遠く低く流れる雲が呼ぶ 或いは「Help!」
グルグルとゴムゴム
真っ白な世界。 ずいぶん昔……何かがあった世界……。それは事件。或いは物質。それとも構造? まぁとにかく何かがあった世界だ。 それ(昔の「何か」)が崩れ去って、苔むすほどに時間の経ったまっ白な世界。 まっ白な世界に色が入る。 まずは地面の色。それから空の色。建物の色。レンガの色。木々の色。時間の色。風の色。 誰かが立っている。道に、おれに背を向けて立っている。 ……いや違う。向こう側に歩いているんだ。つまりおれから離れて行ってる。 おれはそれをただ見つめている。何を言う気にもなれない。……何も言えない事に代わりはないけれども、おれはおれの意志でそうしてると思う。……決して、勇気がないのではなく。 目の前に透明な仕切があるわけでもない。もちろん声が出なくなったわけでもない。 そいつはおれに気付いているのか居ないのか、全く振り返る素振りすら見せない。ただ黙々と前進し、どこかに向かっている。そいつの向かう先がどこかなんておれには見当が付かない。 歩みを止めず、そいつは歩いて行く。 どこへ? 何をしに? 何のために? 何故? おれは何も言わず、何も答えを出さず、ただ黙々と歩きながら遠くに消えていくそいつの背中を見ている。 ポケットから煙草を取り出し、火をつけようとマッチを探す。 マッチは、湿っていて使い物にならなかった。 おれはマッチを箱ごと捨てた。 消えゆく背中に、おれは何か声を掛けようとしたけれど…いい文句が浮かばなかった。 あれ?前に似たようなことがあったんだが…その時はなんて言ったんだったかな。 ……ああ、その時はそいつ、振り返ったんだっけ……
xxxxxxxxxxxxx そこで夢が終わった。 「……んだよ…寝覚め悪ィ……」 ゆっくりと体を起こして、ハンモックから降りた。まだ全員眠ってる。……朝の四時過ぎだ、こいつらが見張りの番でもないのに起きてる方が気持ち悪い。 でっかいあくびを一つして、よれよれになったカッターシャツの襟を正す。昨日はなんで服のまま寝ちまったんだっけ?……まぁいい。 耳を澄ますと、遠くの方で低く唸るサイレンが聞こえた。 陸が近いのか、他の船か、何かの動物か…… そんなことを思いながら、ひとりでに引っ張られているように足が食堂に進む。 ……ったく、因果な身体だよ。 我ながら呆れ顔で、東の空がまだ少しも明るくないのを見た。日の出まで、後20分ってところかねぇ。 煙草を取り出して火を付ける。ぼんやりと口の周りが暖かいような感覚が湧きあがった。夏はごめんだなあ、これ。 風を受けて、自分の服の端がはためく。その音がずいぶん乾いていて、なんだか急にもの悲しくなった。 いつの間にこんなに涙腺弱くなったんだか。 涙が本当に流れるわけではなく、ほったらかしにしておいた心のどこかが泣いているような、何か強大な力に押しつぶされるときのような。 そんな、心臓を「ゆっくり締め付けられるような居心地の悪さ」が、体中を駆け回って、背中からどこかへ抜けた。 水平線が劇的に光って、太陽が頭をのぞかせた。 そのまぶしい光に眉をしかめ、細い目で今日の太陽のツラを拝んでみる。 きらきらと光って、光りすぎていて、闇に慣れていた目を灼かれる。灼熱の光が、瞼を突き抜け眼球を素通りし、脳髄も頭蓋骨も突っ切って、まるで何の障害もないようにこの身体の真後ろに注いだようだった。 「・・・・相変わらずヒデェ元気だな、この太陽サマはよぅ」 一言ぼやき、身体を反転させて朝食のことを考え出した頭は、急停止する。 「サンジ、メシ。」 ぼんやりとした顔の船長は、顔も洗っていないのか眠たそうにそう言った。 「・・・・・・・・・・・・・うるせぇ、てめぇの足でもかじってやがれっ」
xxxxxxxxxxxxx 「…………おい、仕事をさぼるのはよくねぇぞ」 「……俺は今ビョウキなんだよ。マッキーに遊んでもらえ、ケンゴー殿に」 ミカン畑の前にうずくまって煙草を吹かしていたおれをめざとく見つけたのは、やはりというか、ウソップだった。……ったく、お節介ヤロウめ。 「メシ作るのがオマエの仕事だろーがよ。」 「うるせぇ、毎日毎日五回も六回もメシばっかりつくってられっか。おれは正当な休暇時間を要求するものであるぞチキショー」 一気に喋ってしまってから、また煙草を吸う。 吸い込む唇が微かに痺れているような気がした。 これはおれが一人で居たいときのシグナル。 「……なに一人でキレてんだよ。拗ねんなよな、いい大人が。」 ウソップは呆れたようにすとんと腰を下ろした。……こいついったんこうなるとメチャメチャ腰が重くなるから嫌いだ。 「別に。」 一言素っ気なく言う。 長っパナはそれで理解する。器用で頭のいい奴だから。 「…まぁ、いいけどさ。」 鞄をごそごそとやり、何かの糸の束を取り出してそれをおれに渡す。…糸巻きでも手伝えってか? 「おい、ハラマッキーに手伝ってもらえ。おれはまったりオヤスミしてぇ」 糸の束をぽんと投げると、すぐにまたぽんと投げ返ってきた。 「……ウソップ。」 「いいじゃねぇか、持ってるだけなんだからよぅ」 そう言って、ウソップは糸(って言っても毛糸くらいの太さはあるかな)を巻き始めた。 麻色の糸は、ゆっくりとしたスピードでウソップの方に巻き取られていく。 おれは諦めて、その糸をほぐしてはウソップの方へと糸が引っ張られていくのを、殊更つまらなそうに見ていることにした。 しばらくそうしていると、甲板の一番先に人影が見えた。……まぁ、誰かはよく分かってるけど。 「……ウソップ、やっぱりパスだ。ここは寒い。おれ部屋行くわ。」 ひょいと立ち上がろうとしたおれを、ウソップは気軽な視線を向ける。 「…みっともねぇなァ…五つのガキじゃねぇんだぜ。どんと構えてな、戦うコックさんよ。」 その声に、おれは…………言葉を失った。 「…ちっ!」 どすっと音がするくらい荒っぽく座った。その拍子に煙草の灰が床に落ちる。 その灰が風に弄ばれて、カタチが消えていくのをおれは見ていた。 どこも見ることが出来なかったから。 「……ナミは来ねぇって。さっき女部屋でビビとなんか喋ってたから」 ぽかんとウソップの方を見て、急に極悪のおれがむくっと底の方から起き出した。 「ウソーップ、美しくねぇなぁ?そういう変な気の回し方はぁー?悪いのはこの鼻かー?んー?」 「はがががががが……ほいっ!はんぎっ!もげるっマジもげる!!」 ウソップは、両手をぱたぱたと振り回して空中を泳ぐような格好をした。 その様子を見ていたのか、船首に居た奴はミカン畑前のおれ達に手を振った。 「…………この際だから腰据えて話し合ってみねぇの?」 気楽な声で他人事な意見を吐き垂れた馬鹿の頭を、おれは一応殴っておいた。
xxxxxxxxxxxxx 「?……なんだ、珍しいツーショットだな。」 ゾロはそう言いながらタオルで汗を拭きつつ食堂に入ってきた。 「メシメシ言うからな。牛乳もうヤベェからちょっとしたデザートを・・・」 「この寒さでか?」 「古いんだよ……っておい、オマエばかばか酒空けるなよ。海水飲んでろ底なし!」 おれはつかつかと歩み寄り、ゾロからワインの瓶をぶん取った。ゾロの手がむなしく空を掻く。 「……ケチケチすんなよな、酒の一本や二本。」 ブー垂れるゾロに人差し指を突きつけながら、おれは説教を始める。 「オメェな、一日一本ペースで空けられたら買い出しにいくおれの負担が増すばっかりなんだよ!ボケ! しかもこりゃ祝い用の高けぇ奴なの!女性用なの!ナミさんとビビちゃん用なの!てめぇが飲める値段のもんじゃねぇの!分かったら海水たらふく飲んどけっつーの!」 呆れ顔になるゾロを放っておいて、またワイン棚にそろっと瓶を寝かせた。……まったく、この船は金庫にでも入れとかなきゃおちおち料理もできねぇのかヨ。 「おいサンジ、まぜ終わったぞ。次は?」 「何回言ったら分かるんだよ、帽子取れって。クリーム飛んでそこから腐るぞ、麦藁は」 つまらなさそうな顔をしてゾロは椅子に座り、頬杖を付いて誰を見るでなくボーっとしている。……狙ってやがるな、こいつ。 渋々と帽子をテーブルの上に置き、また泡立て器を握ろうとするルフィの手を、おれは素早く止めた。 「洗え。食中毒になったらどうする」 「…なんだそれ、おれの帽子が汚ねぇってことか?」 ルフィがじろりとおれを睨む。 「当たりめぇだ。年がら年中かぶってんだろうが。オマエそれちゃんと手入れしてんのか?たまには洗えよ。大切なんだろ?」 言いながらおれは子供の手をそうするように、ルフィの手を水道口に持っていって洗った。 その様子を、ゾロが疲れたような目でじっと見ていた。 「麦藁洗うのか?カタチ崩れねぇか?」 「水に浸けてごしごし洗うんじゃねぇよ。濡れた布で叩き拭きすんだよ。」 「タタキブキって何だ?」 「あーもーうるせぇな、後で教えてやるから手ェ動かせ! 今度はそこのシナモン入れ…だー、それ違う!そりゃコショウだバカっ!!」
xxxxxxxxxxxxx 夕食を食べ終わり、それぞれが思い思いにクソ寒い甲板でくつろいでいる。 ビビちゃんはウソップの実験みたいなヤツの嬉々とした説明を聞かされてる。イヤな顔一つせずに……一生懸命この船に馴染もうとしてんだなぁと、煙草に火を付けた。 ゾロはいつものように目をつむって腕組みをしながら眠っているように見える。なに考えてんだろ?田舎にでも残してきた恋人のことか? ルフィはいつものように船首にへばり付いて、空に浮かぶ白い月を見上げている。頭にはいつもの帽子がない。さっき陰干しをするとか言ってたから、どっかへ置いてきたんだろう。 ……と見回して、ナミさんの姿が見えないのにやっと気付いた。 「…部屋かな…」
片手にはグラスが6つ。 片手にはワインクーラーに収まっていない葡萄酒が一本。あと、軽いつまみがちょっと。こんなに寒いから暖かい物にしようかとも思ったんだが。 普通はあんまりこの部屋には来ない。 何故かと問われても自分でもよく分からんけど、なんとなく避けているような気もする。 でも今日は珍しく自分から足を運んでいる。 ビビちゃんが部屋に居ないのが判ってるからかね。……まぁ、別にどうでもいいけど。 両手がふさがったまま床のドアをノックする。……自分の器用さにオドロキだぜ。 「…はぁい、何?」 「ナーミさん、チョット飲みませんかー?いい月が出てますよー」 しばらくして、ドアの向こうで「まだ部屋にいたいの」と聞こえた。 「航海日誌ですか?じゃあ……」 早く上がってきて下さいね、そう言おうとする前に一言、言葉が耳に飛び込んでくる。 「入って待っててちょうだい。鍵開いてるから」 おれは躊躇して、一瞬どう断ろうかと思案して、細く深く息を吸い込み、嬉しそうな顔をして“サンジになった”。 「ナミさーん!」 ドアを開けると暖かな空気。バーのテーブルにグラスとワインを置き、つまみの入った皿にナフキンを掛けてナミさんを見る。 一瞬、とても疲れたような風に見えたが、それはすぐに霧散すると同時にいつものナミさんが現れた。 「ハイ、サンジくん」 「ハイ!ナミさん」 小さく手を挙げて、何でもない挨拶をする。 この船の清涼剤みたいな、何でもない仕草。 おれはドアを開ける前の名前のない不安なんて吹っ飛んじまったね。ナミさんのドアを開ける前はいつも少し憂鬱になるけど、開けさえすればこんなにも満たされるのに。 「……日誌?」 おれはナミさんの後ろに立ち、彼女の書き込んでいる本に視線を落とす。 「そーよ、日誌。みんなの健康状態から何から全部。…全く、ウチのキャプテンほど気楽な商売もないもんだわ」 「…………………………。 …あんまりやりすぎると身体、壊しますよ…」 むき出しの肩を抱くと、ほんのり温かな肌はうっすら汗ばんでいた。 「…?ナミさん……」 「うらっ!何さりげに触ってんのよッ!」 ミゾオチに裏拳が決まる。おれは少しせき込んで、彼女の頬が少し赤くなっているのに気付いた。 「体調、悪いんですか?顔が赤いですよ」 少しぎくっとなったナミさんは、ゆっくり笑うと意地悪するときの口調で言った。 「そりゃ、部屋に男の人と二人っきりなんですもの」 彼女は笑い おれは釈然としないまま 彼女の笑顔を見ている おれは何かを言おうとして 彼女の目を見ると 彼女は何も物言わず ただおれに笑い掛けている ただおれに笑い掛けている おれが役立たずだから 彼女はおれにただ笑い掛ける 微笑みが 鋭く牙をむいて おれを斬りつける 彼女の笑う目の前で おれはあっという間に死に向かう 彼女に笑い掛けられたまま彼女の前で彼女のせいで ああなんて幸せなおれ なんて幸せなおれなんだろう ゆっくりと瞬きをすると、彼女はにこりと笑うようにして、囁くように「襲われちゃうよ」と言った。 「……あなたに襲われるんなら本望だ」 そう囁き返すと、彼女は少しひるんで瞳の奥に翳った光を燻らせた。 おれはたまらず おれはとまらず おれはひるまず 彼女に襲いかかる。 彼女に両手を伸ばして、彼女の腰を抱き、彼女の湿った首筋に唇を這わす。 彼女は昔からそうして欲しかったことを知っているから。 意気地のないおれは、こうすることしか出来ずに、ただ彼女の身体を抱く。彼女はおれの身体を抱き、親切なことに心には触れてくれない。 心に触れることがとても残酷だという事を知っているから。 彼女はおれが手を伸ばすと、いつもこうやって手を握りしめてくれるから、おれは彼女を愛しているんだろうか。 いや、それよりこれは愛か? そんなつまらないことを考え、おれは冷たい空気から彼女を守るように・彼女に守られるように、手近にあった彼女のコートを彼女に掛ける。 「暖かくしてな、何か暖かい物でも食べれば、すぐに良くなるから」 何か持ってくる。優しいふりを言い残しておれはそこから逃げ出そうとした。一刻も早く。 「……何がそんなに怖いの、サンジ君」 ひくりと肩が震えてしまう。 おれは、強く目を閉じ、細く息を吐き出し、深く息を吸い込んだ。 ゆっくりと微笑みながら言う。 「…食中毒かな?」 階段を上り、丁寧にドアを閉めて自分のふがいなさにため息を付いた。 本当に怖いのは……自分だ。 おれは“おれ”をコントロールできないから。
xxxxxxxxxxxxx 「おいキャプテン、昼のババロア冷えたぞ」 船首にいたルフィをキッチンから呼ぶ。 どうしても出来上がったココアをナミさんの部屋に持っていくことが出来ず、結局ウソップに頼んだ。 おれはまた逃げるように、ババロアにデコレーションをしながら何度か自己嫌悪に襲われる。 きれいに装飾されていくミルク色のババロアに乗ったブルーベリーソースが、殊更ゆっくりとババロアの斜面を流れていくのをじっと見つめていると、ずいぶんと寂しい気持ちになる。 ……ったく、楽しんで作れねぇ食事ほど嫌なもんはねェな。 嫌気が差しながら、ソースを掬っていたスプーンを銀製のコップに投げ入れた。小気味いい金属音がする。 「ノロロアーーーー!」 勢い良くキッチンのドアが開いて、ルフィが入ってくる。帽子はもう被っていた。多少はきれいになっているようだ。 「……ゾロじゃねぇよ」 怒る気力もなく、おれはそう静かに突っ込んでルフィに皿を差し出す。 「……ビビちゃんとその他大勢は?」 「ビビ風呂。ゾロ寝てる。ウソップナミんとこ。」 銀のスプーンがババロアに吸い込まれていく。 それは雲に突入するロケットのよう。 呆然とそんなことを思いながら居ると、急にルフィがババロアにスプーンを突き刺したまま口を開いた。 「おまえ、こういうの不器用だなぁ」 「ああん?完璧じゃねぇかよ」 きれいに着飾ったババロアは、味も保証付き……まぁまだ口に入れてねぇけど。 「不器用っていうか……不自由だな。」 そう言って、ルフィはババロアを口に入れた。 冷たくて美味い。 そう言って笑った。 「ほら、あれみたいだ。」 「……アレってナンだよ」 「雪」 ルフィは何もかも見透かしたようにそう笑った。 ルフィが何を思っているのか、何を考えているのか、その言葉に何の意味があるのか、おれには結局解らなかった。 ルフィが何を言おうとしていたのか解るのは、遠くの雲が随分低く重くなってからだった。
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