宝島U
コック×ミカン
「ん?ラブコックはどうした。」
きちんと整列している料理を見、ゾロはそこに当然居るはずの朝食制作責任者であるうずまきマユゲが見当たらないことを船長に聞いた。
「知らね」
素気なく言って、ルフィは銀の王冠から目を離さない。
ゾロは話の持って行き方を間違えたと、軽いため息を吐いて言い直した。
「ウソップ達は何処へ行ったんだ?ルフィ」
「…ウソップは町、ナミは部屋。……サンジはメシ作った後どっか行った」
この船で朝食がバラバラとはね…。ゾロは全員が食い終わるまでは意地でもその場を動こうとしなかったサンジを思い出して、今回のことはちょっと根が深いかもな、と思った。
「……で、ウソップは何しに町へ行ったんだ?」
椅子を引き、自分の席に座ってから自分の朝食にフォークを突き立て、ゾロはいつも通りの時間に来たことを漠然と悔やんだ。サンジがこの船に来てからというもの、食事の時間は必ず全員が揃って、やかましく騒ぎながら飯を食うのが当然だったのだ。一人で食う飯ほどまずい物はない。それが例え一流のコックの作った物であってもだ。
「調べものだって言ってた。ナミ達の顔の模様取る薬ないか探すらしい」
「ほぉー…」
少し冷めてしまっていた目玉焼きを頬張り、無理矢理流し込むようにゾロは朝食を平らげる。少し急いで。
「この霧だからなぁ、気もふさぐだろうよ」
どんよりと渦を巻く窓の外の霧は、生きとし生ける全てのものの精気を巻取るかのように、重く行き交っている。ゾロはうんざりとした表情で食器を流し台に置いた。
「ナミが部屋から出てこない」
ぽそりと、ルフィが空中をさまよう視線の先に向かってそう呟いた。
「あんなカッコなんだ、普通は恥ずかしくて……」
そこまで言ってしまってから、ゾロは彼らしくも無く自分の声が尻すぼみになって消えていくのを気まずく眺めていた。
「おれは」
ルフィの声が船室に響いた。ゾロはその声にルフィの方に向き直る。
「こんなのは嫌だ」
きっぱりとした声。静寂と鬱々とした気怠い空気を切り裂いて、ゾロの不器用な気遣いを叩き潰す言葉は、まっすぐゾロを見つめるルフィの心からの思いだった。
「おれたちは仲間だろ?」
「どうして誰も本当のことを言わないんだ?」
『誰も』というのは、恐らくナミとサンジのことを指しているのだろう。ゾロはその言葉に随分と暗く重い正体不明の“何か”を感じていた。
ルフィは続ける。何も言えないゾロに代わって。
「自分で何もかも背負っているのが辛いから、分け合うためにこうやって一緒に居るのに」
どうして上手くいかないんだろうな…、と、ゾロは心の中で低く呟いた。
低く渦巻く霧は、船の行き先を阻み、船の心を蝕んでいる。
*************
死んでしまうかも知れない。
ドウシヨウ
ウソップの言葉が何度もナミの頭の中をリフレインする。
『この毒を内服したサンジがどうなるかは正直おれにはわからん。最悪…』
目眩と吐き気と震えと頭痛、地面が急にふっと消えてしまうような感覚。恐怖と浮揚感。
不安でたまらない。
ナミが夢の中で思い出した「死」というもの。それは絶望に満ち満ちていて、そこで大好きな人が物言わぬ人形になってしまう。それが彼女にとっての「死」というもの。
「自分のせいで」
ナミは言葉が霧散していくのが解った。散りじりになった言葉は、ぐるぐると部屋の天井をまわっている。きっと消えることなくこの部屋の天井をずっとぐるぐる回り続けるだろう。
「……でも駄目なのよ」
たった一言が言えない。
たった二文字が口から出ていかない。
たった三秒間の時間が作れない。
言えない。
言いたくない。
傷つくから。
自分と、彼が。
ナミは思い出す。ウソップが自分の大切なものは偽れないと言って怒ったこと。
『大切なものは偽れない』
ホントウのココロは大切で、傷つきたくなくて、とても痛がりだから……偽れない。偽った瞬間、「ホントウのココロ」がかき消えてしまう。傷ついて死んでしまう。
大切なのに。
大切だから…
自分の気持ちを優先させて、人の心が解らない奴だって、誰かは言うかしら。
でも駄目なの。
サンジくんじゃ駄目なの。
「サンジくんが死んじゃうかも知れないってのに、優しい嘘の一つも付いてやれない……なんて奴なのかしら。まったく、自分が嫌になるわよ」
涙声で呟くナミは、それでもこの船でどんな嘘でも付きたくなかった。優しい嘘も、親切な嘘も、嘘である以上はきっと誰か傷つくことを解っているのだろう。
信頼の二文字の上に、自分たちは手をつなぎ合っている。
ナミはその事を良く知っていた。
あの連中と仲間なんだ。自分は。
自分を信じてくれた仲間のために、嘘は付かない。
別に自分はどんなに傷ついてもかまわない。だけれども、自分の信念の為に犠牲になるサンジのことを思うと、自分を好きでいてくれる優しいコックのことを思うと、身が、ココロが、鈍い音を立てて引き裂かれそうになる。
それでも嘘が付けない。嘘を付いた瞬間、『彼』への思いも、自分が今ここにいることも、サンジの優しさも、何もかも全てが嘘になるような気がした。
傲慢でもいい。誰になじられても構わない。
自分の「ホントウのココロ」を突き通す為に誰かを傷つけることだけが苦痛で仕方ない。
どうしたらいい?
どうしたらいいの?
誰に訊くことも頼ることもしない強い少女は、その弱い心を自分で抱きしめることしかできない。
*************
いつもの自分なら、こんな馬鹿なことはしない。
もーちっと上手くやれるはずだ。
治す薬を探しに行こう、ねちねちやってても始まらねぇ、血清はどんな効力なんだ、解毒作用のある薬草は無いのか、どの程度ダメージのある毒なんだ……
「……美男子が台無しだぜ、ったくよぉ」
雨風にさらされ、ぼろぼろになっている廃棄された船の中で、ヒビの入った汚い鏡の中の自分を一瞥し、薄くなったとはいえ気味の悪い模様の手を見ながらに言う。薄く力の抜けた手から、火の消えかけた煙草が滑り落ちた。
床に数十本落ちている煙草の吸殻がまた一本追加される。
カッコ悪りぃ……
声には出さず、掠れる空気にしてサンジは独りごちる。
何だ何だ、おれらしくもねぇ。たかが女一人に何を血迷ってんのかねぇ。おまけに立つ瀬無くなってこんなトコロに逃げ込むとは、全く何やってんだか。ああダセぇ。
言葉が際限なく出てくるのに、それはいつまでたっても口から出ていかずに、頭の中で死んでいく。
「……どうせならこう、もーちっとカッコ良く死にてぇなぁオイ。」
自分の身体も、自分の心も。
ナミに向かう気持ち。
どうやっても叶わない。
おれがおれである以上、とサンジは絶望的な気持ちで思った。
どんなに努力してもかなわない。
そこまで考えて、逃げるのは性に合わねぇとばかりに、ゴーイングメリー号に向かって歩き出す。
自分の背中にのしかかる重い命題が、たまらなく嫌になり、何もかも投げ出してしまいたくなった。それでもサンジは歩く。彼らしいと言えば彼らしい。
彼は逃げない。
逃げた先にあるものを知っているから。
逃げない先にあるものを知っているから。
「カッコ良く死のうぜ、サンジ」
ぼそりと、まるで戦場に向かう男のように、重いため息に似た言葉をその場に捨ててサンジは歩き出した。
数分歩いて、見慣れた船がサンジを迎える。羊の頭を型どった船長の特等席が、自分の考えている全てを汲み取ったかのように、いつも通りに微笑んでいて。
サンジはクソ重い霧を押し退けるように、麗しの姫君の船室へと足を進める。スーツに染み込んだ水分だけが、その足どりを重いものにしているのではない。
「サンジです。」
一言そういうだけで精一杯だった。その他に何を言っても不自然で、タワゴトで、いつもの軽口になるような恐ろしい気がした。
少し間をおいて、同じように他に何と言っていいか解らないナミの声がした。
「どうぞ」
その声が、ひどく震えているような変な気がした。今部屋に入ってはいけないような気がする。
それでもサンジは深く深呼吸をして、意を決したようにドアの中へ入った。
*************
そこにいるのは、いつも通りのナミ。肌の模様も殆ど取れ、近付いてよーく見れば、毒に当たったと知っている人間なら気付く程度にまで回復していた。これなら後三日もせずに完全回復するだろう。ウソップの適切な処置が功を奏したらしい。
「……ああ、良かった。ナミさんの美しいお肌が台無しにならなくて」
ほうっと安心したため息を付いて、サンジの顔がぱぁっと明るくなった。今までのような暗い雰囲気など一挙に吹き飛ばしてしまうほど、サンジはナミの回復を喜んだ。
「いやぁ、おれはもう今度ばっかりは駄目かと思いましたよ。なんたってナミさんにあんな気味悪い模様が出てるんですからね。
見た?紫と緑のまだら!全く非常識にも程がある。あんなセンスのねー模様を一瞬でもナミさんの麗しいお肌に浮かび上がらせたんですからね、おれって奴は全く、死んでも仕方ねぇっす。」
全てが最悪の方向に向かわなくていいと、誰かに許して貰えたような気がして、サンジは今まで黙っていたのが嘘のように、ベラベラと喋りだした。不安を雑音と下らないお喋りに紛れさせて、消したがるかのように。
「死ぬなんて言わないで!!」
びくっと、サンジは急に冷水を浴びさせられたかのように大きく震えた。
「……軽く……死ぬなんて言わないで」
泣きそうな声で自分を見つめるナミを、暗い船室のランプの明かりがサンジに随分小さく見せた。サンジはたまらなくなる。
「す…すいません」
「違うの、こんな事言いたいんじゃないのよ」
ソファにうなだれるように座るナミは肩を落とし、膝の上で組んだ両手に視線を落として黙り込んでしまう。
「……座っても?」
どうぞ、とサンジに向かう言葉は、明らかに涙声だ。
サンジはソファの前にある低いテーブルに腰掛け、ポケットに突っ込んでいた左手を出した。いつもすぐポケットに手を突っ込んでしまうのは彼の癖だ。行儀が悪く人を不快にさせると言って、彼を育てた男はいつも彼を叱っていた。
「おれはね」
優しく、彼女を出来る限り労るようにして、彼は話を切りだした。
「こんなに上手く行かないのは初めてで。正直、どこをどうしたらいいのか解らないんですよ」
照れ臭そうに、サンジは自分の頭の後ろを掻いた。
「今まで好きになった女の人はね、あなたとは違うんです。姿が良くてね、頭が良くて、おれに本気になったりしない人を、おれは好きになったんですよ」
憶病者だから。
そうサンジは言って、また少し照れたように言葉を切った。
ナミはそれを黙って聞いている。顔を上げる勇気が持てぬまま。
「おれはね、おれを育ててくれたジジイが居て、そのジジイの生き甲斐を取っちまったんですよ。その上に命まで助けられて……だからその恩返しがしたくて、自分の全てをそのジジイにくれてやるつもりだったんす。おれの全部を、そのジジイの夢のために使って貰うつもりだったんですよ。」
ナミはゆっくりと顔を上げ、急いで自分の持っていた毛布で涙を拭いた。こぼれるところを見せるのは、凄い失礼な気がした。
その様子をサンジは優しい表情で見ながら、また話を続けた。
「でもそれは傲慢だったのかも知れねぇって。今思うとね。
こーんなガキの時からそのジジイと一緒に居たってのに、ジジイと別れて、やっと気付いたんですからね、情けなくって…はは。」
おれの夢を、叶えろって。
ただ一言、そこまで言ってしまって、サンジは随分長い間黙ってしまった。その沈黙が重くて、しかしその沈黙の中にこそ、サンジの本当の言葉があるような気が、ナミにはしていた。
「だから、今ここに居るおれは全部が初めてなんですよ。あのレストランから出て、多分本当のおれなんです。全部自分の責任で、自分の意志で、今こうしてここに居るんです。
この、ナミさんへの気持ちも、初めておれ自身への為の、気持ちだから」
「あ、諦めたくない…し、諦めない。」
複雑に言葉を切って、絞り出すように優しい声でサンジは言った。
その言葉を出すのにものすごいパワーが必要だったのだろう。サンジは彼らしくもなく冷や汗をかいていた。
「私は……」
ナミは言う。多分、彼の優しさを壊してしまう言葉だろう事を知りながら。言わなければならない言葉を言う。彼女自身のために。目の前の彼のために。
「あなたじゃ駄目なの」
急に、自分の中から涙が湧き出てくる感覚を覚えた。全ての皮膚が痛いくらい、まるで電気を発しているかのように痺れている。
「ルフィじゃなきゃ駄目なの……」
絞り出す涙声が、それでも気丈に彼の目を見据えるナミの精いっぱいの優しさのようだった。
「あ、あんなに、ひどく裏切ったのに……まだ私と付き合おうっていうのよ…
あの馬鹿」
「私の淋しい心を抱きしめてくれたの」
「ルフィと一緒に居ると不安が消えるの」
「だから……もうルフィから離れられない」
泣きながら、震えながら、痛みをこらえながら、自分を責めながら、ナミは一生懸命になって残酷でひどい言葉を紡いだ。
サンジの優しさに応える術がないことを、彼に伝えるために。
「おれだって、あなたじゃなきゃ、駄目なのに」
サンジは自分の声が、この自分の声が、どんな言葉でも目の前の泣いている少女を泣き止ませることが出来ないことを解っているはずだったのに、口からこぼれた言葉は余りに残酷で、ひどく優しい。それが悲しかった。
ゆっくりと波と共に揺れる船室は、二人の泣き止まぬ子供たちのための揺りかごのように、絶え間なく彼らを慰めている。
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