STRAP
『 月齢、18 』
窓ガラスに雨粒が跳ね返るのを見ていた。
ひどい雨の音が聞こえる。バチバチバチ、まるで平手打ちの音。白く波打つ雨が時折吹き付ける風に引き剥がされる。
バチバチバチバチ
ぼんやりとそれを眺めながら、灰皿を洗っている。
鼻につく灰の匂いがなにか遠い思い出を引っぱり出したけれど、それがどんなものだか理解する前に皿洗い用の海水と共に流れていった。
いつもは何故かナミさんが洗っている灰皿。
もう2日も洗われていない。
彼女は起きあがらない。眠ったまま、起きあがらない。
ウソップがついにおれに愛想を尽かしたようで、殆ど喋らなくなった。剣士は相変わらず。チョッパーは、おれのことを避けている。ビビちゃんは悲しそうな顔。
ルフィ。
おれを睨む。
おれは目を逸らさない。
何も見ないから。
ルフィ。
おれを叱らない。
おれは何も言わない。
何も思わないから。
ルフィ。
おれを殴らない。
おれは挑発しない。
何も感じないから。
チョッパーが言った。耐性の出来る麻薬は決して弱いものではないと。
おれにはもう10年も平気な毒が彼女には猛毒だった。ちまちまおれのカラダに入り込んでいた毒は危ない物じゃない、と錯覚していた。猛毒だと知っていたはずなのに。
『猛毒』だったのだ。彼女にとって。
おれにとっては鎮静作用のある有益なクスリだったのに。
おれは知っていたが解らなかった。死をもたらすクスリの意味を。
彼女は知らなかったが解っていた。クスリのもたらす死の意味を。
少しずつ飲んでいた毒。その毒が身体に悪いことくらい分かっている。何故わざわざ毒を飲むのか?決まってる、毒が快楽を連れてくるからさ。
一歩一歩“死”に近付く享楽。
“終末”に触れる寸前の歓楽。
ジリジリと差し迫る緊張と興奮。そうしていると自分が生きているのが分かる気がする。
彼女が苦しいと『言って』初めて、自分の重さを知った。
その後は……重い鎮静。
おれのクスリが彼女を殺そうとした。結果的に彼女を死にガイドしたのはおれだ、なにがどういう過程を経ようとも。
やっとその結論にたどり着いてからは特にもう何も考えられなくなった。
朝食を作って、昼食を作って、夕食を作る生活。誰も食べようとしない食事を作り続ける生活。冷めていく食事を一人で眺める生活。
煙草をぷかぷかと吸う。ぼんやりしながら、煙草を吸い続ける。
他にすることがない。
灰にされた枯れ葉はカサカサ囁きながら同じ場所をくるくる回っている。
灰にした紅の炎は長い長い眠りからまだ覚めずにこんこんと眠っている。
『おれになら甘えていられるから』
甘えているのはおれの方。甘えられるのがどれほど辛くて嬉しいかおれは分かっている。甘えるのがどれほど簡単で困難かおれは知っている。
多分、彼女も同じように。
おれとナミさんの相違点。何より大切にしている物が、自分か他人かの違い。ただそれだけ。彼女は他人のせいで自分が死ぬのより、自分のせいで他人が殴られる方がいやなのだ。
ナミさんがしたことはそういうことだと思う。
おれはいつもナミさんが何も言ってくれないと思っていた。何度訊いても答えないことに絶望だけを感じていた。おれはおれが出来ることは他人だって出来ると思っていた。
でも違った。
言葉を上手く操れないおれは、その欠けを補うためにたくさんの言葉を使う。ナミさんにはそれが出来ない。上手に操れるから、たくさん言葉を使えない。足りない言葉を埋めるために、耳障りの良い簡単な言葉で済ます。
おれはそれを誰よりもたくさん聞いていたのに。
欲しがっていた『言葉』は与えられていたのに。
……煙草をぷかぷかと吸う。ぼんやりしながら、煙草を吸い続ける。何本も何本も。紫色の雲を作りつづける。……後悔の他にすることがない。
祈りの他にすることがない。
「フリだよ、フリ」
「…………ふり?」
恋をしているという素振りをしている、とおれはキッチンを無言で横切ろうとしたチョッパーをふん捕まえて言った。
息の根を止めよ、と頭の奥で何かが叫んでいる。おれはもう考えるのが大層面倒くさくなっていたし、それに逆らう気力も意味もなさそうだったので従うことにした。
息の根を止めよ、息の根を止めよ。
「好きじゃない」
「……自分が?」
卑怯者を射抜く瞳はただのケモノで、獲物の本当に弱いところを良く知っていて、本能に従い、ケモノはそこに噛みついた。
「サンジの中のナミが摩耗している。その魔法のランプから好きなオモチャが出てこないから、何度もこすっているのか?」
チョッパーは獣でも人でもない奇妙な目をしている。同情でも嘲笑でもない目をしている。おれはその瞳をじいっと隙だらけの顔で覗き込む。どうぞ食い殺してください、と。
「ナミが起きないのはナミが眠りたがっているからだ。この嫌な世界に帰りたくないからだ。
ナミの嫌な世界を作ったのは、サンジ、おまえだ。壊せるのもおまえだけだ。」
さぁどうするのだとも訊かずに事実だけを淡々と言って、チョッパーがキッチンを出ていった。おれの卑怯な言い訳とみみっちいプライドを踏み潰して。
「壊せるわきゃねぇだろ、つまりそれはおれに一生“サンジ”やってろって、そういうことじゃねぇか」
息の根を止めよ、息の根を止めよ。
耳を塞げ。
目を閉じろ。
生きる為に身じろぎをやめよ。
頭の奥の言葉が必死で叫んでいる。それは悲鳴。それは警笛。それは慟哭。
おれと正反対の彼女。彼女のサイレンが呼ぶ。戦え、戦え、戦え。
彼女と正反対のおれ。おれのサイレンが叫ぶ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。
彼女は戦えず、逃げる。おれは逃げられず、戦う。
でも逃げられない。
でも戦えない。
どうにもできない。
…だから「せめて」傷の舐め合い。おれを傷には毒が。彼女の傷には薬が。毒に侵され、薬に狂う。これがつまり、今までの結果。サンジとナミの全て。
傷を見せ合って安心していた。心が少し軽くなった。こんなに傷付いたのだ、あなたのせいで。だからあなたはこの傷に見合うほどわたしを幸せにしなければならない。そういう強制。そういう関係。
……ふと理解する。
ナミさんの溜め込む意味。
おれがナミさんを身体で押し込めるのと同じ、言葉で縛り付けようとするのと同じ。ナミさんはおれを言葉で押し込め、態度で縛り付ける。逃げられないように。どこへも行けないように。
そうしていると自分の傷付くのを知っている。心が不安定で、辛いのを知っている。そうしていると自分が楽になるのを知っている。安心で、満たされるのを知っている。
それは可哀想な自分に幸せが降りてくるために『必要な儀式』。おれの寄りしろは「言葉」、彼女の寄りしろは「態度」。
まるで鏡合わせのようなおれ達。
まるで複写同士のようなおれ達。
…………おれが吸ってるこの煙草だって立派な麻薬。
毒を身体の中に溜めている。彼女はそのカスを洗い流す。それはまるで職業のよう。
煙草でさえ止められないような奴がクスリ止められるもんか。諦め半分、嘲笑半分でそう思って、また紫色の煙を海の天井と空の底の境界線で吐き出した。
煙がおれを馬鹿にするようにして広がって、消える。
『作り出した奴が掴めないなんて……なんという間抜けな話だ!』
つづく |