|
だきしめないで
ナミのおはなし
一人で夜、風呂に入る。
髪を洗う、身体を洗う、歯を磨きながらゆったり湯船に浸かる。
目を閉じて頭を空っぽにする。
耳の奥に響く音がまだ離れない。
波の音と水の音と自分の鼓動、歯ブラシが奥歯をこする音。
時々囁くように聞こえる誰かの声は遠い異国の言葉。
胸元を滑っていく口から垂れた歯磨き粉の泡がまるで……
「……おえっ」
歯ブラシを喉の奥に突っ込みすぎた(或いは酒を呑みすぎた翌朝の歯磨きと同じ)ように嘔吐感がする。それは何故かと言うと、嫌いだからだ。喉の奥に突き刺さる感じ、ナイフを咥えているかのように。喉元に衝きたてられている剣はわたしをいつか殺すような気がするのだ。
殺されることは構わないけど焦らされるのは大嫌いなの。焦らされている間はそいつの奴隷。もう金輪際誰の奴隷にもなりたくない。もちろんお金の奴隷にだったら金額次第でなってもいいけど。
「なんであんなの好きなのかしら信じらんない」
粘つく液体、喉に焼け付く苦さと圧迫。思い出すだけで胃がむかむかしてくる。
何故好きなのか?決まってる、自分は嘔吐感など感じはしないから。
それでもわたしは何度も嘔吐感を体験する。嘔吐感に慣れてしまうのではないだろうかと思うほど。
「調伏」感、とでも言えばいいのか、降伏、投降…言葉は何でもいいとにかく降参させること…それにひどく満足を感じる瞬間がある。恐らく文学かぶれの娼婦ならばもっと的確に表現してくれるに違いない。
全能であるとか万能であるとか、そのような錯覚が生まれるのである。間抜けなことであるとは思うのだが。
力や人間性では勝てはしないという現実がそれに更に拍車をかけているのだろうか。ぐったりうなだれる連中の顔にべったりと唾液混じりの液体を吐き垂らしてやる。大抵はもう身動き一つ取れないほど疲労しているので、荒い息を撒きながらそれを享受している。その力のない表情を嘲う為に吐き気を我慢しているといっても過言でないほどの満足なのだ。
連中、えらそうにしたってたかがこんなもの。取るに足らない、くだらない。
「べっ」
歯磨き粉の泡を吐き出す。タイルにベチャっと音を立てて吐き出された白い泡溜まりが歪みながら広がって排水溝に流れてゆく。
「……きたないな」
言葉が終わるか終わらないうちに特大の嘔吐感に襲われ、わたしは何度も吐いた。胃の中に何も無くなるまで吐き続けた。しまいに胃が痙攣しだすほど吐いてしまって、息がつまって死ぬかと思った。
あんまり苦しかったからもう二度と自分から喉の奥にナイフを突きつけるのはやめにした。
殺されるより吐き気が堪らない。
21:32 2003/05/17
| |