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『 月齢、18 』



 窓ガラスに雨粒が跳ね返るのを見ていた。
 ひどい雨の音が聞こえる。バチバチバチ、まるで平手打ちの音。白く波打つ雨が時折吹き付ける風に引き剥がされる。
 バチバチバチバチ
 ぼんやりとそれを眺めながら、灰皿を洗っている。
 鼻につく灰の匂いがなにか遠い思い出を引っぱり出したけれど、それがどんなものだか理解する前に皿洗い用の海水と共に流れていった。
 いつもは何故かナミさんが洗っている灰皿。
 もう2日も洗われていない。
 彼女は起きあがらない。眠ったまま、起きあがらない。
 ウソップがついにおれに愛想を尽かしたようで、殆ど喋らなくなった。剣士は相変わらず。チョッパーは、おれのことを避けている。ビビちゃんは悲しそうな顔。
 ルフィ。
 おれを睨む。
 おれは目を逸らさない。
 何も見ないから。
 ルフィ。
 おれを叱らない。
 おれは何も言わない。
 何も思わないから。
 ルフィ。
 おれを殴らない。
 おれは挑発しない。
 何も感じないから。
 チョッパーが言った。耐性の出来る麻薬は決して弱いものではないと。
 おれにはもう10年も平気な毒が彼女には猛毒だった。ちまちまおれのカラダに入り込んでいた毒は危ない物じゃない、と錯覚していた。猛毒だと知っていたはずなのに。
 『猛毒』だったのだ。彼女にとって。
 おれにとっては鎮静作用のある有益なクスリだったのに。
 おれは知っていたが解らなかった。死をもたらすクスリの意味を。
 彼女は知らなかったが解っていた。クスリのもたらす死の意味を。
 少しずつ飲んでいた毒。その毒が身体に悪いことくらい分かっている。何故わざわざ毒を飲むのか?決まってる、毒が快楽を連れてくるからさ。
 一歩一歩“死”に近付く享楽。
 “終末”に触れる寸前の歓楽。
 ジリジリと差し迫る緊張と興奮。そうしていると自分が生きているのが分かる気がする。
 彼女が苦しいと『言って』初めて、自分の重さを知った。
 その後は……重い鎮静。
 おれのクスリが彼女を殺そうとした。結果的に彼女を死にガイドしたのはおれだ、なにがどういう過程を経ようとも。
 やっとその結論にたどり着いてからは特にもう何も考えられなくなった。
 朝食を作って、昼食を作って、夕食を作る生活。誰も食べようとしない食事を作り続ける生活。冷めていく食事を一人で眺める生活。
 煙草をぷかぷかと吸う。ぼんやりしながら、煙草を吸い続ける。
 他にすることがない。
 灰にされた枯れ葉はカサカサ囁きながら同じ場所をくるくる回っている。
 灰にした紅の炎は長い長い眠りからまだ覚めずにこんこんと眠っている。
 『おれになら甘えていられるから』
 甘えているのはおれの方。甘えられるのがどれほど辛くて嬉しいかおれは分かっている。甘えるのがどれほど簡単で困難かおれは知っている。
 多分、彼女も同じように。
 おれとナミさんの相違点。何より大切にしている物が、自分か他人かの違い。ただそれだけ。彼女は他人のせいで自分が死ぬのより、自分のせいで他人が殴られる方がいやなのだ。
 ナミさんがしたことはそういうことだと思う。
 おれはいつもナミさんが何も言ってくれないと思っていた。何度訊いても答えないことに絶望だけを感じていた。おれはおれが出来ることは他人だって出来ると思っていた。
 でも違った。
 言葉を上手く操れないおれは、その欠けを補うためにたくさんの言葉を使う。ナミさんにはそれが出来ない。上手に操れるから、たくさん言葉を使えない。足りない言葉を埋めるために、耳障りの良い簡単な言葉で済ます。
 おれはそれを誰よりもたくさん聞いていたのに。
 欲しがっていた『言葉』は与えられていたのに。
 ……煙草をぷかぷかと吸う。ぼんやりしながら、煙草を吸い続ける。何本も何本も。紫色の雲を作りつづける。……後悔の他にすることがない。
 祈りの他にすることがない。


 「フリだよ、フリ」
 「…………ふり?」
 恋をしているという素振りをしている、とおれはキッチンを無言で横切ろうとしたチョッパーをふん捕まえて言った。
 息の根を止めよ、と頭の奥で何かが叫んでいる。おれはもう考えるのが大層面倒くさくなっていたし、それに逆らう気力も意味もなさそうだったので従うことにした。
 息の根を止めよ、息の根を止めよ。
 「好きじゃない」
 「……自分が?」
 卑怯者を射抜く瞳はただのケモノで、獲物の本当に弱いところを良く知っていて、本能に従い、ケモノはそこに噛みついた。
 「サンジの中のナミが摩耗している。その魔法のランプから好きなオモチャが出てこないから、何度もこすっているのか?」
 チョッパーは獣でも人でもない奇妙な目をしている。同情でも嘲笑でもない目をしている。おれはその瞳をじいっと隙だらけの顔で覗き込む。どうぞ食い殺してください、と。
 「ナミが起きないのはナミが眠りたがっているからだ。この嫌な世界に帰りたくないからだ。
 ナミの嫌な世界を作ったのは、サンジ、おまえだ。壊せるのもおまえだけだ。」
 さぁどうするのだとも訊かずに事実だけを淡々と言って、チョッパーがキッチンを出ていった。おれの卑怯な言い訳とみみっちいプライドを踏み潰して。
 「壊せるわきゃねぇだろ、つまりそれはおれに一生“サンジ”やってろって、そういうことじゃねぇか」
 息の根を止めよ、息の根を止めよ。
 耳を塞げ。
 目を閉じろ。
 生きる為に身じろぎをやめよ。
 頭の奥の言葉が必死で叫んでいる。それは悲鳴。それは警笛。それは慟哭。
 おれと正反対の彼女。彼女のサイレンが呼ぶ。戦え、戦え、戦え。
 彼女と正反対のおれ。おれのサイレンが叫ぶ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。
 彼女は戦えず、逃げる。おれは逃げられず、戦う。
 でも逃げられない。
 でも戦えない。
 どうにもできない。
 …だから「せめて」傷の舐め合い。おれを傷には毒が。彼女の傷には薬が。毒に侵され、薬に狂う。これがつまり、今までの結果。サンジとナミの全て。
 傷を見せ合って安心していた。心が少し軽くなった。こんなに傷付いたのだ、あなたのせいで。だからあなたはこの傷に見合うほどわたしを幸せにしなければならない。そういう強制。そういう関係。
 ……ふと理解する。
 ナミさんの溜め込む意味。
 おれがナミさんを身体で押し込めるのと同じ、言葉で縛り付けようとするのと同じ。ナミさんはおれを言葉で押し込め、態度で縛り付ける。逃げられないように。どこへも行けないように。
 そうしていると自分の傷付くのを知っている。心が不安定で、辛いのを知っている。そうしていると自分が楽になるのを知っている。安心で、満たされるのを知っている。
 それは可哀想な自分に幸せが降りてくるために『必要な儀式』。おれの寄りしろは「言葉」、彼女の寄りしろは「態度」。
 まるで鏡合わせのようなおれ達。
 まるで複写同士のようなおれ達。


 …………おれが吸ってるこの煙草だって立派な麻薬。
 毒を身体の中に溜めている。彼女はそのカスを洗い流す。それはまるで職業のよう。
 煙草でさえ止められないような奴がクスリ止められるもんか。諦め半分、嘲笑半分でそう思って、また紫色の煙を海の天井と空の底の境界線で吐き出した。
 煙がおれを馬鹿にするようにして広がって、消える。
 『作り出した奴が掴めないなんて……なんという間抜けな話だ!』



        つづく

 



17:39 02/01/01


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『 月齢、19.5 』



 「起こされちゃった」
 逃げるなってさ。えぐいこと言うわ。
 まるで憑き物でも落ちたかのような安楽で平気な顔をしているナミさんが言った。
 おれは眠り姫を起こす王子様になり損ねた。
 平穏な和の世界。
 ただおれが世界に関与しないだけで。
 彼女が物言う。
 おれは黙って頷く。
 何を言っているのか聞こえない。
 だってこれはおれの想像の産物。
 彼女が生きておれに話しかけ、ルフィと自分を反省しながらおれに詫びている。
 何事もなかったかのように。
 ……なんだか振り出しに戻ったような気持ち。
 痛みを隠して生きている。そうしなければ生きていけない。痛がってばかりでは誰の相手にもなれない。
 おれの関与する世界では彼女は痛がってばかりで、そんなナミさんを見なきゃならないおれもつらい。
 「辛くなくなるまでの辛抱よ、じきに良くなるわ」
 耐えて、耐えて、我慢して、我慢して、強がって、強がって……そういうものでおれの大好きなナミさんは出来ている。
 「ばかね、情けない顔するんじゃないわよ
 戦うコックさんなんでしょうが、もっとしゃっきりしなさいよね」
 しっかりお目目お覚ましったら!ナミさんがいつもの調子でおれの頭を殴る。拳が少し軽い。
 ほんとはおれが「もういいから泣けよ」と、胸でも貸すのが当然なんだろうけど、相変わらず脳味噌は停止したままで身体の何処も動こうとしない。
 好きな女も守れねぇクソヤロウに生きる価値が本当にあるのか。
 目の前の現実から逃げて都合の悪いことに蓋をするおれに、彼女を慰める権利も資格も絶対ない。
 慰められる権利も資格もない。
 拒否する権利も資格もない。……その勇気もない。
 ナミさんがおれにキスをする。
 ごめんね、逃げたりして。
 「………………………………………………」
 おれは
 その言葉を
 聞いてしまう
 …………
 凄い皮肉だろうか?
 勇気ある本心だろうか?
 あきらめと覚悟の印だろうか?
 とにかくそう言ってしまったナミさんがとてもばからしくなった。
 自虐を続けて潰れるおれと同じくらいに馬鹿なヤツだと思った。
 おれの罪をひっかぶるのが好きなのか。それを耐えてる自分が好きなのか。ともかく脳が悪いと思う。
 「行けよ、ルフィのとこ」
 「…………」
 「おれに構ってるから、しんどいんだよ」
 「あんたが思ってるほどわたし弱くないわ。アンタくらい軽いもんよ」
 軽く馬鹿にしたような笑い方。誰が見てもそれは余裕の笑み。おれが見れば無理を隠す無理な笑み。
 「弱い。
 見たくねえんだよ、そういう笑い方とかさ」
 「……結局何が言いたいのよ」
 優しい言葉。…ギロチンの刃を支える張りつめたロープを自分で切らせてくれるそうだ。
 「もうナミさんとセックスしない。」
 「………………はぁ?」
 間の抜けた声。長い間の沈黙。呆けたような顔。
 「…アンタまさかセックスだけに責任負わす気…………これだから男ってやつは…っ…
 馬鹿!ほんっとあんた大馬鹿!!しかも最っ低の部類に入るレベルの大馬鹿!!
 じゃあなに、アンタとアタシはセックスだけでつながってたわけ!そういう考えだったわけ!」
 違うよ。言わないし、言えないけど
 「なに黙ってんのよ!何とか言ったらどう!!」
 怖いんだよ。キミが傷付くことが何より。
 「これ以上黙ってるなら肯定と見なすわよ!何とか言いなさいよ!」
 怖いんだよ。キミを傷付けることが何より。
 「ねぇ、何とか言ってよサンジ!わたしはそんなつもりなかっ…」
 ルフィに負けたのは悔しいけど、キミが選んだのなら、間違いないだろう。
 おれは仕方ないと自分に言い聞かせる。これが一番いいと思う。ワガママ言ってるのはおれだけだ。
 「辛くなったらまた来い。おれのために辛くなるな。」
 言ってから、一呼吸おいて平手打ちされた。
 その時のナミさんの顔は、まるで鏡を見ているようだった。



 「おい、起きろ」
 頭を蹴られた。ごついブーツのカドがガツンという音を立てた。
 目を開くといつもの男部屋の角で、見下すみたいな顔で剣士が立っていた。
 「……ナミさんは…」
 「ナミが目を覚ましたらテメェなんざ起こさねェよ」
 ……夢?
 「……ナミさんは」
 「…オメェなぁ、そんなにナミナミ言うんだったらもっと丁寧に扱えよ」
 だから言っただろう、あの魔女は壊れやすいって。剣士がそう吐き捨てるみたいに言うのでおれは素直にハイと言った。
 「………………おう。」
 剣士は鳩が豆鉄砲食らった時みたいな顔でそれだけ呟いてバツの悪そうな顔をした。
 おれはその剣士を見て、少し気が楽になった。
 もうすこしだけ素直になろう。
 そしたら、またもう少し楽になるかも知れない。
 素直になってまたナミさんを苦しめたら、そのときは
 そのときは……

 戦おう。
 弱くて情けない自分と。



        つづく

 




20:51 02/01/08


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『 月齢、21 』



 今日もまるで当たり前のように潮が流れ朝日が昇る。それはとても簡単で何でもないような振りをしているので、当然だと勘違いしてしまいそうだ。
 ナミさんは今日も起きない。
 苦悩を抱えたままの難しい顔をしながら眠っている。
 おれはその顔を見ながら、マリファナを噛んでいる。
 背中の後ろの空気がジリジリと縮まって弾け散りそうな気がする。耳の後ろとか、頭の後ろとか、ともかく自分の見えない範囲で、空気が縮まって縮まって……いつか限界が来てぱちんと弾け散りそうな気がする。
 それにイライラするほどの気力もなくて、脅えて我慢している。いつかこのジリジリする物がどこかへ消え去るまで、ずっと我慢しているつもりなんだ。
 そういうおれを、ルフィは腰抜けと評した。
 自分でもそう思う。どこをどうしたらいいのか、分かっているのに身体が動かない。分からないフリをしながら、ぐるぐる同じ場所を回っている。悲壮な声を果てしなく上げながら。
 わかってしまったら、しなければならない。
 自分の為すべき事を。
 ……だからつまりおれはそれが一番嫌なのだな。ナミさんを傷付けて、消耗させることより。………………なんだ、おれはナミさんのこと、そんなに好きじゃなかったんだ。
 そう悟って(認めて)からは、ナミさんの苦悩の顔を見ながらマリファナを噛むのがおれの仕事になった。
 眉間にしわを寄せて、口をへの字に曲げているナミさんを見ていると、おれは安心だった。……だってこのナミさんは何処へも行かないし、無理に笑ったり強がったり、悲しい顔を隠したりしないから。
 不機嫌で停滞した午後の船室。
 ナミさんの顔がぼんやりと歪んだ。
 ……なんでこんな事になったンだっけ?おれはこの人が笑っててくれるなら、どんなことでもするって誓ったのに。
 そうだ、ルフィの野郎だ。あいつがナミさんのこと好きだなんて言うから……ナミさんがそれを聞いて呆れた顔をして……嬉しそうだったから。
 おれに抱かれているときは、いつもいつも安心しきっている癖に。……なんて、自分のことは棚に上げて、な。
 ナミさんを抱いていると、無目的な勇気が沸いてくるような気がするよ。
 ……その「勇気」とやらできみを何度傷付けたろうか。何度きみを泣かせただろうか。……何度きみを抱いただろうか。
 好きなんだ。きみが好きになってくれるはずの自分が。……だから、きみを好きになる資格なんて無い。
 おれがきみの重さになるのなら、シンダホウガマシだ。
 手を握る。傷だらけの、うるおいの少ない、小さな手。
 この手が。おれの重みを、受け止めて、悲鳴を上げている。
 ……絶望的だ……
 苦しくて思い沈静。素直になって、きみにもし全てをさらけ出したら……きみはきっと更に苦しくなって、もう……帰ってこない気がする。もしかしたらその、今見ているだろう苦痛の夢よりひどい悪夢を、おれはもたらすかも知れない。…なら、起きない方がきみは幸せなんじゃないだろうか。
 おれは死ねないから、この船を下りることが出来ないから。……もちろんそれはナミさんも。
 海賊が言う。
 『腰抜けめ、クソヤロウ』
 ああおれは腰抜けだよ、クソヤロウだよ。だから何だ、ナミさんを引き戻しも出来なかったのはお互い様じゃねぇか。
 剣士が言う。
 『もっと優しくしてやれよ』
 優しく?優しくってなんだよ、これ以上ないくらい優しくしすぎたから、おれはこんなになっちまった。
 狙撃手が言う。
 『愛してねぇのか?』
 愛してるよ、愛してる。でもそれ以上に自分に自信がねぇんだよ。そっちにばっかり気ィ取られて、愛ってのを忘れちまうんだ…
 医者が言う。
 『ナミの悪夢を作り出したオマエが壊せ』
 作り出すしかできないんだよ。おれはコックだから、壊して食うのは客の仕事なんだ。……オマエがトナカイじゃなくてバクだったら……良かったのに。
 航海士が言う。
 『わたしはまだ大丈夫よ』
 ………………うるせェ………うるせぇよ……死んじまうよ……あんたもおれも…
 料理人が言う。
 『死ねクソ野郎、死ね死ね!さっさと死ね!死んじまえ!』
 死ねるモンなら死にてェよ……死ねるもんなら…………そんな勇気もねェから、おりゃ死にてェんだ……
 目を閉じると、にっこり笑うナミさんはもう出てこない。悲しそうに顔を歪ませる彼女が、ぼんやり黒の影の中に吸い込まれそうになる。おれはそれをただぼんやりと見ている。自分が駆け寄って手を引っ張って助け出そうとしたって、引っぱり出すこっちの世界の方が辛いんだから。
 「……なぁジジィ……おれはどうしたらいいんだろうな?どうしたら一番、いいんだろうな。」
 ジジィには頼ったことなんか無かった。全部自分でやってたと思ってた。……でもホントは、クソジジィに頼りっぱなしで、全部ジジィにやって貰ってたんだなぁ……クソ。
 でももう逃げ切れない。そういうところまで来てしまったんだ……と思う。
 ナミさんの顔を見る。憔悴した顔を。
 ナミさんの目を見る。開かない目を。
 ナミさんの唇をみる。動かない唇を。
 ナミさんの手を見る。傷付いた手を。
 ナミさんの胸を見る。静かな鼓動を。
 ナミさんの頬を見る。濡れない頬を。
 ナミさんの耳を見る。聞かない耳を。
 ナミさんの額を見る。熱を持つ額を。
 ナミさんを見る
 ナミさんを見る
 ナミさんを見る
 自分で何もせずにいたツケが回ってきたんだ
 逃げっぱなしで、戦いもせず見ない振りをしていた
 ツケが。

 だから

 せめて

 戦おう

 ナミさん

 どうか

 おれを、守って。



        つづく

 



13:48 02/01/27


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『 月齢、22.5 』



 おれは最初から壊れていたわけじゃない。でも何故壊れたのか、わからない。
 ただ胸に穴が開いている。そこから大切な物が全て逃げていくような気がする。指と指の隙間から水が滴り落ちるように。手のひらに残った水滴が自分の体温で蒸発するように。
 その後に残る物は、一体なんだろう?
 何もかも全て終わった後に、おれに残るのは一体なんなんだろうか。
 傷付いたナミさんか、死体になった自分か。
 ……生憎と、おれにはこれしかできそうもない。
 優しく、なんてのはできそうもない。
 眠り姫にキスをする。
 唇と頬と、額にキスをする。
 涙が出てきやがった。
 壊れた左目からも出てくる。
 『ああなんだ
 やっぱ好きだったんだよ
 ナミさんが
 死ぬほど』

 “地獄へようこそかわいいお姫様。
 その手を取って、おれは連れていくよ、きみを地獄へ。
 おれを突き落とすか、引き上げるかは君次第。
 キミが突き落とされるか、逃げ出すかも君次第。
 おれは、嘘と庇護で塗り固めた楽園は諦めた。
 キミがどうしようと構わない。
 どうにでもしてくれればいい。
 これはヤケクソじゃねェよ。……ただ知りてぇだけさ、キミの最後の『答』がね”


 目を開く。
 お姫様が目を開ける。
 長いまつげが上に持ち上がる。
 ……そう何度も呪文のように繰り返す。何度も何度も、叫び声のように。
 永い永いキスが終わる。ナミさんは目を覚まさない。おれがふと気配を感じる。階段に『強い意志』が立っていた。
 「…………よう、派手な覗きだな」
 おれの言葉に反応など見せず、ただ憎たらしい目をしたまま、ナミさんを睨んでいる。
 おれがもう一言言おうとした瞬間に、足を進めて部屋に入ってきた。ナミさんが毎日手入れしている絨毯や床を踏みつけて、無言の『強い意志』はナミさんの眠るベットの前へ、呆然と椅子に腰掛けるおれの隣へやってきた。
 そして
 そのまま
 帽子を取って
 おれの頭に被せて
 視界を塞いだ後に
 …………………………おいアホ船長、ムギワラボウシってのはな、編み目が荒いから、よーっく目を近付けるとな、向こう側がよ、見えるんだぜ。…隻眼でも。
 どうか目を覚まさないで
 どうか
 どうか
 思考が聞こえるんじゃと思うほどの祈りは、どうやら本当に届いたらしい。
 ……悪魔とか、そういうものに。
 「…………ッ!?」
 「起きたか」
 別段何の感慨もわかないし、ショックでもなく、もはやそれは予定調和の事柄だったのだという気さえした。
 昔から決まっていたのだというような気がした。
 お姫様を眠らせたのは毒の塗られた糸繰り針。お姫様を目覚めさせたのはイバラの道を突き進んできた海賊王だというわけだ。
 お姫様と王様は、きっとこれからハッピーエンドにでも行き着くんだろうぜ。
 ……さて、糸繰り針は……これからどうすっかねェ。



 つまらなさそうな顔をしながら医療器具の手入れをしているトナカイに挨拶をする。
 「よう、藪医者」
 ちらっと視線だけをこちらにむけて、相変わらずつまらなさそうな顔をしながらチョッパーが手入れを再開した。
 「お姫様は王子様のキスで目覚めるんじゃなかったのか?ウチのお姫様は王様のキスで目覚めたぞ」
 そんで、おれは、『サンジ』のままさ。これが多分ナミさんの望んだ世界。天国のフリをした地獄そのもの。この世界で、おれは生きてかなきゃなんねェんだ。……生きるって、決めたから。
 死なないで、生きていくんだと、おれが決めたんだから。
 「………キモチワルイ」
 チョッパーがまるで虫でも潰すような適当な声でそう言った。
 「ナミにそうやって、甘えてたのか。ずっと繰り返してるわけだ。こりゃ、ナミじゃなくても潰れる。
 …おまえ慰めて欲しくて必死なんだな。感情押し込めてるフリして、垂れ流しなんだもんな。
 自分がしんどくてたまんねぇんだ、ナミの顔見る暇も無いくらい。ナミ抱きしめる暇もないくらい。
 ウソップが言ってたぞ、自分がカワイソウで仕方ない奴ほど残酷だって」
 ……情けなくて涙も出てこねェ……
 目も合わせてくれないチョッパーが、淡々と事実だけを言っているのを聞いていると、ガキのように泣き喚いてしまいたくなった。何もかもヒステリーでぶち壊して、泣き喚きたくなった。
 ここで声を上げて泣き喚けたらどんなにか楽だろうか。呆然とそんなことを考えていたら、チョッパーがやっとおれの顔を見てまた言った。
 「泣き出す寸前のガキみたいな顔してる。一番泣いてすがりたかったナミが必死で我慢してたのに、オマエはビービー泣けて幸せだなァ。どうだよ、シアワセだろ?良かったなァベタベタ甘ったるい仲間がたくさん居て。」
 チョッパーが本物のケモノの顔をして言った。ケモノは嘘を付かない。必要ではないから。一撃必殺の武器を全力で使う術を持っている。人間とは、違って。
 「どうせオマエのことだから、アレでナミが全部解き放たれたとでも思ってるんだろ?お気楽だな、いい構造の脳だよ。一度解剖させてくれよ、本当に入ってるのかどうか確かめたい。
 なぁ、サンジ」
 急に呼ばれた名前がおれを覚醒させる。
 『サンジ』
 『サンジ』
 『サンジ』
 おれの名前だ。おれは『サンジ』だ。
 ずっと『サンジ』だった。ずっと昔から。
 その名前が壊れ始めたのは一体いつからか、もう覚えていない。
 でも、完全にブッ壊れた日は知っている。
 ナミさんを初めて抱いた日だ。
 あの日、おれは死んだ。
 そんで、ナミさんの期待するはずの『サンジ』になった。
 キレイで面倒くさくない、優しくて甘い『サンジ』。何もかも言うとおりの、全てを許す『サンジ』。

 ようやく思い出した。
 ナミさんは「おれ」だ。
 「おれ自身」だ。そのものだ。
 おれがそうされたいように、ナミさんを甘やかして優しくして、全て許してきた。
 そんで潰した。
 ナミさんが「おれ」にそうしたように。
 ……思い出した…
 …………思い出しちまったよ………ナミさん…………!……



        つづく

 



16:34 02/02/01


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