零時

                =サンジ=


                 背中が天井についてる。
                 ハンモックからちらりとその少女を見た。
                 壁に腰掛けてて、背中を天井に預けてる女の子。
                 女の子の格好は全身全部が真っ黒で
                 すすけてぼろぼろの髪の毛が
                 逆立ったり絡まったりして
                 …ひどい状態だった。
                 出来れば動いたりしてほしくなかったし、音を出すなんてごめん被った。
                 息を殺して天井にもたれかかる黒の少女から視線をそらす。
                 ゆっくりと、布ずれの音で彼女を刺激しないように……
                 朝が来ると大抵そんな人間は視界から消えてしまって、深く短い安堵のため息などをつくのだが、ここのところ毎日夜になるとこの少女は現れる。
                 理由はわかっているんだ。
                 おれが殺したから。
                 自分と、愛する女の、子供。なのだろう、彼女は、おそらく。
                 クスリをやっていたときに見てた亡霊の形を借りて、彼女は毎日自分を殺した父親のもとを訪れる。
                 彼女に向かって何かを言ってやりたいと思う反面、言葉を発して取り殺されるのが恐ろしかったし、何かしくじったことをやらかして彼女を失望させるのが嫌だった。
                 情けない親父でごめんね。
                 なんて殊勝な言葉を掛けている妄想を見ながら目を閉じる。
                 安心しろサンジ、あれはフラッシュバックってやつさ、亡霊でもなんでもない、ただのお前のつまらない妄想だ、だから取り殺されるなんてことはないし復讐されることもないんだ、だから安心しろ、何も怖いことなんてないんだ、あんなのはただの妄想で、お前の脳みそがでたらめ好き勝手に見せている夢でしかない。
                 よく見ろお前が殺した人間だ、小さな薬一つでお前の可愛い子供は死んでしまったよ。愛も恋もこの広い海も青い空も硬い大地も冷たい水も何もかも知らぬままお前の子供は父親に殺されたよ。父親をさぞ憎んでいることだろう、見てみろあんなに真っ黒じゃないか。きっと地獄の炎に焼かれたんだお前のせいで!
                 ぶくぶくヘドロに湧き上がる泡のように脳みそが勝手に言葉を作っては脳の中に言葉を垂れ流す。その言葉におれは溺れそうだった。粘液のようにグルテンのように身体と言わず喉に目に口の中に、どこからでもどこにでも進入してきておれの息の根を止めようとする。
                 ああ嫌だ誰かに泣きつきたい!ごめんなさいもうしませんだからおれを助けて!誰か誰かこの自責の地獄からおれを救い出して!!



                 「…相変わらずひどい顔ね…」
                 「朝からあんまりな挨拶だ」
                 「泣いたの?」
                 「……そんなこと訊かれて男が素直にはいと言うわけないだろ?」
                 朝の食卓の用意をしているおれの後ろで、いつもと同じにふっと現れたロビンちゃんが、テーブルに頬杖つきながらおれをカウンセリングする。朝のカウンセリングは、朝食の前。夜のカウンセリングはアルコールと一緒。毎日毎日欠かさずに行われる日課。これでおれは何とか精神を保っている。ダメになりそうなとき、彼女は決して支えてくれたりはしないけれど、立ち止まり話を聞いてくれる。おれはこの船に彼女が乗ってようやく自分がコックで人間で男だということを思い出した。それまでのおれはまるでゾンビで死霊でクソガキだったのだ。
                 「そんなに気に病むことじゃないわ。よくあることよ。」
                 「いやダメだ。ダメなんだよ。
                 最後まで気に病んで、このなんだかよくわかんない絶望っつうか、自己嫌悪と、友達になんなきゃなんないんだ。そんで、自分で自分を許せるまで自分苛めないと……折り合いがつけらんねぇんだ、自分が」
                 「じゃあ、他のクルーが心配しないように顔でも洗ってらっしゃい。そんな顔してたら同情して下さい、助けてくださいって叫んでるようなものだわ」
                 おれは無理矢理に笑い顔を作って厳しいよなと思った。
                 でもそれが嬉しかった。
                 おれはロビンちゃんがおれを人間として、男として扱ってくれるのが何より嬉しかった。
                 同情より先に叱ってくれるのが嬉しかった。心配より先に発破掛けてくれるのが嬉しかった。
                 だからおれは何よりロビンちゃんの力になってやりたいと思う。
                 「…ゆで卵、見ててあげるから髪も一緒にセットし直して来たら?」
                 おれはダッシュで洗面所まで行って、顔を洗って出直した。
                 キッチンテーブルに頬杖つくロビンちゃんが早いのね男前、と笑ったのでレディをお待たせする訳にはいきませんから、と言った。



                 背中が天井についてる。
                 ハンモックからちらりとその少女を見た。
                 壁に腰掛けてて、背中を天井に預けてる女の子。
                 女の子の格好は全身全部が真っ黒で
                 すすけてぼろぼろの髪の毛が
                 逆立ったり絡まったりして
                 …ひどい状態だった。
                 出来れば動いたりしてほしくなかったし、音を出すなんてごめん被った。
                 息を殺して天井にもたれかかる黒の少女から視線をそらす。
                 ゆっくりと、布ずれの音で彼女を刺激しないように……
                 「初めまして、おれはサンジと言います。
                 きみの父親です。君をこの世界に産んであげられなくてごめんなさい。」
                 あまり何も嬉しくなかったし、楽しくなかったし、いいとも思わなかった。自分に対して怒る気も失せたのか元々無かったのか、特になんにも考えなかった。その場になってから騙して演じて避けて収めて知らぬ振り押し通してたらしわ寄せが他人に行った。ようやくそれが悲しいということだったと思い出した。慌てたときにはもう遅い。
                 「顔も合わせられません。申し訳なくてたまりません。どうか君の気の済むようにしてください。
                 死ねというのなら死にます。君の求めるままにおれは裁かれます。」
                 背中で異形になったおれの娘の幻影は、懺悔を聞いてもやはり背中を天井につけて壁に腰掛けて全身全部真っ黒のまま動かずそこに居た。何も言わないし、何もしない。
                 「……ただ、おれは君のママを、人から見れば歪んでるけど、愛してるんだと思います。愛されてる自信も愛してる自信もないけど、そう思います。…だから…君は決して誰にも望まれないから生まれなかったんじゃないことだけ、解っていてください。」
                 おれは声を出すのをやめにしてもう一度自分のセリフを一から心の中で強く念じた。力を込め、身を縮めながら。
                 もう一度。
                 もう一度。
                 もう一度。
                 四回目の頭の辺を念じていたときにそれは聞こえた。
                 「さみしいから いっしょにいて」
                 声がした。
                 確かに耳に聞こえた。
                 何度も何度もその声を頭の中で繰り返し再生し、気付いた。
                 気付いた。
                 初めて気付いた。
                 この言葉は“おれのものでもあった”のだ。



                 「好きだから離れると寂しいんでしょ。それで一緒に居て自己満足ってなら上等だわ」
                 ナミさんが言う。おれはその隣に座って煙草をふかしながら、女って強ぇなぁ敵わねぇなぁと思った。
                 「明日はくるし風も吹くわよ」
                 その横顔がやっぱり少し泣いた跡があって、身体のどっか奥のほうが痛んだけど顔には出さずに煙草をもう一度ふかした。
                 「風が吹けば帆さえ立ててりゃ進むしな、船」
                 おれは思うわけだよ。
                 おれは確かに気が狂っているけれど、この弱さも多分きっとありふれた物で、深刻に考えて周りが見えなくなってたのも自分で目を塞いでたのかもなぁと。耳を澄ませばあの声はいつも聞こえてたのに、あの言葉を理解できなかったのはつまりそういうことなんだろう。
                 羨ましい連中が回りに多すぎて自分を責め立て追い詰めることで快感覚えてたのだって、目も耳も塞ぎたい一心だったんだよ。何一つ許せなかったのは何一つ許さなかったからだ。全て欲しかったのは全て手を放したからだ。
                 「進んでいくのに、やっぱまだ……さみしいから、いっしょにいて」
                 彼女はもう一度言った。


                 天井に身体を預ける女の子の声も、いつか聞こえると思う。



                壱時

                =ナミ=


                 急に男部屋からか細い悲鳴が上がることがある。部屋の連中はもう慣れたのかそもそも関わりたくないのか何も言わない。けれど、壁一枚隔ててすぐにベッドの置いてある部屋に居るわたしの耳には良く聞こえるので気が滅入る。いっそ床で寝ようかとさえ思う。何故隣に一緒にいるロビンが平気な顔して寝ていられるのか解らない。
                 「あーもういい加減にして。神経質過ぎるのよほんとにもう。こちとら一ヶ月前に赤ちゃん失った妊婦なのよ、もっと気を使ったって追加料金いらないと思うわ」
                 むくりと起き出して部屋のカウンターバーから適当なお酒を見繕って栓を開けた。栓を開けた時ふっとする独特のにおいを感じる前にグラスにあけずにそのまま呷る。久々に飲む酒の味はよく解らなかった。ただ喉が焼けるような感じがしただけで。
                 その喉の痛みを何度か楽しんでいるうちに、なんだか無性に泣けてきた。ベッドでロビンが規則正しく寝息を立てているのが意味もわからずやたらに悔しくて、瓶を片手に掴んだまま階段を上がって甲板に出る。
                 夜風が身に染みる。
                 頬に流れる涙の跡からどんどん体温が奪われてゆく気がした。それが嬉しくて切なくて面白くて悲しくてどんどん泣いた。ぼたぼた涙が流れているのは愉快でならなかった。甲板にいくつもいくつも涙のしずくが落ちて砕けてまるで雨が降っているようだと思った。
                 声は上げなかった。
                 涙が流れる事そのものが鈍い快感にすり替わる。
                 足元に広がる涙の跡を可哀想に、と他人事のように思った。でももしここに誰かが居て「可哀想に」と言ったなら私はきっとそいつを殴るんだろうな、平手打ちかしらパンチかしらいやいやここは華麗にドロップキック。殴ってないじゃん蹴ってんじゃんアハハハハ。他愛もないバカな想像してたら楽しくなってきた。
                 酒を呷りながら笑って涙を流していると、なんだか頭の中がすっとする。隣の部屋で聞こえるセンチメンタルで少女趣味な自虐的悲鳴なんかどーでも良くなってきた。
                 あのバカったれが何に恐怖を感じよーが、んなもん知ったことか!勝手に気が狂って死にゃァいんだおぼっちゃん。可哀想にね、悲しくても悔しくてもパパが慰めてくれなくて可哀想にねアハハハハハハ!!
                 月の輝く星空を仰ぎながら大笑いした勢いでそのまま甲板に寝転んだら、床に伸びる毛むくじゃらの生き物の影が見えた。
                 「……星見酒付き合う?」
                 「酒なんか飲むなよ」
                 「嫌だカタいこと言いっこナッシン」
                 「何度も言うけど、ニコチンとカフェインとアルコールを恒常摂取してる人間にする薬の処方は面倒なんだよ」
                 「それが仕事でしょ、文句言わないのよ」
                 「……ホントに治す気あんのかお前ら」
                 「さぁどーかしら」
                 ぶつくさ言いながらチョッパーは隣に座って星を見ていた。わたしもそれに習って空を見上げた。うん、仕事じゃなくてぼんやり星を見るのもたまにはいいわね。甲板に広げた涙と同じくらいイカすじゃないの。
                 しばらくしたらついに居ても立っても居られなくなったのか、チョッパーが口を開いた。
                 「おれは、人間じゃないし、トナカイでもないし、だから、よくわかんないから訊くんだけど、人間は泣くのが好きなのか?」
                 星を見上げたまま視線は逸らさずに涙でどろどろになった顔のわたしは答える。
                 「そんな時もあるわね。」
                 「男も女も?」
                 「泣けないってのは不幸なのよ」
                 「でもウソップが男は泣いちゃいけないものだって言ってた」
                 「あら、この船で一番涙もろいのはあいつなのに男らしいこと言ったもんだわ」
                 「サンジじゃなくて?」
                 ぴくり、と自分の眉が跳ね上がったのがわかった。ああみっともない。涙をひと拭き。
                 「……ふぅん、彼もよく泣くのね」
                 精一杯虚勢を張って。
                 「泣かしてるのはお前だけどな、ナミ。」
                 獣は虚勢などに騙されない。騙されるのは騙されたいやつだけだ。騙されたい愚かな亡霊だけ。
                 「お前も泣くのか。泣くのが好きなのか?悲しいのが楽しいのか?寂しくて切ないのが好きなのか?どうして?」
                 孤独に種類などない。楽しくて嬉しい孤独などない。孤独が好きだなんていう奴は孤独なんかじゃない。
                 「おれは一人は嫌いだ。寂しいのも悲しいのももうごめんだ、二度と金輪際、絶っ対に願い下げだ。
                 だから泣くのが好きなお前らみたいな人間がわからない。わからない。」
                 全てのイキモノは自然に対して素直で従順だ。決して無理などしない。全てあるがまま受け入れ、自然のなすがまま生きてゆくことが一番正しいことを、教えられなくても知っている。人間だけが教えられなければわからない。教えられても解らない。
                 「……ダメね、人間て」
                 ボソッと言った言葉をその高性能な耳でキャッチしたトナカイさんが言いました。
                 「ダメなのは人間じゃなくてお前らだろ?」



                 彼は困ったとき、自分がお医者のくせに医者を呼ぶ。
                 きっとわたしやサンジみたいに大切なものが欠けてしまったんだろう。
                 ゾロもたぶん何かを無くしているけれど、わたし達二人と違って自分自身に負けず嫌いなんだと思う。ただ違いと言えばそんだけのこと。
                 だから助けを呼ぶんだろ。だからその場で死ぬんだろ。
                 わたし達二人はチョッパーのように素直じゃなかった。声もなく涙もなく、その場にあわせ適確に笑うだけ。夢も無くさず、突然裏切るだけ。
                 目に見えぬ幸福、肌に合わぬ温もり、手に掴めぬ幻想。
                 そういうものを羨む事で生きてきたわたし達。そういうものを憎む事で生き延びていたわたし達。
                 自分が欠けてて、足りなくて、我慢強さだけを支えにして過ごしてきた人間というのは、大抵歪んでいる。真っ直ぐ立てない。太陽が眩しすぎて目が眩み、光の中で生きていられない。
                 そんな人間が、この広い世界を一直線に泳いでゆく事を教えるなんてとんでもない。
                 そんなことが出来るわけない。
                 ベルメールさんのように強くない。ルフィみたいな鈍感じゃない。
                 あんなに真っ直ぐ太陽を睨めない。
                 それでもチョッパーのように助けてと叫べない。ゾロのように潔く死ねない。ウソップのように上手く折り合いを付けられない。ロビンのようにじっと我慢できない。
                 なのにわたしはまだサンジを恨んでいる!寝てる間に薬を飲んで赤ん坊を溶かしてしまった自分を恨んでいる!心の中ではほっとしているくせに、気障な倫理観を振り翳した“したり顔”の自分が上手にさめざめ泣いている!
                 「ちくしょう」
                 言葉が漏れる。キッチンに立つ彼がびくっと震えた。
                 「……な、なにか気に障るようなことでも?」
                 その声にはっとして手に持っている羽ペンを取り落とした。インクがぶわっと紙に広がって今まで描いた図面を侵食する。
                 「あっあっあー!!インク、インク!」
                 慌てて彼がひょいと抱きかかえてひっくり返ったインク壺からぼたぼた垂れる黒の侵攻からわたしを救った。間一髪でズボンは汚れずに済んだみたいだ。
                 「せっかくの上等な洋服が。危うい所だった」
                 そんな言葉などわたしにはどうでもいいことで、サンジに久しぶりにセックス以外で抱きかかえられた事の方が重要だった。細い首筋に顔をうずめると微かな汗の匂いと煙草の匂いにまみれたサンジの匂いがした。
                 「……えーと、ナミさん?」
                 こんなに優しく抱いてくれているのに、どうしてわたしの怨みは消えないんだろう。こんなにわたしを大事にしていてくれるのに、どうしてわたしは彼を好きになれないんだろう。
                 「ねぇサンジはわたしのことどう思ってる?」
                 そう尋ねるとすぐに答えが返ってきた。
                 「好き。愛してる。誰より何よりどんなことより」
                 いつもと同じ答えが返ってくる。いつもと変わらない答えが一つだけ。
                 「わたしがルフィを好きでも?」
                 「うん。それは仕方ねぇことだろ。だからおれがナミさんを好きなことも仕方ないよな。
                 悲しいけど、仕方ないことだからがまんするさ」
                 「奪いに来ないの?」
                 「ルフィからナミさんを?それともナミさんからルフィを?
                 おれはてんてこ舞いだな、くだらねぇ。そんなつまんねぇことはもういいんだよ。
                 願っても叶わない祈りには飽きた。今はただ実戦あるのみ。潮の流るる如く風のたゆたう如くおれなりにあんたと娘を愛するだけ。
                 あんたが寂しいと言うならいつも側に立ち恋を囁く。あんたが怒り狂うときは食器棚を閉めてからいくらでも枕の標的になろう。あんたが誰かと笑い楽しむ時が来たら足音も立てずに消え去るさ。
                 それがおれの愛ってやつ」
                 ありがたいご高説を賜り終えたのと同時にわたしは地に降りた。抱きかかえられる腕を解いて身体の重さを足が支える。
                 平手で打つ顔はいつも通りに笑っていて、すこしも、ちっとも、痛みに耐えるような仕草さえ見せなかった。
                 「弱い人はいるわ、それは仕方ない。
                 でもあなたのは甘え。甘えた人は嫌い。」
                 笑わせないでよクソ野郎、それじゃまるでわたしの為にやってるとでも言いたそうな風じゃない。そんな使い古したあんたの話術に惑わされるほどわたし堕ちちゃいないつもりよ。
                 「……クソ厳しいマドモアゼル」
                 お嬢さんですって、気味の悪い単語を使わないで。わたしの身体を変えてしまったくせに、他人行儀に呼ばないで!
                 「甘えん坊だなんて言われたくなければ立ち向かうがいい。
                 でもきっと戻ってくる。何度も戻ってきたあなたですもの間違いなく戻ってくる、賭けてもいいのよ。ニコに逃げてるだけのくせにご立派な余裕だわ、反吐が出る。
                 甘ったるく同じように愛と忠誠を誓うの?傷に絆創膏、涙にハンカチ、心に口付け。こんなに狂わせておいて代わりが見つかった途端に捨てるんだ。全くとんだジゴロも居たもんね。
                 どういえばいいの?愛してるって泣けばいいの?ならずっと一緒に居てくれるの?わたしはこんな調子だから上手く言えないけど、あんたが、サンジが居なきゃダメになる。」
                 「でも居てもダメになる」
                 「……そう……
                 でもお願いこんなにひどいわたしの側に居て。お願いよ」
                 「…………ああ、居るよ。ずっと君の側に居る。
                 君が俺を捨ててもいいよ。君が俺を殺してもいいよ。ずっと君の側に。」
                 「いつかあなたのことを捨ててもいいの?」
                 「君が俺を嫌ってもいい。側に居たいんだ。それで満足なんだ」
                 わたしは唇を噛み締め、からからの瞼の裏でぴくりとも動かない眼球に安堵しながら言った。
                 「うそつき、もうわたしのことなんか要らないくせに」



                弐時

                =サンジ=


                 殴られたような気がした。
                 ひどく重いパンチでミゾオチをズドンとやられた感じ。心臓を締めあげられて舌が痙攣する。
                 『もうわたしのことなんか要らないくせに』
                 ジクジク俺の耳に残るトゲトゲの言葉。まるで切れないナイフが肌を引っかいたよう。熱をもって傷がドキドキ疼く。ひどく苦しい。ビリビリ傷が痛む。鼓動と同じリズムで傷が踊る。神経をササガキにされて薄く削り取られているような。
                 悲しいと思うのに涙が出ない。愛しいと思うのに涙が出ない。
                 愛してるって叫んだってもう俺と彼女は違う生き物になっちまった。だから言葉が届かない。
                 ルフィの言葉がわかるようになってしまった俺にはもう彼女を抱くことが出来ない。
                 ズキズキズキ。
                 苦しい。苦しい。誰か助けて。
                 ズキズキズキ。
                 悲しい。悲しい。助けてあげたい。
                 “あんたはあたしを捨てたのよ”
                 そう言ってにこにこと笑いかけながら、冷たい目が俺を責める。このたまらない罪悪感と無力感。
                 神様、どうしてテメェは先に俺に手を掛けたんだ? 何故先に彼女を、ナミさんを助けてくれなかったんだ? 何故俺なんだ。どうして何も出来ない俺を先に正気に戻しちまったんだよ。
                 これに何が意味があるとは到底思えない。ただの偶然、ただの必然。
                 狂っていた方がラクだった。薬でラリってたほうが幸福だった。正気を無くした方がよかったのに。
                 こんなに儘ならない日々だから。
                 「白雪姫さま、俺はずっと白馬に乗った王子様ってやつを待ってた。もしかしたら生まれたその日から。
                 だがそいつは来なかったし、奇跡も起こらなかった。俺達の娘は死んでしまって、結局俺達は分かり合えずにいまだこうして泣き言だけで会話してる。
                 でも白雪姫さま、ここが本物の世界だよ。いろいろ失くしちまったが、現実の世界ってやつさ」
                 儚くて出鱈目でどうにもならない、俺たちの生きてる世界。
                 上手くいかなくて失望を繰り返すばっかりの、俺達がまだ生きている世界。
                 「……ナミさん、俺はあんたを愛してるよ。愛してる。愛してるんだ。だから、どうかどうか、俺のこと要らないなんて言わないでくれよぉ……」
                 塞ぎ込む気力すらなく垂れ流された嗚咽が武器庫の床の上をなめらかに滑ってゆく。夜の闇に紛れて消えてしまいたい、出来ることならば。頭の隅がその望みを嗤っていた。
                 涙が出てきたのに、ちっとも気持ちよくなんかない。狂ってた頃泣くのは心地よかった。みすぼらしく捨てられた汚らしい可哀想な子猫の自分を演じるのは楽しかった。なのに今は悲しくて胸が張り裂けそうだ。苦しくてたまらない。たまらなくて涙が出てくる。
                 「俺はあんたが居なきゃダメだよ、ダメになっちまったんだよ」
                 ボロボロ涙が出てくる。みっともないのに止まらない。もっともっと百の魂を、千の感情を、万の美辞麗句を並べ立てて、真に迫るような上手いセリフで言えたはずの真実が、今はもう陳腐で使い古され、ありふれた、たったひとつの文句しか出てこない。
                 「好きだよ、好きなんだよう、あんたが世界で一番、誰より何より好きなんだよう」
                 子供のようにただ泣き喚いてひたすら駄々をこねた。喉が痛くなって涙も声も枯れて力尽きるまで、武器庫の隅っこで一人さんざめく。
                 愛してると。
                 好きなんだと。
                 失いたくないと。
                 「……だから、帰ってこいよ……あんたが居ない世界ほどクソつまらんもんはねェ!」
                 その最中、頭の端が平気のへいちゃらと言った風体で俺に訊いた。
                 “明日の朝食メニューはどうするね?”
                 もうわかってる。もう解ってる。
                 あの人が欲しかったのは俺じゃなくて、自分と同じ位置に堕ちてる仲間って事くらい。
                 この心の内が伝わったところで無意味な事くらい。



                参時

                =ナミ=


                 夜、夜光虫が流れる水面を見ながら二人でワインを開けた。
                 誰も彼ももう寝てしまっていて、シンと静まり返っている船の中はひどく冷たくて寂しくて、居ても立っても居られなくなったから。
                 「ナミさん、これ、いいのか?高いんだろ」
                 サンジがワインクーラーからひょいと持ち上げて銘柄を確認し、わたしの顔を見てそっとナフキンに包んでコルクに手を掛ける。
                 「クラゲに夜光虫が集ってるわ。まるで死体に群がってるみたい」
                 「……夜光虫は死体にも群がるよ。大抵の有機物に集る」
                 「わたしたちが海に入っても?」
                 「集る集る。いい栄養分にされちまう」
                 きこきこきこ。慣れた手つきでコルクを回して抜き、スマートにグラスへ注ぐ。ワイングラスはルフィがこの間割ってしまったから、香りもへったくれも楽しめないシャンパングラスに口をつける。
                 「ん、甘いねぇ」
                 「でしょ。わたし甘いお酒って大好き。麦酒の喉越しも捨てきれないけど」
                 「うぇー麦酒飲む女の子ってこわー」
                 「あらそれって偏見よ。女が飲んだっていいじゃない」
                 「だってアルコール度数高いじゃーん」
                 囁きながら笑って、突付きあいながら飽きれて、珍しく楽しいお酒を飲んでいた。
                 こんな日が来るなんて。
                 こんなサンジが居るなんて。
                 こんな気楽なお酒があったなんて。
                 「ど、そっちは。お薬、減ったの?」
                 胸元から引っ張り出したピルケースには二種類の錠剤が入っている。チョッパーに渡されている、毎食後に飲まなきゃいけない白とオレンジの粒。
                 「……うん。減った。今は……何も飲んでない。睡眠薬も、なんにも」
                 サンジは視線をテーブルに落としながら罪を告白するがごとき神妙さで囁くように言う。彼はたくさんの薬を飲んでいた。精神安定、睡眠導入、抗生物質、特製解毒。それが各種類、背筋が寒くなるほど、ザラザラザラザラ。毎食後、ザラザラザラザラ。
                 「肝臓でも悪くしたの?」
                 強い薬を飲みすぎると肝臓や腎臓に負担が掛かって悪くする、なんて事を聞いたことがある。まさかチョッパーがそれに気付かない訳がない。
                 「……いいや。最低限身体の調子が戻ったからさ、後は食事療法に切り替えた。脳味噌の具合の方は……薬に頼るのが馬鹿馬鹿しくなってね。自力で何とかしてみようと思って」
                 自嘲気味に笑って、それでも声の調子は変えなかった彼を見て、わたしは本当に彼が変わってしまったんだなということを思い知った。
                 「……あんたいつの間にかカッコイイ男になったわねー」
                 「はィ?」
                 眉を顰めて意外そうな顔をする彼は心の底から理解できないと言った風に顔をゆがめる。
                 「もうあたしなんか要らないんだわ」
                 二度目のその言葉の中には、最初に言った時のように嫉妬とも羨望ともつかぬ呪わしさは混じっていなかった。ただ事実を事実として口にした。
                 がたん、と椅子が鳴る。キッチンから引っ張り出した長いすとテーブルが床と擦れてガガガガ、と引きずる音を立てた。
                 「要るよ。俺はあんたが必要だよ。
                 何度でも言うぜ。おれはあんたが好きなんだ、大好きだ。ルフィなんかより、俺の方がずっとあんたを愛してる。あんたの為ならなんでもする。今ここで死ねと言うならあのクラゲと夜光虫のど真ん中に身投げするぜ」
                 熱っぽく彼が熱弁を振るう。身振り手振りを交えながら、必死であなたが誰を愛しても俺はあなたを愛している、と何度も言葉を変え台詞を飾り、泣きそうな顔で悲鳴を上げた。
                 「……ええ、知ってるわ。……でも、もう、わたしが居なくても生きていけるでしょう?
                 わたしの自惚れを差し引いても、昔のあんたじゃわたしが居ない世界なんて考えもつかなかったと思うわ。……でも、今はもう大丈夫でしょう?
                 強くなったわね、サンジ」
                 「違う!あんたが、ナミさんが居るから、ここに居るから、俺は生きてるんだ。やっと生きていられてんだよ!」
                 あんたが俺には必要なんだ、あんたが居なけりゃ俺は死んじまう。何度目の弱音の台詞だろう。でもその言霊にはもう寂しさや必死さやエゴイズムの影は見えない。
                 「ええ、わたしもよ。サンジが居なきゃ寂しくて死んじゃうわ。
                 でも、サンジの世界はわたしだけじゃないでしょう。ルフィが居て、ニコが居て、ウソップが居て、チョッパーが居て、ゾロが居て……わたしも居るんでしょう。
                 それでいいのよ。
                 それが正しいの。
                 ……やっと、わたしのことがクリアーに見えるでしょう?」
                 わたしが笑うと、彼は泣いた。
                 ぽろぽろ涙を流して、それでも声は殺し、決して何も言わなかった。

                 


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