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『 月齢、6 』


 深い深いエメラルドグリーンの空。
 夕日が沈んで少し経った。
 早めの夕食も済ませて(今日の皿洗い当番はビビちゃんなんだ)おれはすることもなくぼんやりとエメラルドグリーンを眺めている。
 薫らす紫煙がぷっかりぷっかりと機嫌良く空に立ち昇った。
 珍しく欠伸なんか噛み殺して、ちょっと涙目になったりしながら、ただぼんやり空を眺めている。
 すっかり暗くなる数瞬前の15分か20分だけの特別な空の色。
 透明で高純度な翡翠の色。
 「……明日も晴れるかな」
 船を停泊させるのは長くて1、2泊。チョッパーが薬の材料買うとか、特別な用事以外は基本的に接岸さえしない有様がここしばらく続いている。
 だから今日停泊するのは珍しいんだ。
 なんでもどうしてもこの先に必要な海図を買うためなんだってさ。ちょうど海図屋が出払ってて、帰ってくるのが明日の朝だと言うから、仕方なしに泊まってんだけどな。
 「晴れりゃいいけど」
 雨は嫌いじゃない。でも雨が降って見通しが悪くなって船のスピードが落ちるのは嫌い。ビビちゃんの、イライラを無理に押さえ込もうとする顔が痛々しいから。あんな顔好き好んで見るもんじゃねェ。
 それに
 未だに背骨の手術の痕が、雨の気配を嫌がって痛むんだよ。
 手術ン時に打たれてたモルヒネが脳味噌を溶かす。
 まるで口の中が性感帯になったみてェに、ナミさんのキスで勃った時は笑ったぜ。
 ありゃまさしく一生の不覚ってヤツだな。
 でもアタマはヘンに冷静なもんだ。熱に浮かされているのは脳味噌と身体だけ。アタマの隅っこには、なんか妙に冷めてて悟った自分が居る。
 でー……自分が今やってることとかさ、観察してたりして。
 「あ、いまナミさんの中に入った」とか「必死で声出さないように歯ァ食いしばっちゃってるよこいつ」とかさ。
 観察してる割には無関心で、どうでもいいと思ってる。目の前のことも、自分が今やってることも、隣にいる人のことも、本当に興味がわかない。
 ナミさんがおれのチンポくわえてるの見ても、なんかどうでもいい。
 面倒臭い。
 嫌いじゃないよ。でも好きでもない。
 誰にも渡したくない。でも捨ててしまいたい。
 キミと、同じように。


 エメラルドグリーンの空に、クリーム色の欠けた月が浮かんでいる。
 目をそらした拍子に消えてしまいそうな月が浮かんでいる。
 地面は砂地で、砂の色はほとんど白い。
 時々思い出したように黒や茶色、金や透明の砂が混じって
 月明かりにぼんやりと頼りなく光っている。
 ……何かに似てると思ったら
 バニラアイスクリィムにバニラビーンズを散らしたのに似てるんだ……
 おれはそのバニラの砂漠をザクザク歩いている。
 見渡す限り一面が白い砂漠で、白い砂丘と月影の模様だけが
 気が狂いそうになるほど遠くまで続いている。
 おれはそのバニラの砂漠を横断だか縦断だかしている。
 ……どこへ向かってんだ?
 (…………………………)
 ……一体何のために歩いてる?
 (…………………………)
 ……何故ここにいるんだ?
 (…………………………)
 ……何か言ったらどうなんだ?
 (…………………………)
 誰に向かって話しかけているのか、自分でもよくわからない。
 でも気の短いおれにしてはイライラもせずにその「何だかよくわからない何か」に
 話しかけているのか、テレパシーを送っているのか
 ともかくコミュニケーションを取ろうとしている。
 おれはバニラ砂漠を歩きながら、ふと気付く。
 自分の口からポコポコと空気の粒が出ては空の終わりに浮かんでいってる
 それはひどく幻想的で、泡がゆらゆら揺れながら空の終わりに昇っていく。
 視線を自分の隣にやると、ぼんやりと白いワンピースのナミさんが空中(いや、海中か)に浮かんでいて
 おれに言うんだ。
 「ここは海の中の砂漠よ。太陽の光の届かない深い海の底よ」
 おれの胸を人さし指で指して「ココに浮き袋はないの?」と言う。
 「欠けた月に見えているあの光こそ、太陽の光なのよ」
 クリーム色の欠け月を指さして続ける。
 「アレはあんたまで届かないの。あそこで太陽の光は終わりなの
 おわかり?深海魚さん」
 それだけ言うと、白いワンピースの彼女はゆっくりゆっくり浮上していった。
 ……きっと、あの月だか太陽だかに帰るに違いない。
 おれはそれを興味なさそうに見つめてから、また歩き出した。
 脳味噌のそこらじゅう一帯に彼女に関するデータが張り巡らされこびり付いている。
 おれはゆっくりと目を閉じて息を吸い込んでは吐き出す。
 「おれには光が見える。見えるんだ。……見えるだけだが…」
 呟いて、愛していると、空恐ろしい言葉を吐きだした。
 幻想的な海の底の風景が、地獄に変わったように思えた。


 「愛しているなんて言わないで」
 「男の顔で、男の言葉で、愛しているなんて言わないで」
 「もしあなたがそんなことを言ったなら」
 「ブチノメシテヤル!」
 キスがそう言う。
 攻撃的なキスがそう言う。
 柔らかなクチウラ。愛を囁くクチベニ。わがままなクチビル。気まぐれなクチサキ。
 潮の風が凪いだ。
  真っ白なシーツを目に付きにくい甲板に広げて
 おれは丁寧に彼女を抱く。
  シーツに浜の砂がパラパラ落ちている。
 彼女を抱くのはこれで3回目。
  彼女の目には少しかけた月を背にしたおれの顔が映っている。
 でももうずいぶん長く抱いたみたいに彼女の身体がしっくりくる。
  深いエメラルドグリーンの雲を纏った月。それは夕暮れ終わりの色。
 おれは長い間探していた半身をやっと見つけたけど、ナミさんの身体には相互関性が認められなかったらしい。
 そういうのが、彼女を抱いていると、伝わってくるので
 すこし、つらい。
 “初心者のセックス”してると、相手の感情がダイレクトに流れ出てくるから
 結構こわいんだぜ。

 ナミさん、頼むからおれのこと好きになってよ。
 お互いの流れ出る感情に脅えなくていいように。



        つづく

 







22:52 01/05/15


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『 月齢、7.5 』


 「…やめろよ」
 「……やめない……」
 「…んでこんな事すんだ……」
 呆然とする声が聞こえる。
 ……ルフィ?
 「こうしてないとアンタ逃げちゃうんだもん」
 「…ゃめろって」
 「……いや……」
 濡れたような声が聞こえる。
 …ナミさん…
 声が聞こえる。勝手に澄む耳が呟き声を捕らえる。ああなんて高性能なおれの耳。引き千切りたくなるぜ
 「ねぇ、逃げないで」
 「このままいたら襲われる」
 「……襲っちゃだめ?」
 「…………そういうのは相手の了解を取るモンじゃねぇと思うな……」
 白い腕がきゅっと赤いベストを引っ張ると、赤いベストはふにゃりと床にへたり込んだ。
 赤いベストが闇色をした茂みと、鉛色をしたみかんの中へ引っ張り込まれていく。おれはそれを引っ張り返したい衝動に駆られたけれども、どうすることも出来ずに固まっていた。
 まだ覚えている。
 冷たい手が顔に触れた時の触覚。
 その同じ手が、ルフィの頬に触れている。その同じ体温が、ルフィの肌に触れている。その同じ感覚を、ルフィと共有している。
 イライラするとか、腹が立つとか、恨めしいとか、悔しいとか……そんなのをずっと前に通り越した…透明な感じ。感情の感触がしない。呆然としているとかそんなのですらなくて、そう、すごくどうでもいいような事に感じる。おかしいな、どうでもいいわけねぇのに。
 二人の声になる前の呼吸とため息になった後の空気が、まるで霧のように船の上に充満している。その霧で船がきしりと傾いたような気がした。
 「…………ルフィ!」
 「黙れ……黙ってくれよ」
 「だめっ」
 「駄目じゃねぇよ、黙れ」
 「ちょっちょっ……ここでする気!?」
 「ここで誘ったの、ナミじゃねぇか」
 「ヤ、や、あ、やぁ」
 「やじゃねぇ」
 「……ぁぁっ」
 泣きそうな声。悲しそうじゃない声。嬉しくてたまらないような困った声。助けて、といいたそうな声。
 ここからじゃどうなっているのかは全然見えんが、まぁ大体どうなっているのか見当は付く。
 息をのむ音。
 鋭い吃音。
 しゃっくりのような吐息。
 途切れ途切れに聞こえる女の声。
 おれはパニックにもなれずに、まだ固まっている。何が起きているのか、分かる分だけ動けない。
 「…ねが……ヤメ…て…」
 「……やめない、こうしてないとお前逃げるじゃねーか」
 「やあぁ…やだぁ…………うそ!?」
 「うそじゃねえって、ほら、足上げろ」
 「やだやだやだやだぁ!お願いおねがいやめてルフィ!」
 「断る」
 「ああんうそォ!……ひっぃ、ぅ……?」
 「……バーカ、指だよ」
 ルフィのからかうような声がして、ナミさんの気の抜けたような、ホッとした声が続いた。
 「ゆ……指……
 ……ルフィ……あんたそんなバカなこと一体何処で覚えたのよォ……」
 「見て覚えた。
 ほら、そこの陰にいるだろ、な、センセエ」
 ぎくりと身体が震えた。心臓が強く握り潰されたかのようにぎゅうと縮こまった。喉が一瞬でひからびて顔面は蒼白。耳からは何の音も入ってこない。ギリギリとすり潰れる自分の歯から漏れる音だけが頭蓋骨に響いている。
 「恥ずかしがらずに出て来いよ、なぁ」
 体中の水分が冷や汗になって出てくるようだ、ぼたぼた汗だか涙だかが垂れ落ちて、気が狂いそうになる。吐き気を覚えて、でも吐くなんて器用なことが出来ず、走って逃げ出すこともこの場に似合った気の利いた罵倒もなにも思いつかなかった。
 「サンジ」
 目を見開くと、しゃがんで縮こまっているおれの影に重なる影が佇んでいた。
 背中で声がする。
 「……さ…サンジ!?」
 「ほら、立てよ
 どうしたんだこんな夜中に。夜食か、クスリの入った」
 ルフィがおれの首根っこを掴んで、もの凄い力で引きずるように立ち起こした。
 ……まるで初めて客に暴言を吐いて逃げた後、ジジィがおれを船尾の空ダルの中から引っぱり出したときのように、軽々と。
 「それともおれがナミを犯すとでも思ったか?」
 ヤるわけねぇじゃん、こんなクソ女。
 おれはその暴言に目を見開いて、渾身の力で身体を捻って右のハイキックをルフィの顔面に見舞った。
 「ぐギぁ!」
 靴の甲の下で、柔らかい何かが砕けるような感触が微かにして、ひどくこもった小さな叫び声が破裂した……その瞬間、おれはルフィの背の高さピッタリから床に叩き付けられて、顔面を強かに打った。
 「ぇぐぇっ!」
 「や、止めなさいよ!何してんのちょっとこの馬鹿ども!!」
 必死に目を開けると、壁によろよろと倒れかかったルフィが鼻や口から大量の血を流していた。……骨でもイッたかな……
 おれは顔面を打ったけれど、幸いにもルフィの体勢に無理があったのかそんなに激しくダメージを受けてはいない………と……あれ…?……
 立てない。正確には立とうとしても体中に力が入らないのだ。脳味噌がぐるぐる揺れているようでひどい吐き気がした。頭が、まるで脳味噌の中に100も200も小さな虫が入り込んでブンブン激しく飛び回っているかのようなノイズでいっぱいになっている。
 「ちょっと……?ねぇ、ちょっと……なにやってんの、立ってよ、ねぇ、立って……サンジ!ルフィ!」
 遠くで、本当に遠くで、ナミさんの声が聞こえた。
 へへへへ、ザマみろルフィ。
 すうっと気が遠くなっていく感覚の最後まで、おれは「ザマァねぇな、ルフィ」とひどく嘲っていた。
 一発お前を蹴ってみたかったんだよ
 ナミさんを
 独り占めしてる
 クソゴムを、蹴り倒したかったんだよ
 へへへ…ざまぁみろ……



        つづく

 







20:03 01/08/06


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『 月齢、9 』


 目を覚ますとそこは知らない部屋だった。
 「お、目が覚めたか」
 ごろりと頭を動かすと鈍く首の筋肉が痛んで、赤紫の帽子をかぶった青鼻が霞んで見えた。
 「あんまり動くな。お前はよく怪我するから、治り遅いんだ」
 静かな声で、チョッパーがおれをじいっと見つめている。
 「なんだ、おれ……重傷なのかよ?」
 のろのろと喋りながら、おれは鉛のように重い体中を恨めしそうに睨んだ。
 「なんでもないただの脳震盪だ。しばらくじっとしてりゃ治る。」
 のんびり答えるチョッパーは、まるでおれと昔からの馴染みのような口調でまん丸な目を半分閉じて言った。
 「……ルフィは?」
 「…なんだ、自分で蹴ったくせに心配なのか?」
 心配しなくてもサンジよりは軽傷だよ、ただ唇と口の中を切っただけだった。にやりとチョッパーが口の端を上げた。その笑い方は本当にただの獣で、少し居心地が悪かったけれども、けして不快でも奇妙でもなかった。
 「目、見えるのか」
 「……右はな。」
 寝ころんでいるので、いつもは左の目に掛かっている髪の毛が下に垂れている。
 やはり初めて見る奴はみんなこの目のことを聞くな。……いや、この船の連中じゃ…チョッパーが初めてか……
 ……やっぱ、職業柄かな。おれも珍しい物はなんでもかんでも口に入れるもんな…
 「左の目のこと、聞いてもいいか?」
 「……ああ」
 おれはぼんやりと部屋の匂いが女部屋だったので、少しだけ無意味に安心して馴染みのない天井を仰いだ。そういや女部屋には何度か入ったけど天井なんか見たことねぇなぁ……なんて事を思いながら。
 「生まれつき?」
 「いいや。
 潰れてたのさ。なんで潰れたのか?さぁわからねぇ。物心付いた時にはもうおれは一人でストリートチルドレンだったし、目もなかった。
 そのうち…ほら、おれは顔がいいだろう?だから物好きな金持ちに拾われてね、しばらくオモチャやって暮らしてた。…それからしばらくしてその金持ちの家に火を付けて逃げた。いつまでもオモチャでいれる程おれはピュアじゃなかったってことさ。
 家から金を持って逃げてたおれはその金で料理人になろうと思って、とあるレストランに住み込みで働きだした。なんで料理人になろうかと思ったかって?そりゃ、このご時世で食いっぱぐれしない職業は神様かコックだけだからな」
 おれがあんまりにも淡々とどうでも良さそうに喋るもんだから、チョッパーはただでさえ丸い目をまた大きく見開いてまん丸にして、食い入るようにおれを見ている。
 「サンジも、いじめられたのか」
 「……いじめ?ちょっと違うな。この世の中の何にもここに居ることを無条件では許して貰えなかったのさ
 たとえば肉奴隷、或いは財布、もしくはサンドバック。そうしていることでおれはこの世にいることが出来たんだ。物にならなきゃ、おれは生きてらんなかったんだよ」
 おれが本当にまじめくさった顔をしてそう言ったので、純真なチョッパーはすっかり騙されている。
 でもその目のどこにも同情とか、心配とか、そんな色が見えなかったのでおれはもっといい気分になって喋った。チョッパーの目が曇りもせず、おれの出鱈目な話の中の可哀想なサンジを想像している。
 このトナカイが何を思っているのかはおれには分からない。
 でも同情と心配だけはしていないような気がした。
 おれと“サンジ”は、それだけで少し救われたような気がした。
 「おれは煙草を吸うだろう?
 アレは火を付けるよな、おれは煙草より火の方が好きなんだ。火はいいぞ。全部燃やしてくれるし、何より綺麗じゃねぇか」
 「ああ、まるでナミの髪みたいだ」
 おれはナミさんの名前が急に出てきたのに気を良くしてチョッパーの頭を小突いた。
 「何だオメェわかってンじゃねぇかよ!
 でも呼び捨ては良くねぇな?ナミさんだよ、ナミさん」
 ぼんやりと暖かくてよ、あの色がたまらなく素敵だろ?どんどん広がっていくんだ、凄いスピードで。カラカラに乾いた枯れ葉みたいなおれに。どんどん灰にされていくのが判る。それがひどく気持ちいいんだ。
 ああこんな話
 ウソップにだってした事ねぇのに
 「自分のこと枯れ葉とか言うなよ。」
 チョッパーが言う。
 「じゃあ3日前の新聞だ」
 “サンジ”が言う。
 「そんなことねぇよ、サンジは、すごい。」
 …………………………
 ……………………ああ………………
 ……ああ、ああ、ああ。
 そうだ、おれは……そう言って欲しかった。
 そう言って欲しかった。
 本当に小さな頃はカタチのない誰かに。
 少し大きくなってからはジジイに。
 今はナミさんに。
 今のチョッパーのように、何も知らない目で、ただ信じて欲しかった。
 無条件に与えられる
 光のような
 空気のような
 雨のような
 ただ当たり前の
 そいうなにか
 どこにでもある、誰にでも持てる、何のカタチもない
 確かに感じる何かが
 欲しかった。
 おれのことを知ったら同情するのなら理解なんてしてくれなくてもいい。
 ただ
 おれを“サンジ”ではなく、ただそこにいる名も無き生き物として。

 おれはチョッパーに「サンジって人間をやってっと、溺れそうになるんだ」と言った。
 「溺れそう?」
 「そう、息が出来なくなるような気がする
 おれは本当は“サンジ”じゃねぇんだよ……」
 言葉が上手く形作れない。正しい表現ができない。ただ脳味噌に沸き出してきた文字をつなぎ合わせる。
 「……人間も大変だな」
 チョッパーがそう言って困ったように笑った。
 おれはその困り顔がひどく他人行儀で、チョッパーとおれを隔てている透明な壁を『見て』、安心していた。



        つづく

 







23:38 01/08/28


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『 月齢、10.5 』



 「しかたねぇよ、気に入ったんだから」
 おれはそう言った。心の底からそう思うし、その言葉の中に込めた凛々しさはナミさんから習った。
 『しかたがない』というセリフは不気味なので、おれにはことさら不釣り合いである。
 この世には勇気ある惰性の似合う人間と似合わない人間がいる。おれは後者、彼女は前者。だからおれには不気味な台詞。
 「オメェはどうして好きなんだ?」
 「インスピレーションだ、こいつしかないと思った。会った瞬間、長い間掛けてこねくり回していたパズルが完成した時の体のざわつきを100倍くらい強烈にしたやつを感じた」
 こいつだと思った。こいつがいいと思った。だからおれはナミを船に乗せた。お前もだ、サンジ。
 ルフィがそう言って次第に丸みを帯びてきた月を背に、おれの顔を睨んでいる……ような気がする。淡い月光は深い闇を作り、ただ奴の身体の輪郭だけを浮き彫りにしている。
 早く風が流れている。明日から長い雨に入る、とナミさんが言っていたのを思いだした。
 「ナミの前じゃ言えねぇんだろ?」
 ナミの目を見て言ってみろよ、ナミさえ手に入れば何もいらねぇって。ナミが手に入るんなら、おれでもゾロでもウソップでも、ぶっ殺すって、言ってみろよ。
 軽い声でルフィが言った。月の光に照らされて、あごと頬にある青い痣がくっきりと浮かんでいる。すこし顔も腫れているような気がする。たったあれだけの蹴りで。……首領クリークに殴られたって死ななかったヤツがよ。
 「……言えるか馬鹿野郎。」
 変に軟弱なルフィの身体が、自分のしたことを思い知らせた。
 「ほれみろ、お前のキモチなんざ、その程度なんだよ。くだらねぇな」
 消毒薬と化膿止めの匂いをさせたルフィの髪が、ゆらりゆらりと潮風に揺すられている。
 おれはそれをまるで夢見心地で見ていた。
 ぼんやりと、ぎんいろの、ひかりを、みていた。
 「じゃあお前はナミさんがおれを殺せと言ったら殺すのか?」
 「馬鹿かお前、ナミがそんなこと言ったら、そんなことしたら、ナミ殺す」
 そんなこと言わねぇから、あいつは『ナミ』なんだよ。『ナミ』だから、うちの航海士なんだ。
 ルフィがおれを特別に馬鹿にしたように口の端を持ち上げて嗤った。「そんなこともわからねぇくらいに狂ってんのかお前は」。ルフィがおれの頬を殴った。
 「目ぇ覚ませよ、覚めるまで殴るぞ」
 何度か、とても重い拳が顔に飛んできた。
 おれはどうすることも出来ずに、ただその拳が次第に赤色になっていくのを眺めていた。
 最後に聞いたのは、誰かのカナリキ声。
 ああどうぞナミさんじゃありませんように………どうか、どうか…


 「本当に、もう、やめてよ。お願いだから」
 ……おれだって、本当に、もう…やめて欲しい。カンベンしてほしい。
 ぽちょんポチョン、と、滴が落ちる音がする。きっちり閉め切ったキッチンの中で、ようやく聞こえたのが滴が水面に落ちる音。まったく景気の悪い胸くそ最悪なツマンネェ音。
 ちゃんと水道の蛇口が閉まらねぇんだ。だからこの間金物屋に寄ったとき、蛇口の新しいやつをウソップに頼んだのに、あいつ忘れやがって。
 「こんなことして何になるのよ、ねぇ」
 何にもならないのが解ってるからこうやって時間ツブしてんだよ、ナミさん。わかるかなァ、わっかんねぇだろうなぁ。
 「優しくしてよ、あんた達が殴り合い始めるの見ただけで死にそうになるわたしに」
 キッチンの床の向こう側がギリギリと軋んだ音を立てている。操舵棒に直結している舵が波に弄ばれているんだろう。
 「知らなかったんだよ。ルフィと、仲良くなってたんだねぇ」
 おれは顔に掛かる濡れタオルを持ち上げて、赤く汚れてるところを目に押し当ててからそう言った。
 「……意地悪なこというのね。」
 ナミさんがそのタオルを無理にひっぺがしておれの顔をのぞき込んだ。
 「ナミさんよかマシさ」
 わざとらしく目を逸らし、吐き捨てるように。いつもならナミさんの膝枕なんて考えるだけで脳髄とろけそうだけど、この状況はいくら何でも情けなさ過ぎる。
 「そうかしら。」
 「そうだよ」
 「そんなことないわよ」
 「そうだ。」
 「…えらいムキになるのね。」
 「良心が痛むからな」
 「……どっちの?」
 情けないこと言って、女がおれにキスをした。これ以上問答したくないっていうサイン。面倒くさいときのジョーカー。腰抜け度のBET。セックスのコール。
 しかたがないのでさらさらする髪の毛を何度も指で梳かしながらキスした。
 むかし言葉を使わずに身体で話をするためにセックスがあるなんて話を聞いたけど、おれはそうは思わない……たんにおれがなんにも話さないセックスしかしないだけか。
 目の前にいる女が、本当にタダの肉の塊に見えてきたら最後だと思う。
 いつも手に入れたがっているナミさんが自分から身体をおれに差し出した瞬間、途端にもうどうでも良くなる。どこに突っ込もうが、どう動こうがどう攻められようが、感じない。
 ナミさんが道具になる。
 おれの目の前で支配されたがっている。
 ルフィの前じゃそんな格好しないくせによ。
 ほんとはおれのことを支配していることを知ってる。なのに縛られたがってる。檻の中に入れてから、出てみろという。絶対に逃げられないことを知っているから。
 残酷な女。
 みっともない男。
 逃げられるくせに、逃げようとしない。檻の中が居心地いいから。
 餌の取り方忘れたケモノが芸を覚えた。
 キスと、セックスと、同情の買い方。
 感じないセックス。儀式みたいなキス。そういうジャンクフードに慣れてしまった。
 だってここにいれば、いつだって触れていられんだもんよ。



        つづく

 







0:54 01/09/26


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