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第七回 『薄闇と隣人 T』


 「……どして、あんなこと…したの?」
 囁く声が、消え入りそうなかすれた声が、おれの胸の上でする。
 おれが呼吸をする度、オレンジ色の髪の毛が視界に少しだけ入る。
 オレンジ色の髪の毛はよく手入れされていて、さわる度に心地よくなる。シトラスの香水のような香りがする。とても微かに、とても魅力的に。
 「どうしてかな」
 空には満天の星が輝き、潮風はほんの少しだけ冷たく、火照った肌にはちょうど良かった。
 潮騒の音がする。
 久しぶりに接岸できる場所で数日過ごすことになったこの船は、本当は一刻も早く進みたいトコロなんだが、あいにく高気圧に足止めを食っている。
 ビビちゃんのイライラと焦燥感が肌に伝わってくる。空気を突き抜けて、全ての船員に突き刺さる。
 彼女は何とかそれを押しとどめようと必死になっているが、もちろん叶うはずもなく、ここで嵐の元凶が過ぎるのを待っている。
 「…わたしを抱いてるときに他のこと考えないで…」
 急にシトラスの香りが降ってきた。
 長いまつげは少し伏せがちで、そのままゆっくりとキスをされた。
 おれはみかんの香りとキスをする。
 …おれに抱かれてるときに他のこと考えないで…
 おれはみかんの香りとキスをする。
 「おれが考えられるのはナミさんのことだけさ」
 ほんの少しだけ唇を動かしてそう言葉を吐き出した。慎重に、慎重に。ゆっくりと、でも不快にならないような口調で、アイするヒトに。
 「…うそつき。」
 「嘘じゃない」
 「うそよ」
 「嘘じゃないさ」
 「うそよ」
 「…嘘なのか?」
 「………うそじゃないわ」
 「……嘘、だろ?」
 微笑み合わせて、もう一度キスをした。
 「サンジとキスすると病気になりそう」
 「恋の病?」
 「そうよ」
 間髪入れず絶妙のタイミング。微笑みも口調もまるでソレが真実かのように自然で、おれは危うく現実を見失うところだった。
 「…うそつき。」
 「………サンジだって。」
 「はは、おれたちウソツキカップル?」
 「フフフフ、そうね。」
 この微笑みが永遠におれだけのものになるのなら…他の全てのおれを動かす動力源なんかお払い箱さ。彼女のキスが全ておれに向けられると約束さるのなら…もう何も要らないし、誰にだって優しくなれる。…たぶん、自分にさえ。
 「タバコ、吸わないのね」
 唇に白く細い指が滑った。その動きがひどく挑発的でイヤラシかった。
 「…ここには煙草よりいいものが側にあるしね」
 今日、初めておれは自分からキスをする。キスをする。虫歯になりそうなくらい、甘ったるくて鬱陶しい長いキス。長いキス。
 「……煙草の代わり?」
 「煙草が代わり。」
 おれの言葉に拗ねた顔の彼女は満足そうに頷いて、高いわよと笑った。
 おいくらですかと、おれは訊いた。
 ワンピースですか?と、彼女は訊ね返した。
 「……………そりゃ、もちろん。」
 彼女が何を言いたいのか、おれは少しだけ分かってしまった。
 …なら…それが本心なら……もうあいつのこと見ないで。
 何が起こってもあいつのこと頼らないで。
 いつまでも隣にいるから。
 何があっても離さないから。
 だからあいつのこと見ないで。
 あいつの方を向かないで。
 ずっとこっち向いててくれよ。
 おれは泣きそうな顔になってそう言いたくなった。でも言っても意味ないし、ただ彼女が困るだけだから言わないでおく。……あーあ、聞き分けのいいこの身が恨めしいぜマッタク。
 「……もう、クスリ止めた方がいいわよ。体壊すもの。
 ……それともわたしよりクスリの方がずっといいわけ?」
 …………………………………………………………
 ……………………………………ざわり……………
 …………………………………………………………
 ………ざわり…………………………………………
 背筋が急に冷たくなった。
 表情が凍り付いた。
 髪の毛さえ逆立ちそうな勢いだ。
 「ゾロの野郎に言われたのか?そう言えって」
 「な、なに言ってんのよ」
 「言われたんだろ!?答えろよ!」
 「や、やだっ!ちょっとやめてよ」
 「答えろ!ゾロがそう言えって言ったンだろッ
 だからそんなこと言うんだろうが!えっ!違うか!何とか言えよ!オイ!」
 おれは彼女を無理矢理組み敷いて、手足を押さえつけて叫んだ。
 「ちっ違うわよ!みんな知ってるわ!ルフィだってウソップだって!
 知らないワケないじゃない、一緒の船で生活してるのよ!気付かない方がおかしいわよ!
 ちょっと、ホントに痛い!止めなさいよ!」
 「うるせぇ!答えろ!ゾ・ロ・が・言えって言ったンだろ!!」
 目の前が砂嵐になる。白と黒の小さな砂の粒が吹き荒れる。盛大なノイズをまき散らしながら、耳障りな叫び声を伴って、ザーザーとおれの目の前を暗く明るく交互に光る。
 「だから違うって言ってるじゃない!いい加減に離してよ!痛いって言ってるでしょぉ!!」
 「止めろ」
 ひどく冷たい声が背後からした。
 「どけ」
 短い言葉と共に、強烈な蹴りがおれの脇腹に決まった。おれの息は数瞬、確かに止まった。ソレはずいぶん長い時間のように感じた。
 …ドウッ
 船の壁に叩き付けられ、頭と全身を強かに打った。呼吸が思うように出来なくて、とぎれとぎれの吃音が口から出た。
 とても耳障りだ。
 ああ、耳障りな声。
 ひどい声をしている。
 視線の遠くには、オレンジ色が、赤色に抱きついていた。
 それが一体なんなのか、しばらくおれには分からなかった。


        つづく

 



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第八回 『薄闇と隣人 U』


 「言ったはずだぞ」
 相も変わらずいつもからは想像も付かないようなおっかねぇ声。
 「聞こえなかったか」
 脳髄とか、体を動かすことを司る器官全部が痺れて動かねぇ。自分の呼吸が正常に行われてるかさえ判らないほどの激痛。バッチリ決まったいい蹴りだった。ジジイでも誉めるかもな……あれ?何でこんなこと考えてんだおれ……
 「……あ………な、なんてことするのルフィ!」
 「うるせぇ、黙ってろ」
 月明かりが麦わら帽子の影を大きくする。影はずいぶん伸びていて、おれの鼻先まであった。銀色の月明かりがやけに眩しい。目がチカチカする。ダメージがなかなか回復しないのは、全く無防備の状態だったからだろう。
 「ナミも『サンジ』も泣かせるなって、おれは言ったぞ」
 潮騒が不自然なほどに耳に付く。薄くゆらゆら揺れている船が、間延びして変な空間を作っているみたいだ。全然知らない音楽も聞こえてくるような予感がする。
 「おれに何しようと構やしねェ。クスリでも何でも飲んでやるよ。
 お前の気が済むなら、おれの見張りの時にナミの部屋のドアに錨でも何でも置けばいい。
 ただナミを泣かすなよ。
 うちの『サンジ』を泣かすんじゃねェ!!」
 怒鳴りつけるルフィの声が、遠く遠く向こうにいる恋人の会話みたいに聞こえる。いよいよマズイ。
 げほげほ咳き込んで、自分の呼吸がやっと自分の思い通りに出来るようになった。涙が目尻に浮かぶ。
 「…っ…ハぁーッはァーっ……」
 「さ、サン…」
 誰かがおれの側に駆け寄ろうとした。声から察するとナミさん。咳き込んで、噎せて、息もままならない可哀想なおれを心配してくれたのかも知れない。
 走りだそうとする彼女を、長い影が引き留めた。
 「ここに居ろ、行くな」
 その言葉にナミさんは言葉を詰まらせ、うなだれるようにそこに留まった。
 ……へん、おれがここに居てくれって言っても、居てくれないくせに……
 「…っばァか、やろっ……ゴホッ…
 …てめっ…マジ効いたぞいまっ…の……」
 「当たり前だ。殺す気で蹴った」
 静かな夜の海に物騒な単語が霧散した。
 「ッかはっ……つっはーッはー…
 …ったく、容赦ねぇな船長殿」
 しゃっくりのように何度か空気が喉に上がってきて、それから何とか会話が出来る程度には回復した。
 「…じゃ、あ…ケホッ…どうするよ?
 …おれはこの島に残ったってかまわねぇよ。
 …言っとくがヤケクソでも思い付きでもねェぜ。いい加減テメェとはハッキリさせとかにゃならんと思ってたんだ。
 ……解りにくいかよ、つまりこういうこった。おれを選ぶか、ナミさんを選ぶか、二つに一つだ」
 おれは何もルフィが憎くて言ってるワケじゃねぇ。
 ただ、ルフィよりナミさんの方が好きだってだけで。
 男同士の友情が成立すんのは女が間に挟まれない間だけなんだよ。
 ……なァんてことを言おうかと思ったが、無駄だし言いたくなかったので止めた。
 ルフィは月を背にして黙っておれを見ている。
 ナミさんは眉間にしわを寄せて事の成り行きを見守っている。
 おれは船の壁にもたれながらやっと痛みだしてきた脇腹を抱えている。
 「ナミもお前もどこかに置いて行くわけねぇだろ。」
 ……一生懸命考えていたのは、どうやら『どちらを置いていくか』だったようだ。……ああ、こんな時までボケるんじゃねぇよ……
 「……ったく、バカかオメェ。
 航海士をいじめる性悪コックを追い出すか、航海士殿を絶対におれの手の届かない場所に…っくそ、ナミさんをおれに完璧に諦めさせるか、どっちかにしろっつってンだよ!」
 おれは遠回しな表現で自分を守るのを止めた。ルフィに伝わらねェなら意味無い。
 「………………??
 ……わからねェ、サンジはナミのこと好きなんだろ?何で諦めるとか、しなきゃならねぇんだ?」
 「……………………………………」
 あんぐりと口を開けて、白目剥いて、おれは頭が真っ白になりそうになった。
 この糞バカ。
 「あああああアホかテメェ!!いっぺん死ねッッ!!
 …ナミさんはなぁ、言いたかねェェェけどなぁ、テメェが好きなんだよ!
 テメェがナミさんの気持ちにハッキリ答えださねぇからっ!おれもナミさんも苦しいんだよボケ!!」
 ナミさんは少しだけ悲しそうな顔をして、それでも無理に微笑みながら「ちゃんと…自分で言うつもりだったのに…ひどいじゃないの、サンジ」と我慢していたらしい涙をこぼした。
 それを見て、おれはもう居ても立っても居られなくなった。
 今すぐナミさん連れてどっかに逃げてぇ。
 「お前はどうなんだよ?ナミさんのこと好きなんだろ?だから抱いたんだろ?
 おれは好きだから抱いた。どんなひどいことしようが、おれは好きでたまらねェから抱いたんだ!」
 なおも無表情で立ちつくす麦わら帽子の船長を睨み付け、雨が降る前日独特の潮風を感じていた。
 ナミさんは涙を拭いて
 気丈にも視線を逸らさない
 喧嘩をふっかけたおれが
 膝が震えるくらいにオッカネェのに
 ……さすがおれの惚れた女だぜ。
 恥ずかしくなっておれは下を向いた。何となく顔を向けるのが恥ずかしくなったんだ。
 「おれは」
 重苦しい雰囲気がルフィの重苦しい言葉でブチ破られた。
 ここにいる全員が欲している発言だ。……恐らくルフィ本人も。
 「おれは……ナミも、サンジも、同じくらい好きだ。同じくらい大切だ。戦友だ。仲間だ。」
 なっ…ちょっ…こっこいつ…っく…!!
 ばっバッカやろぉ…ッ
 ……こんなに間抜けな答えに声を出さなかったのは、とっさの事だったからじゃねェと思う。
 心のどこかでホッとしたんだ。
 安堵のため息を付いてるおれが体のどこかに確かに居たんだ。
 だから……
 だから、おれは……
 「ルフィ!!!!」
 今までで、多分一番良く通る声が響いた。
 弾かれたように顔を上げると、ナミさんは凛とした顔でルフィに顔を向けていた。
 迷いもなく、不安もなく、戦う者の顔をしていた。
 「こっち向いてルフィ。私の顔を見て」
 ゆっくりと振り向くルフィの顔に、ゾロでも避けられなさそうな高速のビンタが飛んだ。


        つづく



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第九回 『優しい動揺を二回』


 目の前の光景がとても信じられない。
 『ナミさんがルフィをぶった』
 目眩はするし、内蔵は痛ェし、冷や汗は出るし、耳鳴りはするし、もうワケがわかんねェ。
 何が起こってるんだ?何が始まったんだ?
 「わたしはっ!」
 ナミさんの声が暗がりの甲板に響く。彼女の凛とした声。彼女の少し震えた声。彼女らしからぬ感情的な声。
 「別に構わない!アンタが手に入らなくたって、そんなの関係ないわ。
 でもっ!……サンジは違うのよ!それじゃ可哀想でしょ!苦しいのよ!諦めきれないままで、生殺しで、息が出来ないのよ!」
 ……ハハン、またひどいこと言ってやがるぜこの女……可哀想だとよ、全く……とんでもねェ冷血女だ……
 ナミさんの声はぐらぐらと撹拌される脳味噌の中をしばらくハウリングして、ようやく消えた。
 でも多分これから一ヶ月くらい、またこの消えない言葉のせいでろくに眠れなくなるだろうな…
 「サンジはっ…わたしは……優しくしてあげたい。優しくしてくれるから!私のことを、こんな女を……見てくれるんだもん!」
 闇がこれほど柔らかく、ありがたいと思ったことはなかった。
 彼女の顔が見えなくてヨカッタ。あいつに顔を見られなくてヨカッタ。
 「でも、私が見て欲しいのはあんたよルフィ。あんただけなのよ。
 分からなかったなんて言わせないわ。何度も何度も言ったわ、愛してるって言ったじゃない!」
 「うん、聞いた。
 8回くらい聞いた。」
 のんびりしたいつもの声。緊張感のないテキトーな返事。
 「もっと言ったわよ!自分でも数え切れないくらい、口が腐るほど言ったわよ!」
 カナリキ声の、叫ぶようなSOS。『タスケテタスケテ……この苦しい場所から私を助け出して……』
 「でもその時、ずっとサンジのこと考えてただろ?
 おれが知らないと思ってンのか?おれはずっと知ってるぞ、ナミがサンジのこと好きな事くらい知ってる。
 好きな奴のことくらい、分かってるんだ」
 のんびりしたいつもの声。緊張感のないテキトーなセリフ。
 ……ええ?なに言ってんだルフィ、バカなこと言うなよ。期待させるようなこと言うんじゃねェバカ野郎。お前はナミさんのナンバーワンだよ、俺には座れない王座に構えてるコ憎ったらしいクソ猿だ。
 ざまぁみろ、クソッタレめ!殴られやがって。清々する。おれなんざなァ、もっともっと痛かったんだぞ、親愛の視線で殴られて、もっともっと痛かったんだぞ。
 「……ナミは欲張りだから、おれからもサンジからも『好きだ』って自分が言ったように言われ続けてなきゃ気が済まないんだ。
 お前はずっと自分だけはそういうのが足りなかったと思ってる。だからサンジに」
 「止めろクソ野郎!!黙れ!黙れッ!うるせェェェッッ!!」
 おれは恐ろしいことを言いだした船長の言葉を遮る。とても恐ろしい言葉を吐き垂れるクソ野郎の声を、あらん限りの大声でかき消した。
 「いいや黙らねェよ、オマエもナミもおれが何も知らないとでも思ってやがるのか?…そんなワケねェだろうがよ、そんな馬鹿な話があると思うか?
 でもサンジ達は、おれが何も知らなくて何も分からないと思ってやがるんだよな?じゃなきゃこんなバカな事にはならねぇだろう?
 おれがナミの瞳を見たら、いっつも曇ってる。いっつもサンジのことを考えてる。俺が視線を向けると、ナミはサンジのことを思い出すんだ。
 キスをしてもそうだ、ナミの髪を触ってもそうだ、いつもサンジの匂いがする。おれはナミに触る度にサンジのことを思い出す。こんなの拷問だろ?ヒデェじゃねぇか。…サンジだって同じはずだ。ナミに近づく度におれのことを殺してやりたいと思っただろ?どうだよ?違うか?」
 ………お…おれの知らない人間が居る……?……
 おれが知っている人間以外の「何か」が闇の奥に居る……!
 それはひどく漠然としていてて、タワゴトみたいで、適当で、どうだっていいような感覚だった。
 そういう感覚の先に、恐怖がぶら下がっている。
 『未知への恐怖』ってやつが。
 「サンジのことをカワイソウって言ったよな、でもナミがサンジにやってることが一番カワイソウだ。
 でもそのカワイソウなサンジに身体抱かせてると幸せなんだろ?好きだから。……いや、違うかな。『カワイソウなサンジに抱かれているナミ』が好きなんだ。
 ……だからサンジにセックスされても、嫌がらねぇんだ。
 おれは『ナミ』は好きだけどそんなことする奴は嫌いだ。だからおれはそんな奴抱かねぇんだ」
 抱かれてやらねぇんだと、ルフィは続けて言った。
 誰も言葉…いや、音すらも発しようとしないから。
 「好きだ好きだって言ってナミはおれのことを縛ろうとしたけど、ナミはサンジに好きだ好きだって言わせて縛ってるんだぜ」
 冷静な声。いつものルフィじゃない『男』がそこに居た。
 …ありゃ誰だ、あそこにいるのは一体誰だ?俺の知っている『ルフィ』は一体どこ消えたんだ?
 「……好き放題言ってくれるじゃないのさ、ルフィ」
 ゆっくりした声が、緩慢に闇に広がった。
 ゆらゆら、ゆらゆら
 ゆらゆら、ゆらゆら
 ゆらゆら、ゆらゆら
 ゆらゆら、ゆらゆら…
 ああ、もう止めてくれ!勘弁してくれ!頭が割れそうだ、息が止まりそうだ!!
 ああ、ああ、もう頼むから二人とも黙ってくれ。もう何も言わないでくれ、頼むから、本当に……
 「間違ってないだろ?」
 「でも合ってもないわ。
 確かにそうしたのはわたしだけど、そうさせたのはルフィよ。
 狂わせたのはアンタ。でも一番初めに狂い始めたのは一体誰かしらね?
 サンジはわたしの為にクスリを飲む。精神を壊すより先に身体が壊れそうになってる。
 ルフィはわたしのせいで悲しむ。サンジが嫌いなはず無いのにね。嫉妬してくれてるのかしら?
 わたしはサンジの好意を親愛で殴って叩きつぶす。その叩き潰された残骸でしかサンジの好意がわたしの栄養にはならないの。
 わたしはルフィが手に入らない事の意味が分からない。手を伸ばせば伸ばすほど遠くなることを、知ろうともしなかった。」
 ナミさんは大声で笑って、ああなんだ!一番クソッタレなのはわたしだわと、また大きく笑った。
 「二人とも、わたしを殺してよ。こんなに身勝手なオンナむかつくでしょ?殺したいほど憎いでしょ?殺してよ、殺してったら!二人がちょっと小突いたらわたしなんてすぐ死んじゃうわ、さぁやりなさいよ!
 今殺さなきゃこのオンナはもっとひどいことアンタ達にするわよ、分かり切ってんだから!」
 あはははははは…
 雰囲気にそぐわない笑い声がこだまする。海の上でこだまする。エコー(木の霊)も居ない海の上で、ただ彼女の声だけが木霊する。
 「ナミさん!おれはいいんだ!おれはいいんだ!
 ただ君だけが居ればそれでいいんだ、だから死ぬなんて、殺せなんて言わないでくれ!
 そんなにおれが邪魔だったらおれが死ぬ!だから、きみは、ナミさんだけは死ぬんじゃねぇよ!」
 ああ内臓が痛い、足腰が立たない、ひどく蹴られて体中がガタガタだ。くそっ、体が言うことを聞いてくれりゃ今すぐ海に飛び降りるのに!
 「ふざけんな!!」
 大きな声。一番今までで厳しい声。その声だけで気の弱い奴なら気が狂うかも知れねぇような、恐ろしい声。
 「お前らフザケンナよ!!死んで逃げんのか!!死んだら全部何とかなると思ってんのか!!ふざけんなよ、いい加減にしろ!!死んだって何にも変わりゃしねぇんだよ!まだわかんねぇのか!!
 サンジも、ナミも、生きるって事がどんなことか、死ぬって事がどんなことか、お前ら、知ってんじゃねぇのか!!」
 いい加減にしろよ、いい加減にしろよ、お前らそれは簡単な言葉じゃねぇだろうが。何度も何度もルフィはそう叫んだ。
 この馬鹿げた半狂乱の宴の幕を、なんとか引こうとしているようだった。
 おれはソレがひどく滑稽に見えて、心の底からこの船のキャプテンを哀れんだ。


        つづく



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第10回 『親愛虐待』


 「そんなに叫んだって駄目なのよ、ルフィ。
 わたしはもう疲れたわ。もう疲れちゃったのよ。」
 ナミさんは話し始める。のんびりと、ゆったりと、本当に鬱陶しそうな声で。
 一番クソッタレなバカの話よ、聞きたくないのなら耳を塞いでちょうだい。でもここから逃げ出すのは許さない。わたしをこんなにしたのはアンタ達二人なんだから。
 おれはジリジリ痛む身体をゆうっくり起きあがらせて、かなり無理矢理煙草を取り出し、更に無理矢理煙草を吸った。遠い昔に吸ったっきりになっていたような気がする。煙草の煙が肺に入ると、重く痺れる頭痛がした。
 月明かりにゆらめく形のない煙は、ゆっくりゆっくり流れていく。おれ達の間をすり抜けて、コーヒーに垂らしたミルクのように淡い螺旋を描きながら。
 「わたしはルフィが好きよ。……サンジが先に言っちゃったけどね。」
 でもルフィはわたしのことが一番じゃないんでしょう?わたしはルフィがヒエラルキーの一番てっぺんだけどルフィはそうじゃないのよねだってルフィはわたしの視線にすら気付かない。
 一気にさっさと言ってしまおうとしている彼女は、まるで暗闇に訳もなく脅える幼子のようだ。自分の言葉が怖くて仕方ないのだろう。自分が何を言おうとしているのかが、理解できる分だけ。
 「知ってるのよルフィ、もうずっと前から。」
 「何を?」
 ルフィは未だにナミさんが何を言おうとしているのかが解らないようだった。
 おれはもうだいぶん前から考えるのをやめていた。考えるのがおっくうな位そこら中が痛てェし、考え込む時間なんざないほど次から次へと新しい言葉が二人の口から飛び出す。おれは頭の中がパニックを通り越してクレイジーだった。
 「アンタの中で、わたしもサンジも……ウソップやゾロやビビ、カルーだって、本当にみんな同じだって事を」
 「……………………」
 「ああ、アンタにはもっとストレートに言った方がいいわね。
 みんな『好き』なんでしょ?
 しかもサンジやわたしと一緒なのよ。アンタもわたし達を縛り付けたがってる。側に置いてないと不安なんでしょ?……どうなの、キャプテン」
 狂った連中でも側に置いておきたいんでしょう?
 抱く価値もない女にキスするのはだからよね?
 蹴り殺したくなる男から女の意味がない女を助け出すのは不安だからだわ。
 ひどいことをする航海士から優しいコックさんを引き離そうとするのは怖いからでしょう?
 ナミさんは何度も『女』という言葉を使った。その言葉は彼女がルフィに抱かれたことがない事を、初めておれに教えた。
 「クスリとナミの言葉で狂ってるサンジと同じように、ナミはおれを縛り付けておきたくて狂ってる。
 …それはおれにも言えるって事か?」
 そうよ。ことさら突き放したように、まるで抑揚のない冷たい言葉がルフィに向かった。
 ………おれは…何となく理解した。かみ砕く余裕もなく言葉を飲み込まされて。
 ルフィは多分、おれ達よりも独占欲が強い。それは「恋」とか「愛」とかいう名前がない興味感情にまで固執するところから解る。
 そして多分ルフィはおれに嫉妬してる。…おれがルフィにそうするように。
 ……同時にナミさんにも嫉妬してる。ルフィがおれにそうするように。
 おれも、ナミさんも、本当に並列で、同じように「すき」なんだ、こいつは。
 ………………ゾッとした。
 こいつがおれのクスリを素直に飲み、嫌がりもせず抱かれるのは、おれのことが「すき」だから。
 ナミさんを抱くおれを嫌うのは、ナミさんのことが「すき」だから。
 同じなんだ
 何も変わらない
 恋とか愛とか、親愛とか友情とか、そういうものがすべて同じ鍋に入れられてぐつぐつ煮込まれてる。
 おれに刻み殺される夢も
 ナミさんの窒息しそうなキスも
 受け入れるんだ。
 『すき』だから。
 「…………そうだ」
 緊張感のぽっかり抜け落ちた言葉が闇に浮かんだ。
 「おれはお前らを縛り付けておきたいと思ってる。
 ……でも一つだけ違うところがあるぞ。
 お前らみてェに欲張りじゃねぇってことだ。」
 お前らは欲張りだよ、全部独り占めしようとして、全部手に入れようとしてる。そんなの無理だ。絶対にむりだ。だっておれ達に手は二本しかないんだから。
 両手を広げ、おれの腕は良く伸びるけどやっぱり二本しかねェだろう?と、わざわざ離れているおれに向かって言った。
 「でもおれは画期的なことを考えたぞ、手じゃ間に合わないから船に乗せることにしたんだ。
 どうだよ、こうすれば誰も逃がさねぇだろう?」
 ワガママはおれの専売特許だからな、言ってルフィは「はっはっはっは」と笑う。
 「なに笑ってんのよ!!
 じゃあアンタにだけは許されるわけ!?この船にいる全員を『好き』で、アンタのことを『好き』なわたしをいじめて、嫌いだって事も言ってくれない!!そんな奴がサンジを殴る資格なんて無いわ!!
 やってることは全く同じじゃないの!!」
 おれは何も言わなかった。おれの言いたいことは大体ナミさんが言ったし、おれが何かを言うのは実際の所、怖かった。おれは言葉を選ぶのは上手いけど、言葉を使うのは上手くないんだ。
 「同じなわけねぇじゃん。
 おれはナミやサンジを泣かす奴は、『ナミ』や『サンジ』でも許さねェだけだから」
 もしもナミがこのままサンジを殺してしまったら、おれは『ナミ』を同じように蹴り殺すつもりだった。
 そういう風にとんでもない告白をした。
 「…………ッ!!
 死ぬまで居るわよッ!ここに、狂ったアンタの側にいてあげるわよ!」
 ナミさんはもうずいぶん前から涙声になっていた。でもその涙声は怒っている。
 「でもアンタが全部わたしの物にならなきゃ駄目よルフィ。サンジなんかによそ見してたら私は手に入らないのよ!!」
 ……………………
 ……なぁんだ、そうか。
 …………だからおれをあんなに虐めてたのかよ……
 ぐるぐる回る嫉妬の連鎖。
 おれはルフィに嫉妬して
 ナミさんはおれに嫉妬して
 ルフィは二人に嫉妬して……
 いつまで経っても終わらない。ぐるぐるぐるぐる永遠に回り続けてる嫉妬の循環。
 手に入れたくて
 自分の物にしたくて
 ただそれだけの欲求のために
 わがままで最低なクソ共は
 見境もなく刃物を振り回す。
 その刃物は例えば言葉の中に隠されている。
 その刃物は或いはSEXの最中に取り出される。
 その刃物は抱き留める腕の中にだけ存在するんだ。
 抱き留められようとして手を広げ、胸の中に飛び込んだ瞬間、ぶすり!
 ブスリ!
 ブスリ!
 見境のない懐刀は血を吸う。その血さえ舐め取って生きている。
 「嫌だ。ナミもサンジもウソップもゾロもビビもカルーも、みんなおれのモンだ。誰一人離さねぇよ」
 そうだ、全員一番なんだ。お前らみんなおれのモンだ!それの何が悪い、なんで誰か一人にしなきゃならねぇんだ?みんな特別なののどこがいけねぇ!
 そう気違いが叫んだ。……ああ、多分船にいる連中全員がこの言葉を聞いているだろうな…こんなにデケェ声で叫んじゃァ、さすがの三年寝太郎も起きるだろうよ。
 安い紙煙草が、8分目まで白い灰になった。
 煙草を手のひらで握り消した。
 じゅう、と、火が潰れる音がした。
 やっと自分のセリフが頭の中に浮かんだので、早速言うことにした。言葉がのどの奥で腐ってしまう前に。
 「……おれァ決めたぜクソキャプテン。
 テメェを殺す。テメェを殺してナミさん連れて逃げる。
 もうたくさんだ。これ以上頭がおかしくなったら料理もできねぇしな。
 どっちにも決められない優柔不断野郎ならまだ救いもあるが、どっちも同じなんだろ?じゃあいつまで経ってもいがみ合わなきゃなんねェじゃねぇか。おりゃァそんなのご免だね。
 やろうぜ、殺し合いだ。得意だろ?なぁ海賊王。」


        つづく

 




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