17℃
ナミのおはなし
わたしの身体の中には透明な澱がある。
その澱は自分でも覚えていないくらい昔から身体の中にあった。
透明だから誰の目にも見えない。
わたしの目にも見えない。
感覚だけが、ぼんやりと身体に伝わってくる。
わたしを支配している。
…それが恐ろしくて、切なかった。
誰かに助けて欲しくて、誰かに側にいて欲しくて
手を伸ばした。
温もりを探る指先が触れたのは、金色の髪だった。
不意に目を開けると、肌寒い風と一緒に長い影法師が身体を覆っていた。
「…起こした?」
「そんなに寝てないわ」
「もうじき夕食だぜ、ナミさん。
日も暮れてきたからすぐ寒くなる。部屋に入ってた方がいい」
どこから引っぱり出してきたのか毛布をわたしの身体に掛けながら、サンジはバカに丁寧な仕草でいつもの煙草を吸っている。
「……そうね。
で、今日の夕食はなに?」
何度か瞬きをして、あくびをかみ殺しながらにいつもこの時間になったらする質問を、今日もする。
「海鮮シチュー。」
にかっと音がするくらい笑って、サンジは背を向けてキッチンの方へ歩き出した。
「ナベ火に掛けっぱなしなんだよ、せっかくのエビが溶けちまう」
背筋をちょっと曲げながら、いつものようにすたすたと長い足が遠ざかっていく。
わたしはそれを少し冷めた目で見ながら鼻で笑ってみた。
自分が惨めになっただけだったが。
わたしはまた目を閉じて潮の音に集中する。
日が落ちる前の潮の音。しばらくは天候が崩れる気配もなく、気温もそんなにひどい変動がない。約17度。わたしにとって暑くも寒くもない気温。
自分の身体が無くなる温度。
潮風が髪を薄く弄ばなければ、自分の感覚すら忘れてしまいそうだ。
こんな日は
こんな時間は
目をきっちり閉じて、口をしっかり結んで、頬に力を入れなければ。
不意に誰かがわたしを見たときに、泣いていないように。
自分の身体全てを緊張させておくのは疲れる。肩が凝る。たまには一人で泣きたいこともあったけど、そういうことさえ忘れなければ。
少しでも泣いてしまったら、心配のないこの船の上で、意味もなく泣き喚きそうだ。力を抜いてしまったが最後だ。
その時、私は本当にわたしで居られるんだろうか。
自信がない。
闇に秘めた暗い記憶が流れ出さないように、わたしはいつも肩を凝らせている。
あーあ、わたしも苦労性ね、まったく。
大丈夫、大丈夫。
何も心配ないわ、もうじき新しい土地に着いてこんな事忘れてしまう。不安なんて一発でぶっ飛ばしちゃう爆竹みたいな連中と一緒なんだもの。
だから大丈夫、ダイジョウブ……
…なァんてやってるから肩凝るのよね。
……わかってる。
……わかってるのよ。
でも何故かそうやって肩を凝らしていないと不安なの。
自分が何かに突っ張っている感覚がないと不安なの。
感覚が欲しいの、実感が欲しいの。
わたし、ちゃんと、ここに、居る?
ねぇルフィ、あんたの目の前にわたしちゃんと居るかな?
「なに言ってんだ、ナミ。」
…ああ良かった、あんたの目の前にいるのね、わたし…
ねぇサンジ、あんたの身体にわたし触れたり出来てる?
「…おれは幽霊抱いたつもりはねェよ」
…ああ良かった、あんたの温かさはうそじゃないのね…
ねぇウソップ、あんたの声にわたし反応してるよね?
「寝てる時とボケが外れた時以外は例外なくな。」
…ああ良かった、あんたとちゃんと話が出来てるのね…
ねぇビビ、あんたの匂いわたし分かってるでしょう?
「いやだわ、わたしこまめにお風呂使わせてもらってるのに。」
…ああ良かった、この匂いだって気のせいじゃないのね…
ねぇゾロ、あんたの血の味まだ覚えてるのは間違いじゃない?
「…くだらねェ。さっさと忘れろ。」
…ああ良かった、わたしの自分勝手でも覚えててくれるのね…
ねぇチョッパー、あんたのことちゃんとわたし知ってる?
「おれが一人にならないようにいつもおれのこと見てるだろ?」
…ああ良かった、あんたの心がまだ叫んでるの分かってて…
嬉しいわ
嬉しいわ
でも不安なの
でも不安なの
まだ不安なの
ねぇ、ねぇ、アンタ達の知ってるナミってどんな人間?
それが全部、嘘だったらどうする。
ねぇ、それが全部、嘘だったらアンタ達どうするの。
……あたしの知ってるアンタ達が全部嘘だったら、わたしどうするの。
全部嘘だったら
殺してやる
殺してやる
ルフィも
サンジも
ウソップも
ビビも
ゾロも
チョッパーも
殺してやる
殺してやる
みんな海の藻屑にしてやる
…そんなことを考えながら目を閉じていると、目の奥がぎゅうと唸って体中に熱線が走るような気がする。
悲しくて泣いているのでも、ばかばかしくて泣いているのでも、情けなくて泣いているのでも、腹立たしくて泣いているのでも、呆れて泣いているのでもなく、ただ身の焼け付きそうな自分の殺意に突き動かされて涙が作られているのが
可笑しくてたまらない。
この海の真ん中で、誰もいない甲板で
声を上げて泣きたい。
お願い
お願い
ベルメールさん、ノジコ、ゲンさん、お願い助けて
ここじゃ泣けないの
ここじゃ泣けないの
ここで泣いたらわたし自分じゃなくなっちゃう
魚人達にいたぶられてなぶられて悔しくて辛くて泣いた事あるけど、そんなのじゃないの。
悔しさと辛さ以外で泣くのは全て手段だった。
だから泣き方分かんないよ。
どうやって泣いていいのか分かんないよ。
嬉しいから悲しい!
楽しいから哀しい!
そういうときどうやって泣いたらいい?
誰ならわたしの涙分かってくれる?
こうやって泣いてるのはアンタ達を殺す事を考えて嬉しいから泣いてるんだって
誰が分かってくれる?
分かってくれたら、分かってくれたら、わたし、その人を殺してもいいわ。
解ったら殺してあげる
愛してるわ、アンタ達のこと本当に大切に思ってるわ
それと同じ分だけアンタ達が死ねばいいと思ってる!
みんな死んじまえ!
誰一人殺させない!
死んだら、わたしの前で死んだら、殺してやる!
それは呪いであり、願いであり、命令であり、祈りであり、強制であり、不安だわ。
わたしの中の強烈な制御不能のバケモノよ。
愛と同じ分量の憎。元が同じものなんだもの、仕方ないわね。ウソップ、サンジ、ゾロ、チョッパー、ビビ、ルフィ。アンタ達みんな、元は同じものなのよ。愛憎の隙間から生まれたんだもの。わたし達みんなそうよ。
ねぇサンジ、だからわたしの事憎んでるんでしょう?
ねぇルフィ、だからわたしの事抱かないんでしょう?
泣きたい
泣きたい
泣きたい
泣きたい
心の中に沈んでいく透明な水。泣けない涙。
自刃。
(或いはサンジのように?)
許容、または逐電。
(いつものルフィみたく?)
手のひらからこぼれ落ちていく。こぼれ落ちた先は一体どこ?…見えない。ただ感じるだけ。この重さ。圧迫。欲求と嫌悪。愛と憎、恋と過ち。わたしたち。
サンジがまたわたしを呼びに来る。夕飯に呼びに来る。わたしが行かなければ行かないだけ、彼は呼びに来る。何度も、何度も沈黙を重ねれば重ねるだけ、豪華になっていく夕飯に呼びに来る。
金色の髪
黒い頭
碧色の目
茶色の瞳
高い身長
側にある顔
抱きしめる腕
握手する手
痛みを理解して
過去は忘れて
わたしのこと好き?
それが全部嘘だったら、お願いだからわたしを殺してね。
私の過去も、みんな捨てるから。
12:38 01/06/14
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