バスルーム
ナミとサンジ
この船の風呂は狭い。
まるで出来合いのユニットバス……いやホントにユニットバスなんだけど。
でもこの風呂はちゃんとタイルが貼られていて、シャワーも付いているし、こないだウソップが手押し式のジャグジーをプレゼントしてくれたので、お風呂にお湯が張られる時間になるとご機嫌になるくらいだ。
最近ウソップはわたしに滅法甘い。
それが何故か分からない程わたしは綺麗でもないし、物忘れが激しいわけでもない。
何度もありがとうね、といったけれど、多分ウソップにはきちんと届いていないと思う。
わたしがルフィにするキスと同じくらい。
わたしがサンジに囁く愛と同じように。
バスタブにゆったりと浸かっていると、潮の音と船の軋む音が微かに聞こえてきて、でも目に見える景色は空色のお風呂のタイルで、身体はぼんやりと暖かくて。何だか変な気がする。ここが海の上だなんてのが夢みたい。
夢みたい。
夢?
……かも知れない。わたしはお風呂で夢を見ているのかも。
本当はここは「どこかにあるわたしの本当の家」で、そこのドアを開けてタオルで体を拭いて服を着替えたら、ベルメールさんがもうじき夕食だから手伝いなって、煙草を斜めにくわえて、面倒臭そうにわたしの服を畳んでいるかも知れない。
あのドアを開けたら
あのドアの向こうに
そんな夢みたいな世界が広がっていないって誰が断言できるの?だってあのドアの向こうをわたしは“知らない”もの。
閉まったドアの向こうは、予想は付くけど分からない。
知ることは出来ない。そこに何があるのかは、わからない。あの扉を開くまでは。
お風呂のお湯がユラユラ揺れている。
水面に映ったわたしの顔も、ユラユラ、ユラユラ。
泡の消えかかったバスオイルの香りで充満した狭いバスルーム。
バスルーム、バスルーム
あのタオル掛けの真横に張り付いていたことをふと思い出す。
タイルがひんやり冷たくて、頬と右肩だけを青色に張り付けていた。
何度も突き上げてくる衝撃が、身体に走り抜ける電撃が、いまでも残っているような気がするけど……あのとき何を考えていたのかをしっかり覚えている。
タイルの目地にいた羽虫。
水滴に囚われて、細く小さな足だけをぴくぴくと動かしていた。
水の表面張力から逃れられないほどの小さな虫。その虫は、水滴の中で生きていくことは出来ないくせに、もう足掻くのを諦めてしまったのか、ただ小さく足を動かしている。微かに羽根の付け根が痙攣しているような気もしないではない。
足掻き疲れたのだろうか。もうこのまま水滴に囚われたまま逃れられられない事を悟っているようにも見える。ただ機械的に足が痙攣している。それは意志ではなく、身体がそう作られているからだ。
……そんなことを考えていた。
彼の身体がわたしの身体の中に割り入ってくるのも、ただ身体がそう作られているだけ。ただ頭がそう作られているだけ。
愛していると彼が囁くのも、そう作られているから、そう作られているから。
だったらいいのに。
そうだったらいい。
ただ頭に響くわたしたちの『制作者』の声のままにこうしているのならば、いいのに。
彼の意志ではなく、わたしの意志ではなく
こうしているのならば
いいのに
いいのに
いいのに
いいのに。
頬が赤くなる。思い出すだけで頭痛がぶり返して来るくらいおなか一杯。愛のオーバードーズ。
ある日、彼が私に言った。
「ナミさんは結構簡単におれのこと捨てるよね」
その言葉に少なからず傷付いた私は、何故、と訊ねた。
「例えば
そう、例えばついさっきの夕食の後。
おれがナミさん食後のデザートはどうですかって訊いたろ?
ビビちゃんじゃなく、ナミさんに、ナミさんだけに。
でもナミさんはその言葉を聞いてさえなかった。
夕食の前に3度キスをして、夕食の最中にテーブルの下で足がずっと触れてたのに
ゾロとルフィがいつもの喧嘩を始めたくらいで、おれのことなんてすっかり雲の彼方さ
おれは一人で皿を片付けて、スプーンを拭いて、カップをしまった。
その間もしカルーがキッチンにうずくまってなけりゃ、おれは」
死んじまってたかもしれないな。そんな風に言った彼が私の身体を全身で包み込んだ。
「こりゃ嫉妬かな、それとも単なる寂しさか」
ああ、あの抱きしめられた苦しささえも『制作者』の作り物ならばいいのに!
あの息苦しさがまるで懐かしいみたいにさえ感じられる。
押しつぶされそうなのはきっとあの腕の力だけじゃなかった。胸が苦しくなったのは、強く抱きすくめられたからだけじゃない。……だから、苦しい。
何気ない彼の行動にわたしはこんなのだから、何気ないわたしの行動にも……彼はこんな気持ちになるのだろうか。
ああ!気が狂いそう!
……バスタブのお湯は相も変わらずユラユラ揺れている。
まるでゆりかごのようにユラユラ揺れている。
私はその揺れを初めて、気持ち悪い、と思った。
「サンジ!」
「はっ…はいー!!」
声がした。驚いたような、とびきり度肝を抜かれたような、心臓が張り千切れそうな声がした。
「……なっ!なんてとこに居るのよォ!!」
思い付きで呼んだ名前が意味を持ってわたしはひどく驚いた。……呼ばれて飛び出てアンタはハク○ョン大魔王かっ!
「ちちちちちがううう!!
ちがーう!!断じて違う!!ぜーったいに!全く!そんな気はッ!
てゆーかホントに違う!おれは!ただビビちゃんに頼まれてタオルを取りに来ただけであってー」
「わーった!分かったから早くアッチ行って!これ以上ここにいるとお金取るわよっ」
自分でも何を慌てているのか分からない。
多分サンジも何を慌てているのか分かっていない気がする。
だってわたしの体中でサンジがキスしていない所なんて探す方が難しいくらい。それはサンジも同じだわ。
なのに今更何を恥ずかしがるの?
分からない。でも今はとにかくハズカシくってたまらない。
「出たい!おれだってさっさと立ち去りたい!でも!でも!」
半泣きのような声が短く砕け散るようにバスルームに反響した。
「さっき驚いた拍子にタオルが!」
バスルームのドアがゆっくりきいっと開いた。
ドアの向こうに、体中にタオルを載っけて片足でバランスを取っている間抜けなサンジが居た。
「…なにやってんの」
「……ヒデ…こっちは必死な……」
サンジが言い終わらないうちに船がグーッと大きく傾いて、足に乗っていたすみれ色のタオルがぽろりとサンジの足下に落ちた。
「…バカ。」
…………………………………………………chief mate……
「…………………………」
「………………………………」
二人とも無言だった。
ずっと前から。
長い間何も話さなかった。
サンジは煙草を風下でふかしていて、時々眠たそうに目をこすっては水平線を眺めている。
わたしはと言えば、バスルームで思い出した下らない意味のないことに思いを馳せて妄想していた。
「キスしていい?」
サンジがそう訊いた。
わたしは「いやよ」と言った。……脳味噌はもう捨てている。
「でも今キスしなきゃおれは死ぬかも知れない」
それは本当に誠実な目で、そのままサンジが無理にわたしの言葉を遮っていたら……キスを「した」かも知れない。
「あなたの死は観念的な死であって現実的じゃないの。そんな死にいちいち付き合ってられるほどわたしは暇じゃないわ」
でもサンジは、わたしの言葉を遮ったりしなかった。
「…じゃあ聞くが目前の事象、象徴としての死が観念の世界で意味を持たなくなればすなわち同時に生という物の意味も漏れなく一緒くたに無くなってしまうのだがそれについてー」
そしてつまらない問答を仕掛けた。
「あら下らないこと聞くのね
アンタ、つまりナミを口説くサンジに限定されるのならすなわち意味のない事よ。わたしたちクルーはナミを口説くサンジをすべからく必要としていない。観念としての死からも事象としての死からも、或いは情動としての死からも全く問題は発生しない。それは航海という事柄上にナミを口説くサンジは存在していないことと同義であり、つまり男のアンタがどうなろうとこの航海に…つまり一番優先されるべき事柄に…関係ないって事なの」
仕方がないから私はその問答に答えた。
「いやそれは違うな
ナミさんの身体に限定すれば確かにこのキスは不必要かも知れないが、ナミという人間まで意味が拡大した時こそこのキスは必然と理由を伴ってくる。この航海にはナミという人間が必要であり、しかし機能を求められている人間としてのバランスを保つことが非常に困難なナミという人間はいつも何かすがる物を欲している。しかしこの船のクルーにはナミさんが欲しているすがる物の取っ手がない。非常に不安定な状態のこの航海でサンジという非常に掴まりやすい取っ手は必要不可欠なのさ。サンジという取っ手はそれ単体…つまり身体そのものだけ…では機能しない。意味論的にも観念的にもサンジ全体が生きているということがサンジを取っ手たらしめることが出来る。そしてサンジが生きていくためにはナミさん」
ひどく芝居がかった風に私の手を取った。目がうっとりと自分の言葉に酔っている。
「あなたのキスが必要なのだよ」
ゆっくりとわたしの唇を奪った。わたしは震えている唇を押し返すことなどしなかったし、だからといって求めることもせず放っておいた。
キスを「された」。
「……ナミさんがキスしてくれるのはいつもセックスの時だけな。」
「……………………」
「なにも言わねぇんだ、いつも」
「……………………」
「都合が悪くなったら黙って、それ悪ィくせだぞ」
……アンタに言われなくたって分かってるわよ、ばか。
「好きよ」
「ルフィのこと好き?」
「嫌いよ」
「おれのことは?」
「好きよ」
「じゃあルフィは?」
「嫌いよ。わたしには、サンジだけ。」
そう言ったらサンジが笑った。声を上げて笑った。
「最悪のジョーク!こんなタチの悪ィ冗談は生まれて初めて聞いた!」
サンジがわたしの目を見て「なんて女だ」と罵った。
「まぁひどい、こんなにサンジのこと好きなのに」
「…地獄へ堕ちろ」
サンジが本当に怒ったときの顔をしていった。
わたしは笑って「突き落としてよ」と言った。
「…………
落としてやろうか。突き落としてやろうか
いつでも突き落とせるんだぜ、おれは。」
サンジが黒のネクタイをゆるめて、もう一度わたしにキスをした。そのキスはひどく無理矢理で、何だか犯されているような気分になった。
「なのになんで突き落とさないのか、わかんねェんだろうな…ナミさんは永遠に……」
ゆっくりキスが首筋に降りてきて、それはとても丁寧で上手で、おまけに快感だった。サンジはとてもキスが上手い。うっとりしてしまう魔法の唇。わたしの専用なの。
無理矢理でも、犯されているようでも、わたしはサンジのキスが大好きだった。
「せめて地獄までご一緒させてくれたら……おれァ……」
なぜなら、サンジは
「あいつに殺されてもいい」
ずっとわたしの味方だから。
「オールブルーも捨てる」
わたしのこと一人にしないから。
「ぜんぶ裏切ったってかまわねェ」
誰よりもわたしのことが好きだから。
「……だからおれを見て」
…………………………………………………chief mate……
バスルーム。
服が二つ。
メチャクチャに投げられている。
サンジが「情けねぇな、おれたち」と言って忍び笑いをしたので、わたしもつられてへへへへ、と照れ笑いみたいな変な笑い方をした。
結局3回バスルームで隠れるようにセックスして、お風呂で身体を洗いながら、もう一回した。
サンジがこの世の終わりみたく落ち込んだ顔をしていたので、残酷なわたしは、サンジと一緒に2回イッた。
その度にサンジの顔が晴れていくのを見て、少し、可哀想になった。
どうして人をこんなに好きになれるのか不思議になるくらい、サンジはわたしのことが好きなんだと思った。
わたしはそんなにサンジを好きになれない。
「……おれの顔に何か付いてる?」
サンジが笑って顔を泡の付いた手で拭った。余計に泡が顔について、ちょっと間抜けな顔になった。
「…へんなかお。」
「ナミさんひどいっ」
ショックを受けたような顔になって、ちょっとわたしが油断したら泡の付いた指先が私の顔めがけて突き進んできて、とっさに目をつぶったら顔中をあの大きな手で撫でられた。
「イヤーなにすんのよ!」
「ナミさんもへんなかお。おれとおそろい」
「……脳天気。」
呆れてそう言ってセッケンを手で拭った。……まだサンジの手の感触が肌に残っている。
その感触が
懐かしくて
気持ちよくて
でも悲しくて
少し嬉しくて
ぽろぽろ目から水がこぼれた。
その水は、バスタブに揺らめいている水よりも熱くて、まぶたが火傷しそうになった。
サンジはその水を見て、ちょっとだけ笑った。
それからバスタブに入れられて、狭いバスタブからお湯とセッケンの泡があふれ出た。サンジの肌が柔らかくて暖かくて、ひどく痛かった。
水があんまり出るもんだから、わたしはサンジに言った。
「すき。」
サンジはきょとんとしたような顔をして、それからにっこり笑ってわたしの頭を撫でた。
「…………おれも。」
サンジがいつまでもわたしを抱いていてくれるもんだから、なかなか目から出る水が止まらなかった。
……どうやったらこの水は止まるのかしら。
…………明日、ウソップに修理して貰わなきゃ…………
サンジの腕の中にいながら、そんなことを思った。
23:00/00/10/29
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