温度
ナミのはなし
人にはそれぞれ温度がある。冷たい人熱い人、沸点、活動温度、それから…頭の中の温度。
温度を変える変温動物もいれば、温度を変えない冷血動物もいる。温かさ、涼しさ。
体感温度は相対的だというけれど、ここより北の生まれの彼は、ここより東で生まれたわたしよりずっと冷たいのだろうか。なにかが。
やぁ。キッチンに入ってきたわたしに軽く会釈をして、取っ手のついた重そうな樽を彼はよいしょと掛け声かけて引っ張り上げた。
皿洗いは海水に限るね。訊いてもないのに彼はわざと聞かせる用の独り言を言う。私はテーブルに着き、頬杖つきながら黙ってそれを聞いている。彼はよく喋った。ほとんど内容の無い話だったが、わたしはそれを聞くのを煩わしいと思わないし、退屈でもない。
ねえナミさんキッチンでこんなこと聞くのは不躾だけど最近ルフィとどううまくやってる?
あらそっちこそニコに優しくしてもらってる?
やだなぁナミさんロビンちゃんとはそんなんじゃないよおれが恋してるのはいつもナミさんだけさ。
わたしは彼と二人きりになったときにだけ彼女を「ニコ」と呼ぶ。彼はそれについて何も言わない。
うまくいってると言えばそうだし、行ってないと言えばいってないわ。
難しいね。
そうよこの海みたいに想像のつかない何でもが起こりうるんだわ。
……幸せ?
シアワセ?そうねシアワセだわ、食べるものもあるし着る物もあるし寒さや暑さや夜露もしのげるし、何より身を守ってくれる連中がごろごろしてるんだもの。好きなだけ海図も描けるしね。
うんまさしくここはパラダイスだね。
そうパラダイスよ。
女神も二人いるし。
バカ言ってなさいな。
でもおれはあの地獄も良かったよ。
急に部屋の温度が下がる。二人の間の温度が急激に下がったから。
どういう意味?
今おれたちは安定しているよな、まるであの日々が消え去ったみてぇに。ルフィもウソップもチョッパーも、あげくクソ剣士までまるで何も無かったという顔をしやがる。全て忘れましたということにしましょうね、って暗黙の了解を強制してやがる。
だって今さら蒸し返したところで終わったことじゃない。
終わってない。終わってねぇんだよナミさん。
さらに温度が落ちてゆく。どんどん。肌が痛みを思い出してきた。懐かしくもおぼろげな痛み。
おれはロビンちゃんの痛さがわかるよ。おれとよく似ている傷だから。だからその傷から助けてあげたい。その傷といっしょに戦ってやりたい。…でも本当は違うんだ、そんなのは誤魔化しだ、クソッタレな欺瞞だ。おれはダメだ、ダメなんですよ、痛みが、自分の痛みがないと、まるで自分が消えてくみたいで。
怖いからわたしに依存しようっての。
違う。
違わない、あんたあたしのこと好きなんじゃないんだわ。傷ついてる自分が好きなのよ。
違う。
どこが?わたしにはわからないわよ、だってあたしを好きでいるってことは痛みを生産
ナミさん悪いけどおれはそんなに器用な人間じゃないよ。
わたしの言葉を遮って少し硬い、でも臆病な声でそう言った。
ナミさんはハチミツみたいだね。甘くて、甘くて、甘すぎて苦ぇよ。たまに通り越して舌が痛い。おれはそのハチミツの痛みが好きなんだ。決して痛いのが好きなんじゃねぇよ。
なに言ってんの、さっき自分の痛みがないと自分が消えるって言ってたじゃない。
ナミさんの甘さを通り越した痛みを自分が感じてないと生きている気がしないってことさ。
…なによそれ。
だからおれはまだナミさんのことが
やめて!聞きたくないわ!
……そうかい、ワリィ事したな。もう言わないよ。
どうして!?やっとクスリも止めて傷だってようやく治って、せっかくわたし達元に戻ったのにどうしてそんなにあんた地獄が好きなの!?
もう言わないよ。だから落ち着けって。
落ち着けですって!?あんたがこんなにしたんじゃないの!わたしを!わたしを!
まぁまぁナミさん声を落として。連中が来ちまうよ。
わたしを掘り返さないで!ようやくわたしやっと自分に折り合いつけて、わたし、わたし自分をなだめたのに、わたし、わたし
いいから落ち着けって、ほら。
体が覚えている。彼の肌の温度に心地よく鼓動が穏やかになっていくのを。ああなんてこと。体が、体が、彼にだけ反応する体が。
どう落ち着いた?
パシン。
………ってぇーなぁ…。
自分でこんなにしといて、何が落ち着いたよ、わたしだってね、こうなるのがわかってるから知らない振りしたのよ、こうなっちゃうのが分かってたから!なによ人の気も知らないで!あんたにルフィやウソップやチョッパーやゾロの気持ちなんか解んないんだわ、一生理解できないんだわ!
わかってるよ。
わかってないわ!なんにもわかってないわ!
…うん、わかってないかもね。
彼は悲しそうにそう言って情けない笑い顔を作った。わたしは泣くのに必死で、その笑い顔にさえ激昂した。
それからチョッパーが慌ててキッチンに飛び込んでくるまでの数分、わたしは高ぶる気分のままに喚き散らした。
部屋に帰って、声を殺して泣くしか出来なかった。ロビンは何も言わず、黙って隣に座っていてくれた。
それをありがたいと思い、同時にひどく嫉妬した。そんな自分に絶望さえした。
自分の頭の中がまるでストームのようだ、と思った。なんてひどい低気圧。なんてひどい温度。
23:28 2003/07/02
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