STRAP
『 月齢、24 』



 「なんにも解っちゃいねェ癖に物分かりのいいフリしやがって!!そんなにナミ追い詰めて何がおもしれェってんだよ!!いい加減にしやがれクソ野郎!!ナミはそんなに強くねぇんだって何べん言われたら解んだ!!テメェと同じくれェ弱ェえんだよ!!
 『もういい』だと!?フザケんのも大概にしやがれ!!
 ナミがどんな気持ちでテメェと喋ってんのか想像もつかねェのか!!ルフィやゾロやビビがどんな気持ちでココに座ってんのか考えもつかねぇのか!!」
 ひどくおれを怒鳴りつけて、ウソップがおれに殴りかかろうとした。
 ソレを隣で座っていたゾロが片手で制して、無理矢理に引き戻している。
 「放せゾロ!!おれはこいつを殴らなくちゃならねェんだ!!
 殴れないナミに代わって!!ここにいる全員に代わって!!」
 「…やめとけ、返り討ちに遭うのがオチだ」
 「うるせぇ!!ここで殴らなきゃ何処で殴るんだよこの馬鹿を!!!」
 「黙れ」
 その声が聞こえると、顔を真っ赤にして怒鳴っていたウソップと、それを淡々と止めていたゾロがぴたりと動くのをやめ、空気が一気に張りつめた。
 「すこし、うるさい」
 ルフィがやっと口を開いた。ムギワラボウシで顔を隠し、椅子の背もたれにだらりと寄りかかった船長がひどく低い声で言った。
 「……わ…悪ィ……」
 固い声でそう言ったウソップが、ゆっくりと腰を下ろした。ゾロがちらりとナミさんを盗み見た。……ナミさんはぼんやりとした表情のまま、微動だにしない。
 「サンジがそれでいいのなら、おれも別にいい。
 ……けどナミはどうする?サンジのこと、好きなんだろう?」
 相変わらずだらしのない格好で椅子の背に寄りかかっているルフィが、どうでも良さそうに聞いた。本当に、どうでも良さそうに。
 「……これはわたし達の問題…ってな範疇を既に越えてるのよね。
 みんなに迷惑掛けて心配させて……っとに、情けなさのあまり涙も出ないわよ…
 サンジがわたしに近付きたくないってならそれで構わないけど、もし同情だとか親切だとか、そういう下らないもんから出た答えだったら……サンジ、あんたを殺すわよ」
 ぼんやりぼんやりと、ナミさんが口を動かしてそう言った。
 おれは女神の格好をした死神に『同情ダイキライなんだ?おれと同じだな』とだけ、言った。
 「……解った。じゃあ、わたしもそれでいい。
 これから個人的にサンジを部屋に入れたりしないわ。仲良しこよしのクルーに戻る、でいいのよね?」
 ナミさんがおれを見ている。その目が何も言っていないのを見て、この目が好きだったんだというのを思い出した。この目を、どうにかしておれだけのものにしようと…
 ……叶ったじゃねぇか、なぁサンジ……
 「ああ、それでいい。」
 そう言ってしまってから、怒鳴りつけて叱ってくれたウソップにありがとう、と心の中で何度か感謝した。
 ウソップはおれの目どころか方向も、見ちゃいなかったが。



 「何であんな馬鹿なこと言ったんだ?」
 「……るせぇ…テメェにゃ……」
 「関係ある。おれはここのクルーだからな」
 「…………うぜぇ。土足で踏み込んでくるな、クソ剣士」
 仕事をしている最中に、ゾロが声を掛けてくる。人が玉ねぎを賽の目に切ってる最中に、クソクダラネェ質問をおれの背中に投げかけやがる。
 「土足はお互い様だろ?人ののんびりした退屈の日々を踏み荒らしやがって」
 「うるせえな、忘れたよ。ワスレタ。
 今な、ノウミソの中の消去ヘッドがくるくる回ってぜーんぶ消してってる最中なんだよ」
 頭の上で指をくるくる動かして、円を何度か描いた。もちろん後ろを向きながら。
 「……忘れられんのか」
 「…………ワスレタっつってんだろ」
 「そんなに簡単なものだったのかよ」
 「…んなこたぁ、ワスレタね。」
 「ふざけんな、真面目に答えろ!
 あんだけ執着してた女の事をハイそうですかと諦められんのかよテメェに!」
 ガタンと、椅子が倒れる音がする。派手に。
 「うるせえ!好きでもどうでも仕方ねぇ事だってあんだよ!好きだからどう仕様もねぇ事だってあんだろ!
 おれが好きでもあっちが迷惑してんだよ、おれが望むようにあっちが望んでねぇんだよ!その溝のせいでどっちも傷付くんだよ!だからやめたんじゃねぇか!
 何もわかってねェのにずかずか踏み込んで来るんじゃねぇ!!」
 グラグラ沸騰している鍋に向かって、おれが声を荒げて叫んだ。しばらく湯の沸騰する音だけが部屋に響く。ぐらぐらぐらぐら。
 足音がする。
 底の厚いブーツ独特の足音。
 「こっち向け」
 その声についおれは反応してしまう。
 バシッ!
 思い切り頬をはたかれた。ゾロの表情を見る前に。
 「て、てめぇのような…く、クソは、マジでハラ立つ。
 何だソレ、被害者意識丸出しじゃねぇかよ。自分がカワイソウで仕方ねぇってか?
 テメェの話にはナミの気持ちがまるっきり抜け落ちてやがる。あいつはな、そりゃあ気だての優しい女じゃねぇし性格だって根性だって悪い。でもテメェみたいに魂まで腐っちゃねぇ。
 テメェは聞いてねぇだろうけど、あの後ナミがみんなの前でなんつったと思う?
 『サンジを傷付けたのはわたしだから、どうかサンジを責めないで』って、ウソップにも、ルフィにも、ビビにも、おれにも、チョッパーにも……全員に頭下げたんだぞ!あのナミが!」
 全く明後日の方向を向いているおれにはゾロの表情は分からない。……明後日の方向を『向かされた』と言った方がいいか………ともかく、ゾロがふうふうと短く息を切っておれを怒鳴っている。
 「それでもオマエはまだ言葉を欲しがってんのか!これ以上ねぇくらいの“言葉”もらっても、まだ足りてねぇのかよ!」
 ゾロが吐き捨てるようにそんなことを言った。
 …テメェの言う…その“言葉”とやらが絡みついてさ、一個一個がすげぇ重さになっててさ、まるで鎖みたいにおれをがんじがらめにするくせに…まるで宙にフワフワ浮いてるみたく、全然実感ねぇんだ。何一つ確かじゃねえんだ…目に見えたり、手に掴めたりしねぇんだ……
 おれは口の中でそうブツブツ言う。自分に説明するみたいに、小さな囁き声で。
 「ナミはな、自分の得になること以外は指一本動かしゃしねぇような女だぞ。その女が!オメェの為に!クソ高ェプライド捨てて!このおれにまで!頭下げたんだよ!
 これがどういうことかテメェにだってワカルだろうがよ!!なぁ!オイ!」
 胸ぐらを掴まれ、無理矢理に引っ張られる。もの凄い腕の力は、ともすればおれを絞め殺さんばかりの勢いだ。
 「……わかんねぇ。全然わかんねぇよ、センセー説明してくれよ。
 ナミさんは何でおれをそこまでイジメるんだ?おれ何か悪いことでもしたのか?
 おれのこと好きじゃねぇくせに、なんでおれのこと抱くんだ?ルフィの方が好きなくせに、何でおれの隣りで寝息立ててるんだ?……おれのこと嫌いな癖になんでそんなに優しくす」
 バシッ!
 もう一度頬を殴られる。今度は拳だ。頭だけが慣性の法則に従って持って行かれる。
 「……もう一度言ってみろ、もう一度そんなことを言ってみろ……
 おれはお前を殺すからな」
 それは至って冷静でまともな狂気。自然に日常の中に溶け込んでしまえる発狂。
 ゾロが自分の鼓動で息を詰まらせながら、本物の、人殺しの目をして言った。殺す、と。
 「ああ殺してくれ、自分じゃ死ねそうにもねぇんだ。手間が省けて助かる。是非殺してくれ。さぁ、さっさとやれよ。早くしねぇと、テメェの怒鳴り声を聞きつけた連中が来ちまうじゃねぇか」
 おれはぼんやりした目でそう言った。ゾロの顔がひどく歪んだ。目の前の、景色が、ゾロごと。
 「…………!」
 最後に、ゾロが何かおれに叫んで、後は闇。
 後は闇。
 それから先は、多分、もうない。
 何もない。
 まるでおれ自身みたいに。

 何も、ない。




        つづく

 



11:23 02/02/16


STRAP


STRAP
『 月齢、25.5 』



 ゆめを みていた。
 とても かなしげな ゆめを。
 ……もうそうだった のかも しれない。
 それがご丁寧に打ち砕かれて(おれはその妄想の中でうつらうつらしていたかったのに)急に放り出された。
 外の世界は何もなかった。
 ああもう離れられねぇな、なんて偏執狂じみた確信があったのに、それがこうもキレイサッパリ、簡単に、ふき取られて。もう、跡形もない。取っ手が無く、つるんとした外壁は、おれのヤモリのような手でも、張り付けそうにない。
 『ハイハイ、もうキミはココで遊んじゃダメヨ。よそへお行きなさい』
 つんけんしたインテリ眼鏡を掛けた美人が営業スマイル張り付けておれを追い払う。
 おれはただ呆然とその指示に従って、でもまだその壁の向こうにいるきみを永く遠い空間越しに待っている。きみは今に出てきて、おれをあの壁の中に匿ってくれるはずだから。
 そんで、じっと待って(偶に壁の向こう側へ、石や、手紙や、料理や、ナイフを投げ込んでみたりして)いたら、壁の中から赤い服のガキがやってきた。
 「おまえはいらない」
 そう言って、赤い服のガキはおれを殴った。
 キラキラ光る目をしたキチガイは何かに狂っているようだった。
 おれは呆れた顔を作って、ハイハイ分かりましたよ、と聞き分けのいいことを言った。
 おれはまだ、きみの顔すら見ちゃいないのに
 諦めた。
 ……諦めた?
 …まさか。



 「なぁ、ウソップ」
 低く吊られたハンモックから床へ、声を掛けたってちっとも返事をしない。
 「こっちむけよ」
 怒っているのでも、呆れているのでもなく、平然と、平気。まるで無視。きっぱりおれの存在を否定。
 「おれはさぁ、お前のこと結構好きよ?
 どこが好きかなんて野暮なこたぁいわねェけどさ。
 感謝してる。怒ってくれて、ありがとう。
 この包帯巻いてくれたの、お前だろう?ありがとうな。」
 顔中に張り付いている、湿布と傷テープと、消毒薬・化膿止めの匂い。
 部屋で湯を沸かしているのか、ポットの蓋が持ち上がる、カチャンカチャンという音がする。
 「…ゾロが……」
 「ん?」
 急に細く小さく囁くようなウソップの声。
 「…あんな時にでも…手加減してくれるくらい、優しくて良かったな。
 おれなら間違いなく、引き金を引いてた」
 背中を向けた向こう側で、ぼそりぼそりと声がする。
 「……ああ、ん
 おれはさ、そういうお前らの優しさの上であぐら掻いて、好き勝手やってたんだよ。
 ……んでも、あんまりにも自分が情けなくなったときにさ、お前らの優しさ、ただ貰っててすげー恥ずかしかったのな。
 お前らにして貰う価値がおれにはねぇ、みてえな。」
 それを聞いたウソップが肩を震わして一言「うるせぇ水くせえんだよ馬鹿」と言った。
 ぼんやりと暖かい部屋の底の空気は最悪で、息苦しくて寝返りを打とうとしたけど、体中の傷が軋んで、そんなことしてられなかった。
 ただ部屋の中はいつもの匂い。消毒薬と、火薬と、人間と獣の。
 「……ナミ、好きか?」
 また短くウソップが喋る。
 「…ああ。」
 おれも同じように短く答える。
 「ナミが死んだら、悲しいか?」
 「大泣きだ。」
 「……ナミもだよ
 ナミもおんなじだ」
 ウソップがまた言う。短く、言葉を切って。
 「ナミが好きなら、泣かすなよ
 男だろ。」
 ここでおれに誓え、祈らなきゃならん神様なんか当てにするな、手間だ。叫べばいつでもスッ飛んでってやる。おれに誓え。もう金輪際泣かさねぇと、誓え。
 誓わなきゃナミを殺してやる。
 ウソップがそういうようなことを言ったので、おれはうん、と言った。
 「誓うのか誓わねぇのか。うんじゃねぇ」
 「誓わない。」
 あんまりさらりと言うので、ウソップはそこでしばらく押し黙ってしまった。
 「分かった、お前に代わってナミをぶっ殺してやる」
 すっくと立ち上がって、ウソップが決意した声で呟く。
 「ヤメロ。ソレもナシだ」
 おれは押しとどめる。なんとか、やつの腰布を引っ張る。
 「…離せクソヤロウ」
 「やだね」
 おれはじいとウソップの目を見て、情けなくも呆れたような複雑な顔でヤツの腰布をもう一度軽く引っ張った。ウソップは引かない。
 「離せクソ野郎。」
 「誓わないぜ、殺させもしねェよ。
 これからも、泣かせて泣かせて苦しめて苦しめて思う存分気を狂わせてやる。生かさず殺さず、いたぶり尽くしてやる。」
 そうおれが言うと、思い切り眉をひそめて、何かとても汚いモノを見るような顔になった。吐き気を催した人間が良くやる顔だ。
 「何だよその顔、ナミさんやルフィがおれにしてる事をおれがやったらアウトなのかよ?」
 「ソレを目的にしてるテメェとは大違いだ!!」
 ドン、と突き落とされた。……何処へ?…床へ。……ホントは何処に突き落としたかったんだ?ウソップ。
 大切なガラクタを捨てられたガキみたいな顔をして、ウソップが必死で涙を抑えてた。それを見て、ぼんやりぼんやりした顔をしていた。……ウソップはそれが気に食わなかったらしい。
 「テメェな、そんなに……ッ!何が楽しいんだよ!この船にいるやつ全部いたぶって、いじめて!!何が楽しいんだよ!!いい加減にしろよ!
 テメェの言葉には誰も傷つかねェとでも思ってんのかよ!好き勝手なことばっかり言いやがって!
 おれはお前のこと好きなんだ!ナミのことも、ルフィのことも、ビビもゾロもチョッパーもカルーも……みんな好きなんだよ!なのに!何でお前は誰のことも好きじゃねぇんだ!
 自分でさえ!」
 ヒステリックとは違う必死さで叫ぶウソップの顔は、一生懸命過ぎてある種滑稽だった。………何故?そんなの決まってる、クソ野郎だからだ。掃き溜めそのものだから。
 「……おれは…お前のことも、あのバカ共も……好きだよ」
 「好きならなん」
 声を遮る。……いや、引きちぎると言った方が的確かもな。
 「すきだから、嫌われたいんだよ……って…も、分かるわけねェか」
 眉をひそめて呆れ顔をする。その後は、沈黙。
 ウソップが最後にぽつりと漏らした。
 「おれは…お前のこと分かりたい。……出来ればお前の足りないとこ全部……」
 呆れ顔の裏側で、おれは心からお人好しの狙撃手に、人生初めて全身全霊込めて、ありがとう、と言った。
 言葉に出来ないのは、自分の足りない場所が呼んでいるから。
 聞き取れないほどの小さな叫び声で、サンジ、と。




        つづく

 



19:06 02/02/25


STRAP


STRAP
『 月齢、27 』



 メインマストを見上げる。太陽は照りつけている。雲はゆっくり南の空へ流れて行く。風は順調。バタバタと我らが海賊旗が揺れる音がする。
 空を見上げる。メインマストに沿って視線を巡らせる。……とても、高い。日差しが容赦なく白いマストを灼く。手を日にかざし、その手を見た。
 ぼんやりとした視界がゆっくり閉ざされていく。
 まるで夢のようだと思う。覚めない悪夢。繰り返される拷問は甘い甘い、緩やかな殺意。記憶、幻想、旋律、感触。本当にぼんやりとしていて、寝覚めの悪い夢。
 「ナミさんが」
 そう言うのならば、おれはそれに従う。……そういうゲーム。彼女が死ぬまで戦って、勝って、言うことを聞く。おれは駒。彼女が用意する「彼女の作られた悪意」と戦う。戦って、勝つ。それがおれに与えられたおれの居場所。彼女の出す問題を淡々と彼女の思い通りに解くことで、おれは彼女にとって価値がある。
 おれは彼女の問題を解く。目の前に差し出された手を取るか?取ってキスをして甘く囁くか?それとも優しく握りしめる?あるいはゆっくりと抱きしめる?……答えは急に押し倒す。……正解。今日も生きながらえた。ぼんやりと霞む風景。弓なりにしなる彼女の身体。差し込まれた自分のカラダが実に不憫だ。
 スキ?キライ?そんなのにあまり興味はない。意味も多分無い。
 在るのはおれが彼女にとって必要であるかどうか。それはつまりスキだとかそう言うのじゃなく。……彼女が居なければ、おれにはまるで意味がない。別に愛されたくなんかない。それ(世間の人間が「愛」と呼ぶ何か)を彼女が必要だというのならば、おれはいくらでも「愛する」し「愛され」もしよう。でも彼女は言う。私達の間に愛は必要ないわ。だからおれも愛なんてものは必要じゃない。
 おれはただ彼女に必要と言われたいだけなんだ。それをより深く表現するために「愛」という単語を使っても構わないが、おれが欲しいのは「愛」そのものじゃない。彼女の「興味」だ。
 つまりおれは彼女のオモチャになりたい。
 でもそれも否定された。
 おれはついに生きていくのに必要な全てを失ったっていうわけさ。お笑いぐさだね、ジジイの興味も「おれ」じゃなかった。ナミさんの興味も結局「おれ」とは違った。まるで違った。
 つまりまぁ、そういう事さね。実に簡単。古くなったオモチャが一つゴミ箱へ行ったと、ただそれだけのことだ。何も感傷的になる必要なんて無い。彼女は新しいオモチャを手に入れ……いや、迷っていた片方を捨て、片方と一緒にうちへ帰る。片方はそれを見送り、片方は彼女のおしゃべりを聞きながら見たこともない彼女の部屋へ連れて行かれるんだ。
 ゆっくり目を開ける。そこには相変わらず強い日差しで逆光になった、真っ黒なメインマストと、抜けるような青空。爽やかな潮風はおれの髪を弄ぶ。
 イカしたデザインのブラックジャックはキラキラ光る太陽光線を何度も遮ってはためいている。
 溜め息も出ない。息もできない。ただぼんやりとしている。
 恋?愛?美しさ?優しさ?笑顔?勇気?……そのどれだってどうでもいい。
 たのむからおれに返してくれ、あの地獄の日々を。
 …………あァ…



 ぼんやりとしながらナイフを野菜に差し込む。少し古くなった野菜がザックリと切れた。良く研いである包丁よりも、こんなちゃっちいナイフを使っているのは何故だろう。不慣れな切れにくい刃物は、ザクザクと不快な音を立てながら古くなった野菜のヘタや皮を身から割っていく。切れにくいナイフ。きっとおれがこの船に乗る前からあった物だ。刃が少し欠けていて、見るからに手入れがなっていない。……これがもしバラティエにあったら、職務怠慢でジジイに蹴飛ばされているだろう。そんな昔話をしてみた。
 ナイフは銀色をしてはいるけれど、くすんでいて、きらりと光るような鋭さは欠片もない。ぼんやり鈍くぼうっと光を反射させるのがやっとだ。おれはそれを見つめて、すうっと自分の首筋に持っていった。
 なるほど、活け作りにされる魚の心境とはこんなものかね。
 おれはめんどくさくなって少し力を込めてみた。……耳のそばで、ぷしっ…という音が確かに聞こえた……ような気がした。
 ゆっくりと熱い何かが押し寄せてきて、それから後にようやく痛みがやってきた。
 おれはぼんやりとその痛みをはみながら、瞬きもおっくうになってきた目を、ぼんやりぼんやり開けていた。……ああ、クソ……どうせならクスリ飲んでやるんだった……こんなに意識はっきりしてちゃ……うっかりタスケテなんて、言いそうだぜ……
 ぐったりとキッチンの隅に背中を預けたまま、つま先の向こうを見据えていると、次第に視界が狭まっていくような気がした。……もうツカレタ。
 ツカレタ。
 もう、いいだろう?
 これがゲームの駒の末路さ。
 ゲームは楽しかったかね?せめて嘘でも、楽しかったと言っておくれよ。
 おれは目を閉じる。楽しかったことなど思い出せない。走馬燈なんてウソッパチだ。……何も、思い出せない……
 闇。
 闇だ。
 音もない。
 誰もおれを引っぱり出さない。
 …………ナミさん、おれは本当はキミに愛されたかった。でも違うんだ。君が愛なんて必要ないと言うから。いや違うんだ。嫉妬?ルフィにか?とても上手に表現されているけどそれは正解じゃない。キミの目の前にある全てに。キミが気にする物全てに。
 今なら言えるような気がするよ。
 思い出したんだ。ナミさんが好きだったことと、自分が大切だったこと。痛みを避けて、卑怯な臆病者になりたがった理由。何故ナミさんが好きだったのか、何故ナミさんを好きになったのか。
 スキ?キライ?そんな事なんてどうでもいい。
 ただおれはキミのオモチャになりたかった。
 断片的な言葉と支離滅裂な文章が頭の中を駆け巡る。もう目も開かない。
 耳鳴りが消えた。夕暮れ時の、日差しも消えた。ぼんやりと微笑む記憶の中の彼女も、消えた。
 後はただ
 後はただ
 おのれが消えるのみ。
 いざさらば夢のオールブルーよ、願わくば天国におれの職がありますように。いざさらば悪夢のメリー号!いざさらば愛しのクルー達!いざさらば恋しいプリンセス!今まさに旅立ちは血だまりの海より!

 いざさらば、クスリ漬けの我が肉体よ!



        つづく

 



2:08 02/03/02


STRAP


STRAP
『 月齢、28.5 』



 おそるおそる目を開ける。……耳元で怒鳴り声がしたから。
 鬼みたいな顔のルフィと、無表情なチョッパーが居た。
 「起きたな…殴らせろ」
 「やめとけよ、首切ってるんだ」
 「また馬鹿なマネしやがって、そんなにナミに同情して欲しいのか?本当にうざってぇなお前」
 首もとに手をやると、補強された白い包帯がぐるぐる巻かれていた。
 「あっ触るな!縫ってねぇんだ、テープで補修してるだけなんだ、今ズレたら一生傷残るぞ」
 「残せばいいんだよこんなアホ傷。」
 「船長のクセにいい加減なこと言うなよ、こいつはただでさえ傷が多いんだ、これ以上ウイークポイント増やしたら、生き物としてちょっとやばいぞ」
 「知るか。ナミにばっかり心配掛けやがって、巫山戯んなよ
 あいつはなぁ、何でもかんでも自分で背負い込むんだよ。全部自分でやろうとするんだ。助けてなんていわねぇんだ。そのくせバカな奴ほっとけなくて……おれが側に居るのに、絶対に言わねぇんだ……助けてって……そんで、お前みたいなバカに引きずられて死んじまうんだ…っ……」
 握り拳が、座り込んでいる床を殴った。血だらけの床を。おれの血だらけの、床を。
 「連れてくなよ!お前も行くなよ!ここだろう、お前の居る場所はここだろう!この食堂、キッチン、全部、お前の城じゃねェか!
 行くなよ!誰が明日の朝飯つくるんだよ!ウソップの作る飯はマズいんだ!
 もういいなんて言うなよ!ゾロだってお前殴るの嫌なんだよ!
 ナミだってお前のことスキなんだ!それでいいじゃねェか、おれだって、お前より、ずっとヒデェんだ!ナミが手にはいらねェのは同じじゃねぇか!おれの何が羨ましいんだよ!
 おれはお前の方がずっと……羨ましくてたまらねェ!!」
 ……動物とガキがベラベラ喋っている。内容は、下らないことだ。殊更…くだらねぇ。
 「そんな“フリ”やめろよ。ガキのフリやめろ。お前もだチョッパー、動物のフリやめろくだらねぇ。
 お前ら、おれのこと殺したいんだろう本当は。」
 じっくり顔を見るなんて、こいつらの目を見るなんて。そんな、恐ろしいこと。…だけど言わなければ。努力だけはかってくれ……なんて、やっぱり甘え言かね。
 「??なに言ってんだサンジ、頭打ったのか」
 バカはガキのフリをやめない。動物は無言で、目線だけがすうっと細くなった。動物は“動物”をやめたらしい。
 「チョッパーは分かったらしいぜ、なぁ船長殿。もういいんだ、もういい。だからその糞うぜぇガキのフリをやめな」
 おれのセリフにルフィの目以外がゆっくりと笑みをこぼした。
 「ほんとうにいいのか?」
 それは、決して触ってはいけない、威圧的な、破滅的な、ともかく圧倒される、何か。……そんな。
 「……ああ、もういい。」
 おれは細くそう言う。そうしたのは体がだるくて疲れているから。とても、眠い。
 「…………チョッパー、おれは失血死するほど血が抜けているか?」
 ゆっくり視線を手にやる。いつもより病的な白さの肌が、ちっとも思い通りに動かない。
 「失神して良かったな、うっかり動き回ったりしてたらアウトだ。お前の飲んでたクスリのせいで血が固まりやすくなってたのかもな。いい研究材料がこんなところに転がってるとは思わなかった」
 多分目を見据えて、トナカイがそう言った。奴のあたたかそうな毛皮だけがぼんやりと霞んで見える。
 「おれが見つけて良かった、他の奴が見つけてたらきっと、おれはお前を殺してた」
 船長殿がそう気持ち悪いほど優しい声で囁いて笑った。本当に、嬉しそうに。
 「殺されなきゃならん理由はわかるよな?」
 まったく反応を返さなかったら一体どんな顔をするのだろう。好奇心に駆られて無反応を突き通してみた。……無視かよ……
 「おれは、お前が自分をなんでそこまで大切にしないのかなんか聞きたくもねえ。
 だからおれの事をいう。
 おれは自分に踏みつぶされて逃げられないお前と何処も違わねぇ。戦う術がないのも、逃げる方法を知らないのも、たぶんお前らと一緒だ。
 違うところなんかねェ。
 じゃあなんでおれとお前は違うのかってのは、案外簡単だ。
 お前は感謝を知らない。おれは知ってる。
 ……それだけだ。」
 ルフィがしゃがみ込んだ格好のまま、背中を壁に預けて気を失う寸前の男に向かって、まるで酒場までの抜け道を耳打ちするように言った。いつもの脳天気で、どうでもいいような声の調子で。
 「……カンシャ」
 オウムのように繰り返して言葉をなぞる。意図を辿る。
 「お前だってありがたいと思ったりするだろ、ありがとうと思うだろ?
 そこで終わらすからダメなんだ。それ以上行けない。
 ありがとうと思っっても、思うだけで済ますから止まんだ。
 頭のてっぺんから足の先までありがとうと一度思ったら、心から感謝したら、住み着かせるんだよ、そいつのことを。
 そいつにずっとありがとうと言うんだ。
 そしたらそいつが返してくるどういたしましてを食って生きるんだよ。毎日欠かさず、食う。
 どういたしましてを…自分が思ったありがとうを、毎日欠かさず食ってたら絶対、首なんか切れないはずだ」
 すこし視線を動かして、ルフィの顔を見る。ぼんやりしているのに、目がはっきりと見下しているのが分かった。バカにさえしていない。完全に見捨てた目。
 「……ありがとう?」
 掠れた声でまたオウム返し。喉がカラカラで焼け付きそうだ。
 「コックのくせに食い物を粗末にしやがって。お前のオッサンみたいに蹴ってやろうか、目が覚めるかもな
 涙流して土下座した割にあっさり忘れんだ、その「ありがとう」。…お前のオッサンどういう教育したんだ?」
 睨んで、クソジジイは関係ねー……という気力すらない。
 何をバカにされても何も感じない。ずっと倦怠感だけが続いている。でも同じくらいの焦燥感。はやく、はやく、はやく、はやく。……でも一体何を?
 「お前がナミを大切に思っていることは知ってる。
 同じくらい自分を大切に出来ないか?このままじゃ死ぬぞお前。
 ここで死んで本望か?こんなクダラナイ死に方で満足か?オールブルーは?ナミは?帰るウチが在るんだろうお前には」
 まるで諭すようにチョッパーが言う。その言葉が凛としていてて揺るぎ無く、かといって押しつけるでもない調子だったので、おれはこいつは医者じゃなくて教師になるべきだと思った。
 「……なんか意外だ、チョッパー。お前は人と喋るのとか人と付き合うのが嫌いかと思ってた。…………こいつみたいに」
 ルフィが顎で俺のことを指して、チョッパーの方を向いた。
 「…………こいつはおれにちょっと似てる。おれの中にいるおれに似てる。
 だから、すこし、嫌いじゃない。」
 透明な瞳がしっかりとおれを見据えていた。……おれとお前が似てるだって?……どこが。
 「ししししし。気が合うな。おれもだ。
 おれもこいつに似てるおれ居るぞ。そいつは怖いのとか、痛いのとか、悲しいのとか、寂しいのとか大嫌いでよ。
 そいつスゲー強いんだ。戦うの苦労する。」
 ルフィとチョッパーが顔を見合わせて声に出さず笑った。
 おれはその笑いがまるで自分を笑われているように思った。なんたる優しさ。息苦しい私刑(リンチ)。
 「お前のこと嫌いじゃねぇ。
 なりふり構わず全力で助けてくれって、おれは言えねェからさ。羨ましい」
 にっこり笑っているルフィの目はもう完全に、以前おれを見ていたルフィの目じゃなくなっている。まるで上級のカウンセラー。上等な励ましの仕事。
 「でもこうやって喋ってる言葉の一欠片だってお前には届かないんだろうな。ちっとも分かる気がねぇみたいな目だ。そういうお前も好きだよ。きらいじゃねェ。」
 また笑う。溜め息をつくみたいに簡単な笑い顔。それが癪に障る。……ひどく、気に障る。
 「……おれはお前に会えてよかった。ルフィ、お前もだ。」
 チョッパーがそう言っておれとルフィを交互に見た。
 「お前達に会えなかったらおれは、ドクターを言い訳にしてずっと、うずくまってた。
 おれはそれが嫌だったけど、どうにも出来ないと思ってた。どうにもしなかったのはおれ自身なのに。
 お前たちが手を引っ張ってくれたから、おれは、ここにいられるんだ。」
 それを聞いたルフィがゲラゲラと品のない笑い声を上げる。
 「馬鹿言うなよ、ここに来たのはお前だろ、その足でお前が歩いてきたんじゃねぇか。」
 誰に連れてこられたんでもねぇ、トニートニー・チョッパー、お前がここに居るんだろ。変な引け目一丁前に感じてんじゃねえよ。ルフィはそう言ってトナカイの頭を小突いてまた笑った。
 おれはそれをじいっと見ていて、ルフィが初めて17歳に見えた。おれの初めて見るルフィだった。おれは目を閉じて、この馬鹿には生涯勝てそうにもないと思った。
 「なぁルフィ、お前、おれのこと好きか?」
 尋ねる。
 「嫌いな奴、船に乗せたりしねぇよ」
 答える。
 「ナミさんとおれと、どっちが好きだ?」
 尋ねる。
 「……お前どう答えて欲しいんだ?」
 答えない。
 「どっちか片方だけ、選ぶとしたら?」
 尋ねる。
 「何故?」
 尋ねられる。
 「そのときお前はナミさんを選ぶんだろう?」
 尋ねる。
 「お前は?おれか、ナミか、片方だけ選ぶとしたら。」
 尋ね返される。
 「お前はおれを選ばないだろう?それなのにおれはナミを選んじゃいけねぇってのか?」
 凍り切った銀の矢が、脳髄を突っ切って、背中に抜けた。
 「お前は結局、誰にも連れて行かれない誰かが欲しいだけなんだよな。
 幼児性独占欲だ。クソガキだ、ワガママだ、道理ってのをまるで理解しちゃいねぇ。」
 ルフィは言う。何度もおれに言った言葉をもう一度噛み砕いて反芻しながら。
 「じゃあお前が欲しい言葉を言ってやろうか?
 おれはナミが好きだ。もちろん女として、同時に仲間として。最高だ、ナミは。
 おれはまだナミを抱いたことはねぇけど、これから先抱くかも知れねぇ。今はまだわからん。
 おれはサンジが好きだ。男としても好きだし、仲間としても好きだ。
 おれはお前に抱かれたことあるけど、そんなに嫌じゃなかった。これは同情じゃねぇぞ。
 どっちかを選べといわれたら、おれはナミを選ぶ。
 理由は、お前はおれが居なくても平気だけど、おれはナミが居なきゃダメだからだ。」
 丁寧に筋道立った理路整然としたことを、真っ直ぐおれを見て恥ずかしげもなくルフィが言う。
 「ナミがおれを選ぼうがお前を選ぼうがそんなことはどうでもいい。
 それはおれにとって特に問題じゃねぇんだ。おれにとって問題なのは、おれがどうしたいかだけ」
 ルフィがすっと立ち上がる。おれにはまるで理解できない力みなぎった様な顔をして。
 「でもいざナミがお前を選ぼうとしたら、おれはお前を殴るかもしれん。
 だからナミがおれを選んだりしたら、お前はおれを殴ってもいいんだぞ」
 ただし一発だけだ。ルフィはそう言ってからくるりと背を向けて部屋を出て行った。
 チョッパーがにやりと笑って、お互いいい船に乗ったな、と言ったので、おれは最悪だ、と言った。
 あんな馬鹿、どうやって恨めってんだ、クソ。

 ナミさんは、それから後、おれの元に何度か来たけれど、おれは拒絶した。
 拒絶した。
 もうここに来るな、ここに来てはいけない。
 おれの為に、彼女の為に。
 ナミさんは大層恨めしそうな顔をして、ため息をついて、私のこと愛してないの?と聞いた。
 おれは、愛してない。いつまでも恋してる。それでいい、と言った。
 ナミさんはきょとんとして、それからにこりと笑って、いつまで続くかしらね、その強情。と皮肉を言った。
 それからビビちゃんが去って、ロビンちゃんがやってきた。
 ロビンちゃんはおれに優しかった。
 おれはロビンちゃんに、優しくしようと思った。
 そのずっと後でナミさんがルフィにキスしているのを見た。
 おれは一発だけルフィを殴った。
 ルフィはおれの顔を見て、にやりと笑って、おわりだぞ、と言った。
 おれはへたり込んでいるルフィを見て、やっと、ありがとうと言えた。
 その夜、ロビンちゃんが少しだけ泣いているのを見て、これからロビンちゃんの力になってやろうと思った。



        おわり

 



12:04 2002/06/17


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送