を引っ張るな……!た、倒れ……!」
死武専の雰囲気に馴染めなくて、マカが居ないと簡単に一人になる僕に、それとなく近くに居てくれた。
「なんでキミはいっつも僕の心をひっかきまわすのさ……!キミたちが居なけりゃ、僕は……僕は……ずっと不幸せだけで幸せだったのに……!」
孤独で静かな日々に参りそうだったことを、キッドたちだけが見抜いてくれた。
「…………そうか、それは悪い事をした」
「そうだよ、そうだ……人を殺す罪悪感なんか感じずに済んだのに!人を好きになる苦痛なんか知らずに済んだのに!」
リズが選んでくれたセンスの悪いTシャツ。
「そうだな。そうかも知れん」
パティが作ってくれた紅茶のショートブレッド。
「こうやって誰かの温かさが恋しくなることも、きっとなかったのに!」
みんなみんな覚えている。忘れられない、忘れたくない。
「……だが、お前は知ってしまっただろう。時間はもう、戻らない」
8
「戻れないのなら、後は往くだけだ。……簡単だろう?」
「簡単なもんか!失われたものはもうどうやっても取り戻せない!」
癇癪のように叫ぶ僕の胸倉を掴んで、キッドは鬼の形相で僕の額を自分の額で殴った。ガツっと鈍い音がする。
「ふざけるな!塞ぎ込んだ泣き言で物事が解決する訳なかろう!何度でも言うぞ、お前は戦わなくてはならん!それが辛いだの苦しいだの煩わしいだの、お前に言う権利なんかないんだ!
血が出ようが骨が折れようが足が切り取られようが!這いずってでも前に進むしかない!それが贖罪というものだ!」
はぁはぁと息を切らせ、怒りに燃える琥珀の瞳がすっと遠ざかってゆく。流れ星みたいに。
「俺はお前が嫌いだ。……お前を見てると、運命に挫けて、結局流されて、何もかも諦めてしまっていた昔の自分を思い出す……」
肩を落とし、呆然と力無い声でキッドが唸っている。無力に打ちひしがれて憮然とする彼は、いつもの自惚れに似た傲慢さなど欠片も持っていなかった。
「リズとパティがどんなにおれを楽にしてくれたか計り知れん。だからおれは死んでもあの二人を守り抜く。
いいかクロナ、覚悟を持て。自分の命を賭けるに足る覚悟を持て。それさえあれば、狂気など怖れるに足りん」
失ったのならば、補充すればいいのだ。掘った穴に有り余るほど土を被せればいい。それがきっと生きてゆくという事だ。……そうでも思わなければ、この世界は―――――昔の詩を諳んじるかのように、キッドはそこまで呟いて黙った。
「お前には欲がない。過剰な欲は身を滅ぼすが、無欲は無気力と同じだ」
なぜ彼を評して『泣いてる子供・聞き分けのない赤子』と思ったのか、今なら解る。……気がする。
いつかメデューサ様が言っていた。人は一人で生きてゆけないというけれど、死神というやつはきっとそれ以上に一人で生きていけないんだと。
人に尽くし奉仕してしか自分に価値を見出せない愚かな神より、我こそ価値だと叫ぶ鬼こそこの世に相応しい。そして鬼が秩序を食い尽くした後に広がる混沌を手に入れてみせると言った彼女は消え、僕は目隠しのままここに居る。
僕は死神と同じだ。誰かが居なきゃ、意味が無い。
……それがきっと、誰であれ。
「あるよ、欲ぐらい。……さし当たって、布団掛けて欲しいかな」
ヒラッと両手を扇のように招いた。……煽り出してないあたりがミソ。
「あとね、あんかが欲しい。……死神あんか」
もうこうなりゃ自棄だ。“往く”ところまで“言って”やるとばかりに震える声でねだったら、もっと震える声で間抜けな返事が返ってきた。
「――――――――お、お前もう低体温、治ってるんじゃないか?」
「欲の話でしょ?」
言ったら渋い声が返ってきた。
「……嫁入り前の娘が男を床に誘うのは感心できん」
「あんかって言ってるじゃない。何考えてんの? エッチ」
「ちっチガウ!そ、そういう意味でなくおれが言ってるのはあくまで一般論……」
もう議論は充分。今不足しているのは言葉ではないとどうしたら理解してもらえるのか分からなかったからキッドの襟首を強引に引っ張った。……決してじれったかったわけではないので念のため……
「…………昔ね、本当に昔……誰かにとこうやって一緒に布団に入ったような気がするんだ。それが誰だったのか覚えてないけど……嬉しかったことは覚えてる」
「………………おれも……そうだな。父上と、小さな頃、数回だけ、同じベッドで寝たような気がする」
暗い部屋は雪で閉ざされ、何も音がしない。いつの間にか風の音も止んで、ガラスが動く気配さえなかったけれど……不思議と息苦しい感じはしなかった。
「クロナ……いや……なんでもない」
「なんだよ、いいよ。言いなよ。どうせここには二人しかいないんだしさ」
「……引くなよ?」
「お説教じゃなければね」
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「キスしたい」
「―――――は?」
「キスだ」
「――――――――魚の?」
「もう一度だけ言うぞ、おれはお前とキスがしたい」
「…………………………………あ………ええええぇぇぇええぇえぇぇぇ!?」
「説教じゃなければ聞くのだろう?」
「いいいいい意味が分らない!なにそれ急に!と、唐突すぎない!?」
自分でも何を口走っているのか分からない。……あとから思えばまず嫌だって言葉が一切出てないあたり、恥ずかしくて死にたい。ラグナロクが顔を出してたらきっと一生いじられてたろうさ!
「……唐突? そうか、そうだな。だが、したい。言っておくが同情や雰囲気に呑まれて言ってるんじゃないぞ。普通に心の底からお前が愛しいと思うから申し込んでいる」
「な、なにそれ、もう……わけわかんないよぉ!キミとの接し方ホント解んない!」
僕の体の上に倒れ込んだままのキッドを押しのけ……いや出来ることならばいっそブン投げたい!
「嫌ならば断われ。無理強いするほど呆けてはいないつもりだ。……ま、もっとも断られると鬱になるかも知れんがな」
「……なにそれ脅し?」
「そう取って貰っても構わんさ。久しぶりにシンメトリー以外で執着するものが出来たのでな、余裕がないんだ今」
「……前はいつ? 何だったの?」
「リズとパティが初めて屋敷に来た時だからもういつぶりだか。四人で食事を取ることにずいぶん執心した」
「……つまりそれってシンメトリーの武器が手に入ってシンメトリーで並べて嬉しかったってことでしょ?」
「違う。たくさんの人間で食卓を囲むことが嬉しかったんだ。……子供っぽいが」
「――――あ――――」
「あいつらは家族だ。かけがえのない家族だ。愛している」
愛という単語にズキンと胸が震えた。自分の嫉妬深さにめまいさえ覚える。……嫉妬。そうか、僕は嫉妬しているのか。
「僕を仲間に入れたら奇数になっちゃうよ」
「……ラグナロクがいる。偶数だ」
「――――――――僕は死神の家族にはなれないよ。魔女の子だし、それに……」
「それに?」
「人殺しだ」
「…………お前が贖罪を続ける限り、おれはお前を許す。死神としてでなく、ただのキッドとして」
「……………………」
「このキスも死神としてでなく、ただのキッドとして……鬼神の卵でも魔女の子でもない、ただのクロナに」
溢れる。溢れる。涙が溢れる。止め処なく、涙腺が壊れたみたいに。
「……じゃあ…して…いい…………」
ガサガサで潤んだ声が引っ掛かって突っかかって、やっと唇の外に出ようとしたのに。
それを押し返すようにキッドの唇が僕の口に触れた。
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最初は唇が触れて、次に押し付けられて、それからキッドの顔の角度が変わって……
僕の冷たい唇に燃えるキスが滑る。羽根のように擽るような唇。鞭のようにしなる舌。雨のように滴る唾液。
息が出来ない。胸が躍る。涙が止まらない。
好きだ。好きだ。大好きなんだ。
僕が君を好きなぐらい、きっと君は僕が好きなんだ。
――――――――そう思っていいでしょう? こんなに情熱的なキスをくれるなら、勘違いしていいよね?
歯が当たる。鼻が当たる。まつ毛が当たる。
ゾクゾク背筋がおかしくなっちゃう。
……でも、でも、違うの。違うんだよ。身体がおかしくなるより、頭が、胸が、魂が!
「っはぁっ……!はぁっ……はぁっ!」
「すまん、加減が……いまひとつ分からなくて……」
涙と涎と汗でドロドロになってるだろう僕の顔はもうそれはそれはひどい有様に違いない。マカには死んだって見せたくないこの顔に、キッドの舌がゆっくりと這って。
「今度は息ができるように、少し口を開けるといい。……と、ソウルが持ってた本に書いてた……」
アホの死神がそんな事を言った。
次の日、目が覚めてぼんやりした頭を振りながら体を起こしたら、ごろんと僕の体に半分身を寄せていたキッドがベッドの上を転がる。……どーもあのまま力尽きて寝たらしい。
「……なんか……妙にすっきりしちゃったな……大泣きしたからかな」
後ろ頭をぼりぼり掻きながらふっと窓の外を見ると、白銀の世界が日の中で輝いていた。
「…………きれい……」
弱々しくも洪水のようにまぶしい光の海に、キラキラと雪が反射する様はまるで宝石箱のようだ。
「明けない夜はない、か」
ふっと笑って布団の中へ舞い戻ろうとした僕の眼前にバッテンの目が二つ並んでる。……んー、今日も絶好調だね……
「昨晩はお楽しみでしたねぐぴぴぴ」
「……朝っぱらからテンション上げらんないよ……もうちょっと寝かせて……」
「夜より朝のがいいってのは同感だな」
「……珍しい。なんで?」
「こういうのが効果的だから」
パチンと指をはじくのと同時に、僕の服がドロドロと音も立てずにラグナロクの方へ引き上げられる。
「は、あわわわわわわ〜!?」
「おはよう死神野郎。セルフブラッドニードル受け取りやがれ」
その台詞にびくん!と身体を震わせた僕が、油を差し忘れた編み機のアームみたいにギギギギと音を立てながら振り向いた先には。
真っ赤な顔で両手で鼻を押さえて目を白黒させている死神がいたとさ。
どっとはらい。
11:55 2009/08/21
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