暗い空



『 キッド 』


 「はいキッドくん、荷物」
 「うむ。リズにはよろしく言っておいてくれ」
 おれは登山靴を履きながら、パティからリュックを受け取る。いつもなら何所行くのとか、何しに行くのとか九官鳥のごとくにやかましいパティが黙ってリュックを差し出している不自然に、おれは少し居心地が悪い。
 「でもさ、ホントに丸腰で行くの? あたしだけでも連れてったら?」
 両腕を頭の後ろにやり、素っ気なく尋ねる声もやけに静かだ。
 「戯け。お前ら姉妹は二人で一つだ。それに今回の指令は荒事じゃない。心配は無用」
 「嘘つきィ。アシンメトリーになるのが嫌だってだけでしょーがー」
 靴べらを脇に置いて登山靴の紐をこれでもかと締め上げる。手持無沙汰のパティが引き笑いみたいなおかしげな声でそれを嗤っているような気がした。
 「もちろんそれもあるが……相当寒い場所だしな、肌にも悪い。それに、約束がある」
 おではそれがみっともないので素知らぬ顔で手早く靴紐を結んだ。
 「約束?」
 「二人を平等に扱うと。だからリズが居ないときはお前も留守番だ。逆だったらお前、怒るだろう?」
 紐の締め具合を確かめるように二・三度、ばんばんと足を鳴らす。ふん、少しきつく結びすぎたかもしれんが、まあよかろう。
 「……でも万が一キッドくんがピンチになったら、お姉ちゃん“なんで付いて行かなかった”って言うよ。あたしなら怒る。絶対」
 靴べらをパティに渡そうとそちらを向くと、彼女はいつものように夜空にきらめく星みたいな好奇心と活力に満ち満ちた力強い瞳で唇を尖らせている。
 「では約束だ、絶対に危ない真似はしないし、必ず無傷で帰ってくる」
 思えばお前たちと会ってからというもの、デスシティを一人で出ることなどなかったな。……と、そんな言葉が口をつい出そうになったが、場にそぐわぬ感傷と似合わぬセンチメンタルをからかわれそうな気がして止した。
 「……ふうん? じゃあ、右手出して」
 すい、と右手が持ち上げられパティの顔に引き寄せられたかと思うと、アーモンド型の柔らかな唇が掌に押し付けられて、おれは正体なく戸惑うばかり。
 「な、なななにをする!?」
 熱い唇がするり離れても続く手のひらの拍動が痛痒くて指がうまく動かない。なんてことだ。なんてことだ。なんてことだ。
 「懇願のキッス。帰って来いよってこと」
 「〜〜〜っ……だから、そんなに大げさな事じゃないと何度言わせるんだ!」
 顔が火照ってくるのが解る。いやな汗をかきそうだ、何たる醜態か!
 「――――――――そ? でもなんか、帰ってきそーもないからさ」
 えへへー。と相変わらず表情の読めない満面の笑顔でパティがトン、とおれの背を叩いた。
 「世界中の誰があんたの敵になろうと、あたしとお姉ちゃんと死神様だけは、あんたの味方だからね」
 その時、パティの瞳を覗き込む勇気がおれにあったのなら。いつも加減なんてしないパティの“トン”に気付ける機知があったのなら。帰ってこない、という言葉の突飛を訊ねる鈍感さがあったのなら……
 だが生憎とおれは救いようのないニブチン野郎で、どうしょうもないほど子供で、嫌になるほど考えなしだったから、パティの異様にただ戸惑うばかり。
 「……なんだ、急に」
 「だからお仕事頑張ってこいっつーの!はい!行けっ!」
 いつもの笑顔で、いつものテンションで、いつも通りのパティがそこに居る。
 おれはたったそれだけで意味もなく安心してしまい、それがどれほどの奇跡かを疑問に思う事すらなく、ただ漫然と別れの言葉を吐き出した。
 「あ、ああ。それじゃあ行ってくる。留守は頼んだぞ」
 「お土産よろしくぅ〜」
 ベルゼブブに乗り、ドンドン小さくなってゆく白いジャケットのパティ。十分な高度に達して東に進路を取るまで、彼女がずっと両腕を大きく振っていたのが見えていた。
 向かうはアパラチア山脈の西の小さな村。農業と林業、狩猟で糧を賄っている過疎の村だ。
 思えばもう何年前だろうか。
 おれはその村で初めて死神として魂を刈った。
 刈った、と言っても疫病によって死んだ人間の魂を集めたに過ぎないのだが。
 村にある教会にはズラリと死体が並んでいて、大勢の人間が泣き暮れ、老人や子供、年配の女性や若い青年までが物言わず冷たい骸を投げ出している。
 おれが知ってる死というものの一番最初はそれだった。
 不条理な突然の不幸。
 魂を持ち帰り、おれは屋敷で一人泣いた。
 善良で素朴な人々が何故死なねばならないのかが解らず、魂の愛するこの地から引き剥がさねばならぬ道理が理解できず、ただただ己の無力に泣くしか出来なかった。
 死神でありながら死を理解できぬ自分に、随分と途方に暮れたものだった。
 「……もしかしたら、今でも真の理解はしていないのかもしれない」
 耳の側の風を裂いている襟がパタパタと激しく靡いている。この様子だと10時間はかかりそうだな、とゴーグルを持ってこなかったことを少し後悔した。目が乾いてひどく涙が出る。
 本当の意味で魂を刈ったのはいつの頃だっただろう。恐らくは、あの村の任務から一月も経たなかったはずだ。生ける人間の身体から魂を抜き取ること。それはつまり人を殺すことだ。
 どこかの殺人狂だったか、連続強盗殺人犯だったか。もう定かではないけれど、その時は魔武器を持たず、体術だけでそいつを殺した。人を殴る重さ、骨の音、血飛沫。思い出してもゾッとする。自分に大義名分があり、相手は裁かれるべき悪の筈なのに、おれは恐怖したのだ。人を殺すことを。
 何故人は人を殺すのだろう。あんなことは、どんな事と引き換えだって御免被るはずなのに!
 それから数年後にトンプソン姉妹と出会い、魂を本格的に刈ることになった。リズもパティも人を殺したことのある人間だと知るのは、出会ってから一年もした頃だった。
 「やむを得ず、なんて言わないよ。快楽の為に殺したわけじゃないけどさ」
 「正当防衛だろう?」
 「それが人を殺した事実に何か意味があるのかい?」
 リズはそう本当に意味がわからないといった風に尋ねた。
 「ブルックリンの冬ってマジさみーの!食べ物ないと身体温まらないじゃん。でも食べ物は限られた分しかなくてさ……すると、やっぱそーなるじゃん。何人も殺してると思うよ、あたしら。食べ物とるってことはつまりそーゆー事だから」
 「……そんなことで……」
 「あんたは恵まれた所に住んでるからワカンネーかも知んないけどさ、人って簡単に死ぬよ。本当に簡単に死ぬんだ。たった一つパンを取り上げただけで」
 リズは言う。自分の力を過信しなけりゃ大丈夫だよ。あたしはそれで失敗した。だからキッドは慎重にやりな。ヤバいとこ行きかけたらアタシらがそっちはやめとけって引っ張ってやるからさ。
 パティは言う。あたしは誰より濃い命を食って今生きてる。でもそればっか考えてたら何にも出来ないじゃん。あたしは折角だから楽しみたいの。奪った命の分だけね。
 二人の生き方はおれの狭かった世界を劇的に広げてくれて随分……いや、言い表せないほどに救われた。
 自分の形が少し見えてきたのだ。
 死神という自分の形に臆することなく、まっすぐ見つめること。運命から逃げず、どう対決するのか。そして授かったこの力をどう使うべきなのかを。
 考えよう。死について。死に携わり、魂を管理する者としてこの魂と力の続く限り。
 「…………なぁクロナ、お前は一体どんな気持ちで人を殺したんだ?」
 呟く唇に触れる空気が切れるように冷たい。横に流れてゆく涙が肌を離れる度、凍り付いているような気がした。





『 パティ 』



 食べ物はお腹に入りさえすれば、どうでもいいと思っていた。味なんてのは贅沢な感覚で、料理に至っては自分には関係のないものだった。
 ここにくるまでは。
 屋敷のキッチンは広く清潔で、通いの料理長がいつも丁寧に掃除をしていた。
 あたしは食べ物をくれる人に懐く癖があるので、料理長をすごく気に入って、暇さえあればキッチンに行ってたら、料理長もあたしのことを気に入ってくれたらしく、いろいろ話をしてくれた。誠実で優しい人柄の料理長の朗々と語る“食べる”ということに対する姿勢が、あたしの食べ物に対する考えをガラリと変えてしまった。
 食べ物は人を幸せにする。
 美味しいものは人を幸福にする。
 料理長が少し手を加えるだけで、三日前のパンがこの世のものとは思えないほど美味しくなる。食べている間は煩わしいことや悲しい感情から、本当に、ふっと、解放されるんだ。
 ごはんって、スゴイ。
 でも料理長は食べ物は美味しいだけじゃ完成じゃないんだよ、と言った。
 あたしはその言葉の意味が分らないまま、料理長のまわりをうろちょろしながら、片手間に料理を教わり続けた。フライパンの手入れの仕方も、火加減のコツも、野菜の選び方も、教わった。
 ビーフストロガノフが一番の得意料理。死神様が特別に褒めてくれたから。美味しいねぇって言ってくれたから。
 キッドくんを見送った金曜日から、もう三日。あと二時間で火曜日。
 死神様は大丈夫大丈夫と笑って取り合ってくれないし、お姉ちゃんは柄にもなく部屋中を片付け回って落ち着かない。2人ともまるでいつもの調子じゃない。何か隠してることはすぐに分かったけれど、あたしは訊ねなかった。知らない振りは得意じゃないから、できるだけ顔を合わせないようにした。死武専は死神様がサボってもいいっていうから休んだ。一日部屋でぼんやりしてるなんて性に合わないのにさ。
 不思議な感じ。このお屋敷で暮らし始めたのなんかつい最近なのに、誰の顔も見ないのがすごく寂しい。ふらっと廊下に出たらお姉ちゃんがいたり、思いつきで居間に足を向けたらキッドくんがいたり、夜になったら書斎に明かりが灯って死神様が居る気配がいつから当たり前になったのか。
 寂しい。
 あたしはこれで結構一人でも平気な性質なのだけど、やっぱ一人ぼっちってやだな。ブルックリンでお姉ちゃんが男に目ェ眩んでた頃を思い出すから。
 「……早く帰ってこいよ、バーカ」
 何もすることがないと気分が沈んで動くことが億劫になるので、とりあえずは深夜のキッチンに明かりを灯す。誰もいない夜のキッチン。鈍く輝く銅のフライパンがまぶしい。
 冷蔵庫を開けて目ぼしい腸詰を見つくろい、貯蔵庫の隅に積んである木箱からジャガイモとニンジンと玉ねぎを失敬して、ナイフを握った。
 もちろん夕食はとっくに食べたあとだし、万が一深夜にキッドくんが帰ってきた時にと料理長はちゃんと温めたらすぐ食べられるような料理を作ってくれている。
 だけど。
 「……何やってんのパティ、もう10時だよ」
 「お姉ちゃん、もう寝たのかと思った」
 突然調理場に顔を出したお姉ちゃんに何でここに居るって判ったの? と尋ねようとしたけどやめた。よく考えたらここ二日はずっとここに引き篭もってるもんなあたし。目を見るのが照れくさくて(本当は何かを見抜かれそうで怖かったのかもしれない)背中越しに返事をするだけ。
 「夜食にしては随分時間の掛かりそうなメニューだね」
 「えー、そう?」
 背後からにゅっと手が伸びてきてジャガイモとニンジンをちょいとつついている。
 「……心配すんな、キッドはちゃんと帰ってくるよ」
 「あはははは。別に心配してないって」
 ナイフで玉ねぎの根っこを落とす、ザグ。んー、いい音。新鮮な音はイカしてるねぇ。
 「―――――――そうか」
 お姉ちゃんがそう言って黙った。あたしは特に喋る事がないから黙って玉ねぎの皮をむく。あたしたち姉妹は、あたしが黙るとほんとに静かだ。だからあたしはお姉ちゃんが寂しくないよう、必死に喋る。頭を通さずに能天気でしょうもなくてどうでもいい事をどんどん口に出す。そうしてないと居られない。
 丁寧に丁寧にジャガイモの皮をむき、丁寧に丁寧にジャガイモの芽を取る。
 キッドくんはそういうのを分かっているのかいないのか、あたしたちと居る時は結構無駄な事を喋る。シンメトリーとか、シンメトリーとか、シンメトリーとか。あれが本気8割、間を持たせる為2割だって、多分お姉ちゃんだけが気付いてない。キッドくんは、気付かせたくないのかもしれない。
 あんまり丁寧にやりすぎたからジャガイモが温かくなって乾いてきちゃったよ。
 あたし達が友達としてクロナを受け入れることを裏でいろいろ言われてるのは知っている。特に的にされているのはやっぱりマカで、デスサイズの娘だから大目に見られてるとか、ひどい言われよう。それでもマカは悔しかったら実力であたしを負かしてみろ!と強気で、負けない。
 キッドくんは随分、(ちょっと捻じれてるけど)クロナにお熱だ。もともと死神の息子って地位が嫉みの対象になっているからクロナには表立って近づこうともしないけど。死神様はこれを恐れて、多分キッドくんをお屋敷から出さなかったんだろうなと思った。守るべき人間からは忌み嫌われ、仲間のはずの死武専生に妬まれて、生徒に分け隔てない先生たちにすら距離を置かれてしまうキッドくんが、似たような境遇のクロナに執心するのは当然だと思う。
 あの子、優しいから。
 でもキッドくんにはクロナは救えないと思うよ。これは女の勘だけど。
 あいつは優しさじゃ救えない。
 じゃあ他にどうしてやったらいいかなんて見当もつかないんだけどさ。
 「ねぇお姉ちゃん」
 「ん?」
 「クロナって、キッドくんのこと好きかなぁ?」
 「……ハァ?」
 今日初めてお姉ちゃんの方を見た。顔を見た。目を見た。……初めてだ、お姉ちゃんに向かって怖いなんて思うの。
 「もしもそうなら、ちょっとはキッドくんも救われるのにね」
 「何言ってんだお前」
 「だってそうじゃん。キッドくんが欲しがる物って、結局いつでもあの子の傍にはないから」
 左右対称も、完璧な世界も、バランスのとれた理もなく、ただずっと足掻いて苦しんで心の休まる暇もない。
 「何言ってんだよ。いるだろ、アタシらが」
 何を間の抜けたことをと言わんばかりの顔でお姉ちゃんが一笑に伏した。
 「……単なる武器じゃん。永遠じゃないよ」
 お姉ちゃんが怖い、と思ったのはお姉ちゃんはもしもの時にはキッドくんを見捨てられるくらい、シビアだからだ。お姉ちゃんは誰かれ構わず撃っちゃうあたしより、ずっと残酷だから判断を誤らない。だからキッドくんがあたし達を自分の都合で捨てたとしたら、世界よりクロナを優先させたとしたら……お姉ちゃんはきっとこの屋敷を出てゆくことを躊躇わないだろう。
 あたしはただそれがやり切れなくて、辛い。
 「お前たまに難しいこと言うなぁ。永遠とかさ、そんなのいいじゃん。1日1日が永遠だよ。いつか尽きる永遠の中に居るんだよ。そいつは魂に刻みついてる」
 お姉ちゃんが笑って言う。
 「だから、それでいいのさ」



つづく

 

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