異常の国
サンジのはなし
浜を歩いていると
打ち上げられたクラゲをみつけた。
透明で、たよりない。
「死体」というにはあまりに無機質な感じ。
打ち上げられた浜は
ゴミだの海藻だのがウヨウヨしていて
お世辞にもあんましキレイなものじゃない。
……まぁ海なんてリゾートビーチでもない限り
大抵こんなモンなんだが
一生の半分以上を海上で過ごしているおれには
意外な気さえする。
浜の香りというのは
海の香りと違って
はっきりと「生」と「死」の匂いがする。
島に生まれて島で生きていたナミさんは
「そんなの気にするなんて変なの」
といったけれど、おれはセンチメンタルなんだろうか?
浜にはよく死体が上がる。
数日前フラフラしていた仔猫。
どこかで人生に絶望した浮浪者。
傷を負って港に逃げ込んできた魚。
そういうのが腐って
すさまじい匂いがする。
…浜の匂いは嫌いじゃない。
おれの使う毛布とよく似てる。
まな板の上に載った頼りない死体。
よく観察する。
水を含みすぎていてブヨブヨで、かといってまったく話にならないほどではない弾力感。
生きている。生きていた。確かに。
よく砥いだ刺身包丁をゆっくり差し入れる。
黒金の尖った刃先が透明な肉を侵食してゆく。
ゆっくり透明な血が流れる。これは水じゃない、きっと血だ。
おれにはわかる……気がする。
透明なゼリー状の内臓がこぼれる。
どれが何なのか検討もつかない。
ただ、内蔵だというだけがわかる。
切り分ける。最初は4分割。次に8分割。
どんどん細切れになっていく透明な死体。
包丁が音もなく侵食する。
透明な死体は
透明な肉となり
最後に透明な血溜まりになった。
臭いはただ潮の香り。
生と死の混じった、母親の臭い。
まな板は水びたし。床にも、服にも、もちろん手のひらにも。
しばらくすると手が鈍く痺れてきた。
透明な死体が隠し持っていた毒だろうか。
生きるために持っている毒。
こいつらが生きるには「生き延びる」という理由しか要らない。
肌がビリビリと電気を持ったように鈍く痺れる。
誰かがおれの背中を見て言った。
「まな板洗って……何か作るのか?」
透明の血は、他人から見ればただの水で
どんなに流したって、誰にも“見え”ない。
粉々になってしまった肉片さえ
ただの氷の粒に見えてしまう。
……もしも……
もしも、この頼りない死体のように
おれが
粉々に
なったら
……誰か気づいておれの名を思い出すだろうか……
そこまで思って、ナミさんの名が出なかった自分の脳を
ほんの少しだけ
誇らしく思った。
透明な血に溺れた羽虫を見ていた。
死体が透明でも食い物にせんと集まる連中というのはいるらしい。
巨大なリサイクルプラント・大自然に乾杯だコノヤロウ。
羽虫はぴくぴく動きながらなんとか脱出を試みている。
透明な血から。
自分より巨大な表面張力。
まるで強力な接着剤のよう。
決してそこから抜け出せない。そう、世界が、既に出来ている。
おれがそう作ったわけじゃない。もう、世界が、既に出来ていた。
目を閉じて想像する。
哀れで幸福な、無色の血に溺れる自分の映像を。
それはまるで海のようで、いくらもがいたって体は宙に浮いたようで。
ごぼごぼという音だけを拾う耳、塩辛い水が浸入してくる口、真っ白と真っ青と真っ黒が交互に交錯する目。
しばらくすると体力も気力も尽きて、静かに沈んでゆく。
底へ、底へ。
視線はぼんやり輝く不気味で非情な太陽に釘付けられたまま。
そのうち水圧がかかり過ぎて胸が潰されて、のっぺりしたただの肉の塊になって。
それでもまだ視線だけはきっちり太陽を捉え。
どんどん水温が低くなって、ついに太陽の光すら届かないような深海に到達する。
そこは本当に真っ暗で、実に静かで、絶望的なほど水圧がかかっている。
ゆっくりと海の底に降り立つと、いびつな肉の球と化した体に何かが触れた。
細かい、プランクトンの死骸。
ふと視線をあげると、何千何万という数の死骸が
まるで降り積もる雪のように後から後から沈んでくる。
ゆっくりゆっくり確実に無目的に、でも迷いなく、ユラユラと。
その死体は本当に細やかでそっけなく、綺麗だと思った。
大量の白い死体を
きれいだと思った。
ナミさんはおれにキスをしたから
おれはナミさんにキスをしたんだ
するとナミさんがにっこり笑ったので
おれは悲しそうににっこり笑ってみた
眉をひそめ、それでも強力なナミさんの幸せの放射能に汚染されて笑う。
無理矢理笑わされているわけじゃない。
でもこの笑い顔は不自然で、歪な気がする。
ナミさんが何かを囁く。それはひどく幸福で排他的な内容で、おれにとってはクソみたいなもんだった。
だから…まぁ、つまりルフィの話。
ナミさんはおれの前でよくルフィの話をする。
何故そうするのか、まだおれにはよく分からない。
(どうも嫉妬を煽っているわけでも悪女を気取っているわけでもなさそうなのだ)
ただ、その時ナミさんは怒っていたり楽しそうだったり悲しそうだったり、嬉しそうだったりする。
おれは黙って、ふんふん、と頷きながら話を聞く。
愚痴だったり、自慢だったり、叱咤だったり、自己嫌悪だったりするその話を。
そのクソみてぇな話を。
横暴な女、と口の中で独りごちてみても特に世界は変わらない。
彼女はそのことをちゃんと知っている。
だからといっておれに優しかったりすることなんかはないんだけれど。
いや、彼女がおれに優しくなかったと言っているわけじゃない。
優しい。彼女はいつでもおれに優しい。
おれが寂しくて気が狂いそうになったときには必ずおれを抱いていてくれるし、作り作ったみっともない意地悪でさえ受け入れてくださる。
そして囁く。
「愛しているわ、サンジ」
それがおれの発狂の理由だ。
絶望的だろう?
キスしたくて。理由はそれだけでいい。
セックスしたくて。それだけで通用する。
殺してみたくて。
もしかしたらそれでも彼女はにっこり笑うんじゃないだろうか。
おれはそれを幸せだと思う、そして恐ろしくて仕方がない。
こう思うことを、おれは卑怯だ、と思う。
ナミさんがおれに言う。
クラゲが漂う
「ばかね、そんなわけないでしょ」
クラゲがナミに漂う
「あんたなんか、要らなくなったらすぐにポイよ」
クラゲが波に漂う
「わたしがこうしているのは今わたしに必要だから」
クラゲが夕凪に漂う
「あんたといると、楽しいから」
クラゲが光に漂う
「あんたの為に気を使ったり、無理したり、意地を張ったりするわけないでしょ」
クラゲが無重力に漂う
「そんな必要ないもの」
クラゲが自意識に漂う
「だからわたしのこと見るなら、ちゃんと見てよ」
クラゲが刃物の海に漂う
「美化されたそんな女あんたの目の前には居ないわ」
クラゲが刃に漂う
「ちゃんと見て、怖くても嫌でも、わたしを見るならちゃんと見て」
クラゲが血に漂う
「わたし生きてる人間なのよ」
クラゲの死体が漂う
クラゲの血は透明で、たゆたう空中からぽたぽた滴り落ちる。
クラゲの血は透明で、それでもうっすらぼんやりと温かかった。
クラゲの血は透明で、その死体すら、頼りない。
目を閉じる。
押し出された血が、滴り落ちた。
ナミさんが言う。
「……サンジが居てよかったわ。
わたしが泣きたいとき、代わりに泣いてくれるんだもん」
その声を遠くに聞きながら
降り積もる細やかな白い死体を、綺麗だと思った。
綺麗だと、思った。
クソッタレ。
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