夕暮れの悪魔

 そら。
 あかいそら。
 よるのはじまり、いちにちのおしまい。
 牧場のおばさんたちに挨拶をして、帰り道をとぼとぼ歩く。
 長いがたがた道。肩に掛けた鞄が心なしか重い。
 背中を丸めて歩いてると余計に疲れちゃう気がして、背筋を伸ばした。路肩に生えてる草花も店じまいを始めているらしくて、一面がオレンジ色に輝いたまま静まり返って虫の一匹も姿を見ない。
 少し涼しい風が吹いて、背の高い草がざっと鳴った。潮の匂いの風が抜けて行く。
 西に輝く太陽は水平線に半分以上融けていてゆらゆら蠢いてる。
 じっと赤い空を見ていると、恋しくなる。
 あの空と同じ色した髪のあなたが。
 目が覚める鮮やかな赤。
 ……ほんとはそんなキレイな髪でもないんだけど。ところどころ若白髪混じってるし。
 でも好き。あの色。落ち着く。
 あの後ろ頭を見たらすごくほっとするの。
 足を止めていたことに気付いて、遠くに見える雑木林や農具の片付けをしてる人影を見ながら帰路へ戻る。右手にはまだ蕩け続けている太陽がギラギラ輝いていた。
 「ちゃんと仕事してるのかな?」
 誰ともなく呟いてみて、思わず笑ってしまった。
 もう三日も帰ってきてない。一体何の仕事なんだか、教えてもくれない。
 それでもひょっこり帰ってきて、あの顔で、あの声で、よ、って言うの。
 わたしはそれが楽しみで、嬉しくて、待ちきれなくて……ちょっと怖い。
 だって、あなたってこの夕日みたい。
 真っ赤に燃えて、それで……
 ふと気付くと、右手にあったはずの赤く蕩けていた太陽は水面から完全に姿を消していて、ただ残り火の様に海の一部が赤く染まっているだけだった。
 「……それで、ふっと居なくなる」
 茫然と紫色の空を仰いで呟いた。俯くと足が止まってしまう気がして。
 ぐっと唇を引き締めて深呼吸。向こうの丘のそのまだ先にある自分の家を見定めて走る。走る。走る。靴の底が地面を叩く音がする。走る、走る、走る。呼吸が苦しくて胸が詰まって。まるであなたの帰ってこない家にいるみたいだ。
 だけどね、泣くのはなんか違う気がする。だってそうでしょう?悲しくなんかないもの。
 息せき切って鞄を揺らしながらゴールの玄関先に滑り込んだら声がした。
 「よ、おかえり」
 玄関の壊れた手すりの跡に深く腰掛けて、ゆったり、のんびり、不敵に笑う三白眼の男の人。黄昏の光源が程よく深く浅い影を落とし、背筋が少し伸びるような怖さと共に、胸が勝手にざわつく様な不安に似た魅力を彼に与えている。唇がかすかに歪んでいて、それが一層妙な強制力でわたしの瞳を釘付けにする。
 「鍵閉まってっから随分待っちまった、土産あっからメシにしよーぜ」
 そんな自分の妖しい迫力も知らず、いつも通りに脳天気なカズくんがそんな風に囁くから、わたしは不意を突かれて泣いてしまった。
 悲しくなんかないのに、変なの。
 ……ヘンだね、わたし。



 14:58 2008/09/10 悪魔が帰りてメシと啼く。






体温ジャンキー

 今回の仕事は『早朝コンテナ車襲撃』なんてちょっとばかし派手だったもんだから、気分ソーカイ、懐も暖まってご機嫌ってなわけだ。
 襲ったコンテナ車を誰がどっから持ってきたのか船を運ぶバカみてェにでっかいトラクターで引きずってきて、あれよあれよという間に市場に人が集まってくるのをぼんやり眺めてたら声を掛けられた。
 「おいカズマ、一番手柄が荷物に手ぇ付けないのか?」
 「あー。オレぁ明日あたり金出して買いに来る」
 「へぇ、やっぱ稼いでる奴ぁ言う事が違ァな」
 眉を顰める笑い顔に『何が要るのかわかんねぇしな』とは言わない。また“ちっこい女の子に養われてるカズマ”なんて不名誉な噂が立つくらいなら、偏屈の変わり者という汚名などどうってことはない。
 やれ荷物の整理だ商品リスト作りだのと口々に喚きたてながら仕事に追われる仲間と別れ、ポケットにちょっとばかし胸を張れるだけの金を突っ込んで、オレはぶらぶらと日の翳り始めた瓦礫の山々を越えた。人が大勢行き交う午後の市場は多少歩きにくいにしても、なんだか顔が緩む。
 オレは人がニヤついてるのはキライだが、やはりニコニコ笑ってる奴の面は嫌じゃない。
 人がさざめく通りを抜けて、さて目指すは懐かしの我が家。
 市街や市場、集落なんかからずーっと奥まった丘の多い島外れ。そこにオレんちはある。
 ……もう三日ばかり帰ってねーけど。
 どっかのバカが警戒態勢に引っ掛かったらしくて、半日の計画が結局三日も経っちまって。
 「怒ってっかなぁ」
 見上げた空が赤く染まっていた。
 ――――――胸糞の悪ィ色だ。何度見てもゾッとする。
 ギラつく金の縁取りをした朱色の雲が、いつか見た服に染む血の色を彷彿とさせて慌てて目を逸らした。ヌルつく仄かな温かさ、滑る感覚、引っ掛かる肌、肉に沈み込んでゆく自分の拳。
 赤は嫌いだ。虫唾が走る。
 「早く沈んじまえ」
 赤く歪む太陽に一瞥くれて丘向こうの家を目指す。こういう日は腹いっぱい飯食ってとっとと寝ちまうに限る。やな事あった時は……あいつの笑う顔見て、ちょっと膨れっ面させて、もぅって、しょうがないなぁって、言ってもらえりゃそれで気が済むんだ、オレは。
 そんだけでいいんだ。安い男だろ?
 割れて砕けたアスファルトの残骸を踏みしめながら歩いてたら、いつの間にか家に着いてた。
 なんとなくドアに手を掛けるのが億劫で、ひび割れたコンクリートの階段に腰掛けた。深くため息をついて目を閉じると、途端に人の気配。顔を上げると丘の上から結構なスピードでかなみが走ってきているのが見える。……なんだ、まだ戻ってなかったのか。
 ぜぇぜぇいいながら髪を振り乱したかなみが玄関先に滑り込んできたので、声を掛けた。
 「よ、おかえり」
 甘え声が出そうになってばつが悪いもんだから、平気な振りで土産を持ち上げちょっと口を開いた尻から。ドングリ眼からどばっと涙が零れ落ちて、かなみが声を上げて泣き出した。泣きつこうと思ってた出鼻を挫かれて、オレはオロオロあわあわしながら頭を撫でるしかない。……そりゃそうだな、半日で帰ってくるって約束が三日も放りっぱなしだもんな。そら泣くわな。
 「ごめんな、わりい、すまねぇ、許せ。
 ――――――そうだ。明日、市場行こうぜ。なんか派手に品物が入ったらしくてよ、人がいーっぱいだったんだ。な、明日は牧場の手伝い休んで市場行こう。仕事してきたから金あるし。な、かなみ。泣くなよ、泣くなって」
 もちろんそのくらいで泣き止んでりゃ世話はない。言葉も無くしてオレはただただかなみの頭を撫でる。栄養が足りなくてガサガサの色の薄い髪を撫でながら、そうだ、明日は何か、髪飾りを買ってやろう。漠然とそんなことを考えた。
 「朝一番に家出てさ、弁当もって、市場まで一緒に散歩すんだよ。な。な。」
 女の子だから鮮やかな赤がいい。目の覚めるような赤色をつけてやろう。……沈まない太陽の色の、大きなリボンで頭を飾ってやろう。
 しゃくりあげるかなみの唇と頬の色のリボンを夢想し、腰の辺りにしがみ付く小さな人間の体温をかみ締めながら、オレは玄関のドアを開ける。



 16:23 2008/09/10 ちっちゃい子って体温高いよね。感情高ぶると熱出たみたいになるくらい。






しとと

 鍵なんか掛かってない。
 というか鍵が壊れている。
 回すたびにギコギコ音を立てる錆付いたドアノブと鍵を交互に見ながら、かなみが頬を染めた。
 「……待っててくれたんだ、帰ってくるの」
 寝る前の戸締りはいつもキッチリする。ここがいくら人通りのない辺鄙な場所でも、誰かが無断で侵入してくる危険度はお化けが出る頻度よりずっと高い。一人で家に居ることの多いかなみは、戸締り点検火の用心は絶対に忘れない。
 だから今日も夜寝る前の戸締りをして回って、鍵の不調を見つけたというわけだ。
 カズマの性格からいって、鍵が閉まっていようが入って寝たければ木を伝って二階から入りそうなもんだ。(実際過去何度かそうやって入っていた事がある。最近そういうむちゃくちゃをしないのは服が破れると寒い時期だから)なのに冷たいコンクリートの階段に腰を下ろし、かなみが帰るのを待っていた。
 それだけで、なんだか胸がムズムズして飛び上がりたくなる。顔を覆い訳のわからないことを叫びたくなる。
 いつも待ってる自分が待たれているなんて、そんな、なんて甘美な響き!
 しかし鍵が壊れているのはいただけない。明日市場で調達するにしても当面の無用心に何か知恵を絞らねばならない。
 「今日はカズくんが居るから、とりあえず玄関に何か置いてドアを固定するだけでいっか」
 ずるずると昔の医療器具だの壊れた機械だのが入ってる木箱を奥から引っ張り出して来て、ドアの前に設置し、何度かドアノブを引いてみた。そう簡単に開きそうにない。万が一無理に押し開けられてもガラクタが倒れて大きな音を出すようにと壁にいくつか鉄の棒だの板だのを立てかけた。この呆れる程の用心深さは、即ち彼女がいかに自らで実際的に自分の身の安全を守るかを考えている事の証明である。
 「よし」
 満足げに頷いたかなみが手を洗いに洗面所へ向かい手を洗っていると、ガシャン!カラカラカラカラ!と、派手な金属音が聞こえた。
 慌てて玄関に駆け戻るかなみが見たものとは。
 「……どこ行くの」
 「…………いや…………そのう…………」
 ちょっと、夜風に当たりに。
 ばつの悪そうな引き攣った顔で唸るようなカズマの返事。すでにいつものジャケットを着込んでいて、食事が終った後に見た部屋着姿など夢だったんじゃないかといった風だ。
 「また嘘ついた」
 「……いや、そー言われっとツレーんだけど……」
 かなみが恨みがましそうに睨目上げる声にびくびくしながらカズマ、じりじりと後ずさり。もちろん家の外へ。
 「明日市場連れてってくれるって言ったのに」
 「どーしても、どーしてもって言われてたんだよ……な、頼むよ、ちらっと行って、すぐ帰ってくっからさ」
 拝むように右手を顔の前に掲げたカズマの足元でまたガラクタが鳴った。
 「そんな大事な用事があるのに、あんなに簡単に約束するんだ」
 「………………すんません」
 「カズくんの嘘つき」
 うな垂れるカズマに追い打ちをかけながら、本当はかなみもわかっている。カズマがつきたくてついてる嘘じゃないことくらい。
 それでも納得はいかない。カズマのその場しのぎの態度が悲しくて気に入らない。
 「一緒に居てよぅ……」
 久しぶりに一人じゃないと思ったのに、今日こそ安心して寝てられると思ったのに、明日目が覚めるのが楽しみだったのに。
 口の中で解ける泣き言がかなみの涙をたまらなく誘った。打ち震える唇が上手く動かない。
 「一人にしないでぇー……」
 泣き癖が付いちゃった、とかなみがぼんやり、人事のように思った。



 17:19 2008/09/17『しとと……@したたかに。甚だしく。激しく。はっしとAぴったりと密着するさま』






掃除当番

 運転席でハンドルにもたれかかっていた年齢不詳の怪しい青年が声を上げた。
 「そのツラからするとまた泣かれただろ」
 「誰のせいだと思ってンだね、夜に限ってボクを連れ出す君島くん」
 「もちろん日常コミュニケーション不足のカズマくんのせい」
 助手席においてあった荷物を手早く片付け、青年はカズマに着席を促しながらウインドブレーカーのチャックを上げてゴーグルを装着する。
 「大体おれらの仕事ってのは基本的に夜のモンなんだからさ、嫁さんに上手いこと説明しとけっつーの」
 「嫁じゃねーッ」
 「だったらなおさらきちんと説明しろよバカ」
 君島、と呼ばれた青年がエンジンをかけてハンドルを握るのと同時に景色がズルリと後方へずれていく。鈍くオレンジ色に染まった闇の世界が流れていくのをカズマはメガネの奥からじっと見ていた。
 「説明できっかよ」
 「……ま、お前のおつむ程度じゃそんなとこだよな」
 カズマが自分の能力を否定することは普通ない。だが、同居人のことになると途端に人が変わったかのように慎重になる。その意味をわからない君島ではなかったが、まるで10や12の子供が母親に悪さをひた隠しにするようなカズマの態度はやはりどうかと思う。もちろん彼がそれについて意見するほど野暮な男ではないからこそ、カズマが自分に意見を打ち明けることも知っている。
 「便利屋の用心棒なんて、我ながら正気の沙汰とは思えねぇ職種だぜ」
 自嘲とも呆れともつかぬぼんやりとした声でカズマが呟いた。
 「おっ、聞き捨てならねぇな。おれはお前を用心棒だなんて思っちゃねーぞ」
 彼らしくもなく覇気の覇の字も見当たらない声に、君島はわざと声を滑稽な調子で上げる。
 「……今からテツのチームに絡んでくるバカをぶっ飛ばしに行くんだろ?」
 君島の下手な気遣いが上手く腹に据わらなくて、カズマは皮肉で応酬した。顔に似合わず照れ屋なのかもしれない。
 「――――――かなみちゃんに」
 「ああぁ?」
 「お前のことを“人の話もまともに聞けない能無しの穀潰し”って教え込んどくよ、うん」
 しみじみと君島が感慨深そうに一言一言を丁寧に区切ってため息混じりにそう言った。
 「バカかおめーは!もーイッペン教えてやるからよっく聞けよッ!
 テツヤんとこのシマを荒らすやつが居るから、地下の旧商業区画出入り口を一箇所だけ残してあと全部潰す手伝いに行くんだよ!解ったか!」
 「そんなことしたら追い詰められた時逃げようがねーじゃねぇか。バカぶっ飛ばした方がはえーって」
 自分の企みが上手く功を相していつものやり合いが始まり、カズマはこっちの方がいいとゲラゲラ笑う頭の隅で思っている。必死で虚勢を張るより、バカだバカだと軽んじられた方が自分の性に合っている。
 「“区画”っつんてんだろ? 地下道じゃねーんだ、逃げ場所なんかどこにだってあるの。
 テツヤんとこは人数そう多くないし半分以上が女、下手に周りに怨恨残すようなことしたくねーんだよ。その位考えろ」
 だいたい妊婦いるんだぞ。派手なことやって身体に障ったらどーすんだ、ユウジにブッとばされっぞテメー。君島がぶつくさと小言を続けているのを、また始まったとばかりにカズマが聞き流している顔は心なしか穏やかで、どこか嬉しそうにさえ見えた。
 空には満天の星が騒がしいほど瞬いていて、綺麗な半月ですら見劣りしてしまうような闇の絶景の中、車は砂地をさながら流星のごとくに走り抜け、白い砂煙を尾のように引きながら黙々と進んでゆく。
 「なぁ君島、テツの仕事ってどれくらいかかんだ?」
 「さぁな。お前がダレずにキチッとやれば明日の夕方には終わるんじゃねーの」
 「まじかよ」
 「給金分は働かれよ、カズマくん」
 「昼には帰りてぇんだけど」
 「なんか予定あんのか?」
 「タカユキと組んだ仕事で市場に品物がドバッと入っててさ」
 「デートか」
 「…………ここ最近メシが露骨に貧相になってんの」
 引き攣らせるように表情を歪めたカズマの仕草を、顔も見ずに察した君島はそれ以上からかうのを止めた。ここしばらく、かなみの話題を出す度に妙な『立ち入るなオーラ』を出すカズマを不審には思っているが、君島自身も警戒心の強いかなみのことを然程知っているわけではないので口を噤むしかない。
 「テツヤんとこまで20キロあんだぞ?車なしでどーやって帰る気?」
 「要は入り口ツブせばいいんだろ?着いたらソッコーで現場行って潰してくらぁ」
 頭の後ろで腕を組み、気楽そうに背筋を伸ばしたカズマのセリフに君島はぎょっとなった。
 「こんな夜中に寝ずに突貫かよ? 怪我すっぜ。成形は日が出なきゃ無理だし」
 仲間とは言え、他に手伝いに来る連中だって大勢いる。そこでアルター能力者だと大っぴらにするわけにはいかない。何処で誰が見ているかも知れない現場なのだ。だから君島は今回の仕事を『手伝い』として受けている。
 「だから、オレらが先回りして全部潰しとけば朝から仕事する他の奴らの潰す手間がねーだろ、それで勘弁しろってこと」
 「はぁ? お前出入り口いくつあると思ってんだヨ!?」
 「5キロ範囲で20だろ?よゆーよゆー。10人分のカネ貰ったって文句ねーぐらい働いてやっからお前は車回すだけ。簡単だろ?」
 容易い事だと嘯く魂胆を君島は分かっている。単独行動の方がずっと気楽だし、アルター能力だって使いたい放題。何よりカズマは昔の塒だった市街地跡に棲む人間に近寄りたくないのだ。そんなカズマが受けるほど、この仕事は給金がいい。
 「お前ね、ガラクタ撤去みたくに言うけど鉄筋コンクリの地下入り口って結構頑丈に出来てんですよ?」
 アルター能力は精神力と体力の両方を消耗して発現する。気晴らしに2・3発放つのと、20基もの強固なコンクリート建造物を目的に添った形で破壊するのとは訳が違うことを、能力者でない君島でも解るのに当の本人が承知していない訳がない。
 「だからチャチャーっとぶっ飛ばしてやるって。まぁ見てろ」
 はっはっはっは!大きく笑うカズマを横目で見ながら、君島がカズマに聞こえないようなため息をついた。
 「そんなにかなみちゃん泣かしたのが効いてんのかね」



 11:22 2008/09/20 カズくん基本的にヘタレだからね。13:37 2008/09/29 表現・注釈追加改編。






にかいめのさいご

 「ただいま」
 声にぎょっとして窓の方を向いたらカズくんが居た。
 「ど、どうしたの」
 「市場いく約束だろ。ちゃっちゃと用意しろよ、部屋で寝てっから」
 ひょいと窓辺から居なくなって、慌てて窓に飛びついたわたしが窓の下を見ると、よろめく足取りでカズくんが家の角を曲がる所だった。
 「……ここ、二階だよね?」
 家の鍵が閉まらない以上、牧場に行く訳にも行かないので仕方なく家中の掃除や片付けをしながら暇を潰していたわたしは、カズくんの言葉が理解できるまで少し掛かってしまった。
 「支度……支度!しなきゃ!」
 握り締めていた雑巾と壁に立てかけていたモップを引っつかんで大急ぎで階段を駆け下りる。
 早く、早く、早く済まさなくちゃ!いつまた逃げちゃうかもしれない!
 狭いハズの家の廊下が随分長く感じる。走り回って空気の入れ替えに開けてた窓を閉めて回り、掃除道具を階段の陰に押し込んで、煤汚れた顔を洗って服を着替えて髪を梳かして――――――
 「ああっお弁当どうしよう!ごはんまだ炊いてない!」
 牧場に行ってないからパン貰えないし……持ち運べるよーな食材ないよ!
 「うわーん、なんでいつもこう急なのーっ!」
 髪を束ねる片手間に台所を漁ってたら、秘蔵の大豆ビスケットが二箱出てきた。ものすごくお腹の膨れるこのビスケットは、カズくんには不評だ。理由は簡単、美味しくないから。わたしは結構この淡白な味とコストパフォーマンスが好きなんだけどな。何しろ6枚も食べれば一食要らないくらいお腹一杯になるんだもん。
 「こないだ作ったブルーベリーのジャムと……牛乳水筒に詰めて、あと途中でグミの木に寄ってもらってこよう」
 金具がグラグラしてる古いバスケットに手当たり次第に放り込んで蓋を閉……まらない!水筒大きすぎ!
 慌てれば慌てるほど何もかもが上手く行かなくて、余計に気が急いてしまう。そしたらもっと上手く行かない。泣きたくなってきちゃうよ、もう。
 それでもわたしは精一杯頭と身体をフル回転させて身支度を整えて転がるようにカズくんの部屋のドアを開け放した。
 「いだっ!……で、出来たよっ!」
 勢い余って膝を思いっきり開きかけたドアの角にぶつけたけれど、そんな些細な事に構ってる暇なんかない。このドアを開けるのが一秒遅れたらもうカズくんが居なくなっちゃってるかもしれないのだから。
 弾む呼吸を押えながら部屋を見回して、居るはずの人を探した。
 歪んだ窓枠、煤汚れたガラス、ぐしゃぐしゃのシーツとベッド代わりの診察台、薬棚に、ガラクタ、壊れかけの壁。見慣れた空っぽの部屋。
 「……ひ、ひどい……」
 思わず声が出た。涙も出た。手に持ってたバスケットの感覚がもうない。肩から下げた水筒が急にずっしり重たくて煩わしく思えた。
 全身から力が抜ける。立っている事だって出来ない。喚き散らす気力さえ根こそぎ次から次に吹き出す涙になってしまったみたい。
 「カズくんのばかぁぁぁあぁぁぁー……」
 満足に泣き声も出ないまま、自分の部屋のベッドに倒れ込む。もう、なんにもしたくない。
 「ぐえっ」
 「かずくんのうそつきぃぃぃいぃぃー!待ってるって言ったのにぃぃぅうぅぅぇえぇぇぇ……!」
 枕に顔ごと埋めて大泣きしてやる、今日はもうずっと大泣きしてやる、帰ってきたってご飯作らないしドアも開けてあげない、お風呂も沸かしてあげないし、顔も見てあげないんだ、もう絶対、怒った、怒ったんだから!
 「かずくんのばか!きらい!きらい!!」
 「…………そりゃ、参ったな」
 声がした。
 枕から。
 ……枕……わたしの枕、こんなに固くない。てゆうかこの枕黒いのは何故。
 「がじゅぐん……!」
 「……10分前の約束破ってどっか行く馬鹿カズマに何ぞ御用ですかねぇ、濁点だらけのかなみさん」
 唇の端っこを少しだけ持ち上げた意地の悪そうな笑い顔のカズくんがそこにいた。
 「ご、こご、わだぢのへやだよ」
 「下に部屋4つっきゃねぇのに、残り3つくらい探してから泣けよ」
 「だっで、だっでぇ……」
 「……わかったから顔拭け。鼻水でてんぞ」
 カズくんが露骨にいやそーな顔をしてわたしを離そうとするので、必死になって捕まえた。もう、死に物狂いでしがみ付く。
 「あーあ。服ヨダレ付いちまった」
 耳に付く半笑いの声がどこか嬉しそうな調子な気がして、わたしはますます力を込めてカズくんの身体に沈み込む。
 「い、いいもん、あ、あだじがあらうんだもん」
 「……市場行くんじゃなかったのかぁ?」
 最後に聞こえたどーでもいいみたいな声と一緒に頭を撫でられた。ゆっくり、ゆっくり、わたしの瞼から力を吸い取るみたいに。



 16:06 2008/10/02 説@家帰って一番落ち着くとこに倒れ込んだらかなみのベッドだった。説A悪意のないドッキリのつもりが一大事に。説B自分を必死に探して回るかなみが見たかった。さあどれ。






君は片目で嘘をつく

 カズマが目を覚ましたのは丑三つ時を遠に越えた真夜中の事だった。
 妙に身体中が凝っている不快な違和感に寝ていられなくなったのだろう、のろのろと身体を起そうとして、少し思案し、その素振りをぴたりと止めてもとの不自由な体勢に戻った。
 自分の胸の上で眠る小さな重石の存在を思い出したらしい。
 「……首イテェ……」
 不満とも諦めともつかないセリフを呟いてぐるりと首を動かし、月明かりの僅かに差し込む窓を見上げる。
 ああこんなだった。確かこんな月だった。初めてこの部屋で眠った日の夜は。
 ハッキリしない頭のめぐりを手繰るように、カズマは月光で薄らぼんやり輝く床を見ていた。彼は一巡した季節を気に留めるほど繊細な性格ではないが、鮮烈な記憶を軒並みなぎ払いながらでしか生きていけないほどの野獣というわけでもない。
 いろいろあったけど、ま……死なずに済んでんな。
 誰に言うでもない言葉をあくびをかみ殺しながら思い、カズマはそろっとかなみの身体を自分の脇にずり落とした。あんまりしっかり握られてたジャケットをしゃくり取るのも忍びないので器用に脱いでその場に残す。
 殊更に時間をかけてドアを閉め、抜き足差し足で暗闇の廊下を慎重に進んでゆくと、左足の先になにやら長細いものが絡まり、そして何故か足が重くなった。そっと押すと、それはゆるりゆるりと転がってゆく。
 「なんだこりゃ」
 足元に手をやってそのおかしなものを引っ張り、揺すってみるとたぽたぽ音がした。だんだんと闇に慣れてきた目を凝らすと、近くになにやら見慣れない四角い箱があった。ついでに揺すってみたらこれまたガサガサ音がする。不思議に思ってその二つを抱えて家の外に抜け出した。
 「水筒と籠じゃねーか」
 なーんだ、と玄関先で放り投げようとした拍子に、籠の金具が音を立てて壊れ中身が月明かりの石段に散らばってしまった。
 「……喰いモンだ」
 そーいや昨日ナンも食ってなかったなーと、ビスケットの箱を拾い上げ袋を破いて口の中に開けた。ざーっと音を立ててカズマの口に粉っぽいビスケットが雪崩れ込む。
 「くそまじーなコレ」
 悪態をつきながらバリバリじゃりじゃり齧りながら当たり前のように水筒の蓋を開けるカズマ。こっちは当たりだ、牛乳が半分以上も入ってた。粉っぽくてちっとも甘くないビスケットをつまみに、濃くて甘い牧場から直でかなみが持って帰ってきた牛乳で晩酌。まるで5つの子供だ。
 空は幕を敷き詰めたかのように真っ黒で、そこに砂糖を溢したみたいに星がうるさく瞬いている。
 いつからオレは空なんか眺めるようになったんだっけ。月を明かりとして以外でありがたがるのは誰の受け売りだったかな。星の並びに心を砕くのを馬鹿馬鹿しいと思わなくなったのは――――――
 そこまで考えて彼は水筒の蓋を閉めた。
 立ち上がって服を払う。
 ……そうだな、そうだ。お前のせーだ。死ぬのがめんどくさくなったのも、生きてんのがダリくなくなったのも、全部テメェのせーだ。
 当事者の能天気なツラでも拝んでやるべかと一度出て行った部屋のドアをもう一度開けて、カズマは硬直した。
 消していたはずの部屋の電気がついている。ベッドの上で自分のジャケットを掴んでいる少女が居る。その少女がこちらを親の敵がごとく睨み付けながら、ぶるぶると震えている。……まずい。なんだか良く解らないがとにかく最高にまずい。カズマの背筋に冷たいものが走っている。
 「カズくん」
 「い、いや、腹減っちゃったからナンかねーかなーと思ってさ、べ、別に出ていこうとしてたんじゃねぇぞ? マジで!」
 「これ何」
 「……ハァ?」
 訳もわからずうろたえるカズマに突きつけられているかなみの小さな手にしっかりと握られているのは、色とりどりの貴金属装飾品。つまり、指輪だの、耳飾だの、ネックレスだの。
 「……イヤリング、だな?」
 無造作に手にとったカズマが暗い電球の光に翳して見る。見た感じ本物の宝石がはまってて、きらりと光りずっしり来る重さは金の予感。
 「なんでカズくんのポケットの中にはいってるの?」
 そのセリフに、カズマはハタと思い出した。給金を貰う時、テツヤの側にいた顔見知りのオバハン(といってもカズマと10も変わらない)が自分のジャケットをやたら触ってたのを。
 「クミコの仕業か……やるな、ババァ。」
 ただでさえ破格だった約束の金に何倍も色をつけようとするテツヤと取っとけ取らねぇの押し問答になったとき、テツヤ夫人であるクミコに「あんたにはただでさえ借りがあるんだから」と宥め賺され、結局約束の倍の金だけ引っつかんで逃げてきたというのに、一体どの隙を突いてこれだけの物をポケットに押し込んだのか。
 カズマがタイミングの思案に耽る時間を、かなみが許すわけもない。低く唸るような囁き声が部屋に響く。
 「……わたしとの約束やぶって……クミコって女の人のとこ行ってたんだ……へぇー……」
 「いやまぁ女といやァ女だけど――――――」
 「出てって」
 「……あ?」
 「出ていってーッ!!!」
 行くなと言ったり出てけと言ったり……全く、ガキはコレだから。呆れ顔のカズマは小さくため息をついた。
 「……へいへい、自分とこで寝マスヨ……」
 のそのそドアの敷居をまたぐカズマの背中には、かなみの尖った罵声が突き刺さる。
 「か、か、カズくんの、ば、ばぁか!!ばか!ばか!」
 「へいへい」
 いつものことだ。もはや痛くも痒くもねぇ。気分屋め。捨て台詞にもならない憎まれ口を叩きながらカズマがドアを閉めようとした瞬間、かなみの口から放たれたセリフがカズマの足を止めた。
 「うわきもの!」
 「――――――そら聞き捨てなんねぇな。オレがいつ浮気したよ?」
 立て付けの悪いドアが、聞いたことのない軋み音を立てて再び開いてゆく。深く影を纏ったカズマの迫力に全く動じず、或いは気が付いていないのか、かなみが勇ましく続けた。
 「なんの意味もなくこんな高価なイヤリングくれる女の人なんて居るわけないもの!」
 「〜〜ッ!……クミコは!テツんカミさんで!オレはテツんとこで手伝いしてきたの!
 テツがアホみたいな金額渡してくっから、羽振りよく金撒いてっとバカに目ェつけられるって君島が説教して金断ったんだよ。もともとクミコとは顔見知りで何度かバカに絡まれてんの助けてやったり、テツ紹介してやったのもオレと君島だからっつって金の代わりにそれ服ん中突っ込んだんだろ。それだけ。――――――わかったか?」
 途中まで怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、それは流石に大人気ないし、ここで必死になって大声上げるとかなみの勘繰りに後ろ盾を与えることになる、と考えを改めてカズマは己に出来る限りゆっくりゆっくり声を出した。彼にしては随分と冷静な判断だ。……いや、かなみの普通では考えられない喚きに些か引いているのかも知れない。
 「……信じる」
 半泣きのべそ顔が眉を顰めた辛抱顔に変わる。どう見ても腑に落ちていないが、彼女なりの納得パフォーマンスのようだ。
 「なんだよ、イヤに素直だな?」
 それを見たカズマの口は、かなみの神経を逆撫でするような思いつきの無神経なセリフをこぼす。
 「カズくんがそんな長い嘘、考え付くわけないから」
 つん、とそっぽを向くかなみの生意気なしぐさに、少なからずかちんと来たのだろう。カズマがそれに一言付け足した。
 「……って、君島が言えっちゅーた」
 ボサッとベッドのかなみの隣に腰を下ろし、かなみの反応をうかがう。振り向いた彼女は果たして……ニヤーっと笑ってるのだ。
 「それは嘘」
 「……なんで?」
 見え透いた嘘を見破られたバツの悪さで引き攣りかねない顔をいなして短く問い掛ける。すると、少女がカズマの首筋にぎゅっと抱きついて言うことには。
 「ジャケットは香水の匂いしたけど、カズくんはしないもん」
 カズマは背筋からざあっと血の気が引いたのを気取られないように平静なそぶりで抑揚なく
 「――――――なんだよ、つまんねぇ」
 と言うのが精一杯だった。
 ……女マジこえぇ。
 後に残るのは、機嫌の持ち直した女の子と――――――やや顔の引きつった少年。



 12:20 2008/10/06 浮気って単語の意味には突っ込まない、嫉妬はさせたいけど勘繰られるのはイヤなカズマ。






たわむひこうき雲

 「何が起こっても目を閉じて耳を塞いだまま絶対にここを動くな、声を出すな」
 カズくんがそう言ってわたしの返事を聞く前にドアを閉めた。
 窓のない廃墟の薄暗い部屋はかび臭くて埃っぽい。カズくんの走り去る靴音が聞こえたあとは、静かになってしまう。
 「……久しぶりの遠出なのについてない」
 手にした鞄をコンクリートのガレキの上に置き、平らな面を見つけて腰をおろした。
 家を出たのが朝の6時半くらい。それから二時間も歩いてないのにカズくんが「急に用事が出来た」なんて言って市場への道を外れて崩れかけた廃墟へ寄って、この有様だ。
 わたしは一人で市場へ行くって言ったんだけど、顔も見ずにダメだの一点張りでぐいぐい腕を引っ張られて、わたしはもう何も言えなくなってしまう。カズくんはいっつもだらしなくっていい加減でだめだめな人だけど、ぎゅって目が釣りあがって言葉少なげになるともう何を言っても聞いてくれない。
 「……カズくんのばか……」
 呟いたその瞬間、少し遠くで誰かの叫び声が聞こえた。
 「!?」
 「――――――で――――――気はねぇのか――――金の出所を――――」
 「――――アタマ悪ィから覚えてないナリ」
 「……けるな……痛い目――――――あの――――――」
 ドアに耳を当てて高鳴る心臓の痛みを堪えながら全神経を鼓膜に集中させる。
 「無駄に暴れっとドア向こうのおチビさんがオヨメに行けなくなっちゃうよん」
 それを聞いた途端、ぞわっと背中に悪寒が走った。どっと汗が全身から吹き出し、喉が灼けつくほど熱くて……気持ちが悪い。
 慌ててドアから離れて部屋を見回した。窓も通気口もガレキに押しつぶされてしまっている。天窓らしきものの隙間から日が差してはいたけれど、足場に出来るような物は何もなく、隠れられるようなスペースも見当たらない。
 わたしは必死に服の裾を掴んでおちつけおちつけと自分を宥める。息が出来なくて涙が溢れて止まらない。
 『大丈夫、このくらい、平気。平気だから。怖くなんかない。今までだって何度もあったじゃない!』
 そう頭に言い聞かせているのに、身体に力が入らない。立っている事さえひどく努力が必要だった。
 ガン!
 大きな音が部屋に響いて、わたしは自分の全身の骨が軋む音を聞いた。ドアに何か大きなものが当たったのだろう、かなり大きく内側に凹んでいる。そして、向こう側で男の人の怒鳴り声。耳が音を拒否してて、誰が何を言っているのかちっとも理解できなかった。
 「……やだよ……やだ……! こわいよぉ……カズくん……!」
 怒号。
 銃声。
 ガレキの蹴散らされる音。
 身を震わせて必死に恐怖で勝手に出そうになる悲鳴を押し殺して蹲る。目を閉じて、耳を塞いだまま、絶対にここを動くな、声を出すな。カズくんの言葉を何度も何度もあの声ごと反芻して、その通りにする。
 「大丈夫、絶対、大丈夫、絶対、大丈夫」
 かすれる声がまともな音にさえなっていない。それでもわたしは呪文のように大丈夫と自分に言い聞かせ続けた。
 「……カズくん……!」
 ――――――それから一体何時間経ったのだろう。もう耳を澄ませても小鳥の声しか聞こえない。恐る恐る顔を上げると、太陽は随分高く上っているのか差し込む日向が歪んだ天窓と同じ形になっていた。
 声を上げて彼を呼んでも良いのだろうか。それとも約束どおりにまだここに居るべきなのだろうか。
 少し思案して、まだ少し震える拳をさらに強く握り締めて立ち上がる。部屋を出てみよう、こんなに長くカズくんが迎えに来ないのはカズくんの身に何かあったからに違いない。
 意を決して傾いでしまったドアノブに手を掛ける。ゆっくりと押し開けてみたが、ドアの向こう側には誰も居らず、何もない。
 薄暗く長い廊下の向こう側に明るい草の生い茂った壊れたエントランスが見えて、呼吸を整えてわたしは走った。余計なものは何も見ないようにして、ただその明るいホールだけを目指して。
 「カズくん!カズくん!……返事して!カズくん!」
 精一杯の大声で叫んでみたけれど、何の返事も返っては来なかった。嫌な予感が背筋を駆け巡って身体中が痺れてくる。
 「……やだ……やだぁ……カズくーん!!」
 空に向かって渾身の力で悲鳴みたいな声を上げた。
 青い空は静かで、遠く遠くにぼやけて掻き消えそうな飛行機雲が一本見えるだけ。



 15:18 2008/10/10 つづく!……待て次回ッ!






マルチプル

 顔は何度か見たことがある。つまんねぇ盗みだの、チンケなタカリだのしてる奴らだ。
 ……ま、そう言うオレも昔は何度かつるんだクチだけどよ。
 強い奴の腰ぎんちゃくやって、ヤバくなったら女でも盾にするような胸糞の悪い連中。そのくせアルター能力者を差別して子供でも何でも手当たり次第に…………くそ、つまんねぇこと思い出しちまった。
 一人になってしばらく市街地跡で屯してた頃、そういうバカどもとは結局反りが合わなくておん出たことを思い出して苦々しく顔を顰めたオレを、不安そうに見つめるかなみが何か言いたそうにはするのに唇を噛み締めて黙って小走りになっている。
 ……クソッタレ、ガキ連れてるとこ狙いやがって。
 オレはかなみの腕を掴んで周りに視線を走らせた。ここはダメだ、場所が拓け過ぎてて囲まれたらやばい……どこか、せめてかなみを隠せる場所に誘い込まねぇと……!
 必死で頭の中の地図を検索して、500メートルも離れていない場所に君島が荷物を隠したりするのに使っている療養所跡があるのを思い出した。……この際君島の新倉庫探しを手伝う羽目になるのもやむなし!
 掴んだ腕を引っ張り上げて抱え、オレは全速力で茂みに突っ込んだ。少しぐらいの目隠しにはなるだろう。
 「かなみ、急用が出来た。ちょっと待ってろ」
 「……ちょっとって、どれくらい?」
 「ちょっとだ」
 「一時間?二時間?」
 「黙ってろ!舌噛みてぇのか!」
 思わず言葉を荒げて怒鳴りつけてしまった。ぐっと黙りこくったかなみはそれ以上何も言わない。
 ワリィ、許せ。さすがに拳銃ぶら下げてるアホウ5人に囲まれてアルターなしでお前を無傷のまま守りきれる程オレぁスーパーマンじゃねーんだよ!
 ようやく藪を抜け、見覚えのある廃墟の庭が見えた。背後で聞こえる薄気味の悪い囁き声と茂みを掻き分ける足音が一刻の猶予もないことを告げる。
 オレはとにかく手当たり次第に壊れたドアを開け、袋小路になっている部屋を探した。出来ればドアは鉄製がいい。ベストは子供が通れるくらいの抜け穴がある部屋だ。
 流石に多くを求めすぎたのか、どんどん奥に進めば進むほど薄暗く、壊れたドアばかりが目に付くようになった。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。
 焦ってガレキに毛躓き、足元にあった何かを蹴飛ばしてしまう。……と、同時にオレの両耳は鈍い金属音を捉えた。
 「――――――あったッ!」
 深い緑の錆び付いたドアが長い廊下の突き当たりに見えたとき、もう背後には人影がちらついていた。このドア向こうの具合を考えている暇はない。
 「いいかかなみ、何が起こっても目を閉じて耳を塞いだまま絶対にここを動くな、声を出すな」
 分かったか、と問いかける前にかなみを部屋に放り込んでドアを閉めた。重苦しい音が廊下に響いたと同時に呼吸を整えて、クソどもを迎え出る。
 「……セェフ」
 ポツリと漏らした時、目の前にはバカが5人アホ面に気色の悪いニヤニヤ笑いを張り付かせていた。
 「やっほぉカズマくんお久しぶりィ」
 「テツヤんとこから随分金貰ってたみてぇじゃねぇか」
 長髪の青バンダナと迷彩半そでのデブがからかうような口調で第一声を発した。
 「……あんな夜中に張り込みたぁ、穏やかじゃねぇなぁ? やっぱアレ? テツんとこ荒らしまわってたのってキミタチ?」
 バカの真似をしながら背中を丸め、猫なで声を出してやる。
 「俺たちも仕事が欲しくてサァ〜」
 「紹介してくんない? テツヤくんに」
 金髪のチビと赤ジャケットは、おれの言葉を無視しながら鬱陶しい喋り方を崩さない。
 「テメェらの勤労意欲ってぇヤツは硝煙のニオイがすんだなぁ」
 ぐっと右腕を突き出すと、さすが旧知の仲ってヤツかぁ? 前の3人は少しだけ怯んだ様子を見せた。……が、それだけだ。
 「そんで、教える気はねぇのか? テツヤの金の出所を」
 「――――アタマ悪ィから覚えてないナリ」
 「ふざけるなよ……こいつで痛い目見てぇのか? あの野郎に義理があるワケでなし」
 義理? 貸借ならあるぜ、この品行方正なオレにかなみのクソつまんねー小言聞かせた貸しがな。
 「無駄に暴れっとドア向こうのおチビさんがオヨメに行けなくなっちゃうよん」
 けたけたと赤ジャケットが笑いながらオレのアルターの発現を制した。……やっぱ素直に出させてはくんねぇか。
 「――――――冥土の土産に覚えとけ。そういうモン人に向けたら殺されても文句は言えねぇってことをな」
 「あっそ。じゃあ死んでチョ」
 制止を振り切りアルター発動を始めようとしたオレにピタリと口径を定め、青バンダナが癪に障る言い方でトリガーを引いた。
 耳をつんざく銃声より早く、オレは手近にいた金髪の老け顔のチビを深緑のドアに投げ飛ばした反動でデブの足元をすくう。おっさん、この食糧難のロストグラウンドでそこまで肥えるたぁ相当悪いことしてんねェ!
 ドンと鈍い音がしてデブが倒れ、手元からピストルが滑り落ちた。拾うのもメンドクサイから潰しとくか。
 瓦礫の脆そうな所に二・三発蹴りを入れ、崩れ落ちた土砂で黒金の輝きとデブの顔が見えなくなったのを確認してからゆっくりと振り向く。
 「まさか2年や3年でオレの身体能力忘れた訳じゃねーよなァ。アルターなしでもカズマくんはそこそこ強ぇぞ?」
 「……ッざけんなぁ!!」
 銃声、銃声、銃声。
 アハン、だめだね、ちっとも分かってない。こんな薄暗くて視界が悪い場所で拳銃が当たる訳ねーだろ? ちったぁ考えろよボケ。
 半笑いでぐっと身を乗り出そうとした時、左わき腹に焼けるような強烈な痛みが走った。
 「っぐぁ……っ!?」
 「バカが粋がってンなよ……!」
 右手にリボルバーを握り締めて、一番最初に投げ飛ばした金髪のチビがオレの背後の無残にへこんだ鉄のドアの前で笑っていた。……無傷!? 投げる時手加減した覚えはねぇのに!
 一瞬チビを振り向いたその隙が不味かった。背後の銃声が止んだ事に気付いた時には既に、まだ一度も口を利いていない白ズボンのノッポと無個性な赤ジャケットが拳銃を並べて突きつけて立っていた。
 「……こいつは触れた鉄を柔らかくするアルター能力者でよぉ。便利な力だろ? 鉄ドアに頭からぶつけられても羽布団に突っ込むより安全なんだってよ」
 「――――――アルター妬んでオレを殺そうとしたヤツの仲間に能力者とはね……」
 白ズボンに軽口を叩くのを待っていたかのように、のそりと無防備に近寄ってきた青バンダナと赤ジャケット、金髪チビが手にした鉄パイプだの瓦礫だので口々に何かを罵り、思い切り身体中に叩き込んできた。口の中に鉄の味が広がっている。やばい。これは長引かせるのはやばい。……かといって5対1で力加減してる余裕なんざねぇ……こりゃ腹キメるか……!
 「そりゃお前が俺にイチイチ逆らうからだろ?」
 にやぁ、と昔と同じケタクソの悪い歯を見せる笑い方で白ズボンが顔をゆがめた。
 その瞬間、アホみたいな勝利者顔で突っ立ってる青バンダナの顎を目がけ、床に両手を突いて全身全霊の力を込めた蹴りをぶち込む!
 派手な音をさせながら青バンダナが吹っ飛び、それを目で追いかけている白ズボンの懐へ飛び込んで腹に返す肘鉄で埋めてやる。バカが、囲みってぇのはもっとバラけてやるもんだ!だいたいピストルの同士討ち警戒しすぎ。そのくせ一方方向に集まって余裕ぶっこいてるから逃げられんだよ!相変わらず頭悪ィな!
 「ぐはッ!?」
 崩れ落ちる白ズボンがへたり込む寸前に、体勢を立て直したオレがアルター能力を開放しようとした時。いつの間にか瓦礫の下敷きから這い出していたデブが「カズマのアルターはヤバイ!撤退!撤退!」と声を上げた。
 「掴まれ!」
 赤ジャケットの身体が紫色に変化したかと思うと、ゲロみたいな不定形にグニュリと形を変えて仲間連中に覆い被さってゆく。
 「……いいよ、逃がしてやる。昔のよしみだからな」
 口の中にわだかまる血の塊を吐き出して精一杯虚勢を張った。正直、これ以上やったら殺しちまう。
 しばらくしてすっかり連中の気配が地中に染み込むように消え、ほぉーっと胸を撫で下ろした所で気がついた。瓦礫の下敷きになったままの青バンダナの投げ出されたまま動かない足を。
 「……仲間ァ、逃げちまったぞ。 見逃してやるからとっとと行けよ」
 おい。
 瓦礫を引っぺがして、オレは深く深くため息をついた。
 ……まぁ、あんだけ全力で蹴り上げたら、そら、こうなるわな。
 「――――――だから言ったろ? 人に鉄砲向けるってぇのは、自分のこめかみに突きつけてんのと一緒なんだよ」
 こういうことは、よくある。よくあることだ。
 ……本当にこの土地ではよくあることでずっと続いてきたくだらねぇ事で――――――まったく、胸糞がワリィことこの上ない。



 17:29 2008/10/10 永久連続。最初からこの世界はそういう風に出来ている。






優しい君と偽りの日々

 かなみがやっとのことでカズマを見つけたのは少し日の翳りかけた頃だった。
 カズマはどこから拾ってきたのか、シャベルとピッケルを手に、ぼんやりと崖の前に立っている。
 最初、かなみは喜びのあまり泣きつく為に駆け出したが、カズマがゆうっくりと緩慢な動作でかなみを振り向いた顔を見て、ギクリと足を止めた。
 ひどい顔だ。痣が肩にも頬にもくっきり浮き出ていて、口元や腰の辺りには血がべったりと張り付いていた。
 だが、かなみが驚いたのはそんなことではない。
 能面のように何の表情も浮かべずに、濁った目で一瞥するように自分を見たカズマの感情のなさ加減だ。
 「……か、ずくん……」
 「……いちおー、昔の知り合いでよぉ……胸糞の悪いバカばっかりで……アタマ悪くて……ロクでもねぇ事しか考えないクソで……女なら子供でも見境なく手ェ出す外道でさぁ……でも……――――――何言ってんだろーな、オレ……」
 はん、と鼻で笑うような音が聞こえたかと思うとカズマが手にしたシャベルとピッケルを落としてた。
 ザグッ、と土を分ける乾いた音がサラサラ流れる風の音に紛れて失われる。木々の梢が揺れて、カズマのジャケットに落ちている木漏れ日がきらきら光って眩しいほどだ。
 「………………。」
 「――――――帰ろーぜ、かなみ。うち、帰ろう。……服、汚れちったよ」
 「……うん」
 カズマのらしくない茫然としたみたいな声が、かなみの胸を締め上げた。もう何も言う言葉が見つからない。
 名前を呼ぶことさえ憚られる雰囲気の中、かなみは傷だらけのカズマの手を握った。驚いたカズマがその手を一瞬振り払おうとして、更に強く握った。
 「わたし、ちゃんと言われた通り、目も耳も塞いで、じっとしてたよ。怖くても黙ってたよ」
 カズマの顔を直視するのがなんだか怖いような気がして、小刻みに震える声をなんとか奮い立たせ、かなみはぎこちなく笑いかけた。満面の笑みで笑ったつもりだったのに。
 「……そっか。偉ぇよ、かなみは」
 「うん」
 「もう大丈夫、バカども、もう二度と来ねぇよ」
 「うん」
 「…………明日こそ、行こうな、市場」
 「……うん!」
 笑ってカズマの手をもう一度強く握ると、かなみの小さな手を握るのに不似合いなほどの力がカズマの手に篭った。
 かなみはそれをひどく恐れたけれど、痛みよりも不可解よりも、カズマの手の暖かさが彼の意思に拠って更に確かになったような気がして、何も言わずにいた。
 「――――――かなみ…………オレ――――――」
 「なぁに?」  無邪気な顔をするのがこんなに難しいなんて。平気な顔をするのがこんなに辛いなんて。笑顔のハズなのに唇が震えてしまうのが怖ろしかった。
 「――――――あ……いや、腹減ったなと思って」
 まさかかなみの内心を察したのだろうか? カズマが何か言いかけた言葉を途切れさせて歩き出し、能天気なセリフにつなぎ変えた。その不自然がまたかなみの呼吸を変にしたことには気付かないまま。
 「じゃあ帰りにね、牧場のおばさんとこに寄ってパンと牛乳貰ってこよっか。あとね、小川の近くにグミの木があるんだよ」
 「あの太ったオバチャン? オレ苦手なんだよな、あんババァ」
 「そんなこといっちゃダメ! 優しい人なんだから。いっつもパンくれるんだよ!」
 「……ちゃんと金払っとけよ」
 ちょっと笑ったカズマが年上ぶった訳知り顔でそんなことを言った。ゆっくりと廃墟が遠くなってゆく。
 「払ってるけど受け取ってくれないんだもん〜。だからいっぱいお手伝いするの!そしたらイーブンだっておばさん言ってた」
 その笑い顔にかなみがどんなに救われたかは、この弾む声を聞けば誰にだってわかるはずだ。……そう、例えどんなに鈍感なバカでも。
 「ふぅん。オレにゃおっかねぇだけだけどなァ」
 「いろいろ教えてくれるよ。服のつくろい方とか、チーズの作り方とか、男の服から香水のニオイしたら怒っていいとか――――――」
 唇に人差し指を当てて少し大げさに、かなみが諳んじた。もう藪に隠れて廃墟のコンクリートの色は一欠けらも目に付かない。
 「……あのババァか!お前につまんねぇこと吹き込んだの!」
 それを受けてカズマが同じようにすこしわざとらしく驚いた顔を見せる。踏み鳴らす下草がざくざく陽気な音を立てていた。
 「つまんなくないよ〜。スッゴイ役に立ってるもん!
 服と身体に同じニオイしなかったら許してあげてもいいんだっておばさんが言ってたから許してあげたんだよ?」
 拓けた草原にもどり、遠くから見ればただの仲の良い兄妹の散歩に見えるよう、カズマとかなみがつないだ手を少し大きく揺する。自分の手が相手に少しだけ強く握られて、お互いがほんの少しだけほっと胸を撫で下ろす思いを……相手に悟らせないように気遣いながら。
 「……オマエ、それ意味わかって言ってんのか?」
 血だらけの呆れ顔でカズマが肩をすくめてちいさな女の子に尋ねる。女の子はうふふ、と声を上げて含み笑いをしただけでその質問には答えなかった。



 21:38 2008/10/10 せめて君と一緒にいるときくらい、笑っていてもいいじゃないか。






トワイライト

 泣き疲れて眠ったのだと思う。ふと気が付いたら寝息が聞こえてきた。
 ずいぶん宥めるのに骨が折れたのか、赤い髪の少年はやっと眠ってくれた女の子の方をうんざりしたような表情で一瞥し、首と肩をぐきぐきと回した。部屋の中に充満するオキシドールと化膿止めの匂いに顔をしかめる。
 「助けられなくてごめんね――――――か」
 何度も何度もそう言って涙を拭う女の子の姿を瞼に描き、少年は大きく伸びをしてベッドに両腕を広げて寝転んだ。もちろん、女の子の身体に掛からないように。
 一丁前なこと言いやがる。ふっと笑って節々の鈍い痛みごとつまらないことだと思った。
 お前に助けられなきゃならねぇほどヘタレじゃねぇよ。
 口の中でそれを呟いたのと同時に、頭の隅っこがかすれる様な小さな声で囁いている。
 お前が居なきゃ、あいつら全員喜んでぶっ殺してて、そんで……またあの頃に戻ってただろうさ。
 少年―――カズマ―――は、瞼に力を入れて唇を強く結んだ。特に親しくも興味もなかったが、何度かつるんだことのある、名前も知らない青いバンダナを巻いた青年の顔を思い出しているのだろうか。
 バカは死ななきゃなんとやら……オレも長くはなさそーだなー……。
 自嘲気味にそんなことを思った拍子に、左わき腹に鋭い痛みが走る。近場の医者崩れに手当てをしては貰ったのだが、満足な麻酔もなく弾丸の摘出手術をされたのでズキズキと痛んで、ともすれば悲鳴を上げかねない。
 「鍛えとくもんだ」
 カズマの失血が少ないのを不思議に思った医者が傷口を切開すると、弾は筋肉でガッチリ止まってて内臓に殆ど負担が無いという奇蹟的な状況であった。いくらロストグラウンドにまともな銃が流通しておらず、弾丸の作りが粗末で距離もあったとは言え、カズマの身体が異常な事には変わりはない。
 「……そー言う問題じゃねぇよな、やっぱ」
 半端ではあったが身体をアルター化してた為に助かったのだという事は、カズマが一番よく知っていた。忌まわしい人と違う能力、物理法則からかけ離れた自分の体、本来あるはずの無い知覚と強度。過去の悪夢と弱気が頭を巡り、それを振り払うようにカズマは頭を振った。
 「ま、死ななかったんだ。よしとするか」
 カズマの切り替えは早い。いつまでも落ち込んで無駄にグダグダするのが嫌いなのだ。……特に、彼女の前では。
 ちらりと自分の脇で眠る少女を見た。小さく可憐で弱々しく震える小さな女の子。カズマはうつ伏せで眠るその女の子の前で過去一度だけ、たった一度だけ涙を見せてしまった不覚を思い出した。女の子の格好がカズマの記憶を蘇らせる。
 『いいよ。ここに置いていって』
 どんな気持ちで彼女がそう言ったのか、カズマは時々考える。あの時少女は、諦めたような表情で親しげに名を呼んだ人間に対して、一体どんな気持ちでそう言ったのだろうか。……だがその結論が出たことは一度でさえなかった。カズマ自身が拒んでしまうから。捨てられる、ということは彼の人生に於いてあまり愉快な事ではない。
 赤黒く鬱血して擦り切れた痛々しいボロボロの小さな背中。思い出すたびに腹にどんよりした重苦しい鈍痛が走って、辺り構わず滅多打ちにしたくなる。何故だ、なんでこんな小さな奴ばっかりひどい目に合うんだ。力が無いのは罪なのかよ? カズマは問いかける。形のない、誰かがこの世を作ったと言った、神様とかいうものに。
 ああそうかい、そうかい。だったらオレがこいつの牙になってやるよ。誰も守ってやらねぇならオレが守ってやる。何も持つものが無いのならオレがこいつのものになってやる。こいつは無力じゃないし、要らない人間でもない。現にたった一年でオレを丸ごと変えちまいやがった。“市街地跡の狂犬カズマ”がせせこましく金稼いでお家に帰るんだぜ、全く笑えてしょーがねー。かなみを捨てた奴はご愁傷様だ、全然見る目がねぇ。やい神様とやら。お前がどんだけコイツを不幸にしようとしたってそいつぁ無駄ってもんだ。なんたってこのカズマ様が味方に付いてんだからよ。
 闇に目をやる。部屋の隅にわだかまり渦を巻き上げる混沌に牙を剥く。髪の毛一本でも触れさせるもんか。こいつぁオレんだ。
 オレのものだ。
 無力でくだらねぇ何も持つものの無いこのオレの、たった一つ人に渡せねぇモンだよ。
 カズマは形のない誰かではなく、己の右手にそう言い聞かせた。自慢で、ただ一つ誇れ、己自身である、右拳に。
 細く長くため息を吐き、カズマはすやすや眠る泣き腫らした顔の少女の額に手を当てた。生命の温かさが伝わってくる。それは彼にとっては正に奇蹟のように思えた。生きている。自分の大切なものが健やかに生きている、ただそれだけで。
 「……かなみ……」
 名を呼んだ。少女の名を呼んだ。
 小さな手を取り、唇で触れる。温かく柔らかな少女の細い手を伝い、腕、肩、鎖骨と、執拗に唇で触れる。
 どこもかしこも小さく華奢だ。それを全て確かめるように、カズマは眠っているかなみのどこにでも不躾に唇を当てた。熱心に、誠実に、偏執狂的に。
 「…………起きたら、怒るかねぇ……」
 小さな少女の肩や胸や首筋にいくつもいくつも印をつけて、失敗したとでも言いたそうなセリフを口にしながらもカズマはどこか笑っている。楽しそうに、笑っている。
 「――――――目が覚めたら鏡を見る暇もなくマフラー巻いて市場に連れて行こ……」
 流石にやりすぎたとでも思ったのか、カズマははだけたかなみのシャツを直してうっすらと白み始めた空を見る事もなく床に伏して瞼を閉じた。



 14:55 2008/10/21 黄昏でもあり、夜明けの薄明かりでもある。スクライド十問十答、これにて全巻の幕でござい。チョン。
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