Don’t Leave me!
船長と航海士3
「どこへ行くんだ?」
「どこへ行こうかしら。付いてくる?」
「付いていってもいいのかい」
「あなたの好きにしたらいいわ。」
女は荷物をまとめる手を休め、男にのどが渇いたと言った。
「紅茶?コーヒー?レモンスカッシュ、ココア…ソーダもあったかな。」
男はテーブルの上にある色とりどりのグラスを振り返り見て、飲み物の名前を次々に挙げた。
「…水がいいわ。冷たくて頭痛がするほどのお水が飲みたいわ」
ふとした思い付きを女が呟く。
「水?水ならここにいくらでもあるけど」
水道の蛇口をひねると、まるで魔法のように水が後から後から流れ出てくる。男はそれを5つのコップになみなみと注ぐ。
「……どれもあまり冷たくないのね」
一口づつ男の差し出した5つのコップに入っている水を飲んで、女はさも残念そうに口を尖らせた。
「行く場所が決まったわ、冷たくて頭痛がするほどのお水を探しに行くのよ。」
女は景気良く荷物を詰め込んだ鞄を一つ叩いた。
「さぁ、あの薄汚い扉の向こうはきっと素晴らしい世界に違いない!」
男はこの部屋から出ていこうとする女の手を引っ張って、自信なさげに言った。
「おれはあの扉の向こうから来たよ。
でもあの扉の向こうには何もなかった。素晴らしい世界も、ヒドイ光景も、何もなかった。この換気の悪い部屋よりいいところなんて何処にもないんだ」
一体どこに行くんだい?
きみは何を探しに行くんだ?
まっすぐ女の目を見て話す男は、この部屋の外に出ていくことに反対しているようだ。女はそんな男の様子を見て不思議そうに訊ねた。
「付いて来るんじゃなかったの?」
男は何も言わずに、ただ女の手をしっかりと握っていた。女は呆れて男に言った。
「付いてこないのは勝手だけれど、私の行く先まで指図しないで欲しいわ。
私は冷たいお水が飲みたいの。しかもただの水じゃないわ、頭痛がするくらいキンキンに冷えた水よ。ここにはないんだから、探しに行くしか方法が無いじゃない。」
女は男の手を振り払い、すたすたと“薄汚い”扉の方へ向かった。
男はさして慌てる風もなく、女の勇ましい背中を見送っている。振り返れ、振り返れと心の中で強く念じながら。
しかし女は振り返らずに扉の向こうへ消えた。
男はうつむき加減の顔を上げず、いつか帰ってくるはずの女を待つことにした。
……すぐにそのうち帰ってくるさ、“俺”みたいに。
=U make me love U more=
「……こんな所で何してるの」
「…別に」
「風邪引くわよ」
「ひかねぇよ」
「馬鹿すぎると引くのよ」
「引かねぇって」
「たまには素直に言うこと聞いたら?」
「ナミこそ。」
「…!………………………。」
ナミはそのままぐっと黙って、どすどす足音を上げながら船室に消えた。
おれは特に意味もなく水面と水平線を眺めている。
空の半月が何百回も形を変えて光っているのをずっと視界に入れている。
きらきら光っている水平線が綺麗だと思う。
ぼんやり眺めていられるこの時間が本当にありがたい。
夕めしも食ったし、風呂にも無理矢理入れられたし、歯も磨いたし服も着替えて、麦わら帽子も洗濯した。
だから頭がちょっとスースーする。
カラダがほんの少し軽い。
潮風が妙に心地いい。
めったに見張りを買って出ることなんかねぇのに、あんまり夜風が気持ちがいいからゾロと変わってやった。
変な顔をしてたけどゾロはそのまま寝た。
ウソップはサンジとビビとチョッパーで賭けトランプしてたから、おれが見張り番変わったの多分知らない。(明日の朝食メニュー決定権を賭けるんだと)
今日はもしかしたらサンジの差し入れもないかもな。
……まぁいいか、今日はそんな気分じゃねぇし。
「ほら、ボンクラ船長。」
白と黒の模様の入った毛布が頭の上から、鬼みたいな声と一緒に降ってきた。
「ぐぇ」
「自分の健康管理もアンタの仕事なのよ、わかってんの」
毛布の隙間からちらりと覗いたナミの顔が完全にイカっている。
……なに怒ってんだよ…
「ただでさえこの船乗組員少ないんだから、一人でも倒れられるとシャレになんない事くらい分かるでしょ!」
……こりゃげんこつかなんかまだ降ってくんな…
おれはしばらく衝撃を予想して固まっていたけど、少ししても考えてたパンチは飛んでこなかった。
「……?…」
「なによ。」
腰に手を当てておれの顔をじっと見ているだけで、殴ろうとか蹴ろうとか三節棍で叩こうとか、そういうバイオレンス寄りの行動じゃねぇみてぇ。
「………………いや、別に。」
珍しいこともあるもんだ。もうけたもうけた。
「珍しいわね、あんたが帽子被ってないなんて」
「…ん、ああ…洗濯してんだ。」
「へぇ……」
そのままおれの横に足を投げ出して座って、しばらくぼんやり海を見ていた。
…………………………………………
…………………………………………
……………………………………?………
……ナミに面した側の身体がビリビリする。電気ウナギを掴んだ時みたいに肌がビリビリする。心なしか髪の毛が逆立つような……
……っかしいな
なんか心臓もおかしいし
顔が固まってンのは何でだろ
変なもん食った覚えはないんだけどなァ……
「ねぇルフィ」
「んあああァ?」
「…なんつう声出すのよ…」
「な、なんだよ、びっくりすんじゃねぇか!」
「なんでアンタがびっくりしなきゃなんないのよ?」
「知らん知らん!とにかくビビった!」
「…………あらアンタ、もしかして一丁前に緊張してんの?女の子と二人っきりで」
にんまりと笑ったナミの顔が魔女の顔になっている。声が本当に底意地の悪そうな声に早変わり。
「女の子?…………誰が。」
「ぶつわよ」
その声が聞こえたときには既に殴られてた。何て素早いパンチ。こいつ実はゾロより強いんじゃないかって時々錯覚する。
「いたたたた…なんだよ、もう寝ろよお前。見張りは一人で十分だろ」
「…あれ、夕涼みやってんじゃないの?今日はゾロじゃなかったっけ、見張り」
「代わってやったんだよ」
「ふうん…珍しいこともあるもんね。いっつもあんなに嫌がるくせに…」
そう言い終えてから、ずっと何も言わずにナミが海を見ている。ナミが海を見ている。でもその目はどっか遠くの星でも眺めているみたいに、上の空でテキトーだった。
その目でおれのこと見ンなよ。
そんな目でこの船に居ンなよ。
なんも見てないお前なんか
嫌いだ。
嫌いだ。
サンジを見ているお前より嫌いだ。
嫌いだぞ、こら!
テレパシーを送ってみた。ナミは振り向かないし、あの胸くその悪い目もやめない。
つまり、おれはテレパシーってのが下手なんだ。
……サンジは上手ェよなぁ。ナミやウソップの目を見ただけでサンジが何考えてるのか伝わるみたいだし。
おれ、ホントに時たまだけど、テレパシーが欲しくなる時がある。
それはおれが言葉が下手だからとかじゃなくて…言葉で伝わって欲しくないようなこと、最近多いから。
例えば今。
おれは「そんな目でおれのこと見んな」って口に出して言いたくない。でもナミに気付いて欲しい。言いたくない。でも解れ。
気付けよ、ナミ
おれのこと見ろよ
隣にいるくせに勝手に遠いところに行くなよ
せめておれの隣にいるときくらいおれのこと見ろよ
………………なんてことを
…あいつも思ってンのかなぁ……
こんなにイライラもやもやしたまま、ナミ抱いてンのかなぁ、あいつ。
心がラフテルまでぶっ飛んだ目をしたナミにキスして、愛の言葉を囁いて、またキスして、シャツを脱がして、スカートを取り払って……ナミ抱いてんのか。
身体だけになったナミを。
………ぅ…
…………吐き気がする………
ナミの隣にいると吐き気がする。
気持ち悪い。でも離れたくない。ここを立ち上がりたくない。たとえ吐いても戻しても。
「…なに、どうしたの!アンタ涙目になってるわよ」
「…………な、んでもねぇよ」
立ち上がりかけたナミの手を引き戻す。立ってどっか行くな、ここに、来たのはお前だろ。
「何でもなくて涙目になんの?アンタは」
「しばらくすればじきに治る」
「悪い病気じゃないの?チョッパーに診てもらっ」
「病名わかってる。
……病名は、タイのヤマイだ。」
「…………タイ…って…鯛?魚の?」
「いや違う気がする……カイ…サイ………フナ…」
「……フナ?……
もしかして、アンタそれ『コイ』って言いたいんじゃないの?」
「おお、それだ!」
「…………ほんっっと、アンタってば頭ヨワ過ぎ!」
それはそれは溜めに溜めて、ナミはおれの頭を張り飛ばした。
「ってぇな!人間誰しも間違いはあるだろうが!」
「アンタは間違いだけで構成されてんじゃないの!」
どう頑張ったって口げんかでナミに敵うはずがない。おれは無駄なことで腹を減らすのはやめにする。
「コイのヤマイだよ。
ビビが言ってた。
このビョウキはチョッパーには治せないって
治せるのは、ナミだけだって」
ビビが言ってた『でもきっと治らない』って。眉をひそめながら、困ったような顔でちょっとだけ笑って『サンジさんも、ナミさんも、ルフィさんも、みんな同じビョウキなのね』って。
でもみんな同じビョウキだったら、一人が治らないんなら後の二人だって治らねェんじゃないのか?
治せるのはナミだけだけど、ナミも同じビョウキなら、やっぱりナミにも治せないことになる。
ナミを治すにはおれかサンジのどっちかが治るって証明しなくちゃなんない。
でもビョウキはナミにしか治せない。
つまりこのビョウキは絶対に治らない。
そういうビョウキ。
治らないヤマイ。
「……治してくれよ」
治らないヤマイ。
「ナミしか治せないんだろ?」
治らないビョウキ。
「どうしたらいいんだ?」
治らないヤマイ。
「この苦しいの、どうやったら治る?」
治らないヤマイ。
「ナミをぎゅってしたくなるの、どうやったら止まる?」
治らない欲求。
「サンジの匂いのするナミと一緒に海に沈みたくなる気持ちをどうしたらいい?」
治らない永遠。
続く為の溜め息。俯くための前進。自己嫌悪のための接触。泣くための抱擁。
「今だって、肌がビリビリしてる。ナミの側にいると顔が固まる。ゴム人間なのに、おれ」
顔を指でびょーんと伸ばす。でも表情がちっとも動かない。つまらない顔のまま、ほっぺただけが引っ張られている。
ナミが、その指に触れた。
冷たい手。おれよりは白い。細くて、傷だらけの手。引きつった手。
「…わたしの手、冷たいでしょ?」
ひやりとしてて気持ちいい。ゆっくり目を閉じてみると火照った頬の熱がゆっくり下がっていくのが判る。
「……ほら、目、閉じてる。動くじゃないの、表情」
おれは目を閉じたまま、うん、と言った。
「治るわよ、すぐに」
おれは目を閉じたまま、いいや、と言った。
「…治るわ…いつか。」
「治してくれんのか」
「……勝手に治るのよ、そのうちに」
吸い取られる熱と、ゆっくりしたその言葉がもの凄くカンに触った。冷たい手と、ナミの言葉の調子に腹が立った。他人の肌の感触と、諦めのいい女の言い方にむかついた。
この女は魔女だ。
死刑囚をいたぶる看守だ。
まるでそれはおれやサンジやナミの餓死を願っている言葉。
野垂れ死ね、と言っている。
「…サンジもか。
サンジも勝手に治るから、お前は治してやらねぇのか?
ホントは治せるの知ってるんだ
でも治さない。治すのが怖いんだろ」
目を閉じたまま、ナミに熱を吸い取られ続けたお陰で、すらすら言葉がわき出てくる。
自分でも信じられねェくらい、冷たくて水っぽい声がする。
情けねぇな、泣くなよ、10年前じゃあるまいし。
「治したら、サンジ、ナミのこと嫌いになっちまうかも知れねぇもんな。治したらおれがナミのこと船から降ろすかも知れねぇもんなー……なァんてクダラネェ事考えるので忙しいもんな。
おれやサンジがお前のことどんなに好きか、考える暇もないくらい。」
そんなことに忙し過ぎて、三人が三人ともどうしてビョウキになったのか、考えている暇がない。
簡単なことなのに。
気付かない。
気付きたくない。
だから忙しくする。
暇を殺す。
少しでもこの苦痛が続きますようにと願って…
……くそったれ!
「……治す方法、あるわよ。
簡単なの。
アンタがワタシのこと、抱けばいいのよ。
そしたら私は絶望して死ぬから
サンジのビョウキも、アンタのビョウキも、すぐに治るわ」
魔法を掛けた魔女が居なくなれば、魔法もすぐに消えてなくなるんだから。
まるでマキノがにっこり微笑むみたいに優しい顔して、ナミが笑った。本当に嬉しそうに笑った。
自分の嫌な声がする。遠い昔に捨てたはずの嫌な声。自分の声。おれの中の企みと卑怯とヨコシマが声になっている。
「ああそりゃあいい考えだ
ナミが本当に死ぬ必要はないんだもんな
ただナミの心が死ぬだけだもんな
それでおれは航海士もコックも失わず
安心して海賊王になれるってわけだ」
ほらナミ、おれの本当の目を見たことがあるか?いつもの目じゃねェだろう。
のんびりボケボケっとしたマヌケの目じゃねェ。人殺しとドロボウの目だ。いかにして自分だけ上手いことやろうかって狙ってる策略家の目だ。
これがおれの本当の目だ。
おまえを押し倒すなんざ屁とも思っちゃいねェぞ。おれはサンジほどお人好しじゃねぇんだ。
「……そんな怖い目したってダメよ。ほら、涙ふいたら」
ナミの手のひらが頬に当たる。
むかし誰かに拭ってもらったのとそっくりの感触。
手が、引きつった左手が、おれの頬を滑っている。
「うるせぇ、な」
「…………悪かったわね。」
ナミが、よっと言って体を起こした。夜の風がずいぶん冷たくなっている。
「ナミ」
「……泣いたことは、秘密にしといたげる。武士の情けよ」
「おれのこと好き?」
帽子がないからだ。ムギワラボウシがないから、おれがこんなに弱気になるんだ。きっとそうだ。
「キライじゃないわ」
気楽で軽い声。にっこし笑って歯ァ磨いて寝る前の声。
「自分のことは?」
「あんたよりずーっと好きよ」
平坦で無意味ないい方。飾り棚に置いてある本を取ってくれという時の何でもないいい方。
「…ウソップにもっと上手い嘘の付き方を習ったらどうだ」
きょとんとした顔でナミがおれを見る。
それから少しにやっと笑って「考えとくわ」と言った。
=U make me love U more=
勇ましい彼女の背中。臆病者はおれの方だ。
今まで何も怖くなかったさ。死んでも、殺されても、怖くない。多分、今も。
でも、死んだら…殺されたらどうしよう。
ナミが死んだらどうしよう。
ナミが殺されたらどうしよう。
病気にかかったナミの熱いからだ。冷や汗のにおい。
思い出しても寒気がする。
何を手に入れても変わらないと思っていた。
今はこのザマだ。
おれを置いていくなナミ、おれも連れて行け。お前の行く先々に、おれを
連れて行け、どこにでも
このヤマイを治さないなら、この苦痛と一緒におれを連れて行け
連れて行け、どこにでも
いやでも連れていくから覚悟してろ
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