浸透
浸透してゆく
浸透してゆく
なにが?何が?この体の細胞壁を突き抜けて
浸透してゆくのは何ですか?
浸透してゆく、居ても立ってもいられない気持ち。
爆発、衝撃、眩暈。
鼓動が胸を突き抜けて駆け巡っている。
でもたどり着く先はいつも同じで
この浸透する全てが空回りしていることくらい
本当に良く知っているつもりなんだ。
だって何度もがっくりしているから
たどり着いたその先は事象の平地。
その先にはなんにもない。
なんにも、ない。
イントロダクション =サンジ=
ふた月に一度程、どうしようも無くテンションの上がる夜がある。……いや、テンションが上がるってのは言い方がヘンか、つまりその、なんというか気分が高揚する夜があるのだ。ムヤミヤタラに心臓が波打ち、居ても立ってもいられないというかとにかくじっとしていられない感じ、細胞全部が一斉蜂起というかとにかく脳に形の無い「命令」が降りてくるのだ、立ち上がりて駆け抜けて行け!と。
脳の中がジリジリする。とにかく何かをしなければ体がバラバラにでもなるのではなかろうかと思うほどに、細胞がどこかへ引っ張られるかのように!
でも俺はどこへも行けないし、駆け抜けていけるほどこの船は広くないのよね、残念ながら。
それにそんな日に限って見張り番で見張り台から逃げ出すなんて出来ないわけ。やんなっちゃう、あの船に居た時にもあったけどそれをもっとドぎつくした感じ。バラバラになりそう!
見張り台の上でしばらくじたばたしていると、船室のドアが開く音がする。どこの寝ぼけがフラフラ出歩いてやがんだ?
メインマスト(つまり俺が居る見張り台がある柱)がゆらゆらぐらぐら揺れて声がする。
「なにジタジタやってんのよ、うるさくて眠れやしないわ」
オレンジ色の髪が月明かりに照らされて輝いている。
コレ!コレ!この感じ!ああ恋よ!なんてスバラシイ!エンドルフィンとアドレナリンが脳の中でモダン・ダンスを踊り狂っている!
なんて奇跡!なんて偶然!
「奇跡だ!思いが通じた!」
「はぁ?なに言ってんのアンタ…ってやだちょっとォ!」
ナミさんを一本釣りみたく見張り台に引っ張り上げて抱きしめる。そうそうこれ、この感じ。
「ナミさんが来ないかなぁって、俺ずっと考えてて、そしたらナミさんが現れたんだ。だからこのナミさんは俺のもんだよなぁ」
「なにバカ言ってんのちょっとこら離しなさい!」
「離さない」
頭の中がスッキリしてる。まるで子供の頃にたわいもない願いが叶った時のように、無邪気な欲望が成就した時のように、いつもの血の滲みそうな嵐ではない、柔らかな嵐が吹いている。
いつの間にか俺から逃げることを止めたナミさんが俺の背に腕を伸ばし、諦めて俺を抱いていた。
「今日はご機嫌なのね」
「素晴らしい気持ちだ。クスリが抜けたらこんなに素晴らしい気分になるんだな」
「…煙草もやめたらきっともっと素敵よ。」
「クソ剣士が酒をやめたら考えるさ」
「ゾロをこれ以上無表情にしてどうするつもり?」
「?どういう意味?」
「ああいう手合いはお酒の力を借りてエンドルフィンを放出してるの、だからお酒やめちゃったら人形みたくになるに決まってる」
「……じゃあ俺だって煙草やめたらアドレナリン出なくて困っちゃうよ」
「大丈夫、わたしが好きなだけ出してあげるから」
ナミさんがこんなこと言ってくれるなんて。これは夢か?なら醒めるな、覚めるな、冷めるな、褪めるな!
「じゃあたくさん貯金しなくちゃな」
「なにそれ、お金なんか取らないわよ」
「違う、結婚費用」
「……ぷぁはははは」
「笑ったな、本気だぜぇ!」
「あはははははははは」
イントロダクション =ナミ=
その日は彼のテンションがひどく高かった。周りの人間…ロビンを除いて…は、それがどういうことなのかを良く知っていたから、彼に口答えなんかしかなったし、気に障りそうな話題も振らなかった。(もちろんロビンもバカではないから雰囲気を察していつも通り誰に対しても無言でいたが)
気持ちの悪いくらいにこにこと微笑む彼は、朝っぱらから長旅にしては豪華な朝食を振舞ったりしてご機嫌極まりなかった。
「どうしたの、コックさん。」
朝食を食べ終え、それぞれがそれぞれ思い思いの場所で見張りをしたりくつろいだり刀の手入れをしたり食物の整理をしたり医療器具の点検などをし始めたので、わたしも書き溜めた海図の整頓をすることにした。部屋に下りていこうとすると、何故かロビンが付いて声を掛けて来た。
「偶にあるのよ。触らぬ神に祟りなし、刺激しないようにしてれば問題ないわ」
面倒な船で悪かったわね、と言葉の外に置いてそう言ったら、彼女は眉を顰め、一呼吸置いて否定する。
「そうじゃなくて。」
「なによ?」
「何が原因なの?」
原因?……そういえばそんなこと考えたことも無かった。風を研究する前に、この嵐から逃げなければ危険だったから。
「あれだけ気分が高揚してるのはいつものポーズや薬じゃないわね。躁の周期にしては急だし……何かあったのかしら?」
天ドアをきっちりと閉めた後に、ロビンがそう切り出す。
この船で、ロビンだけがサンジを病人として、そして一人の男性として扱う。わたし達のように“中毒のサンジ”としてでなく、向かい合うべき人間として、彼を見ている。
それが最近、わたしにはすこし苦しい。
「何も無くてもああなるの。後遺症かしら?」
何も気にしてませんよ、という風に吐き捨てた言葉を彼女が拾う。
「……ずいぶんご乱心ね。」
「わたし?……なんで?」
「あら、だって近頃ずいぶん私に冷たいもの。…フフ…」
彼女が揺れる水のようにゆっくりと笑った。それが年上特有の余裕から来る笑いのようで気に障る。
「何故わたしがあんたに冷たくあたる必要があるのよ?」
わたしは平気な顔を作って少しあきれ声でそう言った。半分本心で、半分冷や汗かきながら。
「それはね」
ロビンがそっとわたしに耳打ちをする。
「ジェラシー、よ」
その言葉をわたしの耳に置いて彼女はつむじ風のようにさっとドアの向こうに姿を消した。
「フン、嫉妬ですって?馬鹿馬鹿しい」
確かにロビンがサンジをきちんと扱っていることに対してわたしが心苦しくなることは認めるわ。でもそれはあくまでも罪悪感。今までどうしてわたしたちはサンジとあんな風に接してあげられなかったのかしら、っていう無力感よ。愛や恋じゃない。
「厭ね、年をとると下世話になって」
そんな言葉を吐き捨てて、言葉にしてしまったことを少し後悔した。
どうしてこんなにイライラするのかしら、ああもうなんてこと。これもサンジがみんな悪いんだわ、サンジが、サンジが全部悪い!
だすだす階段を上って女部屋を出る。そのまままた階段を上って船員全員に聞こえるように大きな声を出した。このイライラの力を借りるのは少し癪だけれど。
「帆を張って!東へ全速前進!今見えてる島へ寄せるわよ!」
「なんだ、また島へ寄るのか?」
メインマストに背を預けて眠っていたゾロがあたしの声に応える。
「そうよ!熱帯低気圧を避けるわ!」
「じゃあ前の島で二泊もする必要なかったんじゃねぇの」
「るさいわね、海の藻屑になりたいの!?とっとと帆を張れ!」
ゾロがめんどくさそうに立ち上がって、へぇへぇおそろしい台風だこと、と聞こえるようなわざとらしい独り言を言いながら船室にロープを取りに行った。
ああ厭だ、なんでゾロにはわかるのかしら他の誰にもわからないのに。
このわたしにも捕らえられないイライラが。
=プロローグ=
「すてきね。こんなところどうやって見つけたの?」
彼女がグラス越しにうっとりそう言うので、彼はあんまりにも嬉しくなって口が利けない。
窓の外には雨粒がしっとりと降り落ちていて、彼女の持つグラスにランプの光で反射して映っている。向かいに座ってそのグラスを見ると、まるで雨が天にのぼって降っているかのように見えたので彼女にそれを教えてあげた。
「ワインが炭酸水になったようにも見えるわ」
めずらしく酔ったふりをする彼女の頬が桜色に染まって、唇に塗られた淡いオレンジのグロスがゆらゆら揺らめくランプの光を反射させながらゆっくり動く。
「雨」
「へっ?」
「降るって、言ったわよ」
微笑ながら小さくかすれる声でそう言った。
「どうして買い物に付き合ったの?」
目が魅力的に釣り上って、それはまるで獲物を見据える肉食動物。恐怖に固まった恍惚の獲物はその目を逸らさない、逸らせない。
「もちろん、二人になりたかったからさ」
彼は余裕のふりをしてにやりと笑ってみせる。すると彼女はその笑いの裏を見透かしたかのようなゆったりとした笑顔。
「二人になって…それからどうするの?」
「愛でも囁こうか?」
「囁くだけ?」
「……もちろん、それだけじゃ済まさないさ……」
二人分の嘘と気遣いとジョークがかき混ぜられて分離して浮かんで沈んでくっ付いて割れて砕けてまた再生する。まるで出来上がった積み木を組み立て直しては崩して遊ぶように、この関係をつついて嬌声を上げる。
彼女を船から連れ出したのに実は意味が無い。あそこに居るのが嫌なわけでは当然無いし、これ以上二人の関係を進めようなんてこれっぽっちも思っていない。それは多分彼女も同じだろう。だからこそついて来たのだ。
『だからこそ』
この言葉に違和感を感じるより先に、この言葉を思いつくことに苦笑いする。
“俺は彼女が好きで、彼女はあの男が好きで、あの男は誰のものにもならない”
これは地獄の不文律。これは天国の戒律。誰が決めたのでもなくそういう世界に彼らが生まれて来たに過ぎないのだ。彼ら彼女らは地獄の中、幸せに暮らしている。楽しく、仲良く、陽気で、気楽に、暮らして、いる。
彼は思う。それは手を取って、頬を寄せキスをして指を足に這わせても崩れたりしません。頑丈でしなやかな天使の監獄は決して!決して!決して!壊れたり致しませんとも!
たとえ俺があの男を殺しても、彼女を殺しても、自分を殺しても、永遠に続くのだろう。このテープはきっと勝手に巻き戻って一番いいところ……つまりこの地獄の風景……を永遠に、永遠に、永遠に映し続けるに決まっている――――――……そうでなければならない。そうでなければ、やってられない。
いつかこの地獄が終わると思えば今すぐにももう耐えられなくなってしまうじゃないか。こんな甘美な拷問がいつか終わってしまうだなんて、考えただけでも気が狂いそうだ。だってそうだろう、この拷問は終わりがないからこその拷問なのに。
彼はそこまで考えていつも通りそれ以上考えないように思考を停止させた。それ以上考えを巡らしたら何かが止まる気がした。それが自分の心臓だったら素敵なのだが、彼のカンは首を縦に振らない。
「……今日、どこに泊る?」
「ここのホテルに部屋を取ってる」
彼女の飲んでいるワインと同じ色のキーホルダーのルームキーを胸ポケットから取り出す。
「あら素敵、あの船でどうやってへそくりしてたの?」
「企業秘密」
にっこり笑う。
その自分の笑い顔を、彼は大嫌いだった。
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