平和島静雄 と セルティ・ストゥルルソン
ホワイトボードに文字が書いてある。
『お前も』
掠れたような引きつった字。
俺はそいつが視界に入るたび、心臓に鈍痛がして目を背けた。
セルティが俺の背に文字を書く。
何度も何度も文字を書く。
そうしなければ意志の疎通が出来ないから。
何もかも取り上げられた彼女は喋らない。
セルティ・ストゥルルソンには首から上がさっぱり、ない。
何故あの日仕事終わりにトムさんが食事に誘ってくれたのを断ったのかと、いまだに悔やんでいる。人間慣れない事をするもんじゃない。
つい二週間前、俺は新羅に呼び出されてのこのこマンションに行った。
仕事をひとつ頼まれてくれないかと持ち掛けられたから。
「ちょっと厄介事が起っちゃって。セルティが人目に付くとヤバいんだ」
「あちらサンの目星は付いてんのか?」
「いや」
「いいねぇ、無量大数ってか。敵に不足なし」
「いやいや!」
「じゃあ内密にシバく必要があるワケだ」
「聞けよ君は!」
「あん?」
久々にテンションあがって来た所に水を差されて、俺は焦ってソファから立ち上がる新羅に視線を戻す。
「言っただろ、厄介事なんだよ。こっちから手を出す訳にはいかないの!」
「……んじゃ俺の出る幕じゃねぇだろ」
ミノ蟲野郎にでも頼めよとポケットを探って煙草を引張り出した。新羅がほっとした顔で灰皿をこちらに押し出しながら続ける。
「こっちもいろいろあってさ、手は出せないけど自衛はしたい。
それに俺自身もちょっと危なくてね、一か月ほどこのマンション離れなきゃいけないんだ。それで」
言葉を切って新羅がソファに座り直したのを紫煙のこちら側から窺っていると。
「セルティを監禁しようかと思って」
「んぶほっ!」
思わず吹いた。
煙が変な所に入る。
げほげほ噎せまくる俺を尻目に腕組をして神妙な顔つきの新羅が続けた。
「セルティと別居するなんて俺には地獄……ああでもお互いの身の危険を考えれば離れることも或いは愛の試練!」
「……よそを当たれ……」
“物まねみたいに真剣な顔”の新羅が身振り手振りを交え始めたのを置き去りに、席を立ちあがりかけた俺の足に蹴りが入った。
「いて!」
なんて事をするんだ! 信じられない! 俺がキレない確信でもあるのか? それとも狂ってるのか!?
余りにも慎重な新羅らしくない子供じみた態度に、俺も“自分らしくもなく”一瞬混乱してしまう。そしてそこに畳みかけるかのように青い顔が喚いた。
「これは冗談じゃないんだよ! 仕事の依頼者を無碍にするのか!」
「なんで俺がセルティ監禁しなきゃなんねーんだよ!! アホかお前!!」
「だってしょうがないだろ! 他に頼めそうな友達いないんだから!」
きっぱりと胸を張って言いきったアホの闇医者が縋るような目で契約内容を並べた紙を取り出して。
「十分にお礼はする!」
と両手を合わせた。
3日目
『お前も苦労性だな』
顔のないセルティが笑ってるかどうかなど、解るはずもない。
ないのだけれど。
「少ない友達は大切にしましょー、ってこった」
存在しないはずの溜め息さえ感じられるよう。
門田が手配してくれたワゴンで秘密裏に某所の打ちっ放しも寒々しい背の高いビルの一室にやって来たのは一昨日。
狭い部屋に閉じ込められる首なしのお姫様のストレスを少しでも軽減する為、王子様が手配したと思わしき新品のセミシングルソファを運び込んでいる俺の背に声が掛かった。
「しかしその音声読み上げソフトってのは、声が固くてキモチワリーな」
『そうか? では設定し直そう』
背後でカチカチとタイプ音がしてからまた声がした。
『しずお』
心臓が跳ねる。
『どうだ? 女性音声を少し高く加減して抑揚をONにしてみた』
「……あ、ああ」
存在しないはずの女の声はそれでもまだ機械っぽくて違和感があるのだけれど、その音声が自分の名を呼んだことの衝撃の方が強くていろんなものが吹っ飛んだ。
『しかし、通信手段を丸ごと取り上げられたのは痛いな。随分暇になりそうだ』
新羅がセルティにどういう説明をしたのか、俺は知らない。だがセルティがいる部屋ってのは、新羅が手配した馬鹿みたいに高そうなビルのワンフロアを借り切ったもので、俺は一か月その部屋で寝泊まりする門番をやるんだそうな。
……なんだこの契約……
因みに毎日の仕事はきちんと続けること、という一文に違和感を感じたので即質問したのだが、なんでも日常生活を続けることは絶対条件だという。
“僕の周りの人間は全員僕とセルティの行き先を知らないってのをアピールしなきゃね”
俺の給料でビルワンフロアなんか借りれるわけねーという超特大の不審をどーするつもりだこのすっとこどっこい、と声を荒げる前に新羅が指を一本立てた。
一か月百万円。もちろん経費・雑費は別途支給。
TV番組で昔そーゆーのあったよな。一か月連続で家族揃って頂きますが言えたら、みたいなの。
百万円か。
それはでかい。
しかも俺は普通の生活を続けていて何ら問題ないと来る。
思わず素直に頷いてしまった俺を誰が責められるだろうか。
『まあ、静雄が居るのだからまだ気が楽だ。退屈はしないな』
しずお、と言う。
機械音が俺の名を呼ぶ。
……セルティが俺を呼ぶ。
『私は基本的に食べたり出したりしないから、三日くらいならほっといても大丈夫だ。ただし四日目には拗ねるかも知れん』
はははは、とテキスト・スピーチの女声が抑揚以外なく笑った。
ゾクゾクする。
やばい。
とてもいけない気がする。
「は、はは、な、なんだ、あれだな、親に隠れて拾ってきた猫を匿ってる小学生の気分」
人間慣れない事はするもんじゃない。
本当にそう思う。
『静雄は新羅と違って風呂を覗いたりしないよな? 今日は湯船に浸かってみたい』
拾われた猫が「友達からバスオイルの詰め合わせを貰ったのだ」とかそんな事を言った。
ゾワゾワする。
『猫だと? では静雄の寝てる足元で布団の裾をふん付けて寝返りがうてないようにしてやろう!』
タイムラグが話題を蒸し返して、俺はふらっと眩暈がした。
たたらを踏んでなんとか持ちこたえる。
なんで今日はえらくノリがいいんだ? つーかセルティってこんなこと言う奴だったっけ? なに幻覚とか見てんの俺?
「……なぁセルティ、俺はこれでも一応男なので、その、あんまりからかうな……」
クラクラしてきた。頭がまともに回らない。
しょうがねぇだろ、俺、清く正しい童貞なんだもん。
『ははは、冗談だ』
セルティがご機嫌に笑っているのが解って、嬉しいやら居心地が悪いやらで複雑な気持ち。
それから午後出勤の会社に行き、いつも通りトムさんのお供に付いた。
「よぉ静雄。何かいい事あったか?」
珍しくニコニコしちまって、とドレッドヘアーの男が背中越しに笑う。
11日目
最近俺は図書館に通っている。暇を持て余しているセルティが喜びそうな本を見つくろっては一日ごとに返却と貸出を繰り返す。
近場で顔見知りに会ってもいけないからとわざわざ目白図書館まで足を延ばして、だ。
図書カードなんか作ったの生まれて初めてだぜ。
最初のうちは異様な雰囲気になってた図書館の職員もやっと俺が危害を加えないと覚えたらしく、名前を呼んでくれるようになった。……猛犬か何かか、俺は。――――いや、否定はしねぇけどよ。
セルティは童話だとか歴史だとかに興味があるらしく、その手の本を中心に毎回5冊選ぶ俺に貸し出し口にいるお姉さん(と言っても30は優に超えてそうな)が、良かったらこれもいかが平和島さん、と勧めてくれた。
「あ、どうも」
頭を下げて差し出された本のタイトルを見る。
≪ 髪 長 姫 ≫
サングラスの向こう側の景色が一気に薄暗くなった気がした。
俺は本を読んだりしない方だが、こいつの話は知っている。小学生ん時腕折って入院してた暇つぶしに教育テレビで人形劇か何かで見た覚えがあった。
たしか筋はこうだ、入り口のない高い塔に閉じ込められてる髪の長いお姫様の元に王子が髪を伝ってやってきて、助けるとかなんとか。
ぼんやりしてたら貸し出し口のお姉さんが『髪長姫』のバーコードをスキャンする音が聞こえた。
――――――髪どころか頭がないあいつが読んだら気にするだろ、こんなの。
脳のどっかがそんなことを言ったが、セルティはこういうハッピーエンドぽいの好きそーだし、予約してた揃いの本がナルニア国物語とはてしない物語だったのでまあいいかと口を閉じた。(目白図書館は一度に貸出し出来る最大が10冊なのだ)
「返却は二週間後です」
どーせ明後日あたりにはまた来ると思うけど。
セルティが猫の落書きをした無印のしょーもない布鞄に十冊本を仕舞って、俺はドアの外に出る。この所騒動も面倒な仕事もなく、至極平穏無事に時が過ぎて行ってる。うぜぇミノ蟲野郎も見なけりゃ、なんつったかな、あの気の弱そうな高校生達とも顔を合わせない。
新羅がどこに居るのかはさっぱり解らないけど、まああの野郎のことだ、死んじゃあいねぇだろう。
……セルティ欠乏症でイカれてるかも知んねぇが。
で、俺はと言えば。
「あ、トムさん。俺ホントに上がっていいんスか? ここの所、夜間仕事めちゃくちゃ少ないような気が……あ、はぁ……はい。でも何かあったらすっ飛んで行きますから、何時でも……あはい、すんません。解りました」
新品の携帯電話の電源ボタンは押すと音がする。……設定しなおさねぇと……
ピ。
自分の携帯電話は新羅に取り上げられた。絶対誰にも番号を教えるな・風呂以外は身から離すなと言って渡された携帯電話は、セルティと住んでる家の固定電話と上司と新羅以外の番号は掛けるのも受けるのも駄目にしちまったらしい。近頃のキカイってのは便利だねぇ。
「……あー、飯、どーすっかなー」
セルティは食わないのでいつも通り自分で調達する。時々自炊もする。切って焼くだけだけど。
そういや初日にセルティが張り切って何か作ると言い出したので慌てて止めた。
別に新羅に遠慮したわけではない。
高校時代に新羅が変な顔色をしている日があって、そういう日は大抵あのマンションに謎の異臭が漂っているのを知ってたからだ。これは俺の推測なのだけれど、多分セルティは壊滅的に料理が下手だと思う。だってそもそも味見できねぇし。
あの異臭の大元を身体を壊してまで完食する新羅はマジすげぇ。
真似できん。
したくもないけど。
「……おお、俺。本借りたから帰るけど、なんか要るもんあるか?」
ピ。
――――――――なんか、新婚みてぇ。
馬鹿な事を思った。
近頃俺は“とある事件”を経て、いろんなもんが徐々に吹っ切れつつある。
今までその手の“自分の中の性欲だの情慾だの”が呪わしくて恨めしくて仕方なかったのだが、少し前なら考えもつかなかったような、平和で静かな幸せとかについて割と前向きに考えられるようになってきた。
例えば自分が恋愛するとか。
ゾワゾワする。
でも嫌な感じがしない。
たぶん俺は嬉しいのだろう。
普通の人間になってもいいと、許された様で。
他の誰でもない自分自身に。
[ 愛してるわ ]
人生で初めて自分に投げ掛けられた言葉を発したのは人間じゃなかったけど、それは問題でない。
ああ、問題じゃないとも。
16日目
奇妙な同居生活も月半ばを過ぎて、だんだんダラケが出始めた。
というか、俺が油断したんだろう。
目が覚めてぼんやりしながら顔でも洗うかと風呂場のドアを開けたらセルティが素っ裸だった。
……なんだこの80年代ラブコメ展開。
俺は思わず悲鳴を上げてドアを閉めた。ものすごい速度で閉めたから蝶番とかが折れたかもしれん。が、そんな事はどうでもいい。
「くぁwせdrftgyふじこlp!!」
訳のわからない事を口走り、思わずその場で土下座した。
なんでそんな事をしたのかは自分でもよく解らない。
けれどしなければいけない気がしたし、それ以外何が出来るでもないような気がしてとにかく土下座する。
がこがこと揺すられた“押し戸のドアが引き戸のように開いて”聞こえるはセルティの足音。
思わず身を縮めた。
おお、すげぇ、なんだこれ。震えてんぞ、怖いのか俺。なんか初めての感覚だ。
寝間着の背をポンと叩かれて恐る恐る顔を上げたら、メモ帳に『一発殴らせろ』という文字が走り書かれていた。
「わかった」
目を閉じて頬を差し出し、来るべき衝撃に備える。
セルティはこれでなかなか撓るいいパンチを持っているからさぞ痛かろうと待っていると、頭にポコンと洗面器の裏が着地した。
「……?」
『全てのドアを互いにノックする習慣をつければ回避できる』
破り取られたメモ帳を渡され、セルティは何事もなかったかのように後ろ手をヒラヒラ振ってダイニングに向かう。
いつものオレンジ色のカーディガンを着たスカート姿がリビングの間接照明の中へ消えてゆくのを見つつ、廊下に正座したままの俺は狐に抓まれたような顔でぽかんとしたまま。
あれ? なんで怒らねぇの? つかなにあの一発?
頭の中をはてなマークでいっぱいにしながらも、とりあえず顔を洗う事にした。
夢? 何かの妄想? ドッキリ?
冷たい水が肌に食い込むのに混乱は一層深くなるばかり。いつもよりも長く顔を洗ってタオルでごしごし拭き、鏡に映してみた。うん、目つき悪い。間違いなく俺だ。新羅に変身したとかそーゆー遊馬崎の妄想みてーな末期的状況じゃない。
「???」
おれには女の兄弟は居ないし、生まれてこの方女友達ってのも居たためしがないが、こういう時普通女は怒るものなのではないのだろうか。裸だぞ、ラ。音階の6番目だぞ。……だめだ、脳がまともに動かねぇ……
冷静になってきたら“首の無い素っ裸の女”の映像が頭の中に鮮明に蘇って、タオルに顔を突っ込んで意味不明の叫び声を上げた。
恥ずかしい!
なんで俺がこんなに恥ずかしいんだ!
ああしかしなんつう綺麗な身体!
羨ましいぞ新羅!
巡り狂う脳味噌が引っ張り出した単語に自分でビビる。
【羨ましい】
「……なんだそりゃ」
一気に頭の中が冷えた。鏡に映る自分の顔が気持ち悪いくらい平静で眉は動きもしない。まるで能面のように。
「おいおい静雄さんよぉ、なんだそりゃ? なんだよそりゃ?」
鏡に向かって二度訊ねた。
もちろん答えなど返っては来ない。歪みもしない冷たい顔の男が淡々と自分に問いかけているだけ。
「そりゃぁねぇだろう? いくらなんでもそりゃぁねえよなぁ?」
指が震えている。
何故だ。
恐ろしいのか俺は。
一体何が。
「セルティはいい奴だ。無二の親友だ。あんないい友達は二度とできない」
言い聞かせるように呟く言葉も少し上擦っていて、寒くもないのに背筋が鳥肌になっていた。髪が少し逆立っている気がする。
「新羅は変わり者でヘンタイだけど、俺以外の奴がそれを言ったらぶっ殺しに行くよな?」
確認し続ける。解りたくないことから目を逸らすために。
「あの二人は絶対に俺を裏切ったりしない。だから俺もあの二人を絶対に裏切らない」
でも“頭の中の誰か”が言う。
百万円なんか本当はどうでも良かったくせに。
セルティが居る場所に帰れるってだけで嬉しかったろう?
彼女が自分の話に頷いてくれるこの時間の永遠を願わなかったとでも?
新羅の話題を介さなくても途切れない関係を本当は望んでいたんじゃないのか?
“頭の中の俺”が、ミノ蟲とそっくりの胸糞の悪い笑い声を上げた。
19日目
『しずお』
機械音が俺を呼ぶ。
「あー?」
『カードでもしないか』
振り返ったらダイニングの片隅にあるスタンドアローンのPCの前のセルティが器用にトランプを切っていた。
「2人でやんなら花札の方がいいんじゃねぇの」
連日連夜の暇つぶしにセブンブリッジもページワンも大富豪もカシノもやり尽くしてしまったものだから、セルティがゲーム系にやたら弱いのはもう解っている。究極のポーカーフェイスなのに、ものすごく手の内が解り易いのは何故なんだろう。
『花札? こいこいか』
あれはまだルールを覚えきってないんだ。遊馬崎に借りてきてくれたアニメ映画があったろう、あれで興味を持って少し調べてみたが意外に難しいな。
影を操ってトランプを尚も切りながら機械音が響く。この機械音とアニメのアナウンスの声が少しだけ似ていたので、セルティが何度も調整し直して似たような声にまた再設定しているくらい、彼女はあのアニメ映画を気に入ったらしい。
……ほんと、ハッピーエンド好きだなこいつ。
『私はどちらかというと運が無い方だから、ナツキに肖りたいよ』
俺からすれば何の事はないフツーの青春映画だと思うんだがね。
「ありゃアニメだよ。現実はキビシーもんだ」
呆れ顔でTVの方に向き直った。トランプにもあまり興味がない。もう12時か、風呂でも入ってそろそろ寝るかね。
『しずお』
「……なんだよ」
『お前最近おかしいぞ』
ギョッとして息を呑んで、かすれた声が出た。喉が鳴る音が生々しくて背に汗が落ちる。
「―――――なにが」
『何故こちらを見ない。昨日も、一昨日もだ。何かあったのか。話してみろ』
「な、なんも、ねぇよ」
やべ。噛んだ。
『余所余所しいし、急に言葉数が少なくなったな。何かあったろう』
「ねぇよ」
ばかばかしい、もう寝るぜ。そう言って切り上げればいい物を、何故俺の身体はきちんと動かないのか。そして何故早鐘の様に心臓が瞬いているのか。
『伊達でお前と友達やってる覚えはない。話してくれ』
それとも。
そこで機械音が随分長く止まった。小さく絞られたTVの音が嫌に耳に付くのに、内容はからっきし頭に入ってこない。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。まるで異次元にでも放り出された気分。
居た堪れなくなってついに口を動かそうと決心した瞬間、沈黙していた機械音が流れた。
タイプの音がたった一回だけ聞こえた、その後に。
『人間ではない私では力になれない話か』
ぞわっと背中が戦慄く。ガシャンとローテーブルの上のコーヒーカップが躍った。立ち上がった時に足をぶつけたらしいが感覚が無い。こんな夜中に足音立てて歩いたら下の階から苦情が来るぞ。
「二度とそんなこと言うな」
足元が絡んで上手く歩けないものだから、転んだそのままの格好で身体を引きずって水色のコットンのパジャマの両肩をこれでもかというほど優しく掴み(そうしないと物は壊れて人間は脱臼するから、癖だ)揺すった。普通ならがくがくとなるはずの頭が無いから、あんまり悲壮感を感じないけど。
「いいか、セルティは俺の親友だ。そいつを詰る奴はたとえお前でも許さねぇ」
情けないこと言うなよ、頼むよ、言わせた俺も俺だけど、そんなの聞きたかねぇ、やめろ、やめろ。掠れる声を何とか口から外に絞り出して何度も似たような意味の事を重ねて言った。
胸が掻き毟られる。
俺達は似たもん同士だ。居場所がなくてどうしたらいいのか解らなくて、ずっと彷徨ってた。治らない傷を舐め合ってて、何とか生き延びてた。でも、もう、今は違うだろう。……お前も、俺も、もう、違うよな? 地中に埋もれてたミミズから地を這う芋虫程度には出世したろう?
それを、それを……なんでまたお前は潜っちまうような事を言うんだよ!?
『しずお』
『なくな』
『ちがう』
短いタイプ音と、合成音声。
『ばかにしてない たんに』
『そとにでられない わたしでは』
『ちからになれないのか といういみだ』
カタカタ鳴るキーボードがゆっくりズレてゆくほど必死にセルティが影でキーを連打する。
20日目
俺はセルティが女だってことを知らなかった……“ということになっている”。誰に尋ねられても“つい最近まで気付かなかった”という態度を曲げない。
……でもいくらなんでもそりゃねェよなァ? いくら俺が興味ないことに無関心だっつっても、あんなぴったりフィットのライダースーツを高校生男子が見てて、男だと本気で思うわけはねぇだろう? セルティは結構チチでけーしな?
閑話休題。
いつ? とか、なんで? とか、そういうことは俺が聞きたいので答えられない。高校時代に喧嘩でボコボコになったミノ蟲と一緒によく治療を受けた部屋にいつも居た妖精サン。物腰が穏やかで、つまらん愚痴も情けない独白も根気良く聞いてくれた。
自分でも良くわかってる。コレは慣れてるだけだ。犬が時々餌をくれる客に懐いてるだけだ。
こんなもん、恋とかそんなんであってたまるか。
いくらセルティが頑丈だって言っても、“俺が抱きしめたら壊れるに違いない”。ことセルティに関して俺如きが新羅に敵う訳がない。何よりセルティと気まずくなんかなりたくない……そんな思いだけで今まで何とか耐えて隠し果せてきたというのに。
『しずお、なくな』
もう一度機械が言った。いつも掛けてるサングラスには、視線の動向を隠す意味もある。俺は意外に恥ずかしがり屋さんなんだよ。
実は涙脆いんだ。
殴られようが、馬鹿にされようが、腕をへし折られようが、服に火をつけられようがどうって事ないけど、こうやって優しくされたり、心が通じ合ったり、解ってもらえたりすると、ると、ると……
『もう高校生のガキじゃないんだろう。いい大人が泣くな、静雄』
影が伸びて俺の頭を撫でる。黄色い髪がへなへなになっていた。まだ風呂行ってムース落としてねぇのに。
『心配してくれたんだな。ありがとう。でも大丈夫だ。私には新羅も静雄も杏里もみんなみんないる。だから、大丈夫』
声が聞こえる。淡々とした抑揚で感情のない機械音。でも、そこにはきちんと意味があるのを俺は知ってる。
頬の雫を少し乱暴気味に拭われて、ぴしゃりと叩かれた。
『だから元気を出せ。外で何があったのかは知らないが、そんな情けない顔をするな』
話せないことならば無理には尋ねない、気が向いたらでいい。流れるようなキーボードのタイプ音とそれに続くテキスト・スピーチの音声が頭の上でして、無理やり下げてる顔をもう一段深く下げた。ああもう、格好悪くて死にそうだ。
むゆゅ。
他にどう表現したものだか、俺は学がないので解らねぇけど、字にすると大体こういうような感じの感覚があった。
顔に。
『sdf費jfj3;dsk「えふぁじょ:かうぇr』
頭の上で雑音。キーボードの落ちる音。混乱する脳髄とビクッと跳ねるセルティの身体。
さてここで問題です。
俺はセルティの肩をものすごーく(俺にしては)優しく“両手で”掴んでいる。
セルティはパソコン用デスクについてる“椅子に座ってる”。
俺は背がデカイので膝で立っても“結構なタッパがある”。
セルティには“頭がない”。
俺が頭を沈めても、セルティの頭とぶつかる事は“ありえない”。
……つーことは、だ。
この、顔を突っ込んでる、やわっこいのは……
「うおぁあァあああァ!?」
飛び退いたら後ろのラグごとソファがグッと動いて、再びローテーブルの上のコーヒーカップが躍る音が聞こえた。
「ち、ちあう!ちがう!ワザとじゃねぇ!断じて!絶対!ちがう!ちがう!!」
歪む視界には胸をかばう首なし妖精。心なしか世界に色がないが、そんなこと気にしてる余裕がまず存在しない。
「ほんとに!ほんとに!すまん!決して悪気があったんじゃない!」
必死に間抜けな格好で言い訳を並べ立てる俺を大して気も止めないようにセルティはずり落ちたキーボードを拾い上げて机に載せ、いつものようにきちんと席についてタッチする。
『わかっている。そう怯えるな、なんだかこちらが悪いことをした気になるぞ』
笑っているのだろうか。少し肩が震えている。
『静雄がワザとそんなことをする訳ないのは十分承知している。もっとも、新羅が同じことをしたなら』
「……したなら?」
シュピィン、と金属がしなって響く甲高い音がして、部屋中にうっすらと立ち込めてた黒い霧がアイスピックのように鋭く尖り、セルティの手元に具現化された。
『目を抉ってやる』
ぞわぁ、と背筋が寒くなった。こここコエー! こわいぞセルティ! それはもしかしなくても確実に致命傷だ!
真っ赤から真っ青になった俺の表情が可笑しかったのか、彼女は更に大きく体を揺すって笑っているらしかった。
『おいおい、冗談だよ静雄! 真に受けるな!』
21日目
「……静雄、目の下隈が出来てンぞ?」
「……はぁ……ちょっと……睡眠不足で……」
トムさんの顔があからさまに歪んで『どー見てもそりゃ睡眠不足以外の憔悴の仕方だろ』と額に書いてあったが、突っ込まれなかったので黙っていた。
今日の客は実にラッキーだ。30万近く踏み倒してたっつーのに、あまりの気力のなさに軽く頭殴ったくらいで済んだんだから。オリジナリティの欠片も見当たらない罵倒を他の客と同じに喚いていたけど、ほとんど聞いてなかったから腹も立たないし。
あー、こりゃ楽でいいわ。
公園でぼんやりタバコを吹かしながらトムさんを待っていると、冷たいコーヒー缶を頭に載せられた。
「お前、半分寝てるくらいの方が仕事が捗るってどういうことだよ」
これからあの医者の友達に睡眠薬処方してもらって半分寝て仕事してみちゃどうだ? とトムさんが笑う。その小さな笑い声が脳の中でハウリングする。おお、話に聞く薬物系の夢みてぇ。もちろんやったことねーから想像だけど。
「トムさァん」
「あーんだよ?」
「俺、好きな女が居るんすよ」
ブゴフ、と隣でコーヒーを勢い良く缶の中に吹く音が聞こえた。
「でもその女は好きな男が居て、俺の立ち入る隙なんかこれっぽっちもないんです」
ゲホゲホゲホと立て続けに咳き込む彼がどんな顔をしてるのか、星空を見上げて煙をぷかぷかやってる俺は知らない。
「別に獲ってやろうとか思ってるわけじゃないけど……なァんかせつねーなーと思って」
「……そ、そうか……そりゃ、お辛い」
言葉遣いがヘンなトムさんがまだゴホゴホ言いながらポケットティッシュで鼻をかんでいる。夜の喧騒に紫煙がゆらゆら揺れてはきえていくのをぼんやり見てた。
「俺、マジで女に縁がない人生送ってきてたじゃないですか。いや、送ってたんですよ。だから、損得抜きで優しくされたるすると、弱いんすよねぇ」
「……普通の反応だと思うけどな。真っ当というか」
さすがトムさん、大人の男だ。回復が早い。あっという間に見事状況を立て直した上司に頭のどこかが拍手を送る。
「――――――考えてみりゃ、お前も男だもんだなぁ」
感慨深そうにうんうんと頷いた彼がとてつもなく何かに納得したような声で、どこか嬉しそうにして言った。
「しかし、お前からそんな話を振ってくれるたぁ、俺も少しは信用されてんだな」
「何言ってんすか、俺は社長とトムさんはまじめに尊敬してますよ。数少ない、信用に足る大人です」
嘘も吐かないし、喩え吐いても、俺にきちんとわからないように吐いてくれますしね。それは、少しは俺を考えてくれてないと出来ないことじゃないですか。俺はそういう人には、惜しみなく尊敬の念を表します。
まるで新羅のように淀みなくそんな長いセリフを吐き散らかしたら、トムさんがすっと立ち上がって俺の顔を覗き込んだ。
「……お前、早く帰って寝ろ。なんか重症だぞ」
「重症? 重症ですかね? でも家に帰れないんすよ。どんな顔して帰ったらいいんすかね? もう図書館閉まってるし? あ、でも今日は返却の本持ってくるの忘れてるから、どっちみち借りらんねーや」
へらへらとうつろな目で笑ったら、襟首を掴まれてずるずる引きずって乗り場でドアを開けてたタクシーに安置された。
「家帰ったらすぐ布団入って寝ろ。いいか、すぐにだ。今日はもう直帰でいいから」
運転手にトムさんが会社から支給されてるタクシーチケットを握らせて何か指示を出し、すぐにタクシーはドアを閉めて走り出す。
「……寝ろったって、どこで?」
ブツブツ自分の呟きが垂れ流れる。俺の部屋はセルティの部屋のすぐ隣だぜ。何だヨあの頭の悪い配置。門番がお姫さんの横でグーグー寝ててどーすんだよ。頭悪ィな新羅、ほんと、俺のことなんだと思ってんだ? 俺が絶対セルティ襲わないとでも思ってんのか? 冗談じゃねェよ、こちとら度の過ぎる健康体の成人男性だぞ。
ぼんやり、ぼんやり、夢心地。
頭が48時間ぶりの休眠を寄越せと怒鳴っている。
耳も、目も、身体のそこかしこも、ぜんぜん自分のものじゃない。気持ち悪いのにフワフワしてて酒にでも酔ってるみたいだ。あれ、そういや俺煙草どうしたっけ? トムさん消してくれたのかな。
「お客さん、着きましたよ」
半分以上瞼が持ち上がらない状況で、ああすいませんとタクシーを降りた。ふらふらしながらようやくエントランスにたどり着いて部屋番号を押し、インターフォンに向かって――――――正気に戻った。
……まて。
なんかヘンだ。
なんだこのえも言えぬ違和感。
頭が回らない。なのにゾクゾクと寒気さえ感じるほどのエマージェンシー・コールが耳の中を木霊する。
『ああ、なんだ静雄か。お帰り』
くぐもった電子音が聞こえて、エレベーターへ続く自動ドアが開いた。
そこで俺はようやく気付く。
事実に付随する過程がパズルのピースみたく頭の中でぱちぱちと嵌って、一枚絵が出来上がったから。
“自分は何故ここに立っている”?
22日目
俺は酒を飲む。嫌いではない。特別好きなわけでもないが、勧められれば何でも飲む。けれど自分で買って飲むほどではない。その程度。
だが今日ばかりはコンビニ安酒の勢いでもなけりゃ向かい合うことも出来ん。……小心者ですまんね、どうも。
「俺を嵌めたな?」
『違う』
思えば最初から何から何までおかしかった。だってそうだろ、あの新羅がいくら追い詰められても、セルティと離れ離れになる訳がない。あの新羅がいくらイカれてても“自分以外の男と同じ箱にセルティを詰めるなんてあり得るわけがない”。
『誤解だ』
俺の業務は基本的に昼も夜もある。取立てなんてのはヤクザな商売だから、基本的に時間から時間働けばいいってモンじゃない。客が逃げれば地の果てまで追っかけるし、張り込みして何時間なんてのも珍しかねぇ。なのにここのところの“図書館で本が借りれるほどの”サラリーマンみたいなタイムスケジュールは一体どうしたことだ?
「……なぁセルティ、腹を割ろうぜ。なに、怒ってんじゃねぇよ」
意識が朦朧としてる俺が、何故ここに帰ってこれた? 会社には確かに言ったよ、ちょっと訳あって一ヶ月くらい住処を変えますとはね。だが俺は“新羅に言われたとおり”住所はおろか、どの辺に変えたかも一切喋ってない。
「ただ……なんだ……俺だけ蚊帳の外ってのが気に食わねぇンだ」
極めつけは、暗証番号でドアを開いて毎日帰ってくる男しか来ない筈の部屋のドアのインターフォンに何故“存在しないことになってる”セルティが“わざわざテキスト・スピーチを使ってまで”出る必要がある?
『すまない。本当のことを伝えたら気を悪くすると思った』
もしかして俺は馬鹿だと思われているのだろうか。確かに賢かねぇけど、自分では阿呆や間抜けのつもりもないんだが。
「俺はワリと嘘つきが嫌いだぞ? ……知ってると思うけど」
氷が溶け過ぎててまずい焼酎ロックは、テーブルが結露でびしょびしょになるくらいには時間が経っていることを俺に知らせた。
『どう詫びればいいのか見当もつかない。心からすまなかったと思っている』
「――――――言い訳、しろよ。聞いてやっから」
言葉尻を噛む様に俺は言う。怒りではなく、少しの恐れと、もう少しの不安と、大部分の疑問解消のために。
俺は自分をつまらん男だと思う。趣味があるわけでなし、夢があるわけでなし、技術だの知識だの、誰かに伝える言葉だの、音階だのがあるわけでなし。人生を楽しもうという気がもう少し早くに開花してれば、違ったかもしれないが。
そういう意味では俺の周りにいる奴はどいつもこいつも楽しいことを素直に楽しいと言える奴だ。……ま、その素直さを無邪気に善と安心できるほど俺は愉快な人生を(主にミノ蟲と自分の不器用さの所為で)送れなかったが、全否定はしない。
俺は人間ってのが好きなのだ、結構。
だから俺はこんなつまらん俺の相手をしてくれる奴を多少のことで怒ったりしない。……(男限定なら)殴ったりはするけど。
「言ったよなぁ、新羅に通信手段全部取り上げられたって。……んじゃ“どうやって花札のルールが難しいなんてことを調べた”んだろうな? 遊馬崎に会ったのは偶然で、あのDVD借りたのも偶然だ。おかしいよな?」
俺は遊馬崎と特に仲がいい訳ではないが、近頃は時々顔を合わせる機会があれば話をしたりはする。付き合いは狩沢や渡草に比べれば多い方、という程度だが。
だからあいつがたまたま当日購入したDVDを一本俺が借りるなんて、お釈迦様でも思うまい。
『……最初は私が発端だ。新羅とのつまらない言い合いでお前を引き合いに出した。静雄ならそんなことはしないと』
「どんなこと」
沈黙。ぬるい沼の水みたいな。
『風呂を覗いたり、変な服を着せたり、寝室に潜んだり』
思わず吹きかけたが、根性で耐える。……何やってんだあの闇医者は……
『すると新羅が返してきた。静雄だって健康な男性だ、私と一緒に居ればきっとそうしたいと思うと』
――――――――とりあえず腹パン一発だな。
『私はそれは絶対にないと主張して、ならば賭けるかと言い返された。一ヶ月同じ部屋に暮らして静雄が私に指一本触れなければ私の勝ちで100万円。何事かあれば新羅の勝ちで今後一ヶ月、私を好きにしていいと』
流石に吹いた。酒が顔に在るあらゆる管を駆け巡る。……お前な……ブリックパックの焼酎と言えど鼻に回ると結構痛いんだぞ……
『だいじょうぶかしずお』
背中をバンバン叩かれて摩られて、ローテーブルに吹き出した涎と酒が台拭きでさっと拭われているのが見える。それ以外、見たくない。セルティに表情なんてものは無いけど、とにかくセルティを見たくない。
「いい、いい。大丈夫だ。……げほ。つ、続けてくれ」
手でセルティの挙動を制し、PCデスクの前に行くよう促す。とにかく一刻も置かず離れて欲しかったから。
『私は静雄の誠実を証明したかっただけなのだが……いや、こんなもの後付けだ』
すまん、やはりただ我々の喧嘩にお前を巻き込んだだけだ、と彼女が項垂れた。垂れる首はないけれど。
『不安だった。新羅が一線を越えることに慣れてしまえば、私に興味を失くすのではないかと。声もあげられぬ、口もない、表情さえ存在しない私など、すぐに飽きてしまうだろうと…………私たちを繋ぐものの頼りなさが、私は恐ろしい』
カタカタと静かな部屋に蔓延する音。Enterキーを押されるまでは喋らない機械じかけの女。……しゃらくせぇ。
「お前、新羅が目移りすることばっか気にしてるけど、逆もあんだろ」
『逆?』
「セルティが俺に惚れるとか」
テキストスピーチは沈黙したままなので、唐突なことを承知で続けた。
「ソレはないとか言うなよ。泣いちまうから」
機械が喋る前に言ってしまう。一言でも拒否や否定されたら崩れ落ちてしまいそうだから。
「ソレは俺の居ないとこで言ってくれ」
28日目
覚えたての高校生かよ、毎日毎日飽きもせず……
「……太陽がキイロい……」
ベッドの上でぼんやりしながらぼそっと呟いた。体力は自信あったんだが、使う筋肉だの体力の種類だのが違うのか……。
自分の横に転がってる素っ裸の女の身体には頭が無い。起き抜けに見るとやっぱりビビる。……つか、セルティも寝るんだなぁと、不思議な納得をした。
「………………。」
形のいいおっぱいがシーツ一枚掛けられてるだけって変なカンジ。呼吸をしてないから胸が上下してないのも変な感じ。こーして見ると本当に死体みてーで不気味だ。動くと可愛いけど止まってると怖いって、なんかアレみたいだな、ほら、なんつったっけ。狩沢が鍋の時に持ってきてたアニメに出てくる青いキカイの、蜘蛛みたいな奴。
むゆゅ。
つつくと指が埋まる確かな弾力。普通に人間と同じような体温。いい匂いまでする。間違いなくこいつは“生きて”いる。
せっかくだから掌で掴んでみた。……おお。俺の手にちょっと余るって、お前どーゆーオッパイしてんだ。……いや、他のオッパイなんか掴んだ経験ねーケド。
ぷにゅむにゅむにゅぽよぽよオッパイで遊んでたら、背中のホワイトボードで音がした。
『そろそろ怒っていいか』
「……だめ」
『昨日散々揉んだだろう。本当に男というのは胸が好きだな』
きゅきゅきゅ、とまだボードペンが滑る音がしているけれど、俺はそれ以上ホワイトボードを見なかった。テキスト・スピーチと違って無視できるのがホワイトボードのいい所だな。
朝日の差すベッドの宮に置いてある目覚まし時計は7時前。窓の外で雀が鳴いてる。頭はまだ半覚醒でうまく回らない。
舌を付けるとそこから先の無い首がびくんと跳ねて形の無い影が噴き出す。黒い。ゆらゆら立ち上る姿は焚き火の煙にも似て、近くで見るとドライアイスが融けるみたくに薄い膜がゆっくり伸びたものが煙になっている。
どんなに頑張って吸っても彼女の肌は鬱血にならない。ほんの少し赤くなったと思ったらすぐに元通りになるセルティの身体は、それでも律儀に痙攣する。聞いたトコロによると首の断面がイイのだそーな。
人間も傷痕は神経過敏になるし、似たようなものかなと思いつつシーツをはがす。ちょっとだけ引き合いになったけど諦めたのか最後は手を離した。
小さい身体だ。平均以上の体格だとは思うけど(何せ外国の妖精だからな)、自分と比較するとちょっとびっくりする。手首も細けりゃ腰なんか力入れたら折れそうなのに、どんなに“無理に揺さぶろうが”一心不乱に“腰を打ちつけようが”勝てる気がしない。
セルティめちゃくちゃセックスつええ!! そりゃ新羅も安心して俺んとこ寄こすわ!!
「……あー……俺ついにあの社会不適合者と兄弟かー……」
目の前がちょっと暗くなる。けど別に起き抜けの悪さを止める気など毛頭ない。ヤラハタ舐めんな。
『バカナ コトヲ』
セルティの指が俺の背中にカタカナを書く。ひらがなは早く書くと判別しにくいので、こうなった。
「社会不適合は、お互い様か」
溜息吐いてまたセルティの肌を舐める簡単なお仕事に戻った。甘酸っぱいような、しょっぱいような、ヘンな味。これは俺の汗の味。セルティの身体は生命活動をほとんどしてないから、体液とか出ない。
だから俺がいくらセルティの身体にエロいことをしても、彼女の身体は俺を受け入れる状態にならない。
……なぁ新羅、ほんとにお前もこんな辛いことしてんのか。どんなに一生懸命愛とか囁いても、どうにもならない女を抱いて悲しくならないのかよ。……俺は駄目だ、ほんとに体中鈍痛がする。
セルティにもしも顔があったなら、あの日多分泣いたと思う。必死で俺の背を叩いて引っかいて大暴れしてたから。
……な、可愛い女だろ。新羅のことホントに好きなんだぜ、操を立てたりしちゃってさ。
セルティにもしも頭があったなら、次の日多分笑ったと思う。新羅とサイズが違ってビックリしたとコメントがあったから。
……な、ずるい女だろ。本気で嫌なら俺くらい吹っ飛ばすのなんて、何でもないくせに。
『キョウダイ トハ ドウイウ コトダ?』
「……一人の女に二人の男が……その、エロいことをするとだな、兄弟に、なる。……ほら、ナンだ……俗説? 隠語?」
直接的な表現を出来る限り避けて説明……出来るか! 難しいことさせんな! 俺は文理系の新羅と違って体育会系なんだよ!
『ナルホド デハ ワタシ ヲ カイシテ カゾク ニ ナッタ トイウコトダナ』
……家族? 自分を勢いに任せて強姦したよーな男を家族だっつーのか? ……ど、どこまで人がいいんだよお前は!
ぶるぶる体が震えた。恐ろしいんでも、悲しいんでも、苦しいんでも、痛いんでもなくて、だ。
知ってる。
知ってるぞ。
この感情の正体を俺は知っている。
今まであんなに“怖かったもの”だ。多少慄然が緩和されたところで忘れるワケねーだろ。
「……お前な、そ、そういう可愛いことを言われるとだな……俺は朝っぱらから非常に体力を使わざるを得ないのだが」
ううう、恥ずかしい。顔が高潮してるのが自覚できる。体温が勝手に上がってきて、胸がドキドキと音を立てる。
俺がもし本当に素直な性格であったならば、無駄口叩かずに一言言ったろう。
俺がもし本当に嫌な性格であったならば、お前を浚ってどっかにトンズラしたかもしれない。
でも俺はどっちでもなく、頭の悪い高校生がそのまま歳を食ったような人間だから、とてもずるいことを考える。
「――――――なぁセルティ。新羅と、後ろでとか、しねぇの?」
30日目
諸君、後ろでするときは必ず潤滑剤を用意しような! 静雄くんとのおやくそくだ!
……うん……結構凄いことになった……。ほら、セルティって生体活動してねぇだろ。だから“括約筋をほぐすのって大変”なんだよな。……セルティの身体が頑丈な上に回復が異常に早くてとてもよかったと思いました。……皆は勢いで真似をしないように……
『新羅にはきちんとバイト代を持たせて謝罪させる』
テキストスピーチが喋る。もうこの声を聞くのも今日で最後かと思うと感慨深い。
「……セルティのレンタル代だ、お前にやる」
『そんな訳にいくか。仕事は仕事。静雄もビジネスマンならば報酬はきちんと受け取れ』
……ビジネスって。悲しいこと言うなぁ。泣くぞおい。
『事の発端は新羅の悪い癖なんだ。少しは灸を据えねば。…………それに本当に家族には、なれないしな』
少しの沈黙。
「……どういう意味?」
我ながら人生でもトップクラスに趣味の悪い質問をした。
『人間の男と首なし女がどこに婚姻届を提出したら受理されるんだ?』
「……ハ、くだらねぇ。お前ら一緒に暮らしてもう何年だよ? そろそろ銀婚式なんじゃねーの」
言ってて胸が悪くなった。……畜生。
『私は子供を産めない』
「おいおい、不妊治療頑張ってる世界中の夫婦に謝れこの野郎」
イライラする。本当に、胃がムカムカする。
『一緒に外を歩くことも出来ない』
「新羅なら何かうまいこと考えるだろ、セルティが外に出たいってんなら。……どっちかっつーとお前自身の問題だ。
お前いろいろ言い訳してどうしたよ? 俺に言わせたいのか? “新羅はお前を誰よりも愛してて、絶対にお前を裏切ったりしないから安心して任せてろ”とかさ。そりゃ、ひでぇ。いくらなんでもヒドすぎるぜ」
俺はお前の事、好きなんだぞ。
お前を新羅なんかよりずっとずっと愛している。
――――――――なぁんて。
言えるかよ。
言ったら何か変わるか?
全員不幸になるだけじゃねーか。
「……セルティ」
『なんだ』
「シーツ持って来い」
『……明日は部屋を引き払うんだから忙しいんだ。体力は温存しておけ』
「いいから。……最後の夜まで無理やり押し倒させる気か? そんなにめんどくせぇ女じゃねぇだろお前は」
テキストスピーチは喋らないまま、カタカタとタイピング音。そしてしばらくしてOSの終了音。
背中に指がすべる。くすぐったい。
『ドチラノ ベッドニ シケバ イイ?』
「ここ」
新羅が用意したお姫さま用のセミシングル・ソファをポンと叩いて続けた。
「そんでコレは家に持って帰って使え。新羅とグルになって俺を騙した報いはそれでいい」
蝶ネクタイとカッターシャツの襟元に指を突っ込んで、結び目を引っ張る。しゅるしゅるかすかな音がして首が楽になった。
『コンナ ヒロイ バショデハ イヤダ』
恥ずかしい、と指が俺の背を愛撫する。ぞぞぞぞ、と音を立てて血が首の後ろを走ってゆく。
「……この部屋、たぶん新羅が盗聴器か隠しカメラかを付けてる。打ちっぱなしの壁にカメラなんざ仕掛けられねぇだろうから荷物のほぼない他の部屋は設置しにくい。寝室のベッドってのも考えたが、ありゃ門田が手配したレンタルだ。あいつまで新羅とグルなら別だがそれはないだろ。門田の性格的にも考えにくい。
……とすれば、多少なりとも家具があって、間接照明のリビングなら光源的にも天井辺りにカメラありそうな気がしないか?」
おれが朗々と説明しつつ天井を見上げて言った。
「つーか一ヶ月も新羅はどこに雲隠れしてるんだろうな? もしかして“この部屋の上の階に居たりして”なぁ?」
ビルのワンフロア、ってのがミソだ。そんなのに意味が無い。“この部屋をモニタリングする為の機材を運び込むには広い方が何かと都合がいい”し、“盗聴器の電波を万が一にも傍受されないよう有線にする”なんて慎重な新羅らしい発想っぽくねえか? もう一つ付け加えるなら一ヶ月も監禁生活をするならばストレスの溜まり難い居住空間を確保すべきだと“新羅がこのビルを手配した”のは二重の意味があったというのは、我ながら結構ナイス推理だと思うんだがどうかねェ?
『まさか! しんら いちどしか きてない』
おいおいセルティ、ひらがなになってんぞ。ビビリ過ぎだ。
「お前、新羅がマジで俺たちを野放しにすると本気で思ってんのか? あいつの変態っぷりは並大抵じゃないんだぞ」
セルティの肩を引っ張って胸に抱く。どことも知れぬ天井のカメラを見上げながら俺は言った。
「新羅、こいつはお前と喧嘩するたび、俺に新羅が新羅がっつってグチんだよ。お前、俺がこいつンこと好きなの知っててやってんだろ? そんでセルティが絶対自分を裏切らねぇと思っててやってんだろ? お前、ミノ蟲くらいムカつく。神気取りか闇医者」
ああ、今この時ほどセルティに頭があればいいのにと思ったことは無い。見せ付けるようにキスがしたい。アホの腐れ縁が思わず胸を掻き毟るぐらいきついキスがしてやりたい。
「下界に降りれないカミサマは哀れだね、好きな女が孕まされるのをせいぜい雲の上で楽しみな!」
アホな男だ。まったく、度し難い。
こんなことしなきゃセルティの愛とやらを確かめらんねぇのかよ? 相変わらずヒネてんなぁ。
『はらますってなんだ!!』
ビックリマークの代わりに肩にパンチが二回入った。おお、いてぇ。
つか、俺すごくナチュラルに告白してんだけど無視とは泣かせるねぇ、セルティさんよ。
「お前も良く愚痴ってたよなぁ。セルティが素直になってくんねぇとかなんとか。
俺はそれよく解んなかったんだよ、意味。だって俺が知ってるセルティは素直で物腰が穏やかで、チチがでかくて可愛らしく拗ねたり怒ったり笑ったりする……頭が無いだけの……フツーの女だからな。
感情に任せて突き飛ばされたり、影で突付き回されたり、頬を思いっきり抓って引っ張ったりされたことねぇもん」
見たことがない。
そんな、行儀の悪いセルティなんて。
そいつが俺と新羅を分ける境界線。
ああ、悲しい。
とっても苦しい。
……でも俺はだいぶ前に高校を卒業したいい歳こいてる男だから、悔しい羨ましい妬ましいなんて喚いて嫉んだりはしない。
今この時を楽しむさ。
もう二度とない、悪魔の企みごと、全部。
31日目、深朝
セルティの身体は普通に温かい。けど生体じゃない。だから体内に異物が入っても排出するための蠕動運動とかをしない。……突っ込んでる最中はするけど。
だから多分、“孕ませようとすると”俺の精子は彼女の体内に置き去りに保温され、汚染源になるだろう。
新羅はどーしてるんだと尋ねたら、必ず避妊具を用いると言われて焦った。さすが腐っても医療関係者、抜け目がねぇな。
「……コンビニ行って使い捨てビデとか買って来ようか?」
『細菌に私がどうこう出来るとも思えないが、静雄が気になるならシャワーで洗浄してくれればいい』
――――――ちょっと難しい漢字が多くてよく分からなかったんですけどセルティ先生。
『洗ってくれ、静雄』
……こいつらの変態っぷりはマジなんとかなんねぇのか……あー、やだやだ。
俺はセルティをひょいとお姫様のように抱えてずかずか風呂に向かった。洗面所のドアがメンドくせぇので蹴ってどかせた。
それどこじゃねーんだよ!
風呂の淵に恭しくセルティを座らせ、傅くようにしゃがんだ俺の右肩を掴ませ、しかるのち、右足を左肩に掛けさせる。
……おおゥ、全・開……!
今し方思う存分吐き出した自分の欲望の丈が白く泡立って、明るいブラウンの性毛に絡まっているとゆーこの状況! わーやべー。エロい。凄くエロいぞセルティ。エロいを超えて妖艶つーか、なんつーか……ええい己のボキャブラリーの貧困さにイライラ来る!
「……しゃわー、あてま、す」
何で片言なんだ俺。
ぷるぷるしてるシャワーヘッドから湯が吹き出す。その湯をそっとぬるついたそこに当てる。右肩が少し握られる感覚。湯がだじだじ音をさせている以外は静かな風呂。
「熱くな、いか?」
自分の声だけが乱反響する。目がそこ以外に行かない。心臓が爆発しそう。セルティに言って電気消してもらおうかな。
必死に意識を逸らそうとしてたらセルティの左手が俺の頭をぽんぽんと撫でた。ああそうですか、よろしい加減ですか、そうですか。
3分くらい黙ってそうしてた。
ここで本来であれば精密にセルティの身体の反応などについて描写して然るべきなのだろうが、これは俺が墓に持っていくお土産なので敢えて控えさせていただく。
しばらくして俺の頭を撫でてた彼女の手が自分の足を支えてる男の手を自分の股間に誘導し、指を立てさせた。……え……なにそのファック・サイン…………って、な……中まで洗えと!?
「――――――そ、そこまでやんのか俺が!?」
なんだよこのプレイ……俺一週間前まで童貞だったんですけど……こんな猛スピードで大人の階段を駆け上がりたくなかったぜ……
シャワーヘッドをストレートに切り替える。水晶の棒のように透き通る湯の杖を、指を二本突っ込んで割り開いたそこ突っ込む。……気をしっかり持ってないと訳の分からないことを叫んで壁を突き破り、宛ても無く走りそう。見てるだけで胸がいっぱいになるくらいのピュアさを容赦なく蹂躙すんなこの女は!
ぼとぼと、思い出したみたいに白いゲルが排水溝に流れてゆく。赤く濡れそぼった肉の襞が水圧に翻弄されてて、ものすごい絵面………………んん? なんだ、この指の締め付けは……
「……おい、セルティ。お前今、気持ちよくなってんだろ」
ビクッと震えた彼女の身体が手を振るが、しばらく無言でそれをじと目で観察してたら……観念したご様子。ぎゅっと自慢のおっぱいに俺の顔を押し付けて、背中に文字を書いた。……上下逆で読みにくいけど……モット ツヨク シテ、か。
「エロい女だな、まったく」
焦らしたつもりはないんだが、結果的にそーなったのかもしれない。胸の谷間からようやくうなり声を上げ、俺はヘッドを手探りで外しホースだけになったシャワーをセルティのあそこん中に突っ込んだ。……おお、ビビッてるびびってる。
「腹いっぱい飲ませてやる。好きなだけイけ」
いまさら逃げようったってそうはいかねぇ。腰に腕を回して完全にホールドしてしまって、煙だらけになってる風呂場を見上げていた。……窓開けてたら、火事騒動になってんなコレ。
じたばたじたばた暴れるセルティ。背中をバンバン叩かれる。肩に爪が刺さって辛いけど、突っ込んでる指がものすごい勢いで締め付けられてて痛いくらいだ。親指でくるくる“入り口の門番の頭を撫でてる”のがたまんねぇだろ? これ好きだよな、お前。
「おお、イッてる。イッてる」
自分の声が柄にも無くはしゃいでて、普通に楽しかった。セルティは感覚が鈍いみたいで結局俺はイカせらんなかったから(大体童貞に経験豊富な女をイカせろってのも無理な話だが)骨までがしびれるくらい嬉しい。
おっぱいの隙間から垣間見る途切れた首の断裂を眺めている。
新羅が言ってた。
セルティは首が無い方がチャーミングだって。
俺はソレをずっと「自分で好きに当てはめられるからな」と少々ウンザリしながら聞いてたけれど、やっと解った。
確かにセルティは首が無い方が魅力的だ。自分にだけにははっきりと見える、セルティの官能的な表情。こいつだけはどっかの独占欲の激しい闇医者が俺の脳を解剖したって奪えない。
お前はいい女だよ。ほんとに、心からそう思う。
ひときわ大きく痙攣した彼女が、ぐったりと俺の体にのしかかるようにして力尽きた。慌ててホース抜いて腹を押す。しゅわーと音がして俺の膝に湯が掛かる。……わあ、なんか聖水プレイみてぇ。
馬鹿なこと思いながらシャワーを切った。胸に首なし死体を抱きながら顔を真っ赤にしてる男が霞がかった鏡に映っている。
痛いくらいの心臓の鼓動。セルティのおっぱいが微かに弾んでのが解るほど。
「……新羅より先に会ってたら、俺を好きになってくれたか?」
くだらないことを呟いた。
くだらなさ過ぎて笑える。
あんまりにもくだらなくて可笑しくて
涙が出てた。
31日目、昼。
目が覚めたらセルティが居なくなっていた。
……ほんとは、誰かが足音を殺しながら部屋中を歩いてるのとか気付いてたけど面倒くさいので起きなかったんだが。
セルティの荷物は少なかったし、おれの荷物は輪を掛けて少ないからリビングがガラ〜ンとしているのも、あまり違和感が無いはずなのに……すさまじい喪失感。
胃に来るわ、こりゃ。
後ろ頭をかきながら洗面所にのそのそ行った。……ドアが面倒くさい開き方になって穴が開いてる……そういや蹴ったよーな覚えが……まいいか、あいつが借りてる部屋だし俺シーラネ。むしろ俺が住んでてコレで収まってるのだから褒めていただきたい位だ。
さて、社会人は今日も仕事です。
トムさんに聞いた話では今日は目黒まで足を伸ばすのだそうな。
頭の中でスケジュールを反芻しながら歯を磨いてて、そうだ、図書館に本を返しに行かないとと思い出した。
顔を洗って、前衛的なコトになってる寝癖を整えて、欠伸ひとつ。
きちんと片付いて“シャワーヘッドもきちんと元通りになっている”風呂場の様子を確かめ、洗面所にある髭剃りだのナンだのの荷物をまとめてリビングにゆく。
しかしまぁ、ボストンバッグに一か月分の生活用品が全部詰められる俺ってどうなのよ。もうちょっと……そうだな、せめて遊馬崎程度にはファッションとか気を使おうかな?
自分らしくもないことが次々頭に浮かんでは消える。なんか考えてないと怖いのかもしんない。
何が?
そんな野暮なこと言わせんなよ。
ふっと自分の腕を見る。女の爪の引っかき傷がだあ〜っと付いてた。バーテン服が長袖で助かった。ありがとう幽。こりゃ背中とかひどいことになってんだろうな。……今度暇ならあいつの白衣とYシャツ引っぺがしてみよう。ついてたら俺の勝ち、そうでないなら“引き分け”だ。
ソファが無くなって広いリビングにぽつんと置かれてる哀れなローテーブルの上に、ハードカバーの児童書が10冊積み上げられてる。俺は何とはなしに一番上の髪長姫を手にとって開いた。
……んん? なんだこりゃ。俺の知ってる話と全然違うぞ!? どこだよ九海士の里って! つか漢字の地名ってなんだ!?
「あれ、違うの借りたっけ……」
本をひっくり返しても、薄ら汚れてはいるがきちんと金の文字で≪ 髪 長 姫 ≫と書いてある。
「???」
意味が解らないまま目次をめくってみると、先頭に髪長姫伝説、と書いてある。……あれ、次の話も髪長姫?
次の項目をめくってパラパラ読み流してみると、こっちはなんだか筋に覚えがあった。そうそう、魔女の怒りをかってお姫さまが閉じ込められるって、これだよ。……んじゃ、こっちのはなんだ?
しばらく頭を捻りながら読んでみた。導入部分はどっちかっつーと親指姫に近い。髪が無い女の子が仏様のご加護で豊かな髪を授かってその髪を時の天皇に見初められ、妃になるというシンデレラストーリー。
解説文を読むと、なんだか和歌山の伝説が元になった日本の童話なのだそうな。へぇ、知らなかった。
「……まるで俺だな」
俺の場合は仏様のご加護じゃなくて、妖刀の呪いだけど。そんで、この“化け物じみた髪”を見初めてくれる天皇は居ないけどさ。
へらっと笑って本を閉じた途端に携帯電話が鳴った。
『静雄か? 悪ィけど今日は一時間早く出社してくれ。こないだ後輩つけるって言ってたろ。顔合わせすっからよ』
トムさんがなんだか忙しそうにそれだけ言って電話を切った。
……あ、携帯電話返してもらわねぇと……だりー……
「とりあえず飯食うか……」
冷蔵庫に突っ込んであったコンビニ弁当をレンジで暖めてる間にインスタント味噌汁を作る。
お湯を沸かすのと卵料理は(比較的)得意だというセルティが台所に立ってるのを思い出して、一気に食欲が失せた。
……きっつぅ……俺、こんなにストレスに弱かったっけ? つーか女々しすぎるぞ平和島静雄!
チン、と電子レンジが俺を呼ぶけど胃がどうにかなりそうでゲェゲェ吐く。
無茶言うなよ、俺の初恋で、初めての女で、そんなの、無理に決まってる。まともで居ろってのがそもそも間違いだろ。
くっそ、新羅、覚えてろよ……絶対泣かす……“素っ裸になるまで”池袋の街をぶっ飛ばしてやる。
腐れ縁の名前を脳みそがようやく“敵として”形にしてくれたので、まだマシになった。
感情ってのは往々にして方向さえ定めとけば何とか躱せるもんだ。でも“自分で自分に向けた感情”はマジたまらん。……逃げ場がねェからな。……人間、人類だの他人だの過去だのの汚さなんて結構納得できる。だけど、“今現在の自分の汚さ”をほいほい呑める奴ってのはなかなか居ない。
それは自己否定だから。
感情をセーブできないのは自分の所為。
力加減が下手なのも自分の罪。
調子こいてセルティをヤっちまったのも自分の責任。
「……っ!」
また吐いた。もう胃の中に何も入ってないから、涎と胃液だけがシンクを流れてゆく。
「はぁはぁ……よーし、もう出ねぇ……大丈夫だ、大丈夫、あと二時間で会社行くんだ、絶対いく。……よし、大丈夫」
自分に言い聞かせた。小さい頃からのおまじない。小学生の頃、幽と一緒に決めた呪文。これさえ唱えてれば俺は大丈夫。
俺は兄貴で、大人で、男で、社会人だ。人前でみっともねぇことなんか死んでもしねぇ。
セルティが新羅の前以外では他の誰よりも常識的で物腰穏やかであるのと同じように。
何とか呼吸を整えて口を濯いでたらまた携帯電話が鳴った。……ん、メールか?
タオルで口を拭きながら画面を確認したら新羅の名前が手紙のアイコンと共に表示されている。
【ありがとう】
件名も無いその短いメールを俺が目にした次の瞬間、携帯電話は壁に激突して半壊していたとさ、どっとはらい。
14:37 2010/05/05(加筆修正 17:16 2010/05/06)
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