クロナ と 誰か と 誰かの記憶
お前は怖がりね、でも大丈夫よ、お前の不安を全て取り除いてあげる
さあ、お話しなさい……お前は一体何が怖いの?
部屋。
暗い部屋。
重い空気、湿った雰囲気、頭が重くなる匂い、それから低い音。
僕はボーっと地面に座っている。
どこか遠くに人の気配。
誰かは僕にずっと質問を続けていた。どれくらい時間が経ったのか解らない。目を閉じているのか開いているのか解らなくなりそうな薄暗くて何もない部屋。寒くはない。
「……友達が いなくなる、のが……」
ともだち?
「……そう、僕には、友達が居た……だけど、僕は裏切っている……」
裏切るですって?
「……皆、優しくしてくれたんだ……許してくれた……」
何を許してくれたの?
「僕がここに居ることを……ただここに居ていいって……」
それは一体誰?
尋ねられて、僕は愕然とする。
名も、顔も、形も、何も思い出せないのだ。確かに僕に優しくしてくれた誰かが居た筈なのに。僕に話しかけて、僕に関わってくれた、誰かが。
思い出せ、思い出せ、思い出せ!
頭の中に命じるのにちっとも形にならない光る輪郭の誰かが、僕の頭の中で手を差し伸べている。
唇の動き、首の傾げ方、声の抑揚。魂に焼き付いているのにすっぽりとその人の情報が抜け落ちている。パズルのピースが欠けたように、その部分だけまるっきり空白なんだ。
「誰……誰だったんだろう……わからない……わからないけど……誰かが、いた……」
思い出せないの?
「居たんだ、居たはずなのに……!」
僕に質問する声が少し和らいだような気がした。
思い出せないことよりも、思い出せることを考えてごらんなさいな。
「嘘じゃない、本当に、僕を、僕に、居ていいって、居て、ここに、居ていいって……!」
ザラザラした血が首の後ろの血管を無理やり通っているような気持ちになる。静脈が泡立って動脈が毛羽立ってゆくような。
ゆっくりでいいのよ。何も焦ることはないわ。さあ、呼吸を整えるの。
声は優しく落ち着き払って少しばかり黙ったけれど、僕はその沈黙にも好意を持っていた。理由など説明できないけれど、強いて言えば自分を待ってくれていることが嬉しかったのかもしれない。
「……クローゼット……」
クローゼット?
「樫の木の大きな扉のある部屋に通された」
いつの話か言える? そこはどこ? 誰に連れられて行ったの?
声が今までになかったほど熱を持って僕にぶつけられ、何故か酷く苛々した。
その扉の中には何があったの?
「……渋柿色の樫の木の扉の中……」
そうよ、その扉をあなたが開けたのね?
「……扉は……開かれた…… 誰か、に」
ゆっくりでいいから思い出すの、手で触れた感覚を。押し開けた時の空気の匂いを。
「手は、僕の手は……触れなかった……僕の手は、僕の腕を掴んで……」
触れなかったの?
尋ねる声が僕の先を促すけれど、霧が掛かったようにゆらゆらと頼りない記憶の輪郭は不用意に近づいたらすぐさまにでも散り散りに消えてしまいそうで怖ろしかった。
――――――怖ろしい? 何故? 何が? 何で?
怖ろしいから、僕は恐ろしさから逃げたいから、僕はこうしているんじゃないのか?
質問され、それに答えることで、恐ろしさを切り取ってもらう。
そのために僕は記憶を切り刻んだんじゃないのか?
ジワジワ混乱してゆく記憶と思考が交じり合って、ついさっきまで確かだった筈のものが白い霧の向こうへ沈み込んで行くような漠然とした恐怖が僕の魂を蝕んでゆく。
なのに僕の頭はきちんと動いてくれなくて、僕はずんと痺れる半身をやっとのことで地面と直角に立たせるだけだ。
「クローゼットの中には……女物の服が掛かっていた」
……服?
「そう、ドレスが幾着か」
…………ドレスですって?
「クローゼットを開けた誰かは……僕に、選べと……パーティに……」
声はしばらく黙って、続けなさいと言った。その沈黙はさっきのとは違って、なんだか冷淡な印象だった。思い違いや落胆のような。
「黒い服はいけない……明るい色をと…………白いズボンとジャケットを選んで……」
部屋に渦巻いている生ぬるい空気と匂いがぞぞぞと音を立てたかのように大きくうねった気がした。しばらくして、その理由は自分が流した涙によるものだと気付いた。
頬に流れる水滴が滴り落ちながら蒸発している。
「……僕の身体に当てて……」
誰かが思い出せない。
大切だった感覚だけが皮膚の裏側を這い回っている。
気持ちが悪いのに、痛痒くて掻き毟りたいのに、その場所に指が届かないようなもどかしさ!
「……僕の髪を……梳いて……キスを……」
声がひび割れる。
思い出してはいけない。
思い出せない。
なのに次から次に涙が溢れる。
「……僕は嫌だった……とても嫌で……眉を寄せて、思いっきり口を閉めた……」
肩が、腕が、燃えるように熱い。何故だかは解らないけれど、ひどく痛かった。
「気まぐれめと罵った……嫌だった、嫌だったんだ! 本当に嫌だった!」
懐かしく痛む。瞼と唇。燃える。燃える。焼き切れてしまいそうに!
何度もいとおしげに滑る唇の温かさが憎らしくて寂しかった。
何度も近付いては離れるのが嫌だった。
悲しくて、嫌だった。
「……嫌だった……嫌だ……」
うわ言に近くそう呟くと、ぽたぽた音が聞こえる。自分の膝の上に落ちている水滴の音だ。
途切れることのない不景気な音。胸が塞がる。
嫌なのなら、怖ろしい記憶を取り除いてあげましょう。
最後に聞こえたその言葉に、僕は光の輪郭だけになった白い服を僕に渡す誰かの顔を思い出した。
『この服は左右がシンメトリーで、背中にもジッパーがある』
名前も声も思い出せないけれど、暗い部屋の中にボンヤリ浮かび上がる三本の線。
『ラグナロクが息をするかどうか知らんが、ここから顔を出せば苦しくなかろう』
言葉の一つ一つが浮かんでは粒になってばらばら砕けていく。古い書物のように。
『口づけくらいでそんな嫌な顔をするな、いくら俺でも傷つくぞ』
「……ああああ……嫌だ……忘れたく、ない……!」
見開いた目の端から、溢れる、という言葉がぴったりなくらい涙が流れて、その涙が収まる頃には何かの光る輪郭さえも頭の中から消え失せていた。
どう? 嫌な気分はもう無いでしょう?
声は優しげで、とても嬉しいはずなのに、僕は目の焦点が上手く合わず、ただ唇を何度もごしごしと袖口で拭いながら「はい、お母さん」と機械的に声が出た。
真っ黒な頭の中には、もう何もない。
何もないからもう安心な筈なのに、僕は唇をまだ擦り続ける。
02:02 2010/12/11
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