水中
サンジとナミ
冷たい、と彼は思った。
突き落とされた先にあった海水は、身を切り裂くような冷さではなかったし、気温だって彼の生まれた故郷に比べると楽園のような暖かさだった。
見上げることも出来ない船の縁には、きっと氷の女王様が鋭い視線を送っていらっしゃるに違いない。
彼は頭から突き落とされ、グショリと濡れている。まるで家に帰る途中に雨に降られた少年のように、気落ちした顔のままでうつむいている。
「おれはじゃあ、どうすればいい?」
囁く声で波立つ水面に訊いてみる。しかし答えは返っては来ない。
「このまま沈めばいいか?」
再度囁く声で彼は水面に訊いてみる。やはり答えはない。
「そんなに罪か?彼女を好きなことが」
頬から滴り落ちる海水が、母なる海に還ってゆく。彼はそれを見ながら、何故、ともう一度だけつぶやいた。
その日は雨で、ただぼんやりしながら彼は食事の後片付けをしていた。
面倒くさそうに、しかし的確で手際よく動くその手をじっと彼女が視線で追いかけているので、面白いかねこんなの見ててと笑った。
「面白いわよ、家庭的でいい船ね」
彼女がにっこりと笑い、予想外の場所から彼女の手が生える。
「忘れ物よ」
自分の腰から生えた手が置き忘れたコップを差し出している。
彼は笑いながらああビックリした、何度見てもこれには驚くぜ、でもこんなに近くにあなたの手があるとは、おれは幸福だねぇと言ってその手を取ろうとしたら、スグにすいっと手が引っ込む。
「ああなんてつれねぇ手だ。おれをもてあそんで」
いーっと意地悪く舌を出して彼女を威嚇する。
「弄ばれてるのはどっちかしら」
静かな彼女の声が彼の表情を固くする。彼女はそれを見逃したりなんかせずに、そっと笑った。
「怖がりなのね。航海士さんのせいかしら?それとも元々?」
半々、かな。彼がくるりと背を向けたので彼女はかわいい人、とまたそっと笑った。
「かわいい人ってなら、あなたもさ。
割り切れねぇんだよな、あいつのこと。だからおれと寝たんだろう?
……大丈夫、おれそういうの慣れてるから。うん、ちょっと悲しかったけど、いいんだ。うれしかったから。」
それを聞いた彼女は彼女らしくもなく少し動揺していた。彼が結構冷静で、それでもあの人のように冷たくなかったから。
「泣きたかったら泣けばいいんだよ。おれ、女性の泣き顔って結構好きだし。あ、変な意味じゃなくて……
…だからその、つまり…泣き顔見せてもらえるってことは、ちょっとは信用してもらえてるってことだろう?……そのくらい、夢見てもいいよな」
だからちょっと嬉しかったよ。
彼はそう言ってからしばらく黙って片づけをした。
彼女が少し泣いているのを、背中越しで分かったから。
「ばかね……剣士さんはまだ疑ってるのに」
「それがあいつの役目だから、あんまり嫌ってやらんでくれよ。でも好きになる必要はねぇんだぜ」
おれだけでいいんだよ、うまく騙されてやるからさ。彼はそういってちょっとだけ笑う。
「おれすっげぇあのワニでぇっ嫌いなんだよねー
でもさ、なんだかんだ言って……ワニがあなたの支えになってたのは、ありがたいと思うよ。
……裏切ったり騙したり、嘘ついたり勘ぐったり……そういうのって疲れるだろう?
一人そうやってでも生きてきた人、知ってるからさ。その人は一人だったんだ。ずっと。だからおれは……いや、それはいいんだけど。
だからさ、うん。隣に…例えクソみてぇな野郎でも、居て、良かったと思うんだ。
一人って辛いしさ。
だから今度は……裏切ったり騙したりとかナシでこの船に居てくれよ。
もうそういうの、十分なんだからさ。」
こんなこと言うから、泣かしちまうんだよな。彼はそう言ってそっと彼女の側に寄り添った。
「おれはね、色々あって、もう全部言うことにしたんだ。黙ってても仕方ないし、全部言うのは卑怯かも知れねぇけど。
言わないで後悔するのにも飽きたところだしな。
この船にあなたが居ててくれると嬉しい。出来ればずっと」
彼は彼女の背中をさする。
彼女は飽きるまでお世話になるわ、と言った。
彼はせめてあの人もこのくらい素直だったら良かったのに、と思って、その考えをとめた。
仲良しなのね。
彼女がそういったので、彼はネクタイを結びながらキッチンの定位置に立った。そうしていると彼女の顔を見なくてすむ。
まぁね、キミタチには敵わないほどには。
彼は手を洗い、それから商売道具を洗浄し、口の中でぶつぶつと今日の献立を羅列した。
首筋に冷たい金属の感触。音も無く。
「……レディが嗜みで振り回すもんじゃねぇよ、それ」
彼が引きつった声をようやく搾り出したのに比べて、彼女は冷静な声で淡々と言った。
「丁寧に手入れしてるのね、古い型なのにトリガーが軽いわ。包丁を研ぐように銃も磨くのかしら?
でも無防備に腰にぶら下げるのは感心しないわね、なんかのきっかけで暴発でもしたらどうするの?こうやって暴漢に奪われたらどうするの?商売道具の管理の杜撰さは立派な職務怠慢だわ」
銃口が彼の首をゆっくり滑って、カッターシャツの上から背骨を辿って降りてゆく。
「おれの職業はコックだから職務怠慢じゃねぇと思うんだが。」
「ダメよ、ナイトなんでしょ?」
カチャリ。安全装置のはずされる音。
ギリギリギリ、カシャン。撃鉄が起こされ、バネが引き伸ばされて固定された音。
「……で、コレは一体何の劇のお稽古だい?」
「劇?
そうね……お姫様と魔女と騎士の劇よ。」
彼女が銃口を強く押し当てて、キッチンから出るように彼を促した。彼は少し躊躇したが、深呼吸もせずに大胆な足取りでささやかに滴り続ける霧雨が降るドアの外に出た。
彼女は続ける。
「お姫様と騎士が結ばれるのに嫉妬した魔女が騎士を撃ち殺す場面。騎士が撃ち殺されない道は一つしかないの。」
ゆっくりと雨でつるつる滑る階段を降り、二人は誰も居ない甲板の舳先―――とりわけ船長お気に入りの場所―――を目指す。まるで麦わらの少年がいつも腰掛けている羊を模った彫刻に引き寄せられるかのように。
彼の角度からはその舳先そのものは見えなかったが、彫刻の羊がその横たわる月の瞳をにたりと歪ませて笑ったような気がした。『地獄へようこそ』と。
「へぇ、それは後学の為に是非とも伺いたいね」
もう数歩大きく足を動かせば船首に到達する。到達すれば自分はどうなってしまうのだろうなどと、彼は考えもしていなかった。ただ魔女と騎士の話の続きが聞きたかった。
「魔女の呪いを解くために魔女から銃を奪って魔女を撃ち殺すことよ。
すると騎士に掛かってた魔法は解けて騎士は自由になれるの」
彼は目を閉じて深呼吸をした。最後になるかもしれない深呼吸を。
細く長く息を吐いて、彼は彼女に言うことにした。現実と、真実だけ。彼は神に誓ってそれだけを言おうとしたが、生憎彼は無信教者だったので取り合えず彼の師匠であり父親代わりであった男に誓うことにした。
「騎士は魔女を撃ち殺さないよ。何故なら騎士はお姫様より魔女を愛してるから」
彼女は一呼吸だけ置いて、彼の背中を蹴り、彼を丸ごと舳先の手すりの向こうへ放り出した。
水柱が盛大に上がって、彼女の洋服が水しぶきで水玉模様になった。顔につく水滴はまるで返り血のようだった。
返り血は彼女の頬を濡らし、一粒分の軌跡を頬に描いてぽたりと床に音を立てた。
21:42 2004/03/04
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