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第十一回 『ΧΧΧ(トリプルエックス)アレルギー』


 「分からず屋だな、お前らは」
 ルフィが構える。初めてルフィがおれに向けて殺気を放った。
 「一応いっとくけど、サンジに手加減なんて器用な真似できねぇぞ」
 三白眼ぎみの目がすぅっと細くなり、長く息を吐く音が聞こえた。
 「手加減なんざ気にするヒマがあるんだったら自分の墓のデザインでも考えてなクソキャプテン」
 背筋がゾクゾクする。怖いんじゃないと思う。
 ただ「何か」に
 向かっていったら取り返しの付かなくなる「何か」
 多分そういう「何か」と対峙したとき
 こんな気持ちになるんだ
 …と、思う……
 おれは殺す気だった。心のどこにも勝てなくてもいいとか、手加減しようとか、負けたいとか、そんなことを考えるゆとりがなかった。ただルフィと自分の殺気に酔っていた。
 もの凄いスピードでルフィの拳が俺の顔面向かって飛んできた。
 オイオイいきなり顔面狙うか?とんでもねぇ悪党だな。
 潮風をかき分けて、鉄をもうち砕いた拳が飛んでくる。
 慌てて後ろに体を反らし、間一髪でその拳を避けた。空気が切り裂かれる音が耳のすぐ側でした。
 おれは身体を半回転だけさせて伸びた腕を掴み、思い切り自分の方へ引っ張った。限界まで水の張られている樽より重い手応えがする。とうてい年下の人間とは思えないような腕の力で逆に引っ張られて、たたらを踏んだ。
 「コックは手ェ怪我しちゃマズイんだろ?
 蹴りで来いよ、おれはサンジのパンチで死ぬほどヤワく出来てねェんだ」
 ルフィにしては珍しくからかい口調で挑発してくる。おれはそんなことはもちろん聞いちゃいない。目の前にいる障害を取り除く、それだけを考えていた。
 それ以外考えないようにしていた。
 こいつを殺す!
 こいつを殺す!
 殺す!
 殺す!
 死ね!
 おれは無我夢中で持ったままのルフィの腕を、渾身の力を込めて引っ張った。ルフィの身体がふわりと浮き、おれの方へブン!とゴムの縮まるときの音と共に飛んできた。
 その身体は闇色に光っていた。鉛のような色をしたルフィの肌には、いくつもみかんの影が映っていた。さわさわと揺れているみかんの葉の陰の中を抜けて、ルフィが反対の手で拳を作り、おれの顔面を狙って弾丸のように飛んでくる。
 左足を軸足にして
 右足を急激に振り上げる
 インパクト先には狙ったタイミング通りルフィの腹。
 左足に全ての重さを掛けて
 右足を叩き付け、そのまま振り抜く。
 両腕から一瞬にして力を抜き、耳はルフィのくぐもったうめき声だけを捕らえた。
 「ゥ!グ…ェ……っ……」
 ルフィはそのまま身体ごと吹っ飛び、船の縁で二・三度バウンドした。
 ぜいぜいと咳き込むように息を切らした自分の全身が、ひどく冷たい汗でびっしょり濡れている。汗が目の中に入って、その痛みで出た涙に薄められ、冷たい汗は二倍になって流れた。
 おれはそのままルフィの所まで駆け寄り、身体をくの字に折り曲げているルフィの首根っこを両手でひっ掴み、船の縁から半分以上押し出して聞いた。
 「悪魔の実の能力者は泳げねぇんだったよなァ……
 海に落ちて死んだら墓はいらねェか?
 10回忌の時の料理は何がいい?」
 この程度でコイツがくたばるわけがない。ほとんど無抵抗で押し通りやがって!何を企んでやがるか知らねぇが流石に海に落ちれば生き返れねぇだろう。さっさと突き落としちまうに限る。
 おれはゆっくりと手の力を抜いた。
 唇の端を切ったのだろう、ルフィは頬から耳の方に掛けて細い血の線を走らせていた。
 ぐったりと体中の力が抜けて、まるで本当に死んでいるようだ。
 気を失っていないのは分かる。何より自分の吐き出す呼吸と鼓動がうるさいほど耳に付くというのに、ルフィの息はちっとも乱れていない。
 焼けるような自分の頬に、冷たい感覚が走った。
 「胴体とサヨナラしたくなきゃルフィを下ろして。」
 ちらりと視線を走らせると、自分の頬に鈍い光を放つナイフが突きつけられていた。
 そのナイフの先には引きつった女の指。
 少し焼けた肌が続いて、それから先は視界に入りきらなかった。
 おれは自分の呼吸が断続的にぜいぜい言っているのを上の空で聞きながら、ホラな、と思っていた。
 ほら、これだ。
 予想通りだ。
 どうせそうだろうと思ったよ。
 そう来ると思ったよ。
 「…下ろすと思うか?
 なあ、おれが素直にハイそうですかと下ろすと思うか?」
 「思わないわ」
 「じゃあその物騒な物を下ろすんだな、痛みに驚いて手ェ離しちまうかも知れねェだろ?」
 「わたしがそんなこと言われてハイそうですかと下ろすと思う?」
 「……いや。」
 「素直に聞かなくてもいいから下ろすのよ。
 ルフィが何を考えてるのか、アンタがどう思っているのかなんて興味ないの。
 わたしは誰も目の前で殺させないだけよ。」
 少し、ナイフが引かれた。自分の頬に小さく鋭い痛みが走る。
 頬に汗とは少し違う液体が流れる感覚が生まれた。
 両手に力を込めてルフィの身体を引き上げ、床から数センチほど浮いた状態の身体を手放した。糸の切れた操り人形のように何の意志も感じられぬ肢体は、どさっと言う音と共に床に広がっている。
 「ルフィ、わたし行くわ。後よろしく」
 彼女は床にうつぶせになったまま物言わぬ少年にそう言うと、おれに向かって持っていた荷物を放り投げた。
 「小舟を使わせて貰うわ。今まで結構働いてきたんだもの、退職金として貰ったって文句来ないわよ」
 彼女は手際よく船尾に積まれている接岸用の小舟を出し、水面に投げ下ろした。
 「ばかは一人で十分!
 ちょうどこの近くにひとつ島があるのよ。ここからずっと西に行けばたどり着くわ。一応人間もいるみたいだし、飢えることだけはなさそうよ。
 ほら、何してるの?行かないならわたし一人で行くからね」
 オールを掴んで彼女がゆっくりと船を漕ぎだしたのを見て、おれは慌てて小舟に飛びついた。


        つづく

 



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第十二回 『今より彼方へ』


 潮騒が遠くに聞こえる。
 ベッドの上に横たわってる自分の身体。
 その身体の隣に寝そべっている彼女。
 まだ信用ならないけど、これは多分夢じゃない。
 安っぽいモーテル。取って付けたような薄暗い照明や室内の装飾がいかにも「目的はただ一つ」って感じだ。
 『でも夢だ。
 夢だった。
 今は現実。
 でもこれは“夢”じゃねぇ』

 「おれのこといじめてたのは、ルフィがおれのこと好きで、嫉妬してたからだろ?」
 “しあわせ”な
 「違うわよ!サンジが好きで、どうしようもないからよ!
 アンタが愛おしくてタマラナイからよ!」
 からだから
 「でも、対等じゃねぇだろ?」
 あなたへの“あい”があふれる
 「おれは男じゃなかったんだろ?」
 や・いやイヤいやイヤ
 「『本気にならなくていいサンジ』だったんだろ?」
 ワガママ放題することで
 「おれがいつも軽くて、テキトーで、不真面目で簡単な『サンジ』だったからだろ?」
 今日も嫌がるあなたの顔が見られるわ
 「だから『すき』なんだよな?」
 わたしに関心のある顔
 「おれは欲しくねぇよ、そんなキモチでされたキスなんか。」
 わたしがここに存在する顔
 最低な味だぜ、口が腐りそうになる。おれは吐く真似をしながらそう言い放った。
 なんてすてきな顔なんだろう
 「買いかぶらないでちょうだい……わたしはそんなに器用じゃないの。
 わたしはその顔に恋をする
 サンジに抱かれて幸せな『ナミ』を何度殺してやろうかと思ったかしら。
 たった一つのあなたの表情に恋をする
 憎しみで自分が殺せたら、あんたに一番最初に抱かれた時にわたしは死んでる。」
 初めて手に入れたわたしだけのあなた
 「ルフィを手に入れたいって望んだわたしと一緒に。」
 や・いやイヤいやイヤ
 優しさの飽和した言葉の中で窒息寸前の二人は新鮮な空気を求めて喘いでいる。
 微笑みで殴られるのなら
 「好きなの。
 自分の手に入らないルフィと、わたしに手を振り払われるサンジが」
 や・いやイヤいやイヤ
 絶望感と共にわき上がってくる呪いと罵りの殺気で、自分の身が焼かれそうだった。
 罵られて恋をしていたい
 ……ああ本当になんて女だ、なんてやつだ!!魔女だ、クソッタレだ、最低だ!!
 や・いやイヤいやイヤ
 どうしてそこまで自分をいじめるんだ、追いつめるんだ、そしてまたおれから盗んだクスリを飲むんだろう?そうやって今度は身体をいじめるんだろう?
 や・いやイヤいやイヤ……
 どうしておれの言葉にそうですと言わないんだ、そうすれば楽になれるのに!どうしてそんなに自分で全てを背負い込もうとするんだ、馬鹿め、なんて頭の足りねぇヘボイモだ!!
 や・いやイヤいやイヤ……
 言えよッおれに抱かれたって嬉しくなかったって!被害者面してわたしにはそうするしかなかったのって、それだけで済む事じゃねぇか、おれの事なんかどうでもいいだろうが!!
 や・いやイヤいやイヤ!!

 相手を憎むようなセックス、相手の身体を道具にするセックス。 自分の身体をインサートするたびに、彼女の眉が痙攣する。吐息が乱れる。おれを締め上げる。
 何かの罰のように。
 一番最初に彼女を抱いた時、誘ったのは彼女だった。
 確か酒に酔った振りをしておれにキスをした。とろけるような魔法のキス。ただそれだけで何もかも許せそうな気がした。
 ただの遊びだった。からかいと同情と親愛、そして欲求のはけ口。インスタントな愛情は最高のおもちゃ。安全で、刃物の形をした木の固まりだったから。
 愛情は進化する。
 欲望は退化する。
 肌を合わせ、自分の持てる全ての憎しみを乗せて、彼女を貫いた。
 赤く染まった頬に舌を這わせ、汗と体液でふやけた指を何度も何度も口の中に突っ込む。
 「おれのこと好きなんだろ?
 おれのこと好きならルフィなんか見るな。
 誰も見るな。おれだけを見てろよ、おれだけに話しかけて、おれだけに笑ってくれよ」
 おれだけにキスをして
 おれの料理だけ食べて
 おれの側で眠って
 言葉を掛ける度、口から放つ音に、惨めな自分が見えて隠れて情けなかった。
 腕の下で自分の重さに潰れている彼女が呟く。
 「わたしのこと、いらないの?」
 あんたの欲しがっているのは、私の形をしたお人形なのかしら?
 「……ままならない君が好きだよ」
 「上手くいかないあなたが好きだわ」
 眉をこれでもかと下げて、何かを悲しむように二人で笑った。
 身体を道具にして
 心をオモチャにして
 周りを見境無く壊して
 二人の犯罪者は微笑む。裏切り者の晩餐。陽気な悪魔は笑いと共に人を殺す。
 おれは出来るだけ丁寧にキスをした。
 ナミさんは、まるでおれを愛してやまない恋人のように囁く。
 「だいすきよ」
 溜め息と共に言葉を胸から食道、喉から舌の上、舌の先から歯の裏、そして外界へ言葉を押し出す。
 「そんなことを言う君はきらいだ」


        つづく



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第十三回 『まどいぼし』


 「これからどうするの」
 囁く声がする。隣に人が居る。手を伸ばせば暖かい肌。振り向けば柔らかい感触。
 幸せだ
 しあわせだ
 これが幸せってもんだよ。
 揺り起こされて目が覚めて、少し疲れている彼女の顔を見る。微笑んでいた。
 悪意の微塵もない場所。誰も傷付かないし、誰も傷付けない世界。
 ここには嫌な人間も敵も居ない。
 おれに同情するヤツも、気を使うヤツも、敵対するヤツも、心配するヤツも、誰もいない。
 隣にいるのは好きな人。隣にあるのは求め続けている宝物。
 でも幸せじゃない。
 心のどこかがそう言っている。こんなデマカセでデタラメなメチャクチャが続くわけねェって。
 知ってる。知ってるんだよ、ああ自分でも馬鹿なことしたなって。
 連れ去ってきた好きな人が隣にいて、でもその好きな人には相手にしてもらえない。まっすぐおれを見つめる瞳の奥に、怪物を住まわせている。その怪物は言う。
 『そこから一歩でも動いてみろ、お前を頭から飲み込んでかみ砕いて殺してやる!』
 その怪物はおれと同じ髪をして、おれと同じ目をして、おれと同じ顔をしている。
 結局、自分が恐いのか。
 何をするか分からない自分
 何が出来るか分からない自分
 何が出来ないか分からない自分
 他人にどう思われたっていいはずなのに、もう後悔している。ナミさんにどう思われたかが心配で心配で息が詰まって死にそうだ。何もかもの感覚が曖昧なのに、頭痛と呼吸のリズムが狂ったようにけたたましい。鼓動は脳味噌の中に潜伏している。耳鳴りと喉の渇きが全ての痛点を通して全身に送り込まれている。
 駄目なやつだよ、おれァ。
 大気が薄くなって身体がふわふわ浮いているみたいだ。ベッドの中は暖かで最高だけれども、虫酸が走るように居心地が悪い。めちゃくちゃな言葉を叫んで走って逃げ出したい。
 ……でも、逃げるって、どこへ?
 「これからどうするの?」
 もう一度彼女の声がした。柔らかく、何の気なしに、意味もなく、あくびをかみ殺して、面倒臭そうに、いつも通り。
 「さぁねェ……どうとでも出来るし、何でもやるさ」
 自分の声がする。遠く離れた場所から自分の声がする。ああ、なんでおれァこんなに怖がってんだ?……何が怖いんだったっけ、何が嫌なんだったっけ?
 「……うそつき……
 目が帰りたそうよ…
 …ここに来たのを後悔している顔だわ」
 見上げる彼女の顔は柔和で、昨日見た恐ろしい憑き物がぺろりとはがれ落ちたかのような安定している表情のまま、おれの顔をじっと見ている。
 「帰りたくねェよ!あんな拷問、二度とご免だッ
 あれ以上の生き地獄なんざねぇよ!あんな、あんな……どこにも出口がねェ、どこにも逃げられねェ、どうすることもできねぇ…あんなクソみたいな船、誰が帰るかッ!」
 跳ね起きて、自分の声の大きさも考えずに怒鳴り散らす。自分の身体に掛かっていたシーツの端っこだけをじっと見つめて、どこにも視線をやることが出来ずに顔を真っ赤にして、おれは必死だった。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
 もう二度と、あんな、クソ船に、もう二度と、戻りたくない。
 そうだ、二度と、二度とッ!戻る訳ねェ!!
 「うそつき」
 再び彼女が言う。安定した声で、冷静に微笑んで。
 「短い付き合いでも、少しは知ることができるわ」
 金髪に細い指が絡まる。傷だらけで、かさっとした、うるおいの少ない手。古い傷と、新しいかすり傷。そして左手を貫いている大きな傷。彼女の左手は、ほんの少しだけ障害がある。手をよく見ていると、たまに引きつっている。重い物が持てなかったり、ショックで手を引っ込めたりしている。手を握られるとほんの少し痛くて、力一杯相手の手を握り返せない臆病な手。
 その手を見ていると切ない。
 自分と同じ手を持っている。
 おれのこの手も臆病で、しっかり握り返せない。皿洗いの強い洗剤と火傷、それから昔の凍傷で荒れている。古い傷は誰の手にもある。ゾロの手にも、ウソップの手にも、ビビちゃんの手にも…クソ船長の手にも。
 辛いことばかり覚えていたら生きていけない。
 連中と大笑いした時のことをまだ覚えている。
 ……だから苦しくて死にそうになる。鼻の奥がツーンとなる。瞼の裏がじんじん熱くなる。
 そんな時はひどく誰かの側にいたくなる。
 手を伸ばしたくなる。誰かに抱いていて欲しいと思う。ここに居るよと、囁いて欲しい。
 …最低なワガママだけど。
 自分勝手だらけで、おれはおれの操縦桿をコントロール出来ない。いつも同じ調子で、同じレベルで、明るくて楽しくて料理のクソ上手ェ『サンジ』を演ることが出来ねェ。
 おれはそれを貧しいことだと思う。心が貧しい。痛みばかり気にして、大切なことをすぐ見失う。ホントウに大切なことは自分に降りかかる損益だけで、ナミさんのことも、きっと…………
 ああ考えたくねェ!!恐ろしい答えが引きずり出される前にこの思考を止めなければ!
 「もう過ぎてしまったんだもの。あの時間は取り戻せない。やり直す事なんて不可能なのよ。
 でも今からスタートすることは誰にでも出来そうじゃない?
 誰にでもやり遂げられるかどうかは、別の話だけど…さ。」
 短いオレンジ色の髪が闇にぼんやりと溶けている。そこに彼女が居るはずなのに、彼女の存在感が闇に押しつぶされそうだ。……でも、それが少し安心で、心地いい。
 ああ、ナミさんあなたには迷惑を掛けていますね。ずいぶん泣かせましたね。とても心配させましたね。あなただけは是が非でも幸せになって欲しい。何が何でも幸せになって欲しい。
 そんなことを考えている裏側で、自分の幸せばかりを願っている。自分の欲ばかり追いかけている。
 キレイゴトだ。キレイゴトだ。何もかもデマカセだ。
 「ねぇ、惑星って知ってる?……昔は星の動きがきちんと解っていなかったの。金星とか、木星とか、毎日同じ空に見えないでしょ?昨日は西にあったのに、今日は東に見えたりとか。そもそも西から東に動くし。」
 つぶやきが薄闇の中に紛れ込みながら、おれの耳に雑音を巻き込んでやってくる。
 優しい声。
 柔らかい声。
 おれに向けられた声。
 「星座とか、他の星ぼしとは違う動きをして空を惑っているみたいに昔の人には見えたのね。
 でも、仮に金星にわたし達が住んでいたら、この星が惑っているように見えた筈だわ。」
 ナミさんの声を聞きながら目を閉じると、昔を思い出す。遠いとおい昔。誰かに抱かれた時の夢。幸せだったときの夢。おれがこの世界に居なかったときの夢。知りもしない故郷の夢。遙か遠い星のまだ向こう側……
 ナミさん、ナミさん…
 あなたを抱いていると、あなたの側にいると、どうしてこんなに悲しいのか。どうしてこんなに泣けてくるのか。
 おれが惑っているように、あなたも惑っているのだろうか。
 ナミさん、ナミさん…
 おれじゃダメか
 あなたの寂しいタマシイに寄り添うことが出来ないのか
 「自分のことをメチャクチャだとか、ワガママだとか、だらしがないとか、自分勝手だとか言うけど、そんなことないわ。ただ見る位置が違うからそう見えるだけよ。
 わたし達には何が基準かなんて決まってないんだから、星と違って太陽の周りをくるくる回る必要ないのよ。……自分の罪の周りをくるくる回らなくたっていいのよ。」
 抱き合って、言葉を交わして、それでもおれ達はバラバラか?
 ……手に入らない。
 「だからそんなに泣かないで」
 彼女はおれの頬をゆっくり撫でて、涙をふき取ってくれる。
 その右手が少し引きつっているのを見て、おれは更に悲しくなった。
 自分のことしか考えていない。
 でもナミさんのことも考えてやれると思っている自分はもっと嫌だ。
 優しくしてくれる彼女がどんな気持ちだか、解らない。
 辛くしている自分が一体「何に」何を願うのか、解らない。
 解らないから、悲しい。
 解らない、君が好きだよ。
 君が好きだよ


        つづく



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第十四回 『たたかう ふたり』


 薄暗い午後三時半の曇り空の下、初めてこの島に足を下ろした海岸を二人で歩く。潮風が時折強く吹いて、バサバサ服が鳴った。
 「帰ろうか」
 ナミさんの目を見ることも出来ずに、自分勝手な決定済みの言葉を吐いた。連れてきたのはおれなのに、おれは勝手に決めて、勝手に喋る。
 おれはこんな事しかできない。
 「…どうして?……急じゃない。」
 そっぽを向いて、興味もないような口調で彼女は潮風に引っ張られるスカートの裾を押さえている。おれはその冷たいだろう手を握りしめたい欲求に襲われたけれども、怖くて動けなかった。
 「帰りたくないか?」
 風に煽られて、煙草の火がひどく燃え盛る。灰が出来上がる度に風に引き剥がされて吹き散らされ、あっという間に煙草が短くなる。おれは何度も新しい煙草に火を付け、幾分も吸っていないのに短くなった煙草を投げ捨てた。一番最初に投げ捨てた煙草がどこにあるのか、もうさっぱり分からない。
 「帰りたくない。」
 「…うそつけ」
 短く否定するおれに彼女がにやりと笑いながら「あんな生き地獄ったらないでしょ!出口も逃げる所もなくて、どうすることも出来ないクソみたいな船、帰るわけないわ、よ。」と言った。
 おれはつられてにやりと笑いながら言った。
 「ルフィのこと、好き?」
 「……まぁね。」
 居心地の悪そうな表情をして、それでもナミさんは逃げなかった。
 「おれのことは?」
 「……好きよ」
 呆れたような苦い表情をして、それでもナミさんは捨てなかった。
 「…………おれはね、それでいいと思うことにしたよ。
 またどうせ駄目になって頭がおかしくなるだろうけど、今はそれでいいやと思うことにするよ。
 今まで何度かそうしてきて何度もダメになったけど、目を閉じてもナミさんがにっこり笑っている顔が見える今は、それでいいやと思うことにする。」
 何度も手を叩かれて、いつか嫌われ尽くすまで、きみの側にいよう。
 役になんか立てなくていい。ただ側にいたいから側に居るんだ。自分のことだけを考えよう。考えても彼女の心は分からない。だからせめて願い想う。振り向いて、と。
 「いつか私の気が変わるかも知れないから?」
 少しだけ冷たくナミさんは言い放った。それが彼女の優しさ。好きになれないおれに対する優しさ。
 「おれはおれに好きだと言わないナミさんが好きだ。手に入らないナミさんが好きだよ。
 手に入らないルフィが好きなナミさんと同じだ。だからおれたち仲良く出来そうな気がしないか?
 上手くやろうや、なんとかなるさ。おれは勘がいいから分かるんだ。」
 「わたしのことなんか、何も分からないくせに。」
 拗ねたように、でもどこかに恐れと警戒心を隠した言葉をナミさんは呟く。
 「ナミさんだっておれが解らないだろ?解らないから仲良くなるのさ」
 それは祈りだ。希望だ。こうなればいいなと思う、淡い幻想だ。
 「…すてきな“まやかし”だわ」
 「おれもそう思うよ」
 風が吹く。雲も黒く重くたれ込めているけれども、雨の匂いがしない。きっと雨は降らない。明日は解らないけれども、今日、今は雨は降らない。振らないような気がする。
 「でもわたしは駄目だわ。
 あの船に帰るのが怖い。二度も裏切ったのよ、もうわたしは受け入れてもらえないかも知れない。
 ルフィのこと置いて来ちゃった…絶対…一緒にいるって言ったのに……死ぬまで一緒にいるって言った口で……」
 ルフィは怖がったりしない。何もかもに恐れを抱かない。……そういう風に見える。
 何も考えないように、何も恐れないように、何も思わないように、見える。
 本当にどうだかは解らないけれど、そういう風に見える。
 

だけどそんな訳はない。
 
 現実にルフィはおれとナミさんの関係も、ナミさんの無茶も、おれの傲慢も知っていた。
 だからおれはルフィもあの船で、目の前のナミさんのようにうずくまっているかも、と思う。
 おれはそんなルフィを可哀想だと思う。
 立ちすくんで何処にも行けなくなっているナミさんを可哀想だと思う。
 だからおれは帰らなければならない。引きずってでも、ナミさんをあの船の特等席に返さなければいけない。
 これはおれのたたかい。
 「船から出てきてまだギリギリ二日目だ。ナミさん、メリー号の位置を割り出してくれよ。こういう下らないことはさっさと謝って忘れちまうに限る。
 なぁに、あのバカのこった、すっかり忘れてやがるに決まってるさ。心配いらねェよ」
 おれはにっこり笑う。手を差し出して「雨が降る前に出よう、降ったらまた弱気になるかも知れねぇだろ?」と彼女の手を引いた。
彼女はおれの手を振り払う。
 「やめて!
 もう、アンタ滅茶苦茶じゃない!どうしろってのよ、ここに居るんでしょ!?もう戻らないからってここに来たくせに、なによ!!ワケわかんないわ!
 自分で全部決めちゃって、私は振り回されてばっかりじゃないの!
 わたしはサンジのおもちゃじゃないのよ!!何でもかんでもはいハイって言うわけないのよ!
 帰りたきゃサンジ一人で帰りなさいよ!わたしは帰らない!ここに居るのよ!
 帰れ!!サンジなんか帰れッ!!」
 叫び声と涙でべたべたにした顔が、必死になって助けてと言っているような気がした。
 ……怖いんだ、あの船に帰るのが。
 捨ててきてしまったあの船が怖いから、一緒にいてくれる誰かが欲しいのかも知れない。……一緒に、耐えてくれる誰か。
 おれは耐えない。一緒になって傷を舐めない。
 今はおれが一番いいと思うことをしたい。例え間違えていたとしても、構わない。
 恐れに立ち向かうことがおれのたたかい。
 「おれはルフィに負けねェよ。
 …どうしてあの船に帰らにゃならんのかって言うとな、よく聞いてくれよ、ナミさん。
 ナミさんはルフィと俺がしてることが一緒だって言ったよな。」
 泣きじゃくる彼女の嗚咽でおれの言葉が所々かき消される。おれは優しく彼女の髪を撫でてやりたかったけれども、おれの手は臆病で、振り払われる痛みを怖がって動いてくれない。
 「じゃあおれもルフィと同じだよな。ルフィと同じように、卑怯だよな。
 …でもあいつは逃げなかった。おれみたいに、宝物持って逃げなかったじゃねェか。
 おれはそこでルフィより負けてるんだ。いまルフィに借りがあるんだ。……これがナミさんじゃなくて良かった。ナミさんなら三倍返しだから。
 ……ナミさんは今までよく我慢してたと思うよ。おれとルフィと、ゾロと、ウソップ、ビビちゃんにも挟まれて、さ。
 だから息抜きに来たんだよ。ただそれだけじゃねェか。
 はやく帰らないと、ビビちゃんの国も心配だ。何よりあの船はナミさんがいねェとすぐ沈んじまうぜ。おれはもう大丈夫だよ。
 …………ナミのおかげだ。
 ナミのおかげで、おれはナミっていう最愛の人を助けられるかも知れないんだ。
 こんな嬉しいことが他にあるかい?」
 おれは泣きじゃくって仕方のない彼女を背負って、安っぽいモーテルに戻った。
 この避難所から自力で出てくることが彼女のたたかい。
 おれという思い通りの避難所から、自力で自分の思い通りにならないルフィの居る船に戻ること。
 それは辛いと思う。
 でもおれは側にいるよ。
                     じぶん
 …そういう言葉を掛けそうになる「避難所」が、情けなくて仕方がなかった。


        つづく

 




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