ラグナロク と クロナ の 世界
俺様が企んでいる事なんて本当に小さくてかわいらしい。
ただ今存在している場所で一分一秒でも長生きしたい。そんだけの罪もなんてことも無い望みだ。こいつを罪と声高らかに裁ける者が在るならば、そいつこそ死神だろう。
だから俺様は死の庭でさえも主人である死神を人質にとり、永らえることをまず考えた。
何が何でも生き残る、そのための武器はなんだ?
考えて結論付いた無難で陳腐な古い手がひとつ。
『おい、お前デスシティにどのくらい居たいんだ?』
『死武専に……マカの側にずっと居るためなら何でもする』
何かに縋るような目はいつも通りの依存心まるだしの間抜け面。
愛されることはおろか、大切にされることも、気遣われることも、考慮されることもなかった子供が、たった一人の心を独占できることに溺れない筈がない。寂しさと飢えに何とか耐えてきた者の前に出される色とりどりの世界は夢にさえ見ないような魅力だろう。
それに、餌の具合も良かった。
年頃であったし、不完全で経験も無く、愛を与える喜びに目覚め、同情的で善良だった。そして何よりクロナを救いたいと思っていた。……あの魔鎌職人の娘のように、その方法も持たぬまま夢見心地で。
子供の手を捻るなんて簡単だ。
知らぬ者を騙すほど楽な仕事は無い。
憎むのならば俺様の囁きにでなく、安直で浅ましい希望への貪欲さに頼むぜ。
『その言葉、忘れるなよ』
DEATH SIZE (死の大きさ)
1
目を覚ますと碌な事がない、というのはクロナと俺様の共通見解だった。
ある日目を覚ますと古い事がほとんど思い出せなくなっていて、身体を失い、小汚い子供の身体の中に封印されていた。俺様も相当長いこと魔剣なんてやってるが、あれほどぶったまげた事はなかった。
それから十数年、反りの合わないクソガキのお守りを押し付けられて、魂を食い散らかしながら破壊したり、死にかけたり、潰したり、死にかけたり、解体したり、死にかけたりした。
何が一番つらいったって、クソガキの弱いこと弱いこと! 打撃が一発入っただけでも動きを止めやがるもんだからたまらない。まるで3枚セーターを着てその上にコートを引っ掛けて手袋を2枚重ねたままステーキを食ってるみたいなもどかしさに、それでも発狂しなかった俺様を誰か褒めるべきだ。
そう、俺様はそれでも発狂しなかった。
……しなかったんだよ。
聞いてるか馬鹿野郎。
「ヒ、ヒヒヒ」
かすれた声は笑っている風で、そうではない。
もう随分何も口にしていないからひび割れた喉からただ空気が出入りしているだけ。だから厳密に言えば声というのとも違うな。言うなれば……言うなればそう、反吐の鍋底で開催されてる嘆きと懺悔と自己嫌悪のダンスの伴奏、てとこか。
衝動の続きでなく
計画の成果でなく
粉塵の模様でなく
数式の回答でなく
ただ、そうなった。
誰かが仕組んだ結論である、それは確かだ。誰かが取り上げ、導き、育て、唆した。それは俺様であり、蛇の魔女であり、運命であり、状況であり、こいつ自身。
だが今更だ。もしかしたらあり得たかも知れないなんて仮定は欺瞞で無意味極まりない。
純然たる結果の出てしまった後では。
2
死武専からエルカに連れられ“帰って来て”、黒髪の蛇の魔女はまず我が子に何と言ったと思う?
痺れるような鋭い視線で有無を言わせぬ優しい声を保ち、狂気に巻かれた思考回路ではなく、感情を排した確かな理性でこう言ったのだ。
「まずは死神の置き土産を出して頂戴」
クロナは両性具有といって、いわゆるひとつのフリークスとされるものだ。それが先天的なものなのか後天的なものなのかは知らないが、性器が子を成す器官として正しく機能しないことは良く知っている。
……ただし、それは俺様のフォローが無ければ、という注釈が付く。
不具合のある身体ではあるが、欠損品ではないし、性別が無いわけではない。ホルモンバランスと血流による肉体の活性化という鍬で丹念に耕せば、畑として使えないわけじゃなかった。
でも無きゃ、誰が好き好んで死神野郎と一時でもクロナの身体を共有したりするものか。
「お、お。おぉき。みや、げ」
視線の焦点が崩れる。
酷くゆがんだビブラート。
膝の力が抜けて、背骨がくにゃっと曲がった。
涙は出ない。だからと言って感情がなくなったり振り切れたわけでもなく、固まっている。そうか、これが茫然というものか。
「家に帰ってきたら手を洗わなきゃ不潔だわ」
黒髪の蛇の魔女は薄ら嗤ってクロナを見向きもせず机に向かったまま、資料か何かに目を通している。
俺様は知っている。
蛇の魔女がこういう仕草をするのは自分の表情を隠したい時だと。
笑っているのか、イラついているのか、興味を持てないのか、知ったこっちゃないがね。
「ずいぶん死神に遊んでもらったんでしょう。だけどそんな荷物は要らないものね」
今の今までずっと黙って扉の傍に居たカエルの魔女が悲鳴のようなものを上げた。
「あ、あんたたち……なにを……何を言ってるの……」
ぶるぶる体を震わせ、扉の桟にすがるように倒れかかりながら、擦れた声でもう一度言う。……馬鹿だな、訊かなきゃいいのに。
「ラグナロク、もうそれは必要ないわね。外しなさい」
3
狂わぬように腹の底に力を溜めて小さく縮こまり、じっと唇を真一文字に結んで瞼を閉ざし耳を塞いで心を閉ざしたのは、ひとえに弱さゆえだ。
クロナは弱い。身を守るには静かに部屋の隅に硬くした身を押し込めるしか方法が無い程。
世界を遮断することでやっと均衡を保っていた逆三角錐。
そいつが倒れる瞬間。
ああ、なんて――――――――
ブジュブジュと肉の管から水分が押し出される音。
絶叫。
痛みなどもう遠に置き忘れて、では何がお前を突き動かすのか。
服従。
喜びと満足と照れと驚きと脅えと焦燥と憧憬と欲望のなれの果ての色は赫い。
心臓。
喉が破れてしまう、と、身に合わぬ事をぼんやり思った。
いろんなものが、数は少なく密度も低くお前の望む形で無かったにしろ、確かに誰かの仕組みからお前を救おうと手を伸ばしていたのに。
声にならぬ空気が破れかけた喉から這い出し続け、それは多分小一時間。
近くに控えていたカエルの魔女は眼前に広がる物に耐え切れず、気を失ったまま動かない。
一太刀の元に切り捨てるなんてお前達が一番得意とする事じゃないのか? とかなんとか、得意の皮肉でも口にしてやろうかと思ったけれど、やめた。
どうせこの騒音の中じゃ誰に聞こえる訳じゃなし。
……まぁ別に誰に言いたい訳でもないけどな。
蛇の魔女の顔に広がっている鮮血は、まるでクロナが最後の抵抗で振り散らかしたように万遍なく。
床に落ちているのは毒の黒さ。
ついさっきまでそこには消しゴムのカスだとか羊皮紙だとかヘンな製図用具が置かれていた机。
足を大きく広げられ、蛇に巻き付かれたクロナ。
言葉もない。
悲惨な、悲惨な、在るべき場所の日常。
この食卓のテーマを思いついたぜ。『悪食家の晩餐』ってのはどうだい。
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4
振り上げられた瞬間、ああ、この時がやっと来たと思った。
『目の前に立ち塞がる壁、俺達に害成す物、お前を挫く者、魔剣ラグナロクで切り捨てろ!』
いつか俺様はそうお前に言ったけど、あの言葉をお前はちっとも真面目に考えなかった。いつもの小言と切り捨てた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ」
唸る慟哭は言語でなくなった振動。
乾いたアメジスト色の瞳は昏く濁って瞳孔が開き切っている。
心躍る様な悲鳴に共鳴して魂の膨れ上がる様はいい見せものだ、言葉もないほど。
手招きしながら舌舐めずりする黒い髪の魔女の亡霊は、このザマをみて死の間際の高笑いの続きを奏でているのだろうか。
母親を刺し殺した刃の名は、奈落。
これ以上ないほどお似合いの剣だとは思わないか。ああ全く出来過ぎたジョークのように!
刀身はゆっくりと確かめるように引き抜かれ、女の亡骸は上等のコートを投げ捨てたような下らない雑音と共にその場に座り込む形で棄てられた。
たちまち床に作られる浅く赤い水たまりは、どこにもお前に繋がっていない。
「あは、あはHa、あはは、ははっAあは」
喉をからした笑い声がミートスパゲッティの匂いに混じって部屋に充満している。
「……………………」
言葉もない。
掛けるべき言葉ここに在らず、というのとは少し違う。
では何なのか? ともしも誰かが俺に問うたのならば俺様はこう答えるだろう。
『 』
……なぁに、馬鹿にしてるんじゃねぇよ。口を開けて上を見てギロチンの刃が今まさに瞼に落ちてくるのを見てる感じ。
そいつを言葉で表わしたらそうなるだけさ。
ああ、全く。
……ああ、全く。
……………………ああ、本当に、まったく、どうかしてやがるぜ。
5
蛇の血は赤いのだなぁ、とか馬鹿馬鹿しいことを思い、考え、漫然と痺れた頭の中を繰り返す。
クロナは銀のフォークを右手に持ち。
食卓の自分の為に用意された席に着いて。
赤い飛沫で悪夢のように彩られたクロスで何度か手を拭き。(だからテーブルから垂れた裾には小さな手の跡)
お母さんが用意したミートスパゲッティを食べる。
メデューサの死体を足元に残したまま。
稀代の魔女の血が混じったパスタはさぞ前衛的な風味に違いあるまい。
あの時の子ウサギのように。
あの時の人間の形してない胎児のように。
ぼとぼと肉を落としながらパスタを噛み切り、ひどいマナーで、クロナはもぐもぐと口を動かす。それは罰のように見えた。試練のように見えた。挑戦のように見えた。仇を討つように見えた。余興のように見えた。
そしてそれは確かに狂気だった。
しばらくして皿の上には散らばった血と、肉と、短いパスタの屑だけになって。
クロナは何故かこう言った。
「奈落」
右手に黒い刀身が握られて、その左手は足元に落ちていたものを頂いた。
閃く。
「おわぁ! マジか! おちつけ!」
思わず、本当に考えるよりも先に言葉が口をつい出た。
振り落された刃が死体の右腕を跳ね飛ばすようにして乱暴に本体から引き剥がす。悪夢だ。まるっきりのホラー映画。
どしゃ。
重い音がする。
浅い血溜まりが少しだけ大きくなった。
足元でパリパリと踏みつぶされた皿の破片の音がする。続いてネチャネチャと水分と油と肉の破片が雑ざりあったものが踏みつぶされる音。最後にはその靴底に付いた汚い物を擦り取る音。駅でガムを踏ん付けた時みたいに。
かしかしと薄く奇妙な物音がする。
クロナが爪を噛んでいるのだ。
ただしその爪は自分の物ではないが。
「ああイライラする……みんなみんなズルいじゃないか、僕ばっかり、どうしてこんなに我慢しなきゃいけないの、面倒くさい、腹立たしい、痛い、苦しい、臭い、煩わしい、重い、そうさ、火をつけちゃえばこんなの皆無くなっちゃう、あ、だめだ、燃え後とかは残っちゃうね、じゃあ全部潰しちゃおう、叩き壊したり海に沈めたり切り刻んでから燃やしちゃえばよく燃えるさ、ねぇ、そうだ、それがいい」
息継ぎもするのを忘れて一気呵成に嬉しげな顔で言葉を並べ立てる。
目に光さえ見えた気がしたが、その瞳に燃えるのは希望や復讐ではなく。
「もうおなかいっぱい今日は全部食べられないからまた明日」
どしゃ。
またあの同じ音。
「……おい、クロナ。同族食いは病気の感染が早いぜ」
人が人を食うとヤバイ病気の筆頭は、確かヤコブ病とか言ったかな? ……まぁ、潜伏期間以後まで生きてられるとは思えんが、一応な。
「何故? 育たない子は親が食べるんだろう? 死んだ親は生きてる子供が食わなきゃ」
蛇の魔女がベッド代わりの机の上で言った戯言をうわごとと変わらぬ調子で二・三度繰り返して言った。
手探りして、ウサギのぬいぐるみを引っ張って寝室に向かう。
あ、あれ?
こいつぬいぐるみなんか持ってたっけ?
クロナの身体の影になって引きずられている“二本の長い耳がある何か”の正体は掴めない。
蛇の魔女の呪いは、今、完成した。
22:02 2011/12/27
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