カイリ
11月11日+3月2日
その日は雨だった。
鬱陶しくはなく、東の空が悠々と輝いているなかなかの絶景であった。
男は飴のように銀色の指輪を舐めていた。その銀色の指輪は所々鉛色になっていて、あまり美しくはなかったが、デザインがシンプルな洒落た感じが女性には受けるだろう。
「みみ見ろよ、空がキレ、イ…じゃねぇかか、かよ」
金髪の男がけだるそうに呂律の回らない口調で言った。
薄目を開けて、疲れたように右耳に同じデザインの金細工ピアスを三つした男は
「うるせぇ」
と、一言漏らしただけで後は無言になった。
金髪の男は銀色の指輪を舌の上で転がしながら空を見ていた。
風に少しくたびれたストライプのYシャツが遊ばれる。
ピアスの男は、先ほどから金髪の男が口の中で転がしている銀色の指輪が、時々歯に当たっては"カチカチ"と音を立てるのが気に入らなかった。
彼がもたれているメインマストは、時々風に揺れた。朝早く、こんなに朝早く、自分は一体何をしているのだろうかと、ピアスの男…ゾロ…は無性に腹立たしくなった。
金髪の男は相変わらずゾロのことなど気にもとめずに銀色の指輪を機嫌良く舐めていた。
「そのうるせェ指輪、さっさと捨てちまえ」
ゾロはそう金髪の男…サンジ…に言った。
サンジはゆっくりとゾロの方を向いた。
「お…おれにッ意見するん、じゃねぇよッ!」
ゾロはふわふわと漂ったままの"帰ってこない"サンジを見て、すっと頬に手を当てた。
「意見じゃねェ、命令だ。…捨てろ」
頬を強く掴まれたサンジはすっと表情が変わり、脅えるように「チッ、わわかったよ」と口から銀色の指輪を取り出した。
「捨てろ」
「いいイヤダ」
「捨てるんだ」
「こ…コレがねぇと…」
「聞こえねェのか、捨てろ」
「だだ、誰がッ…て、テメェのっ」
「死にてェのか」
ゾロは頬に当てていた右手に力を込めた。本当に小さく、肉がきしむ音がサンジにだけ聞こえた。
「捨てねェ」
サンジは半ば自棄になりながらも、左手に握っていた銀色の指輪を離さなかった。
「いい加減にしろよ、オメェ……」
「こ、コレはななぁ…ナミさん、の、部屋にあったたんだよ」
「知るか」
また少し、ゾロは右手に力を込めた。サンジは掴まれているのが頬で良かったと思った。首ならば、声を出すこともなく指輪を取り上げられているに違いない。
「ななナミさんは、はなぁ…おれが、嫌いなんだよ」
「………………」
「おれが、おれが触れるのののは…これだけけなんだよ」
「そんなバッタモンの指輪なんざ、あの女は一度もはめてねェよ」
ゆっくりと、右手の力をゾロは抜いた。サンジの肌が指の形に赤く充血していた。
「だ、だからいいいいんじゃねェ、かよ」
つぅと、細い唾液がサンジの唇の端から垂れ下がった。
その唾液はとてもネバネバしているのか、長い滴りはなかなか消えることがなかった。
それを見てゾロは、この不憫な男を救うのは一体誰なのだろうかと考え、おそらくこの男の想い慕う女でも、自分でもないだろうと思った。
「お前、クスリそろそろ止めたらどうだ」
空を仰いで、美しい朝焼けと金色に輝く雨粒の軌跡に向かってため息を付いた。
「ひひひ、おオメェのぎぎギャグの中、でッ…最低だっ……ぞ
サイテイダ、さいていだ……おれかかから。くックスリととったら!なにも、ねェ」
ブツブツ呟くようにサンジは銀色の指輪を強く握りしめた。自分の声が思うように出ないことに苛立っているようだったが、ゾロは何も言わずに黙って聞いていた。
「おれ、おれは、ここにいるか?ココに居るか?……いいない、ここにいない。おれは居ない。
ここにいるのは、はなぁ…ただの、亡霊。ぼうレい、だ、だ。ぞ」
『おれは殺されたんだ、ルフィに』
ある日、呆然としたサンジはそう言って闇の中で忍び笑いをした。
『殺されたかった。おれは殺されたかったんだ、わかるか剣士』
何もかもがドロドロに溶けた混沌の闇の中に、サンジの笑い声だけが浮かんでいたことをゾロは覚えていた。
ゾロはその時、ああこの男はこの先どうなるのだろうかと、初めて心から哀れに思った。
「…そうだ、お前は亡霊だったな。」
「そそそうううだ。わ、忘れるなよ剣士、わすれ…な。剣士、」
「亡霊はクスリをやるのか?」
「そそそううだ、そ……空に。浮かぶためには・羽がひと対、要るが…おれにはないい、からクスリで、ととと飛ぶのささ、たたまに。浮かぶ。今も、浮かんでいる」
空に。
サンジはそう空中を指さした。その指の先にはみかんの木があった。"サンジ"はどうやら『みかんの木の上を漂っている』らしい。
「ああ、見えるぜ。確かにいる。オメェだ」
「そ、そうか、見えるか。」
「見える。おめェは、見えねぇのか?……あ、テメェはアソコに居るんだったな」
「ああ、ああ、でもおれは見えない。何も見えない」
サンジは急にゾロの首根っこをつかんで何度か揺すった。
「おお、おれはアソコに、いいいるのか!?あ、そこ、そこににッ!居るのか、いるんだな?」
サンジの視線は完全に別の方向を向いていたが、ゾロはしっかりとサンジの目を見て「ああそうだ、あそこに居るじゃねぇか。見えるだろ?」とみかんの木の上を指さした。
「みみみ、見える。おれは、居るさ!こここに、も。居るとも!ははは、居るんだだだ」
一度もみかんの木を振り返らずにサンジはゾロの服を掴んだままそうわめき散らした。
「お前はナミの隣に居るんだなァ…
振り払われても、同情されても、懲りずに隣に行くんだな」
今のサンジにその言葉が解ったのか解らなかったのか、ゾロには解らなかったが、一瞬だけ酒にもクスリにも酔っていないサンジが"帰ってきた"のかと思うほど、真剣な顔のサンジが現れた。
「そそそう、だ!おれ。おれは、ナミミミさんの、隣に。トななナリに、あの、寂しいタマシイいいい……寄り添う、片割れ…いいか、いいか剣士?いいか、寂しい。ナミさんの…の、とっトナリ…に…居たい、のは…海賊、をう、はッ無理。だッ……」
サンジが何を言おうとしているのかはほとんど解らなかったが、ゾロは軽くうなずきながらそのコソコソと叫ばれる言葉を聞いていた。切り離されてバラバラになった意味を持たぬ言葉は、まるでサンジ自身のようだと思った。
「そうだな、コック。そうだ、その通りだ。ルフィじゃ無理だ」
「そうう、無理ッ…!ナミミミミ、さんは!?ナミさんは、いい女だだだだろ。くくくくく、首がいい、首だ。いい匂い、する……」
安心するんだと、サンジは呟いて気を失った。
ひどく汗をかいていて、その汗は何とも形容しがたい独特の匂いがした。サンジの足下には、あれほど離すのを嫌がった銀色の指輪が落ちていた。
「…クスリ…塗ってやがる」
錆かと思っていた鉛色の部分は、焦げのように何かのクスリがこびり付いていた。それはひどく刺激のするにおいで、触れただけで匂いが解るほどだった。
「こんなにズタズタになっても欲しい程いい女かねぇ、あいつが」
その指輪の裏側には、微かにナミ、とサンジの字で彫ってあった。
「……けっ、少女趣味な…」
ゾロはその指輪を握りしめた。
くきり、微かな音がしてその指輪はくにゃっと楕円形にひん曲がっていた。
何の約束事も背負っていないただの銀色の針金になった。
"ただの銀色の針金"を手のひらで数回転がしたゾロは、手のひらがじきに熱を持ってきたのを悟ると、あわてて"かつて指輪だった物"を投げた。
期待した金属音は聞こえなかった。
たぶん、土の上に落ちたのだろう。
『狙った通り』に。
さわさわと木々の揺れる音がする。霧のように細かな雨が葉を叩いているのだ。
そういえばサンジの髪からしたしたと水滴が落ちていた。
目をやると、サンジは荒い息をしながら眠っていた。…クスリをやったまま眠るサンジの異常な寝息に驚かなくなってしばらく経つ。ゾロはこんなふうに"異常"に慣れていくんだろうかと、目を細めた。
鼻先にからみつくサンジの匂いを確かめるように、サンジの手を持ち上げて嗅いだ。
どこか別の場所でしていた匂いに気づいた。
タバコのにおいじゃねェ、こりゃ、麦藁の匂いだ。
「……いっそのことおれに惚れりゃ良かったのにな、オマエ」
そしたらオマエのことちゃんと…これ以上ねぇくれェ嫌ってやるぜ。ゾロはその言葉を飲み込んで、いつものつまらなさそうな顔に戻った。すくりと立ち上がる。
まるで野垂れ死んだ浮浪者のようなめちゃくちゃな体勢で横たわる金髪のコックを一瞥し、一度は船室へのドアを一人でくぐろうとしたが、面倒臭そうにサンジの足を持ってズルズルと引きずって船室に入った。
雨はしとしとと静かに降っている。
太陽光線が燦々と降り注いでいる。
二人の見張りは長い夢を見ることにしたらしい。
数度物音が聞こえた後、すっかり静かになった船は西に進んでいる。
針路を確認する者も居ないまま、ただ風に従って西に進んでいる。
導かれもせず西に進んでいる。
幽霊船のように、ただ風に従って流されるままに。
題の意味:辞書でいろいろな漢字を当てはめてください。
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