墜落する夢はしばらく見ない
ラバーメン×柑橘類×渦巻き+剣ゴー
静かな夜。 音の邪魔のない夜。 朝は買い出し、昼間は甲板の掃除、夕方は各自の持ち物の整理。 ゾロは早くから眠っていた。何処かしら何にも興味のないような奴だ、何の疑問もなく今頃夢の住人だろ。あいつは基本的にいつも何もいわねぇ。 ウソップは最後まで食事の後片付けを手伝ってくれていた。妙に神経質で気を使う、不安そうな心の欠片を抱えても笑う強い奴だ。 おれは煙草を一服。 キッチンの椅子が軋む。 波の音がする。 ランプの灯が揺れた。 こんな夜は静かな曲が聞きたい。ハープをつま弾く指が、ナミさんのものなら最高だ。おれはその隣で微睡んで、永遠を夢見る。 コーヒーを一杯。 随分昔の取り留めもない思い出が浮かんでは消え、ぐるぐると煙草の煙と一緒にキッチンを旋回する。 ふと、小さな囁き声が聞こえた。 おれは黙って耳を澄まし おれは黙って心を澄まし おれは黙って愛を済まし ただその途切れ途切れの言葉を黙って聞いていた。 だいぶ前から知っていた。 すこし前から知らん振り。 おれはおれに言い聞かせる。 「サンジ、おいサンジ、おまえは一体どうしたいんだ?」 問いかけるような、最初から答えの決まっている文句。 おれはただ黙るしかない。 黙って聞くしかない。 イトシイヒトの熱っぽい囁き。 目をつぶって。 心を静めながら。 耐え続けることが、意気地無しなおれへのささやかな復讐。
「ねぇルフィ」 濡れた目。 泣きそうな顔。 嬉しそうな声がこぼれる。 彼の古傷に彼女は舌を這わせた。 「愛してるわ」 「愛してるって何だ」 切り返す彼の優しい声。問いかけの意味も失いかけた、小さな呼吸。 「好きなのよ」 この言葉がどれだけ彼に伝わったのか、彼女には解らない。 ただ彼女はその視線で彼の全てをからめ取るように彼を縛り付けようとする。 彼女が一番その無意味さを知っていても。 彼女は彼に言う。 意味のない言葉に精いっぱいの勇気を貼り付けて。 「愛してるわ」 彼はもう一度何かを言おうとして、そのまま凍り付いた。 「ルフィ」 その名前を呼ぶ自分の脳の裏に、必ずくっ付いてくる笑顔。屈託無い優しさと解りやすい下心と、ひどく憶病でずいぶん強い彼の笑顔。自分に向けられる無償の愛情。 「お前、なに泣いてるんだ?」 彼の両手が、彼女の頬を伝う涙を拭う。 「……サンジ?」 彼は聞く。当然のように、彼女の顔を覗き込みながら。 彼女は震え、言葉を失い、目の前がホワイトアウト。 「あいつ、わりと強敵。多分おれよりナミのことよく解ってると思う。」 安易な降参とも取れる呟きの後で。 彼は彼女に熱っぽいキスをした。 「おれこんな事すんの初めてでさー」 なぁ聞いてる?彼は彼女の髪を掻き上げ、彼女に聞く。彼女は軽く頷き、彼の言葉の先を促した。 「おれに出来るの、これがいっぱいイッパイ。」 にいっと、思いきり笑ってその表情を張り付かせたまま、また彼女にキスをする。 何かの呪縛のような、重いキスマーク。 彼女には遠い。 彼は多分気付いているだろう。彼女のため息も、彼女の皮肉も、彼女のひきつり笑いも、全てが上の空だということ。 いつも重い心の先にくっ付いているのはコックの影。 むげに振り切れないのは、彼女の抱きしめて欲しい場所の抱きしめ方をよく心得ている上に、その抱きしめ方に少し、癖があるから。 サンジ自身も、ナミに抱きしめられたがっている。 彼女はルフィに好意以上の物を持っている。
それは もしかしたら 錯覚かもしれないけど 今は幸せな錯覚に惑わされていたい。 冷たい現実から目覚めたばかりだから、そのくらい許されてもいいんじゃない? 茫漠とした幻想に包まれていることで優しいコックさんが傷ついても。 ……なんて女……
脆い彼女を抱き留めてくれるのは、多分あの煙草の香りのするスーツ。 何度も麻薬のように与えられる快楽。 『ナミさん』 声が響く。頭の中にこだまする柔らかな音のトーン。 彼と居ると安心する。安心して、深みにはまっていってしまう。誰にも見せないで居れた自分自身が、崩れていなくなってしまう。ただ弱い自分だけが残る。 鈍い恐怖、鮮烈な強迫観念。 「ナミ」 耳元で囁かれる、熱っぽい言葉。自分の名前。 「ルフィじゃなきゃだめ」 命の恩人。掴んで離さないよく伸びる手。本当は自分の手かしら? 漠然とした単語の羅列が頭の中を支配して、口から出る言葉は一種類だけ。 「私がどこかに行けないように縛り付けて」 「何処にも行かないように、私を閉じこめて」 彼の三泊眼が丸く見開かれ。 「どこに行くんだ?おれも連れてけ」 冗談めかして(それでも微かに真剣な口調で)彼は微笑みながらそう言った。
「盗み聞き?結構なご趣味だこと」 「なあ、諦めたらどうだ?あいつは解ってくれないぜ、ナミさんのこと」 立ちふさがるサンジ。一歩も引かないナミ。船の外は白み始め、闇を薄める太陽が顔を出し始める時間。 「……どいて。私シャワー浴びたいの」 きつい口調は睡魔のパワー。力無い表情は良心の呵責。 「どうしておれじゃ?」 「……聞き分けのないコね、怒るわよ」 サンジはいつもの調子で「怒ったナミさんもステキだ」と、ナミの手を取った。 ぴしっ とりつく島のない拒絶。ナミはそうすることでしか自分自身すら守れないボキャブラリーの貧困さに呆れた。 「サンジくんは私のこと解ってるつもり?」 「…クソゴムよりは」 「ふっ……ずいぶん粗末なジョークね。 解ってないわ、何も。 私はルフィじゃなきゃ駄目なの。どんなにサンジくんが頑張っても駄目なのよ。」 その言葉を聞き、サンジは目を細めてすうっと細く息を吸い、思いつく最高の嫌味を吐き出した。 「……ああ、助けて貰ったから?」 ナミはその口を封じるように、力一杯サンジの胸ぐらを掴んだ。 「そんな下品な言い方はしないで頂戴!」 「なら!あいつとおれとどう違う!? 何故おれじゃ駄目なんだよ、どこがいけねェんだっ!!何が気にくわねぇ!」 掴み掛かるように、サンジはナミの肩を強く掴んで怒鳴るように言った。 しばらく、波の音と船の軋む音だけが船内に響くばかりになった。 「違うわ。何もかも」 ゆっくりと言うナミの瞳は何者の侵入も許さない、厳しい視線をサンジに送っている。 「ルフィはこんな風に言ってくれないもの」 (できるものなら全部話してしまいたい) 「あいつなら、きっと無理に振り向かせたりしないわ」 (あなたに抱き留めて欲しいと言えたら、どんなにか楽だろう?) 「放っておくんじゃないの?ずっと待ってるタイプ。犬みたいに。そこがいいのかしら私」 (どうしていいのか解らないのよ。どうすればいいのか教えてよ) 「……ふん…… ナミさんは魔女を気取るにはちょっと優しすぎる…やめた方がいい……」 サンジは軽くため息を付き、ナミから手を離して少し呆れたようにナミの目から溢れる涙を手で優しく拭った。 「そんなセリフは泣かずに言えるようになってから使うもんさ」 「私は泣かないわ、泣いているのは身体だけよ」 「どうしてそんなに意地を張る?辛ければ人に助けを求めたっていいのに」 聞き分けのないナミをサンジは叱るように抱きしめた。 「…おれが傷つくから?」 「……優しいのね……」 サンジに抱きしめられ、自分の心から力が抜け落ちるのがナミには分かった。遠い昔から、自分はこう誰かに抱きしめられたかったんだということを思い出した。 「私の心には透き間があるのよ。 ずっと昔から隙間がぽっかりと空いてる。 サンジくんはそれを丁寧に埋めてくれるわ。……自分の傷をいたわるように。 それを見てると怖いの。私がサンジくんの傷を広げてるみたいで…… …嫌になるわ」 ナミはサンジの身体に顔を埋め、細く小さな声で言った。出来ればサンジには軽く、薄っぺらく聞こえればいいという風に。 「……好きですよ」 唐突にサンジは囁く。あいのことばを。 「…だめよ、そんなこと言ったら……私はル……」 「その名前は聞きたくない」 もっと力を込めてサンジはナミを抱きしめる。その名前にナミを連れて行かれないように。 「……好きです…ナミさん」 「……………………」 「好き」 ナミは涙が流れないように食いしばることで精一杯だった。厳しい自分の視線がゆっくりとサンジに溶かされてゆく快感に打ち震えながら。 自分に向かう平らな炎。 痛みを伴う白。 目の前に広がる優しく暖かな「匂い」。 流されそうになる。抱きしめてくれる優しい男にどこかにさらっていって欲しくなる。 泣けたらどんなに楽か!! 「……だめよ」 それでもナミは流されなかったし、泣かずに断った。意地ですらなく、機械的に。 「……酷い女だ……」 そっとサンジは腕の力を抜いて低く呟いた。 「そ、ヒドイ女よ。だから少しは妥協して女を見付けることね」 (あなたを見てくれる優しいひとを。) 力の緩んだサンジの手からナミは力尽くで逃げだした。 一人取り残されたサンジは、自嘲気味に薄く微笑んで煙草を取り出す。 機械的に。
夕食。 メニューは船の周りをしきりに泳いでいた魚のソテー。 四人の男共はいつもと違って少しだけ静かで行儀良く食べている。 サンジは珍しく煙草を一切吸わずに料理を作っていた。 ルフィは珍しくテーブルに肉料理が載っていないのに文句を言わない。 ゾロはその二人を一瞥しただけで何も言わずに夕食を食べている。 ウソップは何かを気遣ってか、出来るだけ自然に喋ってはみんな均等に話を振っていた。 そんな軋む空気と歪む時間が終わる。 いつも通りのサンジの軽口一つで。 「おいマッキー」 「ああ?………んだよ、ソレおれのことか?」 方眉をピクンと跳ね上げ、ゾロはサンジを睨み付けた。普通でも十二分に悪い目つきが更に極悪になる。 「そうだ腹マッキー。」 更に怒らせるように、サンジは追い打ちを掛けてから、夕食の跡形付けを開始する。 ウソップとルフィはまたかという風にさして気にもせず食堂を出ていった。(きっと二人共が呼び止められて手伝わされるのが嫌だったに違いない) 「うるせぇセガの回し者。お前こそ何のつもりだその眉毛。“夢の配役”のコスプレかよ、だっせーププー」 しかしサンジはいつものようにゾロの挑発には乗らなかった。 「……男にもヒステリーってのはあるんだなぁ」 呆然とした声で言うサンジの身体は黙々と皿を洗う手だけが毅然としている。 「…………………ど、どうしたよ?」 ひどく面食らったように、ゾロはサンジの顔を覗き込んだ。 「ナミか?夕食に出てこなかったのは……」 そこまで言ってしまって、ゾロは黙った。自分の口が何か恐ろしい言葉を吐きそうに感じたのかも知れない。 「……なぁ……お前じゃ駄目だってのは、ひでぇ言葉だよな」 サンジはまたぽつりと言った。 皿と皿とのぶつかる音。 水の弾け散る音。 石鹸水がはねる音。 「………どうしたよ。」 ゾロは何も聞かないようにするのが精一杯だった。そういう風に話を聞いてやることが優しいことだとは思ったが、サンジは恐らく望んでいないような気がした。 『ああ、こいつは独り言を言う相手が欲しいのだ』 ただそこに居てくれるだけでいい。返事も場合によっては要らない。自分の言葉がそのまま自分に返ってこないようにするためには、誰かに言葉をぶつけるのが一番だから。 ゾロはその『自分に返ってくる自分の言葉』の痛みを少し知っていた。 だからサンジの言葉を聞かない。 聞かない振りをしてやる。 「……どうしたもんかねぇ」 サンジは困ったように、ひひひ……、と薄く笑い声を上げた。 「そうだな」 思い切ったようにゾロは立ち尽くしながら(棒立ちのまま?)切り出した。 「求めなけりゃ傷つくこたぁない」 それはゾロの優しい忠告だった。 彼は彼なりにサンジに優しくしてやりたかった。珍しく肩を落とした生意気なコックに。どんな言葉にもめげたことの無い、気楽でしなやかな仲間に。 「………ケッ、腰抜け剣士め」 吐き捨てられた言葉を聞いて、弾かれたようにゾロは食堂のドアを蹴り開けて出ていった。 「あら、怒っちまった」 にししし、とドアの方も見ずに忍び笑いをする。 その顔が一瞬強ばって、笑い顔が飽和した。 「……あいつも優しいねぇ、おれならこんな奴に優しくしねぇよ」 普通に恋が出来れば良かった。普通の女なら良かったのに。 何度も思う。 ナミがこうまで自分に似ていなければこんなにも安心して心を預けなかったに違いない。 自分の知らなかった心まで抱きしめられた。おれはナミさんと一緒にいたい。 それは或いは理性的な欲情。知的好奇心。陽気な航海士は軟派なコックたり得るのか? そこでサンジの思考が途絶えた。 静かなさざ波に混じって、愛しい人の囁きが流れてくる。 「……腰抜けはおれの方だ」 黙って聞くしかない。 イトシイヒトの熱っぽい囁き。 目をつぶって。 心を静めながら。 耐え続けることが意気地無しな自分へのささやかな復讐。 「…………………………………………………………………………………クソ喰らえ………」
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