SLUDGE
ナミとサンジ
死の匂い
死体の匂い
死んだ人の匂い
匂いがする。
血が腐った匂い。肉が古くなった匂い。歪んでる。
吐き気がする。脳味噌が痺れている。
銃声と潮の匂い。
死の匂い。
内臓が腐る匂い。
死の匂い
死の匂い
みかんの葉の匂い。
あの男の身体からは死の匂いがする。
銃声。
声。
血の匂い
死の匂い
吐き気がする。
哀しい音がする。村に一つしかない教会の鐘が鳴る。何かを惜しむように、いたわるように、教会の鐘が鳴る。古ぼけてさび付いた音。この岬にまで聞こえてくるのだから、結構大きな音なのだろう。人はあまり居ない。目の前で大きな男が墓を掘っている。目はまるでガラス玉のよう。一生懸命に土を掘り返している。布にくるまれた大きな荷物のような「それ」を埋めるのだろう。服は喪服などではなく、いつもの薄汚れた普段着。スコップが土をえぐる音がひどく乾いて聞こえるような気がする。
ザクザクザクザク
空は恨めしいくらいに晴れている。潮風は最高に気持ちよくて、爽快だ。
死の匂いで占められているあの岬の空気を切り裂くように時々強く風が吹く。
古い油が気化したような空気。
鐘の音が断続的に聞こえる。
白い布は穴の一番底に置かれて、そこにいた人間達が何かぼそぼそと話しながら花を穴に投げ入れた。
しばらくして変わりばんこにスコップを持った人間達が土を一掬いずつ穴に落とした。
「よう、何見てんだ。ああん、あのバカ人間の葬式かよ。全くくだらねェ。そんなもん見てる暇があったらさっさと海図を描くんだな。」
「……くだらなくない……」
「…なんだと、このクソガキ。甘い顔してりゃつけ上がりやがって。
しかしおれは紳士で通ってるんだ。暴力なんざ使わねぇさ。ただお前が海図を描くのを待ってるぜ、何百年でもな!シャハハハハハ」
向こうの岬で、こちらに気付いた人間が居た。
ひどい目で睨み付けている。視線がレーザーのようだ。体中が痺れて動けない。
「シャハハハハ、クソ人間共が見てるぜ、同志よォ」
しばらくこちらを睨んでいて、他の人間に制されるようにして足早に人間達は村の方角へ消えていった。
花を捧げることも祈ることも出来ずに、あの人は土の中に消えた。
目を閉じると真っ暗になった。
死の匂いだけが脳裏に残った。
……
………
…………
「……疲れる夢だ……」
想い瞼をゆっくり開かせて、囁くように呟く。
寝ぼけ眼でふと薄らぼんやり光る鏡を覗き込むと、そこには無精ひげを生やした目つきの悪い男が映っている。セットのメチャクチャになった髪の毛はボサボサで、目の下にはクマなんか出来ちゃって見栄えしないこと甚だしい。
目をふいと逸らして窓の外を見た。
窓の外は雨で、まだまだ夜の明けそうな気配がない。窓や甲板にひどく叩き付けられる雨粒がまるで平手打ちの音に聞こえる。ああ、なんて時間に起きたんだ。
全く不機嫌になって、不愉快な顔をした。他の連中はスヤスヤぐーぐーと寝息を立てていて、更に腹立たしくなった。あんまりイライラして仕方がなかったので部屋を出てキッチンに向かう。
イライラジリジリする。
脳味噌の中の全ての事象に向かって殺意がした。
目に映る物を片っ端からマシンガンか何かで打ち抜いて粉々にしてやりたくなる。ドアをへし折って火を付けてやろうか、煉瓦をたたき壊して片っ端から海に投げ捨ててやろうか。みかんの木を全部引っこ抜くのもいい。メインマストにうんこ塗りたくるなんて最低でイカスんじゃねぇ?刀でフライパンの錆取りなんてのはどうだ。いっそ麦藁帽子を種火に朝食を作ったり
「この手を折ったり」
雨に濡れた身体から熱が急速に逃げて行くのが分かる。
自分が冷えてゆく作りすぎたスープになったような気がした。
チクショウチクショウ
殺してやる
殺してやる
もういい、何でも全てどうだっていい。心の底からどうだっていい。好きにすればいい、どいつもこいつも糞野郎ばっかりだ。糞だ糞だ最低だ。
いつもこう。
彼女を抱いた後に見る夢は最悪で、冷や汗と共に吹き出る悪意と殺気で自分の身が焦げる寸前に飛び起きる。彼女の吸い付く肌を思い出す度に死にたくなる。
手に入らない君を想って。
君の心に巣食うのは癒されない不条理。
おれでは癒せない古傷。
……地獄だ、最低だ、クソッタレめ。
触れられない女を抱いている。
彼女は電気を放つ。触れられたくない場所におれが踏み込んだ瞬間、1000000ボルトの電気を出す。触れた者は感電してそこに立ちつくすしかない。拒まれた自分の火傷の跡を見て、間抜けなオノレを紅蓮の炎で焼き尽くす。
死なない自分を何度も殺す。
目をくり抜いて、舌を裂き、頬を削ぎ落として、鼓膜を突き破り、胸には切れ味の鈍い果物ナイフ。指の爪を全てはがして、鼻に銀色の棒を突き刺し、髪をくくりつけた木の上から飛び降りるんだ。
「腰抜け……出来もしねぇくせに…」
こぼさないでハニー。悲しさに溺れているおれを抱きしめて殺して。
『あの女のどこがいいんだ』
最高じゃねぇか。
髪も、足も、まつげも、態度も、くちびるも、指も、言葉も、瞳も、嘘も
殺意も
……おれを好きにならない女。
永遠に触れられない女。
おれのあしらい方を心得ている女。
おれの操作方法を理解している女。
誰かに使われる屈辱と悦び。手に入らない焦燥と期待。人を想う孤独と懐古。
むかし、おれはこうだった。
あの女と居ると形もない記憶が甦る。安全な恐怖感と隣り合わせのスリリングな安心。
彼女はおれのサスペンス。
決して思い通りにならずに、深い底なし沼の中に俺を引き込んでいく。
キッチンの窓の桟は埃だらけ。時折強い風が吹き、表面の軽い塵を思い出したかのように巻き上げる。
なぜあの女が好きなのか?
おれに似てたから。
不吉で無意味で物事を追いつめる癖があるから。
欲が深そうなふりをして、本当は何にも興味がない。檻に囲われて飼われようが平原のど真ん中でのたれ死にしようが、そんなことに意味を見出したりしない。誰かに誉められたり、自分で納得したりすることを快感にしない。周りにいる誰よりもほんの少しだけ器用に物事をこなし、誰の価値からもずれない人間、誰かの話に興味深く頷く人間。そういう"物"になったヤツは、軽やかな自分の身体を上手く操る術を知っている。明るく楽しく誰にも好かれる個性的な何かのフリをしている。気楽を演じている。強気を演じている。
物わかりのいい、都合のいい人間はたいてい重宝がられる事を知っているから。
誰かにとって必要で無ければ自分には意味がない。
そういう風に考える人間は往々にして自分のことを嫌っている。呪っている。消し去りたがっている。
だから他人の尊重する価値観そっくりそのままになろうとする。そうしていると安心するから。いつまでも誰かにとって必要な自分で居ることは生きるために必要なんだ。例えばそれはセックスの間だけの関係でも構わない。自分の心が必要でなくても構わない。元々自分たちにの何処にも価値がないと思っているから。身体だけでも価値があるのは喜ぶべき事だから。
なぜあの女が好きなのか?
おれに似てたから。可哀想なおれに似ていたから。誰にも見捨てられて顧みられなかったおれに。
もしかしてこの虚無感を共有できるかも知れない、と思ったから。
……それは単なる妄想だったんだけれども。
じいっとナミさんの顔を見ていた。
ナミさんはそれに気づいて「なに見てんの」と聞いた。
「二つとない至高の宝石を」とおれが答えて、ナミさんはあきれた顔をして「宝石?誰も超えたことのない美術品の間違いでしょ」とおれの方を見もしない。
「いいや、永遠の時を経ても輝きを失わない宝石で間違いない」
「……でも時間がうつろえば価値も変わる。永遠に輝くわけじゃないわ」
「おれは誰かの価値基準で宝石の輝きを見間違ったりしねェ特技があるんだよ」
「わたしは自分の価値基準に合わない品物に対しては厳しいわよ」
「その割にはえらくボンクラ船長に入れ込んでるご様子で」
「あのボンクラはちゃんと私を稼がせてくれるもの」
「じゃ、おれがどっかの国の王様にでもなってこの世の贅沢を全部ナミさんに提供したら……」
「…王妃様して裏から政治操るってのも面白いわね」
「……くっ…こんなこともあろうかと国王投票制某国の立候補権利持っててよかった!」
「…………世襲制じゃない王権国家なんてはじめて聞いたわよ」
「最近流行りの民主主義の国ですから」
「……すごく矛盾してないか、その国の政策方針」
「あ、おれその国の言語がぜんぜん駄目だー」
「はは、あんたも相当矛盾してるわ」
「……努力すれば何てこたぁないっすよ」
「…………不自然な努力は実を結ばないものよ………。」
「……経験者は語る?」
長い長い無駄なおしゃべり。
意味のない話し声。
ただ流れて行く怠惰。
全てが愛しすぎて泣きそうになる。
「わたしね、本当はルフィのこと嫌いなのかも知れないって時々思うわ」
「何故?」
煙草に火を付けて、煙草の煙で煙幕を張る。
臆病者はまず非常口の確認をする。
「わたしは自分の力で村をえ救わなくちゃいけなかったの。
出来る出来ないじゃなくて『そうしなくちゃいけなかった』のよ、わたしの頭の中で」
「………………」
出来るだけ目を合わさずに気楽に構えた顔をする。
おれのこの顔が、ナミさんにとって柔らかなクッションになればいい。
おれのこの顔が、おれにとって後々の自己嫌悪の種になるのは嫌だけど。
「何故って?
あの悪夢がわたしの頭の中でずっと生き続けるからよ。踏みにじられた心が頭の中に住み着いてるの。
自分で何もできなかった無力なわたしが、ずっと"目標を勝手にうち砕いたルフィ"に嫉妬してるわ。……自分でもすごく自分勝手でひどいこと考えてると思うわ。
自分で助けてって言ったくせにね。
……でも駄目なの。脳味噌が言うこと聞いてくれないの」
「………………」
「いつの間にかアーロンをブチ殺すことが目標になってた。
今は無理でも、いつか、いつか、あの村を買い取った後でも、絶対にわたしが殺してやると思ってた。それだけが生き甲斐だった。ベルメールさんの敵とか、村のみんなのためとか、最初はそれが目的だった。
でもいつの間にか目標はアーロンを殺すことになってたの。
越えられない壁を叩き潰すことで、わたしは初めて生まれるんだと思ってた。」
「………………」
「ベルメールさんや村のみんなと、対等になれると思って。
わたしは拾われた子供なの。捨てられた人間なの。誰かに置いて行かれたの。
それを克服したかった。
自分一人でも生きていけるという証が欲しかったの。
自分に価値が欲しかったの。
それは海図を描けることとは違う次元なの。生きていくのとは違うの。」
「………………」
「大切にされる悦びを知っているけど、それだけじゃ駄目なの」
淡々と話す声はひどく自然過ぎて、逆に不自然だ。
おれはダラダラと聞かないフリをしながら、実は逐一脳味噌に叩き込んでいる。
おれはしっかり聞くフリをしながら、実はよく聞いていない。
「自分一人で生きていける人間にならなきゃ、みんな居なくなっちゃう」「きっとルフィも、居なくなるわ」「あんただって。サンジだって……!」「ただ守られてる女になるのがいやなの。自分でちゃんとしなきゃ、ちゃんと出来なきゃみんな死んじゃう」「特に海ではそうよ。この船の連中は寄り固まってる。自分一人じゃここに居れないことを肯定してる。強かったり射撃が出来たり料理が出来たり医学の心得があったりするけど、海のこと何も出来ないし知らないでしょ?」「それじゃ駄目なのよ、いつか死んじゃうわ。最低限のことは出来なきゃいざというときに何もできなくてただウロウロするしかできない。」
「弱いね」
おれは呆然とした言葉を吐く。
それは自分でも呆れるくらいテキトーな声。
「だから死ぬのよ。」
「……でもキミは生きてる。弱くて、一人じゃ全部出来ないけど生きてる。生きて、おれの隣にいるだろ?一人で何もかもしようとするのは、弱い証拠だよ。出来っこない事をやるんだって聞かない、駄々をこねてる子供さ。」
目を合わせない目を合わせない。
合わせて取り殺されるのが怖い。
煙草の火だけを見つめる。
煙草の煙だけを吸い込む。
「自分の出来ることをすりゃあいい。出来ないことは、手伝ってやるさ。
だから出来ないことを手伝ってくれよ。
おれは一人でメシ食うの嫌なんだ。
……だから、手伝ってくれよ。
おれはナミさんが映らない自分の目が嫌なんだ。
…………だから…手伝ってくれよ…」
「………………」
彼女は何も言わない。どんな表情をしているのかも分からない。
分かりたくない。知りたくない。
「いつまでもおれはダメな奴なんだよ、ナミさんが必要なんだよ
だから、生きるの手伝ってくれよ」
おれは頼むから、と言った。
目を閉じて祈るように。
「今度そんなふざけたことを言ったら殺すわよ、サンジ」
イメージ通りの声で、だいたい予想の付いてた言葉が返ってきた。
「……あんたに殺されるならこれ程嬉しい死に方もねぇ。」
おれがにっこり笑ってナミさんの顔を見ると、ナミさんは厳しい顔には不釣り合いの涙を流していた。
「…………うそだよ、愛してるよ、愛してる、ナミ
泣くな
泣くなってば
ナミに泣かれたら、おれ死んじまうよ」
これは何の涙だ?
おれのこと好きになってくんないくせに
おれのこと構ってくれたりしないくせに
泣くなんて卑怯だぞ
おれだって泣きてぇよ
ずるいぞ
女ってやつァ、本当にずるい。
……最低だ……クソっ!
16:01 01/05/16
SLUDGE=汚泥、ヘドロ。
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