浸食
=1=
倒れた。
真っ青な顔をしていた。
おれが抱き起こすと、触らないで、と叫んだ。
あいつが真っ青な顔をして抱き起こすと、なにかぽそぽそと呟いて、二人が食堂を出て行った。
ウソップやゾロが驚いた顔をして固まっていたのに、ロビンは平気な顔をして海草サラダを食べていた。チョッパーはオロオロしながら二人に付いていった。
しばらく時間が経って、部屋に入ってもいい、と言われたので一人で入った。
サンジがまだ真っ青な顔をしてナミの傍らに座っていた。
手を消毒液に浸しながらナミと話していたチョッパーがおれを振り返って言った。
ナミが妊娠してる。
チョッパーがにっこり笑いながらおれにどうした、喜んでやれよと言った。
おれは二人の顔を代わる代わる見た。ナミの顔は普通で、怖いくらい平気で、何もないみたいな、平常。サンジは俯いていて、真っ青で、この世の終わりみたいな、アキラメの境地。
「ナミと、サンジの」
それ以上何も言えなくなった。次の言葉が出なかった。だってなにを言えばいい?
ナミみたいに頭が良くてサンジみたいに格好のいい子どもになるといいな。両方の長所が優勢遺伝子だといいな。おれそれまでにお産の勉強しとくよ、一人ではやったことないけどドクトリーヌの助手した事あるから初めてじゃねぇよ、安心しててくれ。
チョッパーがウキウキした声でベラベラと喋るので、おれはつられて「ああ、良かったなお前ら」と言った。
ナミが側にあった果物ナイフをおれに投げた。
頬に温かい液体が流れる。
よけようとは思わなかった。
ナイフの刃と軌跡を惜しい、と思った。
サンジはそれでも俯いたまま動かない。
チョッパーがナミの頬を叩く。「何してんだお前!!」乾いた音。
おれはサンジを見てざまぁみろ、と思った。おれはナミを見てウソップに的の見極め方を習え、と思った。おれはチョッパーを見てお前がこの船で一番人間らしい、と思った。
チョッパー、お前はこの船に乗っている限り誰よりも人間だ。しかも、まともな。
=2=
雨が屋根に降り下りてくる静かの音が耳の奥にこびりついて離れない。じわじわと生ぬるい空気が身体を這うので、じっとりと汗をかいてきた。
もう3日ほど、ナミもサンジも女部屋から出てこない。ロビンは武器庫で眠っている。時々かなりき声が細々と緊急用窓の向こう側でしていた。
ゾロとウソップが何故かべったりとおれの周りに居るので、二人を振り切ろうとじっと動かないことにした。目を閉じる。
子どもが出来た?それってどんなキモチだ?
幸福か?それとも
汗が背筋を流れた。生ぬるく、入れ替わったりしないどんよりと曇る空気がぐるぐる出口もない船底に渦巻いていて、ひどく面倒くさい気がした。べたべたする自分の肌に、じっとりと湿気が溜まる。そのジトジトはまるで接着剤のようにおれを床に貼り付けた。
子どもが出来た?それってどんなキモチだ?
絶望的?それとも
首筋がゾクリ、と総毛立った。刃物を急に鼻先に突きつけられたときのような。
壁を見る。この壁の向こうに二人が居ると思うと、それは岩より硬くてレッドラインより厚くて、月より遠い彼方の様で、おれはもう目を閉じてじっとしているしか仕方がなかった。耳をそばだてる事や、壁の節穴から部屋を覗き見ることは重罪かのようで、だから正確には目を閉じてじっとしていることしか出来なかった。
幸福か?と尋ねてはたと気付く。いったいなにが幸福という事になるのだろう。一体なにを以ってして満足かと問えばいいのか。
それは結局あの二人にしか実感できないのだろうし、それを聞き出したところでおれに分かるはずもない。(聞き出したところでどうせあの二人の事だからおれには分からない難しい言葉をわざと選んで説明にならない説明をするに決まっている)
ならおれは一体なにを聞きたいのか。
あの二人に、ナミに、サンジに、いったい何を。
ジリジリと渦を巻く湿度と温度に踏み潰されながら、おれは数度「何故だ?」と自分の脳に問いかけた。質問の前に「何故だ?」と。
出た答えはおそらく皮肉だろう、だった。
その回答の趣味の悪さに辟易し、思わず感心した。おれの頭はますます変になってくる。ただでさえ最近おかしいと評判なのに。
自分の頬に手をやる。大きな絆創膏を無理にはがす。チョッパー特製の軟膏のにおいがし、また血があふれてくる感覚と鈍い痛みが走った。この傷はきっと残らない。ナイフが鋭くてあんまり綺麗に切れすぎだ。スパッと、まるでカマイタチにそうされたようにはじめは痛みもなく、開いた。毎日サンジが丁寧に研ぐチャチな安物の果物ナイフ。柄の部分なんか何度もグラグラと外れそうになるので、ゾロやらウソップが時々力任せに布や釘で修繕していたような代物だ。ナミはナイフに刻まれている「地には平和を」という文句が好きだからと言って決して捨てなかった。おれはそのナイフがあまり好きではなかった。何故と問われてもなんとなく、としか答えられない程度に。
=3=
「もう4日目よ。あの二人の体力も限界。」
船長さん、あなたもね。
ロビンが(ウソップの作った)朝食を食べながら急にそんなことを言ったので、おれはぼんやりと頭をロビンの居る方向に向けた。
「……だから?」
「ドアを破る許可を頂きたいわ。」
おれに顔も合わせずに静かにそういった。ゾロがフォークを銜えた格好のまま固まっている。ウソップはゾロの格好を見て呆然とした顔で固まっている。
「おれは何度か部屋に入ったけど、特にサンジがやばそうだ。多分なんにも食べてない。」
チョッパーがそう口を挿んだ。それをロビンがじろりと睨んで、何故ムリにでも食べさせなかったのお医者様、と冷たい声で言った。
「ナミが悪いんだ、ずっとサンジのこと掴んで放さないから」
動けない、と小さな消え入りそうな声でチョッパーが呟いた。
「ともかくもうそろそろわたしの航海術じゃカバーしきれない海域に差し掛かるわ。専門的な知識を持った腕のいい航海士さんが必要なのよ。
ねえ船長さん、グランドラインを引き返すつもりがないのなら今すぐにでもあの二人を引っ張り出す必要があるわ。
……どうするの?」
おれは好きにしろよ、とだけ言ってそこから立ち去った。ウソップがしきりにおれに何か言おうと言葉を探していたけれど、その言葉をヤツが探り当てる前におれはドアを閉めた。目を閉じて、地には平和を、と何度か呟いて、海には狂騒を、と締めくくった。
バカな質問だ。まるでおれに回答の余地がない。
しばらく武器庫でロビンの使っている毛布に寝転んで時間を潰すことにした。
武器庫のドアを開ける。ふわりと女の匂いがしたので、鼻を鳴らして辺りを見回すと、確かに火薬や錆びた鉄製品がごろごろしてて、少なくとも女の寝る場所じゃなかったので少し笑った。
毛布に寝転ぶと、メンソル煙草のにおいと、シトラスとかいう香水のにおいがしたのでおれはまた笑った。
低い天井を見上げると誰が書いたのか、何かの文字が殴り書きされていた。おれは文字が読めないのでなんと書いてあるかは分からなかったが、おそらく「地には平和を」と書いてあるのだろうと思った。
ナミは死んでしまった者にしか心を開けないでいる。
サンジはもう二度と会わない奴を想うことでしか生きていけない。
二人の亡者が子どもを生むんだとさ、じゃあ子どもはゾンビか?
子ども?子どもだと?なんてばかばかしい。自分さえ手に余ってるやつらが子どもだと?なんて性質の悪いジョーク!
おれはロビンの手がナミの腹の内側に生えて、出来たての子どもを握りつぶしてくれればいいと、今日一番最低の想像をした。
=4=
引きずり出された二人は少し頬がこけていた程度。他は元気で、チョッパーが用意していた鎮静剤をロビンが手をにゅうと咲かせて二人に同時に注射した。サンジはそれでもしばらく意識はあったそうだが、健闘むなしく陥落してベットに縛り付けられているらしい。
「しばらく様子を見ながら鎮静剤を投与し続けてもらうわ。暴れて怪我でもしたって下らないしね」
ロビンがそう言ってナミに自分が使っていた毛布をかけた。おれはその毛布を見て「いつ持ってきたんだ?」と聞いたらちょっと笑いながら秘密よ、と艶っぽく微笑んだ。
「……子ども産むんだったら、ナミは船に居ないほうがいいんじゃねぇのか」
ぎょっとした顔でゾロがそう言ったおれを弾けたように振り向いた。
「…産むのならね。……でも船長さん、あなたは産んで欲しくないんでしょう。というより、降りて欲しくない。二人に。」
見透かしたかのように薄く笑いながらロビンが言った。おれはそれにうなづきも否定もせずに居たら、またウソップが何かいいたそうな顔をしてロビンとおれを交互に見ていた。それを見ない振りをする。
「あなたに選択肢をあげるわ。選択肢は2つ。命を選ぶか、選ばないか。」
細く綺麗な指を二本立てて、ロビンがそう呟いたのでおれは
「やめろルフィ!!」
とっさの事だったのでおれは自分に何が起こったのか分からなかった。目の前が真っ白になって真っ暗になって、床に引き倒されるような衝撃がして、足に誰かがしがみついた。おれはあっという間に身動きが取れなくなって、言葉を失った。
「……な、なんだよ!お前ら!」
ザラザラする目の前にある白いものはどうやらシーツのようで、それを後ろからゾロが広げてチョッパーが押さえつけて、ウソップが足にしがみついていた。
「バッカヤロぉ!ロビン!てめぇ今ルフィに殺されるところだったんだぞ!」
声を荒げてウソップの声がこわばって響いた。怒って震えているのか、怯えて震えているのかはわからない。
「フフ……目が凍り付いて、ギョロっとみひらいて…怖いわね」
いつもの平気で冷静な声がするので、おれの耳が電気を持った。ビリビリと痺れる。
「でもまさか怒ったんじゃないわよね?海賊王さん」
葛藤してるの?自分の仲間とそうでないものの命は違うの?全ての命は平等じゃないわ。だから不平等に奪うのよね?それがあなたの生き方?また平気で冷静な声がする。くぐもったシーツの向こう側の音として。
「あなた、自分を邪魔するものはみんなぶっ飛ばすんでしょう?」
そこまで聞こえて、あとは知らない。
きっとチョッパーが何か薬を打ったんだ。
目の前が……夜でもないのに暗くなるなんて……
=5=
目を覚ますと真夜中で、おれは体中ぐるぐる巻きにされていた。それから猿轡もかまされていてまるで罪人みたいだった。耳を澄ますと部屋中から寝息が聞こえた。もっと耳を澄ますと霧雨のような細かい雨の音が。
急に耳元で小さな布擦れが聞こえたので身体をこわばらせたら、ぼんやりとした顔のナミが小さなナイフを持っていた。あの果物ナイフだった。
ナミは無言で体中の縄を解いてくれた。おれが猿轡を外そうとするとその手を止め、親指でドアを指した。そのまま上へ上れということらしい。おれは黙ってそれに従った。さび付いてガタガタになったドアがギシリと軋んで、心臓が跳ね上がったけどそれを無視した。ナミはドアが閉まったのを確認してみかん畑におれを連れてきてから猿轡を取っていいわよ、と言った。
「あんまり急に動かない方がいいわ。薬回ってるし、みんな緊張してるからすぐ飛び起きちゃう。」
ナミがぼんやりとした疲れた声でそういってゆっくりと折りたたみキッチン椅子に腰掛けた。おれに座る場所はなかった。
「餓鬼が餓鬼作って、常に飢えてる狂気増やして
まるでこの船は隔離の精神病棟ね。
この狂気は孵ると思う?育つと思う?サラブレッドの発狂よ。
サンジはもうダメね。頭が狂い切っちゃったの、もう私の声も聞こえないんだわ。この子に正気を食われたのかしら、それって自然の摂理なのよね?」
くだらないことを事細かに説明してそれから
「…人生はごみだわ。
わたしの人生も…」
細い声でそう呟いた。
「おれの人生はごみじゃねぇ。」
それはそれは大層ご立派な人生オメデトウ。
本当に心の底からよそ行きのステキな声を絞り出して航海士殿がそう仰った。
「だからおれの人生の一部のお前の人生だってごみじゃねぇよ。」
おれはお前と出会って今のおれになった。……ナミは否定するかもしれないけど……
「アンタに付随することでしかアイデンテティを保てない人生なんて真っ平ごめんだわ。」
あきれ声でそう返す。その声はまるでいつか聞いたような調子だった。どこだったか……そう、ナミの住む島で最初にナミに会ったときの……
「おれはバカだからアイなんとかはわかんねぇけど、おれにマッピラゴメンって言えるお前はごみじゃねぇさ。ごみならそんなこといわねぇよ。
だからそれでいいんじゃないのか?イヤダって言うお前が、おまえだろう。ここにいるじゃねぇか。」
言ったってどうせ届きやしない。遠の前に経験済みだ。おれにその経験をさせた奴は…深く眠って起きないらしい。
「……だめよ、じゃあアンタにいやだと言えさえすれば、それはみんなわたしになるの?」
鋭い切り替えし。なにが何でも一撃必殺の言葉で殺されたいと言う。
「この世にもし変化しないものがあるとしたら
それはごみだわ。
ごみはそれが何でもいい、ただ必要とされなければ
それは全てごみになる。
ごみよ。
……ごみ。」
延々と、ただそれのみの繰り返しに惑っているナミを見て、その腹に宿る、ナミが死んだ後にまで繰り返される呟きを思って、ナミを殴った。
乾いた鋭い音が何発もする。自分の感覚が失われたかのような、まるで夢心地で、死んだような視界に映る吹っ飛ばされる軽いナミの身体が、何度も何度も薄く宙を舞っている幻覚を見た。
目を閉じて呼吸を整えようとする。うまくいかない。頭の中はとびきりシンと冷えているというのに、体中がひどい熱を持っていて全身をその熱が駆け回っている。ビリビリ震える肌が今にも電気を発しそうだ。
「二度とそんなことを言ってみろ、サンジもろともぶっ殺してやる」
ナミはしらけたような目をしてふんと鼻を鳴らし、赤くなった頬をさすった。
「あら父親がサンジだなんて誰が言ったの?」
ゾロかもしれないじゃない?ウソップかもしれないじゃない?あんたの知らない誰かかもしれないじゃない?それでもあんたサンジを殺すの?
ブツブツつまらないことを女が言うのでいい加減鬱陶しくなってきた。鬱陶しいというよりは邪魔くさいといったほうが的確かもしれない。いちいち返事をしたりその言葉を聞いたりするのに飽きたのだ。
「……だからお前さ、いちいちおれに絡んでくるのヤメてくんねぇか?
じゃまくせぇ。」
縄解いてくれたのは感謝する。けどお前が原因で縛られたんだけどな。うん別にそれはいいよ、お前が縛ったんじゃねぇんだし。でももうお前と喋りたくないから話しかけるな。
静かにそれを言って、狂う頭を軽く振りながらキッチンに向かった。
背中でナミがどんな顔をしていたのかなんて知らないし、どうでもいいと思った。
なんだ、けっこう諦めがいいんだなおれって。
=6=
キッチンにはいつも居るはずの男が居なかった。……居ないと思ったからここに足を向けたんだけどな。
でも普通居ないはずの男が居た。なんで普通居ないかというと、「普段居る男」と「普通居ない男」は側によるとすぐケンカを始めるので、ナミに近くに寄るのを禁止されているからだ。「普段居る男」はナミの言うことなら全て(それが例え「死ね」であったとしても)承諾するし、「普通居ない男」もそれなりにナミを尊敬しているので理に適ったことなら割と素直に言うことを聞いた。だから食堂に「普段居る男」と「普通居ない男」が出来上がった。
「……なんだ、ナミとケンカでもしたのか?」
恐る恐る、といった風にまるで“らしく”ない口調のゾロがおれに聞いた。
「いきなり殴るなんてお前らしくもねぇな。一応『妊婦』らしいんだからあんまり無茶すんなよ」
おれはその音を全く気にせずに、冷蔵庫から冷えたラム酒を引っ張り出してくいっとやった。おれは普段あまり酒を飲まない。口に合わないわけではなくて、体質に合わないのだ。目一杯酔うと手足がビロビロ無目的に伸びて元に戻らなくなった挙句前後不覚になる。それにおれの口に合う酒は大抵値が張って、なかなかナミが買うのを許してくれなかった。
珍しいものを見るような目でゾロが酒をあおるおれを見ていた。
「……おれはな、ナミ好きなんだ。」
「…………知ってる。この船の連中全部、あの黒髪の女でも知ってる。」
「…笑ってるナミが好きなんだ。今みたいなナミなんか、ナミじゃねぇ。あいつは今自分から泣きたがってる。泣いて、みんなが心配してるの見て、やっと安心するんだ。
いまのナミは最低だ。
メチャクチャやって、そこらじゅうに怪我作って、血ィ出して、その血見てホッとしてるサンジより最低だ。」
「……殴ったところで目が覚めるとも思えんがね。」
ジジジ…と、ランプの芯そのものが燃える音がした。おれはもうゾロと不毛な押し問答を続ける気は無かったから特に何も言わずにいた。
「へぇ、お前でも言葉に詰まることがあるんだな。それともまだ迷ってんのか?反省?自己嫌悪?感情で女殴るようなクソガキが海賊王だと?笑わせんなよ。
女に子供が出来たくれぇで動揺しやがってみっともねぇ。世界の海を手に入れるんだろ、そんなに軽いもんかよ、お前の手に入れたい世界ってのは。」
ゾロが必死になっておれを煽るのこそがみっともない様な気がしたけれど、しまいに哀れになってきたのでやっぱり黙っていた。
「あの二人を降ろす気はねぇんだったらキッチリ話つけとくべきじゃねぇのか?
……お前は一体どうしてぇんだよ。」
最後の一言を聞いてしまってから食堂のドアをあけて、闇に吸い込まれるように外に出た。ゾロを振り返って、全然動かない表情のままで言う。
「それをおれに言えってのか?」
おれは初めてゾロの凍りついた顔を見た。
=7=
じっと黙って座り込んだまま、もう二時間が経とうとしている。いまだに東の空は暗いままで波の音だけ聞こえている。浜辺の音とは違うもっと絶望的な波の音。船の縁にぶつかって砕ける水の音ちゃぷちゃぷ。真夜中の甲板に一人うずくまっていると世界が無くなったみたいだと思う。こんな風に孤独感そのものを肴として悦に入りだしたら重症だ、もうちっとも動ける気がしない。動力の切れたねじ巻き人形。くだらない倦怠、張り詰めた陶酔。
絶望なんざどうだっていい。ただ身体が動かない。動かそうという気が起きない。永く重く、なにかが体の上のそのまた上から覆い被さるかのようにずっしりと逃げ場も踏み潰すかのように圧し掛かっている。圧力で内臓が踏みつぶれりゃこれ幸い。いっそ圧縮真空パックみたいに全て空気抜いてみてくれ、もしかしたら腐らずに死ねるかもしれない。
何故だろ、どうしておれはこんなどこにも仲間に入れられない気持ち抱えて死にそうになってんだ?バカみてぇバカみてぇ、こんなのとっくの昔に飽きてるはずなのに止めてサンジのオヤツをこっそりつまみにキッチンに忍び込むなんてもう一生できないような気がする。
二度とサンジやナミに、自分の知っているあいつらに…会えない気がした。
それが怖くて嫌だった。それに悲しくて厭だった。
だから多分体が動かないのだと思う。
でも泣くのも怒るのも違うとも思う。誰かにこう悲しいんだと説明するのも違う。何も言わない誰かの背中に安心するのも違う。
どうしたらいいのかわからない。こんな気分のとき皆一体どうしているんだろうか。どうやって生き延びているんだろうか。
「なにしてんの」
「…………」
「こんなとこでうずくまったりしたら風邪引くわよ」
「…………ずいぶん、腹が出てきたな」
「…ん。まぁもう5ヶ月だからね」
向こう側が見えるほど透けているナミ。おれの妄想。おれの絶望。
「お前おれの想像だろ?」
「半分はね」
「じゃあ後半分は?」
「あんたでしょ、サンジのクスリをピンはねしてたわたしのクスリ隠したの」
「なるほど、じゃあお前はサンジの亡霊でもあるわけだ」
「ま、そういうこと。」
向こう側が見えるほど透けているナミ。髪の毛は金色、少し目が垂れてる。
「まるでお前サンジとナミの子供みたいだな、二人にそっくりだ」
「ああ、それでもいいわよ」
そう言ったかと思うと、急に腹がぺこんとへこんで顔がどんどん幼くなり、あげく背が俺の半分ほどになった。
「名前は……そうね、サンジとナミの子供だから…サナ。サナって呼んで」
「ダメだ。いろんな意味で」
「…じゃああんたがつけてよ、名前」
「いいぞ。お前の名前は……マキ。マキにしよう」
「……なんで」
「おれの初恋の人から取った」
「じゃあ髪の毛黒い方がいい?」
「おまえなんでマキノ知ってんだ!?」
「バカね、わたしはあんたの分身みたいなもんなの。ほんとに理解悪いわね」
「いーよ、金色の髪で」
「……そう?」
「黒かったらなんかおれの子みたいだ」
マキがアハハハと笑ったので、おれも笑った。他の奴から見るとおれは一人で笑ってんだろうな、と頭のどっかが言った。
=8=
最近この船でまことしやかに噂話がたっている。
おれが狂ったとか、ヤク中になったとか、幽霊に取り付かれたとか、マジでどうでも良くなったとか。噂の発生源はまァたぶんウソップだろうけど、こないだゾロが参加してるのを見ていい気分になった。あの超即物主義の魔獣が人間みたいに噂話してんだぜ。こりゃ笑わなきゃ嘘だろ?
その噂は半分当たってるし、半分外れてた。狂ってるしヤク中だし幽霊に取り付かれてるしマジでどうでもいい。でも狂ってるったって見えないものが見えてる程度で、ヤク中ったってサンジの6分の1、ナミの3分の1しか使ってないから本当に「薬」としての効力しかないだろうし、幽霊つったっておれが創造したみたいなもんだし、マジでどうでもいいなら狂いもヤク中にもならないし幽霊だって要らないんだからな。
火の無いところに煙は立たぬ、か。誰かが嬉しがって無理に立てた煙じゃないもんなァ今回は。
「もう一週間かァ……」
釣り糸など垂らしながら隣に座るマキに呟く。
「あんたが誰ともマトモに喋らなくなって?それともあたしが現れて?」
「お前が自分のこと“あたし”って言い出してさ」
「……自我が生まれてきたって事?」
「お前ホント俺の知らない言葉よく知ってんな。本物の幽霊なんじゃねーの」
「バカだねルフィ、あんたホントはバカじゃないんだよ」
「…どっちだよ」
おれは笑う。
「知らないふりしてるだけさ、あたしはあんただからよく解るよ。
バカでいた方がラクだもんねぇ、考えるの苦しいしね、考えたってどうにもならないことあんたには多いしねぇ」
「……んん、やな奴だねお前」
「言われたことないんだろ。誰もほんとのあんた知らないもんね、もしかしたらエースやマキノさえ。
あんた怖いんだろ?だから知らないふりしてんだろ?」
「…………さぁ?」
「ほらまたそうやってバカのふりする。……あ、糸引いてるよ」
「んぁ?おおっ、かかった」
「なにが怖いんだい?あの自閉症児もどきのサンジみたいに自分の世界が壊されることかい?それともボーダーライン強迫症のナミみたいに自分の建前と本音がせめぎあって折り合いをつけれないことかい?」
「……さぁね、でもお前がほんとに俺ならそんなの訊かなくてもわかるだろ?」
「あのね、勘違いしてるから言っとくけどあたしとあんたは別の人格だよ、普通人間にはいろんな人格がいて、せめぎ合って人格が形成されてるもんなんだよ。それらがあんまりかけ離れてたりすると多重人格なんて言われるのさ。あんただって物を考えたときに急に別の考えが浮かんで「あれっ?」て思うことがあるだろう?あたしはその「あれっ?」の一部なのさ。ふつう「あれっ?」てのは自我を持たないもんなんだけどね、あんたやっぱり変わってるわ」
「へぇ」
「ほらまた目ぇ逸らす。あんためんどくさいことをそのまま放っておくの悪い癖だよ」
「ああぁ?」
「ナミの事だってそうだろ」
「………………ぁ?」
「ノジコの話聞かなかっただろ」
「………………」
「あんためんどくさかったんだ。ノジコの話を聞いて、ナミがどんな目に合ったか知って、自分がイライラするのがめんどくさかったんだ。自分の感情じゃなくて、頭がイライラするのが耐えられなかったんだろ?
聞いたらずっと頭に残って、アーロンぶっ飛ばしたところで解決しないし、ナミの顔見るたびに思い出してイライラしなきゃなんないもんな。あんたそういうところ不器用だからな。サンジがうらやましいだろ、あいつならナミの過去より自分との未来の方が気になるから過去は忘れられそうだもんな。」
「……お前なぁ……」
「喋りすぎたかい?でもお前の中でくすぶってるのはそういうことだろう?
お前はナミとサンジの両方に嫉妬してんだ。わがままな奴だね」
「………あともう一人嫉妬してる奴が居るぞ」
「…誰だね?」
「お前さ、マキ」
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