桂木弥子 と 脳噛ネウロ
「弥子、お前もようやく解ってきたじゃないか」
優男が声も高らかに笑って、となりに立ち尽くす少女の髪を満足そうにぐしゃぐしゃと乱暴な手つきでかき回した。
――――――――あ、あたし夢を見ている……夢の中で夢を自覚している夢、なんて言ったかな……白昼夢……いや、そうだ覚醒夢だ――――――――
「……なんでこいつってこういうこと言うんだろう……」
弥子にはわからない。人生経験という奴が足りないから、適当な単語をくっつけて自分で勝手に納得するということが出来ないのだ。
――――――――夢の中で弥子……つまりあたし……は、優男……つまりネウロ……を、涙目で睨んでいる――――――――
「弥子、お前それで我輩のことを解ってるつもりなのか? だとしたら失笑ものだな、お前は我輩のことなど何一つ理解などしていないぞ」
――――――――……一体これはいつの記憶だろう? それとも脳が勝手に作った単なる夢か――――――――
「お前の成す何もかも無駄なことだ、分かり合えぬことだけ解っていれば十分ではないか。」
――――――――ああ、なんて鮮明に蘇る罵倒、暴力、映像。
「人間同士もろくに分かり合えぬのに魔人と人間が分かり合えると思うのか? 変わった構造の脳だな、どれひと舐めさせてみろ」
――――――――化け物が涎を垂らしながら、大きく口を開けて蠢く舌を揺らし“弥子”に近付く――――――――
「お前にも解りやすく言ってやろう。
例えばだ、弥子。お前は我輩に感情があると思っている。まずその前提からして違う。我輩には人間のような複雑な感情は無い。何故か? それは人間が未熟だからだ。それぞれに成熟するスピードが違い、また成熟に必要な要素も違う。だからこそ様々な連中が出来る。」
――――――――ネウロはあたしに説教なんてしなかった。言葉ではなくて、もっと違う物で、いつも“弥子”を追い立てる――――――――
「その“でこぼこ”をフラットにしてみろ。それが成熟だ。その貴様の胸のよーに真っ平らな状態が我輩なのだ。つまりこれ以上何も変化しない。これ以上先は無いからな」
――――――――懐かしいような、悲しいような、物足りないような、不思議なきもち……
そうか、あたしはきっと寂しいんだ。
寂しくて、ネウロが居なくて悲しくて……こんな夢を見ているんだわ……
「言わば完成品だな。足りぬ所もないし過ぎたるところも無い。」
――――――――背景はただ塗ったような真っ黒で、ぼんやり光るネウロのスーツや髪や手足を、“あたし”はただぼんやり眺めている。それを目に焼き付けるように、ただただ、彼を見ている。
夢の中で見る彼はあの日の様に恐ろしくもなく、嫌悪感もなく、ただただ見目麗しく、不思議で、謎で、雰囲気があって、それからそれから、力強くて……安心する――――――――
「では問おう弥子よ、その謎を解いてなんとする。貴様ら人間は謎を糧としないのだろう? 何故理解しようとするのだ、何故納得を欲するのだ」
その声を聞き、その言葉を聞き、“あたし”は覚醒夢の中でもう一度覚醒した。
ネウロはあたしに疑問など投げ掛けなかった。
だからつまり、これはネウロじゃない。
本物のネウロはもう居ない。
魔界へ帰ってしまった。
あたしはそれを覚えている。あれは夢なんかじゃない。そしてこれは、夢でしかない。
「解らないままだと気持ち悪いからよ。フラットにしたいの。謎は人間にとってあんたら魔人みたいに味わい愉しむものじゃないわ。解き明かして解体するものなのよ。それが謎に対する人間にとっての使命なのよきっと」
答えない“弥子”を差し置いて、“あたし”は意を決して声を上げた。
壊したくない。
でも乗り越えなくちゃいけない。
その為にまどろみが消えたって、それが進化ならばあたしは往く。“弥子”と一緒に。
「どこまで行っても理解できないもの同士、決して交わりも重なりもしない」
ネウロの形をしていたものが呪いの言葉と共に崩れて、スーツの青と瞳の緑と髪の金がグジャグジャに混じり合って、青い大きなマーブルの不定形生物みたいになってゆく。
「変わるわよ」
いつの間に立ち位置が変わったのか、背後で“弥子”が良く通る声でぴしゃりと言い放った。
“あたし”は驚いて見返り、青い大きなマーブルのスライムは出来そこないのキュビズムの絵みたいに目だけをぎょろりとそちらへ向けた。
「――――――解らん、何故そんなに変化に固執するのか?」
形を変え、でも声はネウロのまま、青色のゲロゲロは尚も“弥子”に尋ねる。“あたし”はそれをぼけっと眺めていた。
「じゃあ言うけど、今解らないって言ったわよね。でもその謎を食べないでしょ」
「当たり前だ、それはお前が謎という魚を吊り上げるルアーだからだ。」
「でもそのルアーは代わりなんて幾らでも利くんでしょ、完成品の悪魔さん」
でもあたしを食べない。その方が楽だからなんて言い訳しないでよ、謎を食べるならごたごたしたことに何でも首を突っ込んだ方がいいに決まってるんだから。レポートを諳んじるように淀みなく意見を述べる“弥子”は、いつの間にか自分の震えが止まっている事に気付いているらしかった。堂々と、怯まない。
「ネウロは既製品なんかじゃないのよ。だから分かり合えると思う。分かり合ってみせる」
「……まあ、精々奮闘することだな、我輩の食事の邪魔にならぬ程度に」
まばたきの瞬間に“ネウロになっていた”それは、彼がいつもそうしていたのと同じようにドアに溶け込むようにふっと消えた。ニヒリスティックな笑みを浮かべたまま。
いつの間にか背景は懐かしき探偵事務所に変わっており、蛻のからになった探偵事務所に変わっており、彼が居なくなったあの日の探偵事務所に変わっており――――――――
「やってみせるわよ、変えてやろうじゃないのよ」
俯き、“弥子”は自分に言い聞かせるように強い光を瞳に宿らせて小さく呟いていた。
――――――――あたしはそれを見て、満足げに頷き――――――――
終わりなき日常へと帰還するのであった。
過去を塗り替える為じゃなく、未来を書き変える為に。
・おしまい・
10:24 2010/02/10
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