SUNSET
船長と航海士
わたしは、彼の後ろ姿が好きだ。 彼の後ろ頭が好きだ。 つんつんした髪とか、細くて浅黒い首とか、意外と広い背中とか。 そういうのを見てると、言葉が出なくなる。胸が締め付けられる感じがして、目の前が歪む。 振り返らなくても、彼がどんな表情をしているのか、だいたい想像が付くようになった。 ああ、笑っているんだなとか、怒っているなとか、わくわくしてるなとか。 ……そういえば、わたしは彼が泣いている姿を見たことがない。 悔しがって嗚咽を上げているところを見たことがない。 いつもにこにこ笑っている。怒るときには怒るけど。
「ルフィ、ちょっと、ほら、もう!じっとしてなさいよ。」 しゃきしゃきしゃきしゃき 「目を切るわ、じっとしてないと」 しゃきしゃきしゃきしゃき ビビがルフィの麦わら帽子を優しく抱えながら、そう言った。 しゃきしゃきしゃきしゃき 「…ったく、こまめに手入れしないから。見て、ほとんど目にはいってる」 しゃきしゃきしゃきしゃき ハサミの乾いた音が、部屋に響く。外は雨で、部屋には三人だけ。ルフィの髪を切っている。 ルフィは目が痛いと言って女部屋に来た。そう言えば前髪が彼と会った頃より少し伸びていた。 過ぎてゆく時間が止まったような冒険の中で、彼の手入れされない髪だけが時間を刻んでいる。時間を確認させてくれる。 「目を傷つけたら失明するのよ」 ビビは目をつぶって眉間にしわを寄せているルフィにそう言った。 「…シツメイってなんだ?」 「目が見えなくなる事よ。目が故障してしまうの」 赤いベストにぱらぱら落ちている髪を拾いながら、ビビは言い聞かせるようにゆっくり言った。 「ほー、それは困った」 ちっとも困った風ではないように、のんきで気楽な声がする。 「ったくもう、バサバサじゃないの。サンジまでとは言わないけどもうちょっと手入れなさいよ」 「ああ、うん」 全く気にも留めていない適当な返事。きっと頭の中では全然別のことを考えているのだわ。 ……わたしはこんなにアンタのことばかり考えているのに。 何だか少し卑怯なことをされているような不思議な嫉妬感に捕らわれた。 「…ビビ、サンジが呼んでない?」 髪を切る手を止めると、微かに誰かの声がした。 「……?もうおやつの時間?まだちょっと早いのに。」 不思議そうに見上げるビビの手から、麦わら帽子がするりとずり落ちそうになる。 「ちょっと様子見てきてくれない?髪、切り終わったらすぐに行くけど」 さく。ルフィの髪の一房が重力に従ってふわりと落下した。 「ええ。……急用かしらね?」 腰を上げ、ルフィに帽子を渡してビビは軽やかに階段を上っていった。 足音がゆっくりと雨音に混じって消えてゆく。 目を閉じながら、ルフィはそれをじっと聞いていた。 しとしとしとしと。 ざぁざぁざぁざぁ。 しとしとしとしと。 ざぁざぁざぁざぁ。 不意にルフィが口を開いた。 「今はどうだ、嫌なことないか」 目を細め、すぅと息を吸い込んで「何よ、急に」と言った。どういう風に声を出したらいいのか…よく、解らない。 「この船、居やすいか?」 ちゃきちゃきちゃき、銀色のハサミが黒色の髪の先を駆逐している。 「……ええ、退屈だけはしないわね」 「後悔してねぇか」 なによ、らしくないこと言うのね。 少し面食らっちゃうわ、こんな事一度も今まで言わなかったのに。 「……アンタが無茶する度に後悔してるから、後悔するのに慣れちゃったわよ。」 呆れた声でまた少し、彼の髪を切った。 シャキリ。 「…………そうか。」 らしくない、落ち着いた声。 ずいぶん大人びた、受け答え。 「どうしたの?急にそんなこと言い出して。…何かあった?」 そう聞いたわたしの指先が、ぎくりと止まった。ルフィがいきなり振り向いたのだ。 「ちょっ…!危ないじゃないの!!目に当たったらどうするつもりよ!!」 「おれは、どうしたらいいのか解らねェ。」 まっすぐ、わたしを見ていた。 その瞳が、まるでわたしの「何か」を射抜くように、とても鋭い光を放っていた。 「な……何が……」 「サンジも、ナミも、何を考えてるのか、おれには分からねェ。 二人とも泣いてるのに、なんであんな事するのか、おれには解らねェ。 辛いのに、なんでするんだ」 腕を掴まれる。軽く揺すられて、持っていたハサミがかしゃんと音を立てて床に落ちた。床には厚いカーペットが敷かれていたから、床には傷が付かなかっただろう。 ルフィの身体や服は、落ちる髪を受けているシーツからこぼれた髪が、たくさん付いていた。 「……辛いから、するのよ」 ルフィの短いまつげは、しばらく下がることがなかった。 手に込められている力は緩まることも強まることもなく、わたしに向けられている視線は逸らされることなく増やされることなく。 「…わからねェ」 ポツリと呟く彼の視線は、すいと横に逸らされた。……滅多に人と喋っているときに逸らすことがない彼の視線が。 「……辛いことから逃げるために、もっと辛いことをするのか?」 「そう……へんね。」 自分でもおかしな事をしていると思う。多分『彼』だって同じ事を思っているに違いないわ。 だって、どうしていいのか解らないのよ。 あなたに抱かれたいと思うわ。身体も心も、あなたに抱かれたいと思うわ。 でもそれは、駄目なのよ。望んじゃいけないのよ。わたしは望んじゃいけないのよ。 だって、それを望んでも、彼はわたしを抱いてくれるのだもの。寂しさも、嫌気も、自己嫌悪も、過去の傷も、話す前に解ってくれていながら、わたしを、抱いてくれるのだもの。 そんなに優しい『彼』の為に、わたしはわたしを傷つけ続ける。そうしていれば、少しでも救われるような気がする。 嫌なわたしが傷つけば傷付くほど、心が少し軽くなる。 それは、心を落ち着ける。 首筋のキスマークは凶器。鏡を見る度に見えない血が噴き出す。 『彼』の匂いは狂気。髪が揺れる度にわたしの肌が痛みを訴える。 指に残る感触は驚喜。欲しくてたまらなかった誰かの確かな存在。 「変だろ? おれもヘンだ。どうしていいのか解らない」 そっと頬にキスをされた。抱きしめられて、もう一度キスをされた。 「…はは、サンジの匂い…」 首筋をゆっくり撫でられて、涙があふれ出てきた。 どうしていいのか、どうしたらいいのか、全く見当も付かない。 ただ、みんなが仲良く、居れればそれでいいはずなのに! どうしてこんなにもうまくいかないんだろう。 どうして何もかもうまくいかないんだろう! 「ナミとキスすると、サンジの匂いがする」 もう一度、ルフィはわたしにキスをした。 「……どうして、キスしたの?」 唇を、灼けるように熱を持つ唇を、指で押さえながら、涙も拭かずに訪ねた。 「………………………………サンジと同じだ。」 シーツをはねのけるようにして、ルフィは部屋を出ていった。 部屋を出ていく前に、一言だけ、掠れる声でルフィは呟いた。まるで独り言みたいに。 「サンジも、おれの匂い、ナミから匂うんだよな」 部屋からルフィが出ていった後、上の部屋で賑やかな声が聞こえた。 その賑やかな声の、サンジとルフィの一つ一つの言葉がずいぶん鮮明に聞こえて、わたしは泣いた。 どうしてそんなに泣いたのか、わたしには解らない。 もう、ただ、泣けたのだ。 それはもしかして、ルフィの後ろ姿があまりにもらしくなかったからかも知れない。 あの後ろ姿に、わたしは救われた。 物言わぬ後ろ姿。 今度はその後ろ姿が、わたしを突き放す。 その後、ビビに何度も「調子が悪いのか」と聞かれた。 …夕食も喉を通らなかった。 そして、真夜中にまた『彼』に抱かれた。 何度も、何度も、キスをした。 『彼』は少しも顔をしかめなかった。
SUNSET=日没
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