死神様 と エリザベス
ひたひたと足音。
理由は簡単、彼女はスリッパを履いてないから。
タイルがさぞ冷たかろう。抱えてるピローは淡いピンク色のレースで縁取られている。本当はシックでシンプルなデザインが好きで、ヒラヒラしたのはニガテな彼女だが(病的に左右対称至上主義な)職人が選んでくれたものだから使ってる。二つセット。当然シンメトリー。白いので汚れが目立つからか、タオルを掛けて使っているようだ。
寝間着は自分で買った。妹とメーカーがお揃い。さすがにシンメトリーではなく、彼女はネグリジェで妹はパジャマ。理由は簡単、彼女の妹は寝相が前衛芸術的なのですぐお腹を出すから。
ひたひたひたひた。
夏の夜の雰囲気は彼女の胸を高鳴らせる。興奮と不安を混ぜて、軽薄な陶酔から混乱を差っ引いたように。
13番目のドアをノックした。重く大きな扉には『DEATH』と書いたプレートが下がっている。
死。
黄泉。
常夜国。
寂滅世界。
いわゆる冥土。
「はぁい。どーぞ」
ゾクゾクゾクッと彼女の背筋に悪寒に似たものが走った。後生に向かってる自分の身体が勝手に浮き足立っているちぐはぐさに彼女は違和感を覚えずにはいられない。綿菓子の上を歩いている砂糖人形になったようだと、妙な浮揚感をなんとか言葉に変換しようとしているのは扉の奥からくぐもって聞こえた間延びした声の所為か。
「アラ珍しい、どったのエリザベスちゃん」
何やら書類を広げた机に向かっていた死神が椅子を軋ませもせずこちらを振り向いている。
デスクランプが煌々と輝いているのに部屋は薄暗く、カーテンが閉められていないガラスの外は死神の仮面に刳り貫かれた三つの穴のように幽暗な世界。
「怖い夢でも見たの?」
枕なんか抱き締めちゃって、と冥府の使いが笑った。
「しっ死神様!」
「はいはーい。レディに失礼だったかしらネ? でもぉ〜レディはこんな時間にお部屋から出ちゃだぁめェよォ〜」
その佇まいに似合わぬ気楽そうな声が静かな部屋に広がってゆく。
「やっ!ちがくて!えっと……!」
えっと、えっと。言葉が渋滞を起こしたか、生き埋めで喘いでる奴みたいに恰好がつかない。彼女は内心歯噛みし、あんなに前もって練習したのにと悲鳴を上げていた。
「冗談、冗談。はいはい、なになに。真面目に聞くよ」
死神は衣擦れの音だけをさせて席を立ち、彼女に椅子を勧めようとしたのだろう。
「わ、わたしと寝てください!」
死神が腰と思わしき場所から崩れ落ちるように引っくり返った。その見事なずっこけぶりときたら往年のコント集団のお約束が如き惚れぼれするタイミングであったが、肝心のひっくり返した本人は意も介さない。
「はぁ?」
「わっ!わたシとっ!……ねっ!寝テくらひゃい!」
彼女はベッドピローがもしも喋れたら『殺す気か』と怒鳴ったろう力を込めて、ぎゅうぎゅうに抱え込んだまま金切り声をもう一度上げる。
「…………そんなに怖い夢見たの?」
ようやく正気に戻ったのか、死神が体勢を立て直してもとの椅子に腰掛ける。椅子はやっぱり軋まない。
「まあとにかく座んなさいよ、そこカーペットないから寒いデショ?」
ズズズと引っ張られる椅子にはちゃんと重さがあって、カーペットもきちんと毛羽立っていた。
彼女はフカフカのカーペットを恐る恐る踏み、ピンと張られた上等の椅子の座面に怖々と腰掛ける。けれど視線は一切死神の仮面から外さない。
だがそれは外せないのかも知れなかった。外したら悲鳴を上げてこの部屋から逃げ出してしまいそうな形相だから。
「……パトリシアちゃんと同じ部屋じゃ寂しいの?」
死神の生者ならぬ声がこの空間を響かせ、ビクッと細い肩が震えた。大のオカルト嫌いである彼女を動揺させるにたやすい力を持っているのは、死神ではなく妹の存在のようだ。
張り詰めていて、それでいて湿った生ぬるさ。これは恐らく己の汗の感じ。もし他にあるとするならば、この気温のせい。そうでなければ湿度のせい。彼女は眉をひそめ、或いは唇を薄く噛んで、困難に立ち向かう勇者のような心持ち……もしくはこれから処刑される咎人にも似た忍耐……で、じっと椅子に座っている。
「あー、抽斗に取って置きのオカシ入ってんのバレちゃってるとかぁ?」
おちゃらけてわざとらしい文法の崩壊した死神の声には、やはり生き物の温かみはない。
慣れてしまった違和感に、もはや彼女は嫌悪を抱きはしなかった。その台詞に宿る労わりと気遣いがくすぐったくも心地よかったから。
「……………………」
掴まるものもちゃんと用意してきた彼女は安心して言葉も持たずに蹲っていられる。所在無くなれば枕に顔突っ込んでしまえばいいとばかりに。
大きな白い角ばった手がくたびれた黒い布を揺らしたり、仮面を何度も擦ったり、組み合わせるようにしたりするのをただ見ていた。
彼女はそこにだけ、死神の意思が“生きている”様な気がしている。
黒い布の向こうに何もないことを知っているのに。
「女の子が夜中に男の部屋を訪ねるなんてはしたない事だよ」
ため息がてらに死神がゆるゆるユラユラ、蜃気楼みたく風も起こさないまま彼女に近づいた。
白い大きな手が
顔を包むように
ゆっくり、ゆっくり
彼女の頭を撫でる。
木綿の感触。
その二ミリ向こう側にあるものの正体を、エリザベスは知らない。
「ワタシこれでも教育者だからね……」
彼女はただ恍惚と、めったに触れられない大きな手に包れていることだけに集中したかった。暖かさもなく、硬さもなく、一番ニガテなオバケの親玉みたいな、そういう手。そういう手を独り占めしている不安に。そういう手を我が物にしている満足に。
「いけない子にはお仕置きしなきゃ」
ゆらっと大きくテーブルに置かれていたランプの炎が揺れて消える。まるで死神の呼吸に合わせるかのように。ランプの芯が燃える音が消え、窓の外を渡る風もなく、彼女の心臓と呼吸だけが暗く冷たい空気の中に大きく響いていた。
彼女はいよいよ枕を抱いている腕を強く引き絞めたが、頭上から降りてきた何かに簡単に抜き取られてしまう。慌てて枕の端を掴もうと伸ばした腕に冷たく細いツタのようなものが絡まって縛り上げられてゆく。
「あっ!? ひぉあぁぁ〜」
肩にぽたぽたと何かが垂れている。手首から大粒の雫が二・三伝って、二の腕から脇へと滴り落ちた。
足元で枕の落ちる音が聞こえ、ネグリジェが突っ張る。腰ひもがずって胸のすぐ下まで持ちあがっていた。
「相変わらず立派なおっぱいだねぇ?」
「っあぁ……いや、嫌です……!」
部屋が明るければ彼女が紅潮した頬で恥ずかしげに顔を伏せる様子が見えたろうに。ふるふると頭を小さく振り、強調された胸がそれに呼応する。
インド綿のシンプルなネグリジェに降り伝い落ちてくる生ぬるい雫は何とも言えない臭気を発していて、その湿っぽく、微かに刺激のあるぬめった水滴は彼女の意識を少しづつ蝕んでゆく。
手首に絡んでいる他にも彼女の身体を無数にツタが這い始めた。太さや長さはまちまちで、動きが緩慢なものもあればそうでないものもある。そうでないものの一つが袖口から伝って背中に到達したとき、彼女は堪らずに大きく体を仰け反らせて悲鳴を上げようとした。
が、声は出ない。
結んでいた唇を開けた瞬間に幾筋ものツタが絡み合って口内へ侵入したから。
「ぅうヴぅぅぅ!」
痺れるような頭痛と共に、唸りだけがむなしく喉を震わせている。口中を大小さまざまなツタに嬲られ、息も絶え絶えに彼女がもがく。見開かれた瞳に映るくらやみには一切の光が届かない。
口から垂れる涎ともツタから染み出す雫とも知れないものが、彼女の襟元をしとと濡らした。細かな泡を含んだそれは飽きることなく肌を叩き、幾筋も幾筋も線路を作りながらネグリジェを汚す。
身体中を這うツタはくびれたウエストラインを舐めるようにうねりながら臍をくすぐり、長い髪をかき分けてうなじや耳を刺激している。彼女がその度にびくびくと痙攣し、嫌がる素振りを見せるのを楽しんでいるかのようだ。
彼女は快楽に抗いながら身体をくねらせる。もちろん本人は必死なのだが、満足に出来ない呼吸の音は艶めかしく、紅く染まった額に光る汗や潤んで焦点の定まらない瞳は言い様もなく扇情的であった。
「あれェ、もしかして」
死神がわざとらしく声を上げた。
そして彼女の胸の先端をネグリジェの上から優しくつまんで二度ほど擦り上げる。雫でうっすらと色まで透けんばかりに濡れている布は素肌も同然だったのだろう。
「気持ち良くなっちゃってる? お仕置きなのに」
ビグッと彼女が身体を震わせてぶるぶる首を振った。口の中には蠢くツタを込めたまま。
「でもォ〜おっぱいって〜キモチ良くなかったらこうはならないよねェ〜?」
両方の胸の先端を大きな指で器用に弄んだ死神がクリクリになってる、と忍び笑いを上げた。
「んぅっ!ううぅぅ!ぅンん!」
びく、びく、びく、と三度腰を跳ね上げ、彼女は虚空に向かって何を唸ったのか。
「まさか、下着の中もこんな風になってないよね、エリザベス?」
大きく引かれた身体があった場所に涙が散って、白い肌が瘧のように震えている。ネグリジェのスカート部分からツタの侵入を知ったのだろう。白っぽいネグリジェの裾が闇の中で踊った。
右の足首に数本のツタが巻き付き、左のふくらはぎに太いツタが一本食い込むのと同時に、口内を犯していたツタが一本、また一本と引き抜かれ、彼女はようやく満足な呼吸が自由に出来るようになる。何度も何度も大きくえずき、くれない色の唇が少し白く濁った透明の液体を細く長く吐き出した。とろとろと滴るそれは鼻の穴からも垂れており、ひどく痛々しい。
「おやおやエリザベス、人前ではしたないよ」
笑う死神の声にはっきりとしない頭を振りながら、彼女は忙しない呼吸の合間で違います違いますと寝言のように繰り返す。
「そうだ、違うとも。ワタシのエリザベスはお仕置きで気持ち良くなっちゃうイケナイ子じゃない」
そう言いながら腕に絡んでいるツタの力が強くなり、腰のあたりで目的もなく蠢いていたツタが明確な意思を持って覚醒した。
「だから足を広げたって平気だよねぇ?」
腰が高く持ち上げられ、両足に絡んでいるツタが腰のツタの近くに少しづつ引き寄せられてゆく。
「あっ、あっ……!やだ、やだぁ!や、やです!やめて!死神様、だめです!いや!」
まだノイズの走る意識の中、彼女は渾身の力で無体に広げられてゆく太股を閉じて抵抗した。膝のあたりでまくれ上がっているネグリジェの心もとなさに身悶えしながら。
「どうして? 確かめなきゃ。ワタシに証明してよ、気持ち良くなってないってサ」
死神の大きな手が、彼女の浮いたヒップラインを丁寧に何度もなぞった。木綿の手袋と彼女の下着が何度もこすれてその度に少しずつずれる。
「……こんな格好、恥ずか……っ!」
途切れ途切れで彼女は悲鳴に近いセリフをやっとのことで吐きだす。いつもの彼女からすれば想像もできないほどのかわいらしさに、ありもしない背筋がゾクゾクとそそけ立つようだと死神が独りごちた。
「反省が足りないようだね。ワタシは悲しいよ、エリザベス」
今までどこか遠くで聞こえていた死神の声が、ごく近い場所で震えた。耳が直接振動するかと思うほど。彼女は自分の身体がかあっと熱くなるのが解った。鼓膜を起点に全身に伝わってゆく“ゆらぎ”が肢体に込めた力を解きほぐしてしまう。
「あ、あァ……っ」
鼻の奥から絞り出された呻き声が掠れるのと同時に、死神は彼女の足に沿わしていた両手にゆっくりと力を込めた。吊下げられ両腕を高く掲げる彼女に体には無数の蠢くツタが纏わり付き、もともと大きな胸はひたひたに濡れたネグリジェのデザインによって殊更強調されて、押し広げられた素足はふるふると小刻みに震えながら冷たい空気に曝されている。
強く閉じられた瞼が精いっぱいそっぽを向いて、真一文字に結ばれた唇から伸びる唾液の糸さえ噛み切らん勢いだ。
彼女の下着はナイロン製のツルツルと光沢のあるもので、前身ごろの部分が濃いレース地になっている。光のある場所で見ればさぞセクシーな佇まいであっただろう。両脇は二本のゴム紐が網目を作って、彼女の腰骨を隠しもしない。
「見な……で……!」
震える声が許しを乞うように小さく聞こえた。それを死神が聞いたのかどうかは解らなかったが、その声を機に死神はその場を少し離れたらしかった。
部屋の片隅でかたかたと音がする。彼女は冷たい空気の中で淫らな恰好のまま耐えるしか術がない。
と、不意に彼女の目に硬い布のようなものが巻かれた。彼女は急に与えられた新しい感覚に驚いて何度か身体を揺すって逃れようとしたけれど、それは無駄な足掻きでしかなく布は強く頭の後ろで結ばれてしまったようだ。
「な、なに? なんだこれェ……」
「トリハダ立ってたから暖炉に火を入れるね」
キミが今自分がどうなってるのか見たらきっと悲鳴を上げるだろうから、目隠しさせてもらうよ。死神がそう言ったかと思うと、暖炉の方で大きく炎が音を立てて燃え盛り始めた。冷たく暗かった部屋に温度が生まれ、彼女の唇から吐き出される吐息が透明に戻る。
「おや、明りがあるとくっきり見えるねぇ」
その声に彼女は三度身体を強張らせた。足に失いかけていた力をまた込める。
「嫌いじゃないよぉ、エッチな下着。でもー」
決して厚くはない布地に死神の指が埋まる。大きさ変化自在なマジックハンドの人差し指が水音のするナイロン地を数度弄んでゆっくりと引いた。
その間に渡る光の橋を途切れさせぬように。
「お仕置きなのにこんなに気持ち良くなってたなんてねェ〜?」
「うぅぅ〜……!」
「こんなこと、キッドやパティが知ったらきっと失望するよぉ。軽蔑されちゃうかもー」
「…ヒ…っ」
「エリザベスはお仕置きされて気持ち良くなっちゃうヘ・ン・タ・イさん」
言葉を続けながら死神は大きくM字に広げられた彼女の秘所にしたたるヌメリを、汗を、掃うように拭い、傷口に軟膏を処方するように塗り込めている。その度に彼女は乱れる呼吸を引き絞めねばならなかった。
「ほら、どうしたの? さっきみたいに嫌とか止めてとか言わないの? それとも」
急に死神は彼女の頬に近付き、その痺れるような低い声色で彼女の背筋を大きく戦慄かせる。
「もっと仕置きが欲しいのか」
「ぅひィぃぃぃ〜……!」
自分の感覚を変えてしまうかのような声に彼女は我慢できず、みっともない鳴き声とも喘ぎ声ともつかぬ悲鳴を上げてしまった。それでも理性が最後の力を振り絞ったのか、大した大きさではなかったが。
「どうしたのエリザベス。言ってごらん、ここを触られると、なんだい?」
「いやっ……!」
「それは違うよね。そうだろう?」
「だめ、だめだよ、死神様……」
「さあ言ってエリザベス。ワタシがエリザベスのここを触ると、気持ちいいかい?」
「うぅぅ……ぅくぅ……っ!」
「それじゃあ分らないよ。焦らさないで言ってくれなきゃ」
「あっ!……ああぁぁあぁ〜……!あっ!はぁっ……」
「言ってくれなきゃ、やめないよ?」
「し、死神様、だめ、もう、ダメ!これ以上したら、へ、変になるよォ!許して!ねぇお願いだからァ!」
身体を捩りながら涙声で懇願する彼女に、いつもの声に戻った死神がため息をつくように言った。
「しようがないなぁ」
その言葉が終るか終らないかの刹那、暖炉に燃え盛っていた炎が吹き散らされたかのような音を立てて消えた。彼女はほっとする間もなくその音に身体を強張らせて声ならぬ声を喉の奥で捻る。
「風邪を引くといけない、濡れた服を脱ぎなさい」
「ヘェッ!?」
「もちろんそのべちょべちょの下着もネ」
身体のあらゆる場所を舐め、手足を戒めていたぬるく湿ったツタが一本、また一本と彼女の身体を離れてゆき、遂に最後のツタが巻き付いていた腕を惜しむ様に雫を残して闇の向こうへ消え失せた。
「で、でも……アタシ、ネグリジェとパンツしか着てない……デス、ケド……」
「灯は消した、目隠しも取らなくていい。なにも恥ずかしがることはないよ」
さあエリザベス、まずはネグリジェの紐を解いてごらん。死神はようやく寝巻を一人で脱ぎ着出来るようになった子供に教えるかのようにぶら垂れた彼女の手を濡れて重くなったネグリジェの紐に誘導する。
「あっ……」
擦るように死神の服の袖が乳房を通り過ぎ、意もせぬ己の喘ぎに彼女は赤面した。長い時間ツタに甚振られていた後遺症か、死神の愛撫の所為か、肌のそこここがジンジンと熱を帯びて騒いでいるのだろう。
彼女は深い深い闇の中にただ一人佇んでいる。ただでさえ暗い部屋で瞼を重い布で封じられているのだから、それは言い知れぬ不安を煽るはずだ。だが、彼女は身体を支配する未知よりも高鳴る胸を覚られぬ様にとそればかりを心配していた。
さっきの変な声は聞こえなかっただろうか、息が荒くなっていることがバレてはいないだろうかと。
誘導された手で探りながら腰ひもをゆっくりと解いて、雫でぐっしょりと濡れる紐を離した。ぴしょっと小さな音がして太腿に触れたのが解る。思わず声が出そうだった。
何とか堪えた彼女は続いて肩に張り付いた布を引っ張ると、何故かゾクゾクと冷たさに震える肌に熱い感覚が走った。頭がおかしくなりそう、と痺れる魂のどこかが呟いている。緊張感が感覚を狂わせているのか。
そう言えば、死神の声がさっきから聞こえないなと彼女は思う。この絶望的な闇の奥で自分の脱衣を眺めているのだろうかと想像すると、ひどく淫靡な事をしている気になってきた。夜に男の部屋を訪ね、自らを守る城壁を脱ぎ去っているのだと考えると、肩部分を弛ませた流れで持っていたネグリジェの裾を離してしまう程。
「どうしたの? 裾が落ちたよ」
ビクッと彼女は今日何度目か知れぬが、また体を震わせた。
見られてる。やっぱり見えてる、この真っ暗な部屋でアタシを見てる!
ひくひく引き攣る左指とまともに動かない右腕にひっかけるように、取り落としたネグリジェの裾を引き上げながら狂ったように高鳴る胸の鼓動を収めもせず、彼女は唇を真一文字に結ぶ。
ああ、どうしよう。このまま脱いでしまったら死神様はきっと自分をはしたない娘と思うに違いない。だからと言って脱げません等と、どうして言えるだろう!
不安と恐怖に揺れる彼女の頬から汗とも涙ともつかぬ雫が落ちてゆく。
唇を薄く噛みしめ、黒い目隠し布の向こうで瞼をきつく閉じ、呼吸を止めた彼女は覚悟を決めて濡れて重いインド綿をたくし上げ始めた。
身体中を冷たい布が舐めてゆく。それは先ほどの温いツタに絡みつかれるより何倍も彼女の皮膚と意識を責め苛むのだ。痒さとは鈍く弱い痛みであることを証明するかのように。
「ふっ……ぅ!」
濡れた唇から呼吸のような噛み殺し切れなかった唸りのようなものが洩れる。雫の滴る布の絡みつく強さと戦いながら、彼女は懸命にインド綿のネグリジェと格闘していた。時々濡れた冷たい布が火照った腹や背に張り付いては吐息を乱す。
自慢の長いブロンドヘアーも服を脱ぐことを邪魔する。くしゃくしゃに乱れて重く湿る髪は顔中に張り付いて呼吸を妨げ、彼女は何度も舌を使って髪を吐き出さねばならなかった。
やっとのことで胸のあたりまでたくし上げ終えた彼女は、また鋭く息を呑んだ。このまま本当に脱いでしまってよいのだろうか。頭を抜いてしまえば、もはや後戻りはできない。瞬時に頭をよぎる幾多の禁忌の情景に彼女の心臓が大きく跳ねる。
「さぁ」
短い死神の声が千の兵になって彼女の魂の鍵口へなだれ込む。逃げ場などなかった。
子供の手では大いに余るほど立派な胸がまろび出て、白い肌に無数の雫が降り落ちている。光があればさっと焙った霜降り肉のように美しい照りが見えただろう。弾力があり、よく張った肌は粘り気のある雫さえも所々弾いて水玉を作っていた。背に肩に顔にはらはらと落ちてゆく髪の一房が、左胸の先端を覆い隠すように垂れている。
右腕を抜き、左袖を引張り、少女から大人へと変化したての身体を闇に晒す彼女は、眉をひそめ頬を赤く染めたまま唇をゆがめて冷たいネグリジェを惜しむ様に滑り落とした。
「……ぬ、脱ぎ、ました……!」
胸を覆い隠すよう、両腕で肩を抱き、目隠しをされたままの顔をそむけながら蚊の鳴くような声で彼女は言った。どうか、どうかもうこれ以上は仰らないで下さいと祈りながら。
「エリザベス」
体を縮こまらせ、彼女は眉間に深いしわを寄せた。だがどうだろう、こんなに肩も手も震えているのに胸の高鳴りが止まらない!
「……はい」
胸の前で交差していた腕を解き、最後の抵抗なのか腰を少し引いた格好で彼女は下着の両端に指を掛けた。そこは網目状になっているため、親指が震えているのが見える。
いつもならばするりと滑る絹に似た肌触りの下着は、べったりと肌に張り付いてなかなか脱げない。彼女は仕方なく腰のあたりに指を滑り込ませて布地と肌の間に隙間を作った。肌にひやりとする感覚が走り、この空気の中に一糸纏わぬ身を投げ出すことがいよいよリアルに感じられる。
熱い瞼を押し上げるように、熱い水が込み上げてくる。悲しいのではないはずだ。恥ずかしいだけでもないはずだ。ではこの涙は何なのだろう。彼女は床に音を立てて落ちてゆく水分の正体がつかめないまま、下着に掛けた両手をずり下げた。
その濡れたまつげと同じ色の真綿のような秘毛は影を作り、その陰に何本も伸びる透明な粘りをなんとか隠している。彼女はいっそ時間をかけずさっさと脱げばよいと思ったのか、そのまま膝のあたりまで一気に下着を下してしまった。
腿に大きく軌跡を残していることに気付かずに。
「……おや」
小さな感嘆の声が彼女の身体を凍りつかせる。死神にとって、身動ぎさえ忘れた彼女の屈んだ身体に指を滑り込ませることなど造作もないことだ。
心臓にナイフを突き立てられたかのような衝撃が彼女の身体を襲い、闇しか写さぬはずの目の前に真っ白な光が閃いた。声など到底出ない。
「はしたない娘だこと」
丸みを帯びた木綿の感触が、特別に敏感になっているぬかるみの入口を何度も何度も行き来する。突起を確かめているのか、滑る水分を確かめているのか。
「〜〜〜〜〜〜〜ッぁ!!」
大きく口を開き、喉の奥でだけ空気が震える獣のような嘶きが勝手に全身を支配した。両脚に力など宿らず、震えて痺れる膝は笑い、ただ自己保存本能だけが死神のコートを掴んだ。ふくらはぎを戒めるナイロン製の下着は見るも無残に引き広げられ、いつ千切れるとも知れぬ有様だった。
「〜〜やめ、アァァ、めてェ!ああぁぁ〜ッ!」
ゆさゆさと大きな胸が揺れるたび、首を思い切り仰け反らせて吠えた。涙が在らぬ方へ流れる。髪が逆巻いて、美容を気にする彼女の姿とは到底思えない。
胸の中を掻きまわされているように気持ちが乱れたまま、股間にあてがわれた死神の中指と人差し指の腹が稲妻のように鮮烈な快感を下半身にもたらし、半狂乱のまま彼女は黒い布の向こうで大きく何も見ぬ瞳を開き切っていた。
「あぐぅぃ〜〜っ!うふぅぁぁ〜……」
ちかちか瞬く白い星のフラッシュする感覚が短くなり、彼女はついに、ついに、と唇を必死に噛み締めた。声が爆発するのを恐れたのだろう。
だが、その心配は要らなかった。
ことさらに強く漆黒のコートを引いた次の瞬間、死神はその身ごと彼女に触れていた指を離したからだ。
「あァ……やぁ……?」
ふっと全身の感覚が失せ、体重の拠り所を失った彼女はへたり込む様にカーペットの上へ座り込んでしまった。カーペットにはところどころ冷たい場所があり、今まで滴り落ちた水分の多さを彼女に知らしめた。
「ハァハァはぁはぁはぁ……!」
息の続かぬ一気呵成に訪れた快感の大津波にビクビクと勝手に痙攣する全身を恐れているのか、彼女は急に取り上げられた夢見るような快楽を惜しむことさえ忘れていた。
「おや、困ったよエリザベス。キミの声が漏れてしまったかな。キッドが起きて部屋を抜け出したみたい」
無慈悲な死神のセリフに、彼女はぞおおっと血の気の引く音を聞いた。
瞬きをも失ったかのような真っ青な顔を凍りつかせて、右足に下着の残滓を絡みつかせただけの姿をぶるぶると震わせることしか出来ない。
「じきにキミたちの部屋か、ここに来るよ。……どうする?」
歌うかのように軽やかな台詞は彼女の鼓膜をどうしようもないほど痺れさせ、思考回路を破壊する。
「そんな恰好でこの部屋に居たら、もういい訳が出来ないねぇ」
カチカチと歯の根がかみ合わず、勝手に音が出る。服を着ようにも、濡れ透けたネグリジェで死神の部屋にいることの説明などどう上手い嘘を考えても辻褄が合うはずもない。
いよいよ震えの止まらなくなった真っ青の彼女を見、死神はやれやれとわざとらしくため息をついて自らのマントを彼女の素肌に掛けた。
「エリザベス、よく訊くんだ。決してワタシの姿を見ないと誓うならばこのコートを貸してあげよう。そしてキッドに会ったらキミはこう言う。『死神様は急な用事で死武専に戻ると私に言付けた、なにも心配ないから部屋に戻って眠りなさい』……いいね? その目隠しは扉の外で外し、部屋に帰って来る時はもう一度自分で結ぶんだよ」
死神はそう言い含めて彼女の手を取り、足音もさせぬまま扉の前まで導いた。
「約束だよエリザベス」
そう言って大きな手は彼女をそっと扉の外へ押し出した。背でばたんとドアが閉まる音がして、彼女はようやく後頭部できつい団子になっている重い目隠し布の結び目を……解けないのでずらして取った。
廊下には部屋にあるのとは比べ物にならないほど薄い絨毯しかなく、裸足で歩くには少し冷た過ぎた。スリッパもなく、こんな夜中に不自然だと思った彼女はドアを叩いて履物を乞う。
「死神様、死神様、こんな場所で裸足で居てはキッドが怪しみます、何か履くものをください!」
「……えー、履き物とかワタシ要らないヒトだしー……なんでもいいー?」
死神の部屋のドアがほんの少しだけ開いたかと思うと、真っ赤なサンダルのピンヒールが一足揃ってずりずりと床に押し出され、またドアがばたんと閉じた。
廊下に煌々と光る蝋燭の炎に照らされたそれはどう見ても女物で、彼女は大層訝しんだが、その疑問を口に出す前に小さな足音を耳が捉え、慌ててその真っ赤なサンダルを履いて立ち上がった。
「…………っ」
彼女がまだ治まらぬ身体の疼きに身を捩った時、階段の上り口にパジャマ姿の小さな死神を認めた。いつまでもぐずぐずしている訳にはいかない。彼女は意を決してそちらの方に歩きだす。どうか足元に雫が垂れませんようにと祈りながら。
死神のコートは彼女の身体に大き過ぎ、裾を踏まぬよう随分とたくし上げて歩かねばならなかったが、コートの下に何もつけていないことが少しでもばれぬ様にと身体に巻きつける分があると考えれば上等なものだ。
「なんだ、リズか。こんな時間にこんな場所でなんだ」
キッドが一瞬父親を呼ぶ時の顔をして、はっと頭を振り彼女の愛称を呼んだ。
「あー……えーとなんだっけ……あ、そうそう!死神様が死武専いくからキッドに言付けといてって。何か急に仕事を思いついたとか言ってたよ」
先ほどとは違うリズムで脈を打ち、心臓が音を立てる。それはひどく心地が悪くて異様な律動ではあったが、彼女は必死にそれを無視した。
「……なぜリズに言付けるんだ?」
当然の疑問を投げかけられ、彼女はうっと言葉に詰まった。焦っていい返し台詞が思い浮かばない。冷や汗をかきながらうーんと唸り声を絞る。
「えーっとぉ……そのー、なんだ……つまりィ〜」
「大体なんでそんな恰好をしてる? 洗面所で会った時はいつものネグリジェを着ていたじゃないか。……それに……お前なんだか臭うぞ……」
潔癖症の少年は露骨に鼻をつまんで嫌そうな顔をする。そこまでの刺激臭ではないはずだが、敏感なキッドには特筆すべきなのかもしれない。
「なんだこれは」
何に気づいたのか、キッドは手を伸ばして彼女の髪を一房取り上げた。死神の雫で濡れ、生乾きに固まった髪を。
「さっき風呂に入ったろう。何故こんな……」
指についたぬめりに眉を寄せ、キッドはその指を嗅ぐ。
彼女は目が回りそうになった。ついさっき自分の身体を這っていたものの雫を、何も知らない我が主の少年が鼻を近づけているという倒錯に。身体が震えて顔が真っ赤に染まる。
「あああああ!ば!ばかっ!そんなモン顔に近づけンじゃねぇ!!」
思い切り頭を振り乱してその場を飛退く。履きなれぬピンヒールのサンダルがぐらぐらと心許ない。内股に一筋温い物が伝ったような気がした。
「そ、そんなものって……これは何なのだ!」
「だっ……だからっ……!」
「正直に白状しろリズ!お前父上の書斎で何をしていたんだ!父上はそこに居るのか? 居ないならばどうやってカギを開けたのか言うんだ!」
金色の目が余談など許さぬといったように吊り上がったまま、顔の赤味さえ治まらぬ彼女を追い詰める。
「死神様にお仕置きされてたんだよォ!」
進退窮まった彼女はもう逃げられぬと観念したのか、そう叫んだ。
「仕置き、だと?」
「そーだよ!こっこの間、ちょっと街で買い物した時!帰ってくるのが面倒でさぁ、く、車パクッたのバレちゃって……そんで、それの罰でぇ、だっ暖炉の掃除させられてぇ……あと、このコートも洗濯しなくちゃいけなくて……かっ……髪は……ワックスぶちまけて……!」
破れかぶれにも程がある。彼女は引っくり返った声の裏側で必死に何とかこの場を収めようと言い訳を並べ立てた。本来ならば立て板に水と言った塩梅で嘘八百吹くことなど容易い彼女だが、さすがにこの異常な状況で統合性の取れた虚偽を思いつけるほどの悪党ではないらしい。
「なんとまぁ苦しい言い訳だ」
「……自分でもそう思う……」
ぐうの音も出ないとは正にこの事だ。神経質を絵に描いたような敏いキッドが、彼女の不自然を覚らぬわけがない。
「自白した言い訳を信じろというのか、死神のおれに」
「無理、かねェ……やっぱり」
眉を八の字に、顔色を窺う彼女は小鼻にしわを寄せて顰めっ面のキッドの次の台詞を待った。どうかどうか見逃してくれと顔に書いて。
「では百歩譲って二つだけ尋ねる。それに答えれば不問としよう。但し決して嘘はつかないこと、いいな」
情に絆されでもしたのか、情けないほどに眉尻を下げた彼女に向かったキッドは咳払いをひとつして譲歩を見せた。仲間内では頑固で潔癖と評される彼も、全くの分からず屋ではないという事か。
「お、おう。わかった」
内心ほっとしながら彼女は両手に死神のコートを抱えながら小さくガッツポーズをした。危ない危ない、やけくそにならなくてよかったと。
「父上はそこに居るのか?」
「イマセン」
「お前は盗みを働いて仕置きをされたのか?」
「ソウデス」
視線を出来るだけキットの眉間にだけ集中させ、あらぬ方向を見ないように努め、声も動揺が見えぬ様に平静を保って平坦に作った。本人としては嘘を付く人間心理のポイントをきっちり抑えたつもりなのだろうが、この場でそんな事をすればあからさまに怪しい。
「……もう一度訊ねる。父上はそこに居て、お前は盗みではない件で仕置きされたのだな?」
「だぁから言ってるだろ、違うって。信じろ!お願い!」
眉を思いっきりひそませたキッドが、そんな形の自分を信じろとよく言うと深くため息をついた。
「いいかリズ、お前が父上の部屋から何を盗んだのかは知らんが、父上が帰ってくる前に返しておかねばえらいことになる。それだけは心しておけ」
後ろ手をひらりと翻し、キッドは部屋に帰って寝ると階段を上がって行った。
「……た……タスカッ」
「そうだリズ」
「うへぁ!」
ホッと胸をなでおろした途端に階段口からひょいと顔を覗かせたキッドが言い残したことには。
「次のデートの時その靴を履いてこい。似合うスカートを見つくろってやる」
微かなスリッパの足音が完璧に聞こえなくなるまで、彼女はその場で呆然と立ち尽くしていた。放心したのか、両手に抱えた死神のコートが重い音を立てて絨毯の上に広がる。
「……タスカッタ、ノカ?」
どっと脱力した彼女はずるずるコートを引きずりながら本日三回目のノックをし、そのまま部屋に滑り込んだ。後ろ手に鍵をかけ、ようやく一息ついてその場にぐったりとしゃがみ込んでしまった。
異常な状況が続き過ぎて思考も記憶も全く追いつかないのか、左手に握りしめていたままの目隠しをぼんやりと見つめ、その視界が闇に染まってゆく最後の瞬間までその姿勢のままだった。
「ああ、約束を破ったねエリザベス」
地獄の響きというのはきっとこんな音なのだろうとはっきりしない意識の中で彼女は痺れたまま思う。
しまった
しまった
気が抜けて……
違う
違うんです死神様
「この姿を見てしまった者は殺してしまう決まりなんだよ」
闇の奥からあのツタが音も立てずに這いずってきた。そしてもう一度彼女の力無い身体をやすやすと縛り上げ、その身体に絡んでいる死神のコートをゆっくりと剥いでゆく。まるで桃の実を食べるように。
「本当に残念だ、エリザベス」
ぬるいツタが蜜を吸うように冷たい彼女の肌を何度も何度も蠢いては舐める。それと同時に太いツタが一本、小さな口をふさぐように横たわった。
「次のデートが中止になったらキッドは悲しむかな。でも仕方ないね、エリザベスは約束を破ったのだから」
ツタはそのまま丸裸の彼女を壁に押し付け、ぐったりともの言わぬ少女の身体を無理やりに広げる。抵抗も出来ないまま、大きく太股を開いた彼女は精一杯の力で首をよそに向けた。
「ワタシに擦られて気持ち良かったのにキッドと平気で喋るんだねぇ」
いけない子だ。
悪い子にはお仕置きを。
泣いても叫んでも許しはしないよ。
感知能力のない彼女でさえ、声でなく音でなく魂を揺らす振動で死神の意思を感じ取れるほどの圧迫感は、部屋いっぱいに膨れ上がっているようだ。こんな激しい波長、きっとキッドもパティもすぐに気付いてここへやってくるに違いない。そして血溜まりだけになった自分の死体を見て悲しむのだろう。そんな想像したら涙が溢れた。
己の死に脅えるのではなく、たった三人になってしまうこの家族を不憫に思って。
「この靴でデートに行くなんて許さない」
ツタが赤いサンダルの隙間に幾筋も侵入して、指の間やくるぶし、足の裏を丁寧に何度も行き来した。
「お揃いのレザースカートも買ったのに」
怨みがましくも威厳に満ち満ちたその響きに眉を顰めた彼女が視線を身体の前方に向けた途端。
「……なんだか妬けて来たよ。断然、妬けて来た」
そんな言葉と共に腰のあたりを這っていたツタが大きくうねって性毛のあたりにまで鎌首をもたげた。
「〜〜〜〜〜!」
生命の色に染まったその場所に無情に突き立てられたツタは何度もしゃくり上げるかのように彼女の身体の中を行き来する。その鈍い痛みと重さにも似た衝撃に彼女は思わず悲鳴を上げたが、もちろん少しも漏れる余地はなかった。
行き場を失った空気が耳と目の裏と鼻の奥、そして喉を痛いほど揺さぶる。
「〜〜〜〜〜!〜〜〜〜!」
仰け反らせながら腰をくねらせ、痛みから逃げ出そうとしている恰好が嗜虐的で死神のお気に召したようだ。ずくずくと音を大きく立て、捩るだけの自由を許したまま続ける。
「いやらしいエリザベス。自分で腰を振っているね?」
両手首を手錠をはめられたように合掌させ、頭の上に押し付けられ、背には壁。まるで虫の標本になったみたいと彼女は思った。揺さぶられる自分の胸がやっと見えるような暗闇の底から、幾筋もの黒いツタが伸びて自分の体に巻き付いている。これがコートの中身だったのか、彼女は拍動する瞼の奥に死神の形を思い浮かべた。
白く陽気な仮面に開いた三つの穴から、蛆や蚯蚓に似た真っ黒のツタがぞろぞろと這い出す姿を。
「快楽に溺れて狂い死ぬがいい」
絶望的なセリフと共に、ツタが耳の穴や鼻の穴、脇や臍や不浄にまで侵攻を開始した。怒涛の感覚はすぐに彼女の限界を超え、ピクピクと薄い痙攣を繰り返すだけになる。
「最後に言いたい事があれば聞いてあげる」
長く伸びる唾液が口を押さえていたツタに付いたまま途切れず、口の端にだらしなく垂れた。
「あ、ア゛、あ、ァ……」
低く途切れた掠れ声は自らの身体を貫く振動と同期したまま。死神はそれを認めても手を緩めることなどしなかったが、彼女はとぎれとぎれの唸りをようやく繋ぎ合わせて声に繕った。
「さ、いご……スを、して……」
おやすみのキスを下さい。
彼女がそう言って、また唇から涎を零した。
「……………………」
電池の弱ったダンシングドールよろしく、時々思い出したかのごとくにヒクヒクと微かに動く彼女の疲れ諦めきった虚ろな目を見ながら、死神は重苦しい口を開こうとした。……が、彼自身も何を言えばいいのか解らない。
今から理不尽に自分を殺す得体の知れない物のキスを乞うこの少女の意図とは何なのだ。
「……な、なんで?」
「……商売でも強姦でもないなら……」
「……………………マジ?」
呆然とした死神がやっとのことで絞り出したセリフは大層間が抜けている。
息も絶え絶えの彼女はその台詞に微かに首を動かしただけで何も言わない。
死神は微動だにせず、彼女は身じろぎ一つしなかった。暫くえも云えぬ沈黙が部屋を支配していたが、おずおずと彼女はかすれた声で情けを乞うた。
「お願い……死神様、最後に一度だけでいいから……!」
殺さないでと泣くと思った。助けてくれと請うのだと思った。喚きながら逃げ出すのだと思った。それをどう渋りながら許そうかと頭を捻っていた死神はまだ呆気にとられたまま動けない。
「し、死ぬんだよ?」
「構わない」
「……フツーはタスケテとかユルシテとか、そーゆーんじゃないの? こういうトキ……」
「で、でも、死神様の姿を見た者は殺されるって……」
あちゃー、と死神は嘆息を漏らす。
「……キミがワタシに感じてるのは親愛感情であって、寝室に枕を持ってくるよーなことじゃないの。もういいお姉さんなんだからそーゆーことはしちゃいけないの。哀れみや企みでもキスは出来るんだから!」
ワカル? 憤りにも似た茶化しは誠実で、純粋で、芝居がかった空々しさに彼女は気付けなかったに違いない。この部屋に入る前ならば。
「それ嘘だよ、死神様……」
「――――なに――――」
怪訝な声が彼女の弱々しくも気丈な魂の波長にかき消される。
「パティがこうして来たって、お仕置きなんかしなかった」
床に一滴垂れた音がして、堪らなくなった。
「……う……」
こんな年になって、全くみっともない。
「自惚れ……いいって言って……」
盛りの中高生じゃあるまいし。
「ひっ……!」
それでも死神は自分の心を偽り続けながら、ツタに力を込めて短く悲鳴を上げる彼女を救いあげるように壁から離した。脅かそうと思っていた。キツいお灸をすえてもう二度と寝室になんて来ないように。
「そこからなら見えるだろうエリザベス。ワタシにはもう身体と呼べるものはないんだ。残ったのはこの街に縛り付けられた魂と、悪夢のような荊の絡まりだけ」
こんな化け物のキスが最後の望みだって言うのかい? 死神は嘲笑するかのように高く頂いた彼女に尋ねた。長く垂れた髪の茂みから、初夏の空と同じ色の瞳が覗いている不安と悦楽を同時に感じながら。
「……アタシじゃ、慰めにもなりませんか?」
ぽたぽたと熱い雨が降ってくる。黒く蠢く醜いツタには過ぎた温度で。
「し、死神の花嫁にでもなるつもり?」
「……はい……!」
「……で、でも、ワタシ、すぐ死んじゃうよ?」
「知ってる」
「す、すんごーくオジーちゃんだし!」
「わかってる」
「キッドなんか比べ物にならないぐらいエッチだよ?」
「がんばる」
「……が、がんばるってキミねェ……」
「側に居させて……許されるまで四人家族で居させてよォ……」
これが殺されない為のその場凌ぎであったなら、死神は上手に騙されてやったことだろう。これが駄々っ子の甘えた我儘ならば、さて或いは叱り付ける余裕さえあったかもしれない。
「身体がないってホント不便だね、キスさえ出来やしない」
次のキッドとのデートの日、彼女は白のパンプスを履いて出て行った。
理由は簡単、赤の皮ピンヒール・サンダルは同じ素材と色のド派手なレザースカートとジャケットのお揃いでしか死神が履いちゃダメだと駄々をこねたから。
「……なんだこの椅子に座るだけでパンツ丸見えになりそーな頭悪いマイクロミニは……」
「だから言ったじゃないの。ワタシはキッドなんか話になんないくらいエッチだって」
「上着も丈短いし……」
「あっソレはねぇ、下にシャツ着ちゃダメだからっ」
鏡の前でとても外に出て行けるような仕立てではないスカートを畳みながら、彼女はため息とも不満とも取れる風に言った。
「……ブレアが清楚に思える日が来るとは思わなかった……」
「エリザベスは背が高いからねっこのピンヒール履いてスカート穿いたら……くすくすくすくす……」
頭が痛い。彼女は眉間に親指を押しあてる。
理由は簡単、嬉しそうに真っ赤なジャケットを構える死神の花嫁に拒否権なんてないからだ。
「……キッドは絶対まともに育てよう……」
その呟きを聞いたのか聞かなかったのか、真っ黒なコートに張り付いている死神の仮面はいつもと変わらず微笑んでいる。
14:01 2009/12/19
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