宝島U”
コック×ミカン
……うるせぇな……
途切れ途切れに遠くで聞こえる良く知った怒鳴り声とかに揺すり起こされ、サンジは目を覚ました。時計を見ると、もう昼も2時をまわろうかという時間だというのに、いつまで経っても抜けきらない気怠さと睡魔が、外の霧と共に自分の意識を蝕んでいるような気がする。
サンジは誰かの掛けてくれた毛布を押し退けてソファから立ち上がった。少しクラクラと目眩がした。
「寝てやがったのか」
ズキズキと痛む後頭部を忌々しく思いながら、ポケットのシガーケースを探った。
「……っち、クソが」
誰かが今だけ煙草は止めておけと、霧で駄目になった奴の代わりにナミが新しく買ってくれたシガーケースを、マッチごとサンジから取り上げたのを思い出した。誰かまでは思い出せない。ナミさんだっけ?
何もかもがぼんやりとした輪郭でサンジに自分の不安を思い知らせた。
いつからだったっけ、煙草なんて吸い始めたのは。あのクソジジイは舌が鈍るからやめろってうるさかったっけな。
はっきりしない意識の中でサンジは彼らしくもなく感慨に耽り、漠然とした居心地の悪さと心のしぼんでいくような心苦しさに捕らわれていた。
「ナミさん……」
ぼそりと、掠れる声でその名を呟いた。
随分口にしていない名前のように、その音にある種の懐かしさを感じながら。
「呼んだ?」
きいっと、緊急用の窓が開いてナミが顔を出した。にっこり笑ってサンジのびっくりする顔を見ている。
「な……っ!?」
「あはは、変な顔。改めて見るときっもち悪い色ねぇ」
ナミはひょいと窓から身を踊らせて男部屋に降り立った。ぴったりと身体にフィットした長袖と長ズボンを着て、長い足が一層長くキュートに見えた。
「金髪が台無し。」
呆気にとられて動けないサンジのくすんだ金髪を、くしゃっと触ってそう言った。
「でも大丈夫よ。まぁいろいろあってね、もうすぐしたら薬が出来るからさ。今ね、ウソップが作ってくれてるの。今回はウソップに感謝しなきゃね、迷惑いっぱいかけちゃったし。ウソップが居なきゃ多分私達死んでたわよ」
微笑むナミに、サンジは上の空でただ一言「どうしておれじゃ駄目なんです?」と聞いた。まだ夢の中にいる彼には、ナミの囁く声が天使の持つ鈴の音にでも聞こえているのだろうか?
「………後二日で、サンジくんこの模様消えなくなるとこだったんだよ。
ゾロがね、命がけで薬草とか集めてくれたんだよ。
ウソップが寝ないで薬理の専門書を訳してくれたんだよ。
ルフィが……泳げないのに…小舟で近くの島にあった薬理の本を取りに行ってくれたんだよ。」
ぽろぽろと、ナミが今まで必死に抑えていた涙がこぼれ落ち、サンジの頬に涙の跡を作った。
「サンジくんの為に」
そこから先は声にならなかった。「私のせいなのに」というひきつった涙声と、軽い嗚咽だけが広い男部屋に響いては消えていく。
「おれだってルフィが嫌いな訳じゃないんだ。
ただナミさんの側にいたくて、ナミさんを独り占めしたくて」
思い出したようにときどき降り落ちてくるナミの瞳から湧き出る雫が、サンジの頬に幾筋もの涙の跡を作った。
解ってる。どんなに言ってもナミさんの心は変わらない。ただ自分のままならない心の思うままに、彼女の心を締め付け、苦しめているという事も。
それでもどうにもならない。
彼女が好きで好きでたまらない。
手に入れたくて我慢できない。
おもちゃを欲しがる聞き分けのない子供のように、サンジはナミの手を離さない。ナミの小さな手が、いとおしくてたまらない。
「辛い思いをさせてまで、辛い思いをしてまで、おれはどうしてこんなにあなたに惹かれるんだろう?」
狂っているんだろうか?自嘲気味にサンジはそう呟いた。
震えるナミは、それでもサンジの優しさと傷が。呆然と惚けるサンジは、それでも泣き続けるナミの苦しみと切なさが。互いに痛くて仕方がない。
「どうして上手く行かないんだろう?」
独り言のようにサンジは言った。本当は、サンジも泣きたかったのかも知れない。
ただ彼は泣かずに、目の前でどうしていいのか解らなくて、それでも振り払わなければならない自分の手を握りしめて泣いている、いつもは強気で生き生きとした「ナミ」を見上げていた。
目を離した次の瞬間に消えてしまいそうな、立ちすくむ小さな少女を。
*************
どうにもならない恋なら、忘れてしまった方がいいのだろうか?
報われない思いを抱えていることが誰かを傷付けるのならば、いっそ全部諦めてしまうべきなんだろうか?
サンジは自問自答する。
答えの出ない問題だと知りながら、彼はそうしなければならないような気がして、自分の中の付き合い難い問いに向かい合う。
彼女の心が手に入らない。身体をいくら抱いても彼女の視線の先にいるのはルフィ。
気がおかしくなりそうになる。
でも諦められない。
霧を抜け出して久々に太陽を拝んだゴーイングメリー号は、さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びて一直線に水面を切り裂いて進んでいた。
サンジの肌は、まだ完全には元に戻ってはいない。五日ほどは数時間おきに解毒剤を飲み続けなければならないらしい。それでも随分顔のまだら模様は落ちてきている。
「はは、たまんねぇな」
口をつい出た言葉にサンジは自分で絶望しそうになった。
報われなくてもアタックする所がおれのいいとこなのにさ、一言で何もする気にならねぇ。おれの心、死んじまったかな?
無目的に煙草を吹かし、煙が凄いスピードでその場所に置いてきぼりになる。何をしても砂を噛んでいるように実感がない。
サンジは自分のため息で窒息しそうになりながら、潮風を受けていた。彼の金髪とダブルのスーツがはためく。
「薬、飲みなさいよ」
母親のような口調で、ナミはサンジに薬を差し出した。いつの間に甲板に上がっていたのだろう?
ざわざわとみかんの木が風を受ける音と、波の音が彼女の声をかき消すように不意に大きくなった。
ナミのスカートが大きく揺れた。今日は小さなTシャツとスリットの入った少し長めのタイトスカートを着ているナミは、数個の錠剤を紙袋から取り出すと、またサンジに差し出した。
「時間だから」
その言葉の調子にひどく傷ついたサンジは、ナミの手から錠剤を受け取り、ナミの口に放り込んだ。
そのまま勢いを付けてナミの唇を奪う。
ナミの口の中にえらく苦い味が急に広がって何度かえずきそうになった。
苦しそうなナミを見て、サンジは何もかもが悲しくなって、感覚や感情がいっぺんにおかしくなるのを感じていた。クスリくさくて苦いキス。どうやっても届かない彼女の心。
ナミは苦しくてニガくて、サンジをどうにか振り解こうと懸命にもがいたが、彼はナミを離さなかった。どんなに力一杯彼を突き放そうとしても、彼はナミを離さない。
ふと、ナミは自分の頬に雫が落ちてきているのに気付いた。もがくのをやめ、彼を見ると、サンジは大粒の涙をこぼして泣いていた。
自分を突き放そうと必死になるナミ。
それでも構わない、おれは絶対にあなたを離さないから。
唇と唇がゆっくりと離れ、泣いているサンジは必死に作り笑いをして、囁いた。まるで出来れば聞かれたくないという風に。
「絶対に…振り向かせるから…」
その言葉が終わるか終わらないかの間際、不意に誰かの気配がした。
「ナミを泣かせるな」
ずいぶん厳しい声。いつもの彼ののんびりした声ではなく、敵意むき出しの恐ろしいまでの声。
「よぉ、クソゴム。そんなところで立ち聞きか?あんましよくねぇ趣味だな」
「ナミを泣かせるな」
もう一度、ルフィの厳しい声が飛んだ。
サンジは何も言わず、海に煙草を投げ捨てた。スローモーションのようにゆっくりと潮風に流されて煙草が見えなくなった。
「泣かせたくねぇよ、おれだって」
サンジはふてぶてしく、それでも挑戦するようにそう言い放った。出来ればこのまま殴り合いでもしてやりたい。そんな表情だ。
「なら、ナミをいじめるな。お前も『サンジ』をいじめるな。『サンジ』はうちの大事なコックだ」
飽和するように、敵意が全ての臨界点を突破した。サンジはつかつかと歩み寄って、ルフィの胸ぐらを掴んだ。
「おれだってナミさんや『サンジ』をいじめたくねえさ!
出来れば大事にしてやりてぇ!でもな、仕方ねぇんだよ!ナミさんが好きで好きでたまんねぇんだよ!ナミさんの全部を独り占めしてるテメェが羨ましくてたまんねぇんだよっ!!」
「だから虐めるのか!ナミも!自分も!」
ルフィは胸ぐらを掴まれながら、反対にサンジに食ってかかった。一歩も引かず、聞き分けのない彼を叱るように。
「ああそうだ!こうすることしか知らねぇんだよ!」
サンジはそう叫んで、ルフィを突き放すようにドンと押した。
「……悪ぃ、ちっと頭冷やしてくらぁ。」
サンジは苦しく重い足取りで、ゆっくりと船室のドアの向こうに消えていった。
ナミはその後ろ姿にしがみついてでも止めたい衝動に駆られたが、それで何の言葉を掛けてやれるでもなし、ただ呆然とサンジの黒いスーツがドアに遮られるのを見ていることしかできなかった。
「ナミ、泣きたくてたまらなくなったら…おれんとこに来い。」
ルフィのきっぱりした声に、ナミは大声で泣きたくなった。ああやっぱり、この人じゃなきゃ駄目だ。
「いま泣きたい」
震える肩を無理矢理押し止め、ナミは精一杯明るい声でそう言った。歪む声が変な風に潮風にかき消される。
「よし、泣け」
ナミはお日様のやわらかな匂いと、潮の香りのする少年の腕にしっかりと抱きしめられながら、声を殺しながら長い間泣いていた。
麦わらの少年は、何も言わない。
サンジはドアの後ろでナミの泣く声を聞き、思考が止まりそうになるのを無理矢理押し退けるように「ちっ、とんでもねぇ宝島だぜ」と言葉を吐き捨ててドアから離れた。
船は様々な人間のあらゆる感情を乗せて、それでもまっすぐに進んでいく。
00’2月26日
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