゙Fly me to the Moon"
カズマ と かなみ
かなみは風呂が嫌いだ。
正確には服を脱ぐのが嫌いだ。
かなみと会った頃はまだ塒らしい塒も決まってなかったし、あまり話もしなかったので気付かなかったんだけど、いつもサイズの合ってないだぶだぶの服を着ていて、足に不釣合いな男物の靴を履いていて……そんなモンどう贔屓目に見ても普通の格好じゃねぇ。
出会って三日くらいした頃、ようやく診療所跡に出くわした。そこはまだ奇跡的に水道が生きていて、発電施設すらあったんだよ。……もっとも、電線の殆どが持ち去られていて、電灯はスタンドすらなかったが。
オレはそれを見つけて泥と埃と汗、それから擦り傷から滲んだ血にまみれているかなみを思い、風呂を沸かしてやろうと発電機に入れるガソリンを調達し、発電機を回す算段を取り付ける。(始動させるバッテリーだの、メンテナンスだのといろいろ君島に世話をかけたのは言うまでもない)
水道からドボドボと赤錆色の水がしばらく出て透明な湯が流れ始めた途端、薄暗いバスルームのタイルに響き渡るデッかい声でかなみが叫んだ。
「いや……私……入らない!」
オレは一瞬ビクッとなってぽかんと間抜け面を曝し、震えるかなみを見ていた。
「……な、なんだよ急に」
「お、オフロ嫌いなの」
「キライっつったって……」
どう見ても三日以上着ているドロドロの服は風呂の湿気で重くなっており、裾も盛大に濡れている。
「お前さっき転んで怪我したろ?ちゃんとキレイにしとかないとそっから腐るんだ。オレだって風呂嫌いだけどさ、病気になんのヤだし。
だいたい女の子がそーゆー汚い格好してんの恥かしいだろ」
だって、だって怖い……と、眉を思い切り下げてオレの一番不得意な種類の表情になった。
「暗いの怖いんならオレも一緒に入ってやろうか?」
オレは今でも、時々こういう癖が出てしまう。苦手でおっかないから苦し紛れに虚勢を張る、という。そんで引っ込みつかなくなって悲惨な事になるんだ。毎回。
「……やだ」
「じゃあ一人で入れ」
「……やだぁ……」
これだから嫌なんだよガキは。めんどくせぇことこの上ねぇ。
「とにかく風呂には入れ。入らないんならここに置いていく」
もちろん本気ではなかったがこの脅しの効果は覿面で、かなみは泣きそうな顔で一緒に入って、と細く唸った。
「絶対こっち見ちゃダメだよ、カズくん」
「心配しなくてもこの暗さじゃなんも見えねーよ」
石鹸なんて高価なもんは当然ない。
だから綿のカーテンのきれいそうなところを引きちぎって手ぬぐいにし、湯の中で擦る。
幸いにも湯はガソリンが切れるまで使いたい放題なので、一回目の湯は身体とオレの髪を洗うために犠牲にする事にした。くそ長いかなみの髪は二回目に廻す。
「だはははは!すげー!葉っぱ浮いてきた!」
初夏とは言えまだ水に飛び込むには勇気のいるこの時期に、錆臭いとは言え湯に浸かれるのは大変ありがたい。じゃりじゃりと砂を含んていた自分の髪がさっぱりするなんていつ振りだか。
「ちゃんと身体洗ってるかぁ?」
「あ、あらってるよぉ」
慌ててカーテンの手ぬぐいをぐしぐし身体にこすりつけるようにして、かなみが縮めていた身体を伸ばした。
「背中こっち向けてみ、届かないだろ」
「じ、自分でやる!」
「まーまー、遠慮すんなっ……て……」
半ば強引にかなみを振り向かせて息を飲んだ。薄闇に浮かぶ小さな背中には無数に赤黒い傷跡があったのだ。
「おまえ、これ……」
「見ちゃダメって言ったのに……」
掠れた声に掠れた返事が返ってきて、オレはしばし絶句していた喉を無理矢理に動かして空気を吐き出す。風呂の湿気のお陰でひび割れた声にはなっていまい。
「……誰にやられた?」
「転んだの。もう治ってるよ」
「どう転んだら背中だけ怪我すんだ!誰にやられた、言えよ!」
小さなかなみの肩に置いた手に反射的とはいえ力を込めてしまった。だが、かなみはその痛みに動じずに口を開く。
「――――――言いたくない、思い出したくない、どうしてこうなったか覚えてない」
きっぱりそう言ってかなみがおれを睨むようにもう一度こちらを向いて。その顔は諦めに満ちているのに、どこか祈るようにも見える。
「私と一緒に居たくなかったらいいよ。ここに置いていって」
オレはこんな小さな女の子にそんなことを言わせた自分が情けなくて、悔しくて、涙が出た。
「――――――なんでカズくんが泣くの」
「――――――その変な呼び方……やめろ……」
いつの間にかオレの膝枕で寝息を立て始めたかなみの髪を触る。まだしっとりと重い。
指に絡む栗毛は細く、かすかに使ってもいないシャンプーみたいな匂いがした。
おっかなびっくり慎重に、髪をシーツの端っこでぎゅうぎゅう押さえつけて、少しでも早く髪が乾くように拭き続ける。本当は髪を、かなみを、離したくなかった。
ずっと触っていたかった。
ロストグラウンドには親の無い子供が多い。口減らしに捨てられたり、人攫いに遭ったり、そして……アルター能力を持って生まれた子供は大抵捨てられるからだ。多分オレ自身もそういう経緯で捨てられたのだろう。……覚えてないしどーでもいいけど。
実際、守ってくれる奴の無いガキが殺されたりボコられたり売買されてるのを何度か見たことがある。こういう土地柄だから、そういうのは付いて回る。オレが片っ端からそういう奴らをぶっ飛ばしても、オレの目に見えない所でそういう事は今日も続いている。今この時でさえ。
かなみの小さな形は瞼の奥をひどく刺激してオレの弱いところをチクチクといたぶっていた。オレがこういうくらいの時分には、隣りに誰かが居た。よくは覚えていないけれど、守ってくれる誰かが居た。教えてくれる誰かが居た。後ろに隠れられる誰かが居た。
だが、この子には、かなみには、そういう奴は現れなかった。
そしてこの有様。たまらねえ。実に重たい。鈍痛がする。頭の手におえないどっかが、ひどく痛む。胸が破けそうだ。自分がそうされる何倍もキツい。
赤い傘に隠れるように蹲る小さなカタチ。
それを見たとき、頭のどっかが痺れたみたいで居ても立ってもいられなくなって勝手に足が動いた。
今思えば償いがしたかったんだろうと思う。
助けられなかったものに、取りこぼしたものに、すり抜けていったものに。
オレはかなみの髪を触る。肌にペったり張り付く房を撫で付けて、手の平で乾かす。
埃とかび臭い部屋を見渡すと、床に散らばっているガラスの破片がキラキラ輝いていた。きっと月が出ているのだろう。オレはそれをぼんやり見つめながら、しばらくここに居るのもいいかなと思った。
見ず知らずのオレにパンを半分差し出したお前と、ここで暮らすのも悪くない。
崩れた壁に背を預けて力を抜くと、小さな寝息が聞こえる。
……珍しくいい気分だ、とっとと眠りに付くことにしよう。
10:21 2008/07/02
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