宝島’
コック×ミカン
「もうこんな時間だとカモメは眠ってるかしら?」
ナミは自分の体重を預けている男に向かってではなく、そう訊ねた。
「…だろうね…おれ達と同じように」
男はそう言ってナミの腕に掠めるようなキスをした。
「あの二人…結局帰ってこなかったわね」
ナミはそのキスを受け止めもせず、避けもせず、ただ放っておいた。
男はそのナミの仕草を横目で見、自分の無力さに呆れた。
「おれの腕の中で他の男の話はしないで…傷ついちまうよ……」
呟きの終わらぬまま、彼はナミにもう一度口付けた。それでもナミは目も閉じず、柔らかな表情のまま凍り付いていた。
「……ふふ…傷付く?」
「付くよ、そりゃ」
「どうして?」
「おれだけ見てて欲しいから」
男はそう言ってしまってから、気まずそうな表情をした。自分の言葉が自分の好きな人間を縛り付けるということをとっさに悟ったのだろう。
「…優しいのね」
「この腕の中にいるのがナミさんだからね」
そうナミの言葉を男…サンジと呼ばれた…は聞くと、すぐにいつもの軽口を返した。ウソではないが、多分ホントウでもない。
「明日は帰ってくるかしら、あの二人」
サンジは彼女がひどくあの二人の名前を口にすることに、気怠い憂鬱を感じていた。それは嫉妬ですらなくて、ただの重い空気の塊。彼の中で名前はまだない。
「何かお宝でも抱えて?」
「ウソップは金銀財宝に興味はあるけど力がないわ。ルフィは力があるけどお宝にそれほど興味はない。
…あんまり期待しない方が傷つかないで済むわよ」
のんびり、頬杖を付きながらサンジの頬を撫でてナミは言った。
波の音と沈黙が耳に痛いから、サンジはすぐに言葉を見付けて発する。
「それは例えばナミさんからの愛も?」
ナミはその言葉を聞いて一瞬だけ驚いたような表情になり、やがでゆっくりとサンジの胸に自分の顔を埋めた。
「さあ……どうだと思う?」
*************
次の日、霧雨のような濃い霧が島全体を覆った。
殊更鬱陶しそうな顔でゾロが水滴だらけの窓の外を見た。
「まったく、ただでさえ足止め食ってるってのにこれかよ」
「この熱帯低気圧か…今の時期だと…風でも吹いてくれればー…」
「おいクソ剣士、食事中によそ見をするのは下品だって教わらなかったか」
「やかましいクソコック、オメェが夜中にごそごそしてたお陰でなぁ、繊細なおれはよく寝付かなくて寝不足なんだよ。」
「これ以上ここにって訳にも…やっぱ探しに…でも割と広いしなぁ…」
「はっ、寝不足だとよそ見すんのかい」
「おれくらい繊細だと集中力不足で注意力も散漫になるさ、どっかの食いもんと女と煙草の事しか考えてねぇクソコックとちがってな」
「…んだと?コラ」
「ちょっとうっさいわね!考え事してんだから静かにしてよ!」
ナミは自分の持っていた海図と気象データをテーブルごとバン、と叩いた。
「コック、お前おれだけじゃなく食事中にペンとフォークの両刀使いしてるこの女にも文句言えよ」
ゾロはチョイと右手に座っているナミをナイフで指した。
「素晴らしく器用ですナミさん!」
両目をハートマークにして鼻を膨らましてしまったサンジに、ゾロはこれ以上何も言うまいと口を閉じた。
「この霧が晴れるのは恐らく明後日。そしたら出発よ、じゃなきゃ少なくとももう一週間以上はこの島に閉じこめられるわ。」
「お、おい」
びっくりしたようにゾロが急に顔を上げた。
「あの二人置いてく気かよ!?」
「そうしたいけどそーゆーわけにもいかないでしょ、探さなきゃ。」
ナミは丁寧に気象データと海図を折り畳んで航海日記に挟んだ。
「さて、誰が探しにいく?最低でも一人はここに残らないとなんないわ。またこそ泥が入らないとも限らないしね」
そう言い終わって、ふとナミは自分の胸元を見た。昨日のサンジのキスがまだ微かに残っている。ナミは軽くため息を付いてシャツを上に上げた。
「いっとくが…俺は東と西の区別のつかん男だぞ」
効果音に「どーん」と派手な音が付く。
「…決まりだな」
ゾロの堂々とした情けない告白にサンジはほくそ笑んだ。
*************
「もぉ、ゾロったら自分が動くの面倒くさいからって…」
身体の傷がまだ完全に治っていないゾロに捜索を強要する気にもなれず、ナミはサンジと一緒に町の裏手にある林に分け入った。
「まぁまぁ、実はイイ奴なんですよ、あいつも。」
にこにこと嬉しそうにサンジは鬱蒼とした林の奥へと足を踏み入れ続ける。
「…都合のいい人…」
ナミはそう口走ったが、サンジにはよく聞こえなかったのだろうか。振り向きもしない。
「この辺りですかね、その、昔自称王族が流れ着いて住んでたって洞窟は」
サンジは器用にズボンに手を突っ込んだまま蹴りだけで縦横無尽に絡んで行く手を阻むツタを駆逐していく。
「もう少し北よ。地形的には都合が良さそうだけど……まぁよくもこんな所に洞窟なんて掘る気になったものね」
ナミの見上げる木々は、思い出したかのように冷たい霧のしずくを二人に落としている。
「道具を売った金物屋のオッサンが言うには、人付き合いが苦手だったみたいっすよ」
ルフィ達の姿を最後に見た金物屋の主人の話を反芻するサンジ。
「ここって島の人間でもあんまり踏み込まないって言ってたわよ」
「用がないからじゃないんすか」
サンジは口が寂しいと思いながらも、昨日風呂の屋根に起きっぱなしにしてしまった皮のシガーケースが、溶けた煙草で使い物にならなくなっていた事を歯がみした。
「キャァっ!」
鋭いナミの声が後ろから飛んだ。サンジは何事かと慌てて振り向く。
「…なっ!なに!?蛭じゃないのっ!?」
首筋に手を当て、その異物の形を探ったナミの手を、サンジは慌てて引き離した。
「ちっ!」
ナミの首筋に派手な色の蛭が吸い付いていた。樹の上から落ちてきたのだろうか?
「確か蛭って無理矢理引っ張ったら歯が残るんでしょ?」
ナミの声はひきつったように震えている。正体不明の感触に怯えているのだろう。
「くそっ、んな時に限って煙草がねぇ!」
煙草の火を押し付けて口を離したところを取るのが一番賢いやり方なのだが、マッチしか火の気のある物がない。サンジは出来ればナミの綺麗な首筋にヤケドの元を持っていきたくはなかった。
「いやぁ!痛い!」
「じっとしてて、大丈夫、すぐ取れますから」
サンジは器用に片手でマッチを擦り、その辺にあった小枝に火を付けようとする。しかしこの霧で小枝は湿っていてなかなか火が付かない。焦れば焦るほど火は付く気配を見せない。
「このクソ霧ッ!ナミさんの首筋に消えねぇ傷でも付いたらどうする!責任取るかぁ!?」
イラ付いてサンジはナミの首筋に吸い付いている平べったい蛭を睨み付けた。カラフルな色からして、毒を持っていることも考えられる。当然解毒剤なんて気の利いたものは町にまで戻らなければ手に入らない。
「…ぃしっ!」
くすぶり続けた小枝はやっと火をたたえ、サンジは素早くその火を吹き消して線香のような火を蛭の背中に押し付けた。ゴムか腐った肉の焼けるようなニオイが鼻を突き、蛭はくるっと反り返った。
「歯は残ってねぇな」
蛭を投げ捨てて踏みつけたサンジは一瞬躊躇し、ゆっくりと自分の唇をナミの首筋に持っていった。
「ひゃぁっ」
「じっとしてて」
サンジの舌は口の中に広がる鉄の味以外の味を敏感に捉えた。恐らく蛭の分泌液だろう、これに毒が混じってたらナミさんはともかく自分がアウトだなと内心思った。
血を吐き捨て、数回血を吸い出した後、サンジは涙でどろどろになったナミの顔を手で拭った。
「大丈夫、大丈夫ナミさん。」
ニッと笑ってサンジは自分の持っていたナフキンを裂いて、ナミの首に巻いた。強く巻きすぎないように、何度もまき直した。自分の手の感覚がぶれていることに気付く。
「か、変わったチョーカー…デスヨ、ナミさん」
「サンジ…?」
「ちょっと…休みましょう、か、気が抜けて…」
ふらつく足元を気丈に保って、サンジはナミを大木の根本近くに誘導しようとした。
「駄目よそっち行っちゃ!」
サンジは自分の足元に地面の感覚がなくなったことに気付くのが数瞬遅かった。耳元かどこか遠くで、ナミの悲鳴が聞こえたような気がした。サンジはこれはマジで死んだかも知れねぇと思って、気が遠くなる感覚だけを感じた。
*************
頬を、冷たい物が掠めたような気がした。
サンジは目を覚ますのがおっくうで、そのまま眠っていたかった。
誰かの声が聞こえたような気がした。
ナミの声だったかも知れない。
それでもサンジは目を開けなかった。ナミが自分をあしらうことに深い悲しみと至上の喜びを同時に感じていたからだ。
至上の喜びはナミさんのせい。
おれの心を楽しくするみかんの妖精。つれなくて、優しくて、厳しくて、可愛くて、寂しがり屋な女の子。おれの大切な人。
深い悲しみはルフィのせい。
おれはあのクソゴムに勝てねぇ。どんなに頑張ったってナミさんは振り向かない。ナミさんはいつもルフィを見ている。
いつもナミさんを見ているおれだけが知っている、絶望。
多分どんなに叫んでもナミさんはおれを見ない。
好きだと言っても
愛してると言っても
君が全てだと言っても
……ルフィのクソ野郎、オメェには負けねぇ。これだけは譲らねぇ。
テメェからいつか…かっさらってやる。
ナミさんがルフィを忘れるくらいに強く抱きしめて、ナミさんの心からテメェを追い出してやる。
ねぇナミさん、どうしておれはルフィに負けてんだ?
おれのどこがあのクソ野郎より劣るって言うんだ?
*************
「どうした、サンジ」
「…クソ野郎…」
サンジが目を覚ますと、目の前にはしゃがんで自分をしげしげと見ているルフィが居た。頭には、いつものトレードマークの麦わら帽子ではなく、重そうな銀の王冠が乗っかっていた。
その後ろには、ほっとした顔のウソップと目を真っ赤に腫らしたナミが居る。
「お前が急に降って来たのには、さすがのおれもちょっとびびった」
ルフィがそう言い終わる前に、ナミは走ってきてサンジに抱きついて泣き出した。
「これは夢か?」
夢うつつのまま、サンジは呟いた。
「生きてた…生きてたぁー………」
「しししし。夢だ、忘れろ」
ルフィはそう言ってサンジに向かってニッと笑った。その笑いを見て、またサンジは目を閉じた。
「ま、とにかくサンジを連れて行かないとな。」
言ってからウソップはナミの肩を叩いた。ナミは何度か涙をすすり上げ、立ち上がる。
「おれが!?」
嫌そうに、面倒くさそうに、王冠をかぶったルフィは言った。
「おれはお宝とナミをエスコートするという使命が…」
「いらないわよエスコートなんか。ルフィ、手伝うから…」
ナミはサンジの左腕の下に潜り込んで、彼を持ち上げる。細身とは言っても立派な青年を女一人で支えられるわけもなく、ナミは数回よろめいた。
「ナミ、お前も蛭の毒にやられてんだ。おれ一人でいい。」
ルフィはそう言うとサンジをナミから離してサンジを背負った。
「な、何で知ってるの?」
びっくりするナミを尻目に、薄暗い洞穴の奥からルフィは歩き出した。
「ししし、ここから出てサンジの顔を見たら解るさ」
「ど、どういう…」
ナミはそれに遅れをとるまいと、ウソップに支えられながら後を付いてゆく。
「ナミ、後でおれの鏡を見せてやるよ。」
軽く笑ってウソップはナミに言った。
薄暗い湿った空気が、霧のにおいに変わったのはそれから数十分経ってからのことだった。
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