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みどりのおはなし
ぼんやりと空を見ていた。
空は灰色の雲がかかっていて、少し風が強かった。
雲が早足で過ぎ去っていく。
ああそういえば故郷の空もこんな感じだったような…
別に何の執着も愛着もないけれど。
こりゃもうしばらくすると雨が降るか……参ったな。おれが見張りの時に限って雨が降るのは勘弁して欲しい。
おれは雨が嫌いなんだ。鬱陶しいし、足場が悪くなる。視界が利かなくなるわ、音には鈍感になるわでいいことない。
…もっとも、嫌いだの何だの言ったところで降らなくなるわけじゃなし、雨が降らなきゃ降らないで困ることには変わりねぇんだけどさ。
ああもうどうでもいい、おれは眠たくてたまらねぇ。眠たくなくても眠たいんだ。自分でも何言ってンだかよく分からねぇけど、ともかく俺は眠いんだよ。
今までろくに眠った事なんて無かったからかな。
おれは村を出てから眠らなくなった。
寝首を掻かれるような物騒な仕事を生業としてたもんだから、いつでも気を張っている必要があった。どんな小さな物音にも敏感に反応する聴覚と、微かな空気の変化を嗅ぎ取る嗅覚が発達した。
そうしていないと、死んでしまうから。
小さな物音にも飛び起きて、少しの変化にも頭の中で警報が鳴る。
人を殺すものというのは、群れていては成り立たない。他人に弱みを見せるということは、すなわち即「死」につながる。おれはそういうのを気が休まる間もない瞬間の中で知った。
海賊狩りだの何だの言われているが、実際におれがぶっ殺した人数というのはたかが知れている。両手で用が足りるほどの人数だ。おれが殺した人間は、おれに殺されたがっていた。おれの前に立つというのは、そういうことだと知っていた筈だから。
おれは逃げ惑う連中を追いかけて行ってまで殺すようなヒマ人間じゃない。
眠っているおれは、そういう連中のことを思い出す。
何故おれの前に立ったんだろうか。
命のやり取りになると分かっているからこそ、おれの前に立った。
剣を向け、銃を突きつけ、鎖を放った。
おれを殺す事と自分たちが殺される事は、連中にとって等価値だったんだろうか。
今までそんなことを考える余裕なんて無かった。だから考えたことがなかった。考えている間に殺されるような世界におれは居た。
周りの人間は全て敵だった。
……だからどうだって事もなかったが。
そんなことよりももっと大事なことに眩んでいた。
それは光り輝く残酷な約束。
世界一の剣士、それは人殺しの称号。この世はそういう世界だ。生きている者こそが勝者。三本の刀はスポーツの器具じゃない。人を効率よく殺すための武器だ。
小さな頃は命のやり取りの意味は漠然としていた。
死は俺の身近にあったが、自分自身からは遠かった。自分がいつか死ぬことは分かっていたが、いつ死ぬのかは分からなかった。
おれはそんな状態で抜き身を握り、刃を他人に向けた。
その時はその時なりに真剣だった。自分の死ぬ時期は自分で決める物だと思っていた。それが己の正義であり信念だった。
今考えればずいぶん馬鹿げている。この世はそんなに呑気な時代じゃない。おれはそんなに強くもなかったし。
……風が幾分強さを増して俺の短い髪をもてあそぶ。
腕の手ぬぐいの端が大きく揺れた。
混沌とした脳味噌の中で、ずいぶん支離滅裂なことを考える。
こんな事を考えていると頭の中にいる怪物にまた喰われてしまいそうだ。喰われるとおれはひどく眠りが浅くなる。怪物に「不安定の思考」を喰われてまた慢性的な睡眠不足。いつまで経っても治らない。……職業病と言ってしまえばそれ迄だがね。
……ああ、今まで何を考えていたんだっけ?
そうだ、世界一の約束、人殺しの手応え、自分の死、それから・それから・それから…なんだったかな。
全部どうだっていい。
おれはただ眠たい。
今まではこんな風に眠ったことはなかった。深く眠ったら死ぬから。
今は好きなだけ深く眠れる。好きなときに。でもまともに眠れることはない。船の上で、仲間の側で、誰に殺される心配もない安全な場所で、おれは眠れない。
眠ったら死にそうだ。何かに取り殺されそうだ。
いやちがう、眠っていると自分で自分を殺したくなるんだ。
おれはずいぶん不安定だ。
だから何も言わない。
言うと余計に不安定になる。
……言ったって聞く奴なんざいねぇしな。
★★★
ウソップはおれの向かい側で、機嫌良く実験器具の手入れをしていた。薄暗い船室の外では、もうしばらく前から雨音が聞こえている。
何度目かのあくびをしたおれは、のんびりと過ぎていく時間の端に立っていた。
少し前の自分からは考えられないような安らかでご機嫌な「退屈」の中にいる。こんな時間をもう一度感じることが出来るとは思ってもみなかった。だからおれはこの「退屈」を思う存分堪能している。もう二度と来ないかも知れない「退屈」。おれは結構「退屈」ってのが好きかも知れない。
……ああそういえば、この船には「退屈」との付き合い方をよく知ってる奴が一人居たな。
その付き合い方が合ってるとは言わねぇけどよ。
「どこに行くんだ?」
「便所。」
「ちゃんと便所まで行けよ。海にやるとまたナミに怒られるから…」
こっちを見もせずに、ウソップはそう言った。
視線を限りなく下にやる。自分のつま先だけを見て階段を上がる。ドアを開けると小雨が部屋に舞い込んだ。所々キシキシと音が鳴る。潮と水にやられた船の甲板は白く変色したり、苔が生えたりしていた。おれは其処此処が修繕されたり補強されたりしている船の縁を思いながら、自分の黒いつま先だけを見て歩いた。ああ退屈だ。
雨を避けるように小走りで薄暗い倉庫に入る。二・三歩目に、自分のつま先にふかっとした黒い物が当たった。……当たったと言うよりは踏んだという方が的確かな。
「お、悪ぃ…」
ぱっと足をどけて短くそう言った後に、その黒い物がなんなのか解って謝ったのが無駄になった。
「このクソ剣士……おれの一張羅をよくもその汚ねェ足で踏みつけやがったな!」
「…うるせぇ、変なところで寝転がりやがって」
「日なたぼっこは手軽にビタミンDを補給できるんだぞ!」
「この雨の中でか?寝ぼけてんじゃねぇよ」
構うのもばかばかしくてさっさと便所に向かう。『黒い物』はブツブツ言いながらもそれ以上突っかかってくることはしなかった。
ちらりと振り返ると、まだブツブツ言いながら煙草の煙を噴き上げている。
「チッ……またナミの部屋の上でマリファナ噛んでやがるのか……」
便所から戻ると、さっきの場所に『黒い物』は転がっていなかった。
そこには煙草の燃えカスと、どこかの浜の砂が落ちている。
足の下でザラザラと鳴る砂が、自分たちが「サンジ」と呼ぶ者になっていたような気がした。
「紫外線は肌に悪いから…砕けたんだ」
おれはその砂を足で何度も散らし、もう二度と「サンジ」に成らないようにする。
足の下で砂が鳴る。
コイツは浜の砂。
おれは船員。
浜の砂は二度のあの不幸な男にならない。
人殺しは人喰いを哀れんで、誰にもたれ掛かれない自分を恨んだ。
きいろのおはなし
ぼんやりと夢を見ていた。
目の前には煙草の燃えた後に浮かぶ雲。
鼻が痛くなる霧が掛かっている。
足下の床の下にはお姫様が二人。
楽園のお姫様達は優雅にアフタヌーン・ティ。
お姫様に恋したコックは同じ空気も吸う事が出来なくて、いつも白く汚れた空気を吸い込んでは吐き出している。
お姫様専用の空気は透明。
身分違いの恋。
……いや、種族違いの恋だな。
人間と、人喰いのバケモノだもんな。
そりゃ叶うはずがねぇさ。
誰とも上手くいかない。
ジジイも壊しちまった。
この上ナミさんまで壊す気か、おれは。
おれは側に寄っちゃいけねぇんだ、誰の側にも寄っちゃいけねぇんだ。
だって、壊して、しまうから。
どこかに壊れないほど強い奴は居ねぇかな?
おれが触っても壊れねぇほど強い奴は居ねぇかな?
そんな馬鹿なことを考えて、おれは例えそんな奴が出てきても絶対に彼女を離したり出来ない自分のサガを呪うしか仕方がなかった。
おれはきっとナミさんを壊し尽くすまで飽きない。
まさか「壊れてしまった彼女」が見たいんじゃねぇだろうな?
自分の中に存在する悪魔のような恐ろしい「満たされない心」を抱えて、誰かがこの可哀想な自分を助けてくれればいいのにと、いっそうバカで間抜けなことを考えた。
バケモノ
バケモノ
バケモノ
ああもう、誰かおれを殺してくれ。
すっぱりと諦めるにはそれしか方法がなさそうだ。
ウソップでもゾロでもいい、ただおれを殺してくれ。
助けてくれないのならおれを殺してくれ。
もう嫌だ。
自分が誰かを壊すのも嫌だし、自分のために誰かが狂うのもご免だ。おれさえいなけりゃ誰も不幸にならずに済んだんじゃねぇのか。ジジイも足を無くすことはなかった。ナミさんも狂うことはなかった。ルフィだってもっといいコックに巡り会えてたかも知れない。
おれが居るから、全て狂ってる。
おれが居るから!
……畜生!
★★★
「…あ…色ボケ」
「……おれは今機嫌がクソ悪ィんだ、ぶっ殺されたくなかったらとっとと出てけヘボイモ。三つだけ時間をやる、存在抹殺されたくなかったら物理的に消え去れ。」
キッチンに陣取り殺人的な目つきをしている年季の入ったジャンキー相手に、そいつは全く怯むこともなく半分眠ったような寝ぼけ眼で「なんか喰うもんねぇか」と言った。
「…人の話を聞けないクソはカルくぶっ殺しちまうか?コノヤロウ」
「ウルセェ、仕事しろクソコック」
「聞こえねぇのかクソ野郎、機嫌悪ィっつってンだろが!あと夕飯前に物を食うんじゃねぇって何べん言ったら解るんだクソ腹巻き!」
「食いたいときに食うんだって何度言ったら解るんだ色情魔!」
「しっ…しきじょ……………あほらし。」
「…何だと…?」
「…飽きたってんだよ。
お前をからかっても仕方ねぇな。何を食うんだ?軽けりゃ作ってやる。」
白目をむいて青筋を立てて抗議する剣士に、番茶をちゃちゃっと出し気分を入れ替える。今から作る料理に、悪意と懺悔が混入しないように。
「いちいち会話のきっかけにケンカ売るんじゃねぇよ、身がもたんわ」
フライパンを壁から取り外して、軽く振った。卵でも焼くかな。
「会話のきっかけに口説く奴より健全だろが」
「…………へっ、言うねぇ」
コンロに火を付けようとすると、背中から声が掛かった。
「なんだ、あるじゃねぇか。これでいい」
振り向くと、ゾロがアップルパイを作った余りのりんごをかじろうかという寸前だった。
おれは底抜けに図々しく失礼な行動に、すっかり呆気にとられてじいっとそれを見ていた。
ゾロがおれの視線に気付き、一瞬眉をひそめ、自分の持っているりんごを見て「ああ、そうか」と言った。
「おら、包…」
そう言って包丁を差し出そうとしたおれは、又呆気にとられることになった。
パシッ!!
結構な音を立てて、ごつい手の中で瑞々しいりんごはまるでチーズのように容易く真っ二つになった。
「……………………」
「…いらんのか?…なに白目剥いてんだよ」
おれは手渡されたりんごを見て、半分に割られたりんごを見て、自分に与えられたりんごを見て、鼻の奥がツーンとした。
「……お、おい……」
「なんでもねぇ…ちょっと、昔のことを思い出しただけだ…」
椅子に腰を掛け、テーブルの上に付いた肩肘に隠れるように顔を隠し、おれは呆然と立ちつくしてりんごをかじるのも忘れたゾロの視線から逃れるように縮こまった。
後から後からわき出てくる涙の意味が、自分でも分からない。
ゾロがりんごを囓る音が少し経ってから聞こえ、もう一度その音か聞こえなくなってしばらくして、面倒臭そうにゾロの声がした。
「りんごは幸福と知恵を与えてくれる実だそうだ。食えば幸せになれる。早く食っちまえ」
「……テメェが半分食っちまったじゃねぇかよ……」
「人間幸せになりすぎるのは良くねぇんだ、感謝しろ」
「……お前と分ける幸せなんざ、お断りだね……」
「…そうかよ」
呆れたような面倒臭い声がそれっきり聞こえなくなって、食堂のドアの閉まる音がした。
おれは自分の目の前に転がる赤い実を手に取ろうとした。りんごの汁がつるりとりんごを滑らせ、切断面から床に落ちた。
おれはそれを見て急に可笑しくなって、くっくっくっくと笑った。
りんごを拾い上げ、ゴミ箱に捨てようとして、思い直し、海水の汲み置き(皿洗い用)でりんごを洗って一口だけかじってゴミ箱に捨てた。
りんごは塩の味しかしなかった。
潮の味もしなかった。
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