殺人と窃盗
ルヒとナミ
ある日は雨で、部屋で海図を描いていたナミと、全員が港町に出たのにも気づかずにグーグー寝ていたルフィだけが、甲板をたたく小さな白波に閉じ込められていた。
ルフィはしばらくして異変に気づいたのか、寝ぼけ眼でナミの部屋にやってきた。
「みんな、どこ行ったんだ?」
ナミはあきれた顔をして振り向きもせず「おはようバカ船長、みんな港町に買出しのお仕事よ」と羽根ペンを休めない。
それからずっと雨の音だけが聞こえていて、ルフィは無言でソファに腰掛けてぼんやりとテーブルに載っている灰皿を見ていた。灰皿に載っているタバコには、口紅の跡がほんの少しもついていない。ナミの色も、ロビンの色も。
それを飽きることなく眺めていたルフィは珍しく彼から口を開く。
次の島はどんな所だ?
さてね、わたしが聞きたいわ。
どんなヤツがいるのかなー
願わくば有能な税理士が居ますように。
こんどこそ音楽家だな、キレイな声の。
アンタまだそんなこと言ってんの、暢気な賞金首もあったもんね。
そう、ナミがいちいち文句とも突込みともつかないことを言うので、ルフィはそれからしばらく口を尖らせたまま黙ってしまった。
ナミはそれに気を良くして海図を描くのに専念している。
ナミは思う。海図を描いていると、何もかも忘れられていい、と。それはサンジとするセックスに似ている。集中できる。愛や憎に気を取られなくてすむ。ただ集中できる。それはとてもひどいと思う。しかしナミはそれでもいいと思っていた。同じ分だけ二人が血を流せば、同じ分だけ二人の傷が塞がるような気がした。
雨の音が不意に強くなる。ザァザァ。
風が出てきたわ、この調子ならウソップ達今日帰って来れないかもね。お金渡しておいたから、まぁ勝手に宿でも取るでしょうけど。
これは独り言でござい、という風にわざと滑舌よくつぶやいたナミは、背中でルフィが席を立つのを感じた。
風が軽く起こり、影がゆっくりと動いて、ナミはよく知る匂いが自分にかぶさったのを確かめるように、ゆっくりと振り向いて手を伸ばした。その手をすり抜けるように赤いベストが胸にもたれかかって来た。
ナミは呟く。
「……どうしたの。」
ルフィは囁く。
「……なんでもねぇ……」
ナミが呟く。
「……そう。」
雨の音が強く、静かに、鳴っている。
長い時間が過ぎる。
夢のような時間。
悪夢。
不意にルフィの右手がナミの胸に添えられ、ルフィは無意識で少し力を込めた。
ナミはまゆ一つ動かさずにその痛みを無視した。
ルフィは何度か口を微かに動かしてナミに何かを訴えようとしたが、ナミは気付かず、かといってルフィも声に出す気などないようだった。
肩で震える微かな温かい吐息に、ナミは静かにまぶたを閉じた。
初めてだ、と彼女は思った。
ルフィが自分にもたれかかる事などありえないと思っていた。でも彼は今ここに居る。この温かさが冷えて薄れてしまっても、この重みは偽物ではない。ナミはそれを嬉しく思う自分を頭の中で何度も、何度も、思いつく限り殺した。表情は動かない。鼓動は正常。息も乱れず。そして平常。
かといっていつもの軽口が出ることもない。かといって微動だに出来ないわけじゃない。
ナミは頭の中で呟く。ほら、平気だ、と。
ルフィはただナミの首筋に唇をやり、そこで息を殺しながらじっとナミを抱いていた。背中に回す手に、ほんの少し勇気が足りない。だからナミの手が自分の肩に回されてもじっとしていた。
雨の音が遠く近く静かに振り落ちてくる。
二人は長い間そうしていた。
どちらともそれ以上動きもしなかったし、動こうともしなかった。
ルフィはそのまま眠ってしまい、ナミはあきれながらも目を閉じた。
微かなルフィの汗のにおいと、船底にまで押し寄せる海の雨の匂いが入り混じって、ひどく懐かしくて物悲しい気持ちになった。ナミは充電を始める自分の瞼を大層重く感じた。瞼を開くと涙がこぼれそうで微動だにできなかった。
どうして?ルフィ。
そう問いかける自分自身にも、なにを問いかけたいのか、なにを答えて欲しいのか、分からない。でもナミは何故かそうしなくてはならないような気がしたのだ。この男に、問いかけねばならないような気がした。そして、答えさせねばならないような、気が。
ルフィの髪が不意にふわっとナミの鼻先をくすぐった。
ナミの首筋で、ルフィが囁いた。
ほんの小さな声で、小さな声で。
「ナミはおれのこと好きだろう」
問いかけですらなく、それは断定。言葉尻だけがかろうじて疑問の形をしている。
ルフィは自分の声が震えているとは思わなかった。実際少しも震えてはいなかったし、小さな呟きだったので仮に震えていても誰にも分かるまい。
それでもルフィは自分の声が震えているとは思わなかった。
だがナミの返事がしばらくしてもついに返ってこなかったのには、少なからず動揺を覚えた。
そして結局、ルフィがゆっくり諦め顔で体を離すまで、ナミは一言も言葉を発しなかった。
ルフィがナミの顔を覗き込むと、ナミはよそ行きの笑顔でにっこりと微笑んで見せた。
魔女だ、とルフィが笑った。
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