strange day's
サンジとナミ
「ナ〜ミさん」
猫なで声。
「そんなつまんねェ顔してないでさぁ、こっち来て海でも眺めよーぜー」
手には銀のナイフ。そして見知らぬ黄色の果物。
金の髪が窓の外を流れている。
目の前の紙の上には何度もインクが乗った跡。計算式と、箇条書きの単語と、簡単な説明文。いくつもいくつも書き足されていて、少し目を逸らしたらもう自分が何を書いたのかも分からなくなりそうなくらい書き込まれた紙。
手には愛用の青インクが所々にひっかかっている。羽根ペンの先もずいぶん太くなった。
「ええ、後でね」
すぐに思い直してまた計算を始める。
船の位置を正確に割り出す。毎日観測している気象データの整理をして、気候予測を立てる。進路を決める。
この船を安全かつスピーディに目的地へ導くのがわたしの仕事。
この仕事には誇りを持っている。
絶対に誰にも負けない自信がある。……いや、負けたくない。
『誰にも』負けない。それが例え暴風雨でも、無風地帯でも。
わたしをこの船を導く女神だと、ある男は言った。わたしは女神ではない。航海士だ。観察と把握と予測、そして勘とセンスでこの船の針路を司るエキスパートだ。女神じゃない。専門家と言って貰いたい。
全身で感じ取る。風も、雨も、潮も。
わたし自身が温度計であり湿度計であり磁石であり気圧計なのだ。
……そういう意味では『女神』と評されるのも悪くない。
この船には行く先を守護する女神が付いていて、だからこの船は迷わないし、嵐さえ怖くない。
そう言われればわたしは素直に胸を張るのだけれども。
「そんなつれないナミさんもステキだ」
「仕事の邪魔しないで」
「いつも部屋でするくせに。今日はどうしてキッチンでする気になったんだ?
おれに構って欲しかったんだろ?」
ぼんやりと彼の吐く息が甘ったるくて生温い。
耳の側で霧散する声がとても気持ち悪かった。いつものサンジじゃない。
「……アンタまたクスリやってるわね」
「クスリ?おれは何かの病気かい?ああ、確かに恋の病気だ、これは是非お医者様にステキなキスを処方しぶっ!!」
ちょいっと手のひらを顔に押し当てたくらいで大げさなこと…
「…ったァァー!
何も顔面殴るこたねェだろー!イッターイッター!」
「……殴ってないわよ、人聞き悪いわね」
「殴ったー!つーか痛ェーーー」
ガラスに向かって赤くもなっていない顔を映し、わたしがちょっと触っただけの顔を何度もさすっている。
「…こっち向いてみなさいよ…」
サンジがのろのろと、どうにもなっていない顔を恨みがましく歪ませながら、わたしに差し出すようにゆっくり向けた。
顔をさする。
やはり何処にも強く力が加わったようには見えない。当然だ、わたしは軽く彼のキスを逸らしただけなんだから、いつもと同じように。
「どこにもおかしい所なんて無いわ」
「いーたーいー」
そう何度も何度も小さな声で痛いと繰り返すので、わたしは何だか不安になってきて一瞬だけ本当に無理な力がどこかに掛かってしまったのだろうかなんて考えてしまった。
…………アブナイ、アブナイ。そんなはず絶対ないって分かってるのに。
「なによ、雪山で骨を折っても平気だったくせに」
「ヘイキな訳あるかー!おれは全身にモルヒネ通わしてるどっかのキチガイ医者じゃねぇんだぞー」
小さくわめきながら、疲れたようにわたしの胸に頭を預けて、ゆっくりと呼吸している。
わたしはその自分の鼓動で微かに揺れる金髪を見ながら、きしきし揺れる船底か椅子の音を聞いていた。
午後2時の薄く曇った空が、ずいぶん足早に動いている。
風が出てきているのだ。
甲板で寝転がっている連中を叩き起こしてサブマストの方向を変えさせなければ、とんでもない方向に船が向かってしまう。
ルフィはパラソルの下で寝ている。
ゾロはメインマストの下に転がっている。
ウソップは見張り台の上、ビビとカルーはみかん畑の側。
……チョッパーは?チョッパーはどこで寝てるのかしら
ぼんやりとサンジの揺れる金髪を見ながら、そんなことを思った。
この男が、わたしだけを見ていてくれれば、もしかしたら、何か変わったかも知れないのに。
痛みに臆病で、わたしにそっくり。
気付かずにこのまま時間だけが過ぎていくのを待っているのかしら、この人は。
わたしはと言えば、昼下がりのキッチンで、ゆったりともたれかかる彼を抱きしめもせず、かといって跳ね退けもせず、ただぼんやりと椅子に座っているだけ。
ただぼんやりと椅子に座っているだけ。
過ぎた風の中でいつか気付くのかしら、ああ自分は愚かだったって。
どこかにある別れの道に差し掛かってようやく理解するのかしら、何かを。(例えば彼を「愛していた」とか)
いまここで彼を抱きしめたら何か変わるかしら?
いまここで彼を跳ね退けたら何か変わるかしら?
ゆっくりと手が動く。
無意識と、意識のちょうど真ん中で。
ゆっくりと彼の頭を持ち上げる。力の抜けたような彼の頭を。
「いい子だから仕事の邪魔しないで」
キスをする。
唇にキスをする。
にがいキスをする。うるおいのない唇は、わたしの唇より数度高い熱を持っていた。
舌を絡ませて、何度もキスをする。
ぼんやりとした目の彼にキスをする。
ルフィにもゾロにもしたことのないキス。
ウソップにもビビにもしたことないキス。
ねぇサンジ、あんたこのまま気付かずに過ぎていくの?
ねぇサンジ、あんたこのまま振り向かずに歩いていくの?
無難だけれど。賢明だけれど、たぶん優しいのだけれど……そのまま帰ってこないんでしょう、どうせ……
長い長いキス。
舌や唾液から彼の思考が読みとれればいいのに、としばらく無意味に願ってみた。
長い長いキス。
歯の裏に、彼の小さな虫歯を探り当てた。ザラザラしていてそこだけ異空間みたいだった。
唇からゆっくりと力を抜く。まるで名残惜しいかのように。
唇と唇が離れる最後の瞬間、サンジの濡れた唇が何か言葉を形作った。
わたしはその言葉に関心を寄せたけれど、ちっとも執着がなかった。
「仕事が終わったら、また誘ってね」
軽く微笑んで、見惚れた顔で固まっているサンジと同じ方向を向いた。
唇がまだ、熱を持っている。
サンジはわたしの背中を見ている。
わたしは机の上の気象図を見ている。
……見ているだけ、見ているだけ、特に意味のない視線。
何の力もない視線。何の努力もない視線。戸惑いと惰性の視線。
「永遠に終わらない仕事を待ってろってのか?」
失笑。
「セックスだってそうだ、ただの仕事だ」
嘲笑。
「今のキスも仕事かい?近頃の航海士は忙しいなァ」
苦笑。
「……いいえ、あなたを愛してるからよ」
溜息。
「………………アイシテル?アイシテル?」
ええそうよ、愛しているのよ。わたしは何度かそう言った。……視線は、変わらない。
「アイシテル?……ああ、おれもアイシテルよ」
愛し過ぎて、頭がオカシクなっちまったくらいにね。
サンジはそう言って、背中から這い出した亡霊のようにわたしの唇を奪うとゆっくりキッチンを出ていった。
「初めて見た」
「キスを?それとも魔女?」
「両方」
そう、じゃあ得したわねチョッパー。でもあんまり戸棚の中に潜り込むのは感心しないわ。コックさんに見つかったら食材と間違えられてテーブルの上で再会することになっちゃうから。
わたしは彼の方を見もせずに淡々とそれだけを言った。
口の中がネバネバする。
言葉がそのネバネバに囚われて引っかからなかったのをありがたいと思った。
「ナミは、サンジのこと好きなんじゃないのか?」
ええ好きよ、大好きよ。でもどうにもならないことの方が大きいの。目線の先にある紙に、まるで殴り書きするかのように何度ももう答えの出終わった計算式を書き続ける。
「大好きな奴が、大嫌いなのか」
チョッパーは不思議そうにそう呟いた。
わたしは言葉を探して、探して、適当な文句を思いついて、それを飲み込んだ。
「おれはサンジもナミも好きだ。
サンジの作る料理は美味いし、ナミの側にいるのが気持ちいい。
ナミの喋る話は面白いし、サンジの雰囲気が好きだ。
サンジのクスリ中毒も知ってるし、ナミのサンジ中毒も知ってる」
でも、それも全部が全部くっついてお前らだと思う。だから好き。
チョッパーはつたない言葉でそう言った。好きだと。わたしを、好きだと。
サンジ中毒の、わたしを好きだと。
わたしは何だか切ない気持ちになってしまって、情けなくなってきて、うっかり泣きそうになった。
「自分に正直になればなるほど、あんたの好きなサンジを傷付けてしまうわたしのことが好きなの?」
チョッパーを抱きしめる。チョッパーにキスをする。
「…………わかる?分かるわよね、お医者様」
「…マリファナは普通噛むものじゃないんだけどな」
「知らないの?ガムっていうのよ」
噛み煙草みたいなのね、効果が薄いとか聞いた気がするけど、どんなものなのかしらね?わたしは調子に乗ってそんなくだらないことを聞いた。
「……ナミ中毒だ、あいつ」
効果的な薬を処方してやろう、三日三晩あいつを抱いててやんな。じっくりやっていけば、ナミ欠乏症も治る。
サンジはナミ中毒でナミ欠乏症。過剰と欠落が同居している。
ナミはサンジ中毒でルフィ欠乏症。過剰と欠落が同居している。
チョッパーがひょいとわたしの腕から抜け出して、帽子をちょいちょいと直しながら言った。
わたしは
「仕事があるから、駄目よ」
と言った。
「…仕事?」
彼が丸い目をきょとんとさせてそう聞いた。
戸棚の中の、彼の囓ったりんごが、船に揺られてころりと転がり出た。
わたしはそれを横目で見ながらも、何も言葉を返せなかった。
2:07 01/08/11
strange day's=奇妙な日々
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