パースペクティヴの転換

                タメキチ と ヨシコシ

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                 意志の強そうなきりりとした眉、甘いコロン、白い肌に散らばる髪の房。
                 「ヨシコシ」
                 名前を呼ぶ。返事はない。
                 「ヨシコシ」
                 もう一度呼ぶ。きっちり結ばれた唇は震えてさえいなかった。
                 「……参ったな」
                 ベッドを取られちまった。今夜俺はどこで寝ればいいんだ?まさか俺が彼女の部屋で寝るわけにもいくまい。
                 「なんで俺の布団で寝てるんだこの娘は」
                 暇をもてあました仲間連中と付き合いで引っ掛けに行って、そのまま風呂に行って、帰ってきたらこんな具合だった。いい心地に気だるくなった身体を放り投げるのを楽しみにしていたのに。
                 ……床で寝……てもやっぱ問題なんだろーなー……
                 きびきび回らない頭をのんべんだらりと振って、ため息をついてドアを開けた。
                 ギギッとドアの錆びた蝶番がいつも通り(この部屋に入ってくる時にもモチロン)鳴った。その音が嫌に大きく聞こえるのは……何故だ。
                 肩越しにちらりと彼女を振り返る。……寝ていた。ほっと一息。
                 「あ」
                 振り返った彼女はベッドに仰向けでスヤスヤ寝息を立てて眠っている。その色気のなさ……いや、無防備さはともかく、服装といえば簡素な寝巻きにカーデガンを羽織っているだけ。このままにしてみすみす風邪を引かせるのも忍びない。
                 「……ヨシコシ、風邪引くぞ」
                 もう一度揺さぶってみたがぴくりともしない。……死んでんじゃねーだろーなー……
                 毛布とシーツを彼女の身体の下から抜き取って、掛けた。スリッパを脱がせて足を整えてベッドに押し込んでから。
                 触った足は細くて頼りなかったがちゃんと温かくて、生きてるらしかった。
                 「――――――――おやすみ」
                 ドアをすり抜けて電気を消し、さてどこで眠るかと思案しながら廊下をてくてくと歩く。
                 今日はいい月だ、たまには表のベンチも悪くないかもしれないな。

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                 「……。」
                 なぜだ。何故彼女は俺のベッドで寝ているのだ。二日続けて。
                 新手の嫌がらせ?何かの抗議か?宗教上の理由?部屋に何か不満でも?そもそもどうやって鍵閉めてる部屋に入ってきてるんだ?取り留めのない謎が頭の中をぐるぐるまわる。
                 とりあえず今日は流石に起こさねばなるまい。そして説教だ、人の部屋に無断で入ってはいけない。
                 「ヨシコシ、ヨシコシ。起きろ、お前の部屋じゃないぞここは」
                 肩をがくがく揺する俺の手がふんわりいい香りを撒き散らしている。……石鹸のにおい……ってことは、風呂入ってきたってことだよな……昨日は香水のにおいがしてたし……
                 今日は昼間一度も顔を合わせなかったから、彼女に舞台があったのかは知らない。俺は買出しのお使いで走り回ってたからな。昨日の疲れを引きずってそのまま仕事ってのはなかなかキツいんだぞ。……いやそれはこの際どうだっていい。
                 問題は彼女だ。
                 相変わらず豪快に仰向けで眠っている。ささやかな寝息も今は憎たらしい。
                 下唇を突き出し、無遠慮な眠れる佳人を睨みながらスツールに腰掛けて膝に肘を立てて背中を丸める。……傍から見たらやっぱ俺が責められるんだろうな、このシチュエーションは。
                 ぼんやり、少し霞む少女の寝顔を見ながら黙っていると、フワフワ頭に何かイメージが降りてくる。
                 遠い昔の記憶のような、いつか読んだ物語の一節のような……思い出せそうで思い出せないヴィジョンが瞼の裏を擽ることは、俺にはよくあって、それに今さら驚いたりはしないけれど。
                 「……まてよ……」
                 目の前の少女、よく見れば……何か、思い出しそうな……
                 「……どこだったかな……いや、確かに……似ている人を、いつか……」
                 記憶のどこかにあるヴィジョンと、目の前の少女に、どこの何か繋がる最後の一手が捕まりそうで捕まらない。よく思い出せ、何か、何か彼女に、ある。どこかで見たことのある……
                 思い出せそうで思い出せないイライラが募って遂に頭痛までしてきた。ただでさえ疲れの溜まっている身体に無理をさせる必要もないか、と、俺は考えるのをやめた。
                 「――――――人の気も知らずにぐーすか寝やがって」
                 ふぅと溜息をついて視線を彼女に戻す。
                 豪快だった寝顔が、いつのまにやらアルカイック・スマイルになっていて、ちょっと笑った。

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                 「あれ」
                 ドアを恐る恐る開けると、果たして今日のベッドは空っぽだった。
                 当然のことなのに、なんだか少し物足りないような気がするのは何故だ。……いや、確かに神様にもうそろそろベンチじゃなくてベッドで寝たいと言付けはしたけどさ。
                 カッターシャツを開襟してベッドに身体を投げ出す。手足が存分に伸ばされていい按配だ。
                 「……。」
                 ぐるりと枕に顔を埋めて、自分でない匂いがするのを確かめると、指の先だとか、肩の後ろの方だとか、背筋の下の方だとかが、ぴりぴりする。じりじり、血が縮まっていくような気分。しばらくその奇妙な感覚を面白がってシーツやら枕に顔を埋めてすんすんやってたら、急に正気に戻った。
                 「……何やってんだ俺は」
                 ヘンタイか。いや違う、何か思い出せそうな。何を思い出そうってんだ。そうでなくて、そのう、あのう、だから、えーっと。
                 ……子供相手に……こりゃあ立派なヘンシツシャだぁ!
                 自分の頭の中の自分が下した無体な判決に俺は頭を抱える。違う、違う、と抗った所でその言い訳は虚しく砕け散るのみ。そりゃちょっと可愛いなとか思うよ!実際可愛いし!でも不味い気がする!あの子に惚れるのは頭がヤバイと警告している!
                 惚れる、という突飛な単語に脳が覚醒したような気がした。
                 「……やばい……歳の差考えろ俺……」
                 「歳の差より自分の状態考えろ俺」
                 「そもそもヨシコシは俺に好意持ってるんじゃねぇって!勘違いするなって!」
                 ああ、真っ青な自分の顔。ああ、巡りまわる自分の脳味噌。ああ、侭ならぬ俺の記憶よ。
                 右も左も分からぬ俺を拾ってくれた善良なメンバー、気風のいい美人(まだ子供だけど)なヨシコシ、安心して眠れるベッド、特に不自由のない生活。何を不安に思う事があるのか。
                 それでも俺はいつも感じている。
                 こんなのはウソッパチで、でたらめで、ニセモノで、ちがうものだと。
                 本当のことを俺は忘れているだけだと。まだここに居る資格が俺にはないのだと。
                 そう心が叫ぶ。
                 苦しい。わけも分からず何処とも分からぬ心だけがいつも悲鳴を上げている。
                 それでも取り留めのない不安にはいつも手が届かず、たまらなく居たたまれない。……俺は、何を忘れているのだろう。
                 誰か、誰か……助けてくれ。

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                 目を覚ますとそこは当然自分の部屋で、見慣れた天井、慣れ親しんだ埃っぽさ、飽き飽きする淀んだ空気。目覚し時計に目をやると、アラームがセットされていないにも拘らずアラームが鳴る5分前。
                 溜息とぼんやりした視界、夢見ごこちの頭の中。
                 今日は機材入れ替えだか何だかでメンバー全員が待ちに待った休息日、皆どこかしらへ出かけるって話を昨日聞いた。俺は当然する事もなし、どこかへ出かけたところであの胸糞の悪いブタマスクを見て腹を立てるのがオチなので留守番だ。
                 恐るべき習慣はさて置いて、もう一眠りだとシーツを手繰り寄せる。
                 ふわりとよい匂いがした。
                 ふむ、石鹸のいいにおいだ。起き抜けに風呂というのも乙な物かもしれないと、再び夢の世界に戻ろうとした俺の頭の中の妖精さんが思い切りホイッスルを吹いた。
                 『睡眠終了!目を覚ませ!』
                 何故だ。俺は眠いのだ。なにしろ今日はいくらでも惰眠を貪っていられる贅沢な日なのだからして……
                 そこまで妖精さんに言い訳した所でハッと息を飲む。
                 石鹸。
                 心臓が跳ねる。そして早鐘のように鼓動がじゃんじゃん鳴って、冷や汗が全身を包むように吹き出していた。
                 ……ぞくぞくぞく……
                 悪寒とも期待とも、興奮とも血の気の引く音とも取れるものが背筋を走った。汗が止まる様子はない。
                 「……ま、さか……な」
                 引き攣る声が砕ける。
                 頭痛、発熱、美味く動かない腕。シーツをゆっくり摘む指がぶるぶる震えていることを笑えない。
                 祈るような気持ちでそっと左目の瞼に込めていた力を抜いて、そこにあるものを見た。
                 倒れそう。
                 気絶したい。
                 こういうのは予想通りというのか?他に何と言えばいいのか誰か俺に教えてくれ。
                 そこには俺の毛布を全部ぶん取ってまるまる天使のよーな悪魔が寝ていた。
                 オウ……ジーザス!……俺が何をしたってんだ!

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                 問答無用。言訳不能。弁解不可。顎を思い切り殴られたようにドアノブに顔を向けると、目の前に粉糠雨でも降っているかのように霞む視界でも確認できる。鍵はかかっていた。
                 『俺は悪くない!何も悪くない!』
                 頭がそう悲鳴を上げ、心拍数が狂ったように高ぶった。どうしよう。どうなっているんだ。どうしてこんなことに!パニックになる俺のことなどお構いなしに、ヨシコシは相も変わらずスピースピーと愛らしい寝息をたて、夢の国から帰還する様子はない。
                 「と、とにかく……」
                 身体をよじりながら上半身を浮かせベッドを降りようとした時、ベッドのコイルだか、パイプの接合部分だかが大きく軋んだ。
                 ぞっとして息を飲む。体が固まる。身動ぎできない。
                 ドキンドキンとうるさく心臓はがなり立て、呼吸をどんどん苦しくした。それはまるで絞首刑に処せられた罪人のように絶望的で惨めな気持ち。だが俺は最後の力を振り絞り、錆び付いた首をようやく彼女の方へ向ける。
                 ヨシコシは、眠っている。
                 心の底から安堵の溜息をついた。もちろん声など出よう隙もないから、細く長く、空気を吐き出すだけだが。
                 腹の奥に眠っていたなんだか得体の知れない大いなるものが寝返りを打っているような気分。どうぞこのまま、つつがなく、穏便に、何事も起こらず……
                 慎重に慎重に、そろりそろりと体の力を制御して、盗人か何かのように細心の注意を払いながらベッドから脱出することに成功した頃には、精神は衰弱して体のあちこちは今まで感じたことも無い筋肉痛でこり固まっていた。
                 「いやはや……眠っている女の子のベッドから抜け出すのがこんなにひでぇ重労働とは。」
                 乱れる呼吸をやっと整え、床にへたり込んだままの俺はベッドの端に腕を置いたまま、迷惑な眠れる佳人に目をやる。
                 化粧気の無いヨシコシのまぶたは健康的な肌の色をしていて、唇にも頬にも首筋にも、元気で明るい真っ赤な血が流れている。彼女がたとえステージの上で風采を変えてもそれはゆっくり巡っている。生きている証明のように。
                 なぜか俺はこの図太いヤドカリ少女が生きていることが無性に嬉しくて……
                 (変なところに感動するな、俺)
                 彼女の握っている毛布をそっと、掠めるような力加減で、なでた。

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                 ふんわり毛布の弾力と、指の先に触れたつるつるの髪の毛の一房から電気ショックのような衝撃が走ったような気がする。ざわざわ泡立つ皮膚感覚と背筋の悪寒が連動していて、どうにも手が離せない。
                 やめろ、俺は一体どうする気だ。眠ってる子どもに何を……
                 毛布からはみ出してベッドからぶらりと垂れている右手に指を滑らせ、絡まった白いシーツをめくり上げる。彼女の右腕はほっそりとしていて、かといって弱々しいとは言いがたい程度には筋肉で締まっていた。
                 俺はもう自分の頭の中にブレーキをかけてくれる奴も無く、その二の腕に手の平を当てて少しだけ力を込めて擦った。きめ細かくて、でも柔らか過ぎない子供と女性の中間の感覚。幸福の感覚。癒されざるを得ない。
                 指の腹で何度もその感覚を楽しんで、何の気なしに唇をつけた。
                 温かくてすべすべしている。柔らかくて、いいにおいだ。
                 ……うまそう。
                 別に本当に取って食おうと思ったわけではない。ないが、なんとなく、他意はなく、その柔肌に歯を立ててみたい欲求に駆られた。染み一つない綺麗な肌に、何故か噛み付きたいという変な衝動が湧き上がって……
                 唇を大きく開けてゆるく、慎重に歯を当てた。
                 口の中に甘いような、苦いような、酸っぱいような、しょっぱいような、不思議な味が広がってゆく。
                 ……ああ、汗と、石鹸の味だ。
                 ぴったりと二の腕に唇を押し当て、その唇の中では剥きたての桃の実を齧るように繊細な力加減で肌に食いつく歯があり、その奥では肌に遠慮するかのようにそっと舌が触れていた。
                 俺はそれをぼんやり頭の中で想像し、楽しみ、そこまでしてハッと気がつく。
                 ――――――何やってんだ!
                 雷鳴に打たれたように急に全身が戦慄して、でも身体は全く動かない。今度は快楽からではなく、恐怖から。
                 ゆっくりゆっくり、力を抜き、慎重に慎重に口を開く。肌に吸い付いてはいなかったから、ただそれだけでさして抵抗もなく肌が自分から離れた。濡れた唇に外気が触れてひやりとする。
                 口から細くキラキラした糸が一本伸び、それがほんの少し周りより濃いピンクに色づいた歯型の残る肌に続いていて、それに気付いて間もなく、伸び切った唾液の橋は消えるように途切れた。
                 それを痺れた頭と歪み揺れる視線で眺めて、自分の顔が如実に紅潮してゆく様を感じていた。何やってんだ、何やってんだ俺!

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                 頭のどこか遠い場所が、最後の力を振り絞ってそんな事を叫んだ。なのに、俺は自分の唾液で光る彼女の歯形に恐る恐る……しかしある種の確信を持ちながら……今一度舌を押し当てて唾液を舐め取った。
                 肌は少し冷たくて、舌先で感じる微かな歯形の凹凸が違和感として頭の中を支配する。
                 ……君はいろんな物に噛み付かれる人生だな……
                 ぼんやり、熱に浮かされたようにそんなよく解らない事を思う頭をそのままに、俺はもう一度彼女の手に触れた。今度はちゃんと、手で。
                 熱を持って赤い自分の手が、しっとりした小さな桃色の手を覆い尽くしてしまう様は何とも言えず物悲しく、なのにどこか力が湧いてくるようにも思え、そして何故だか……安心するのだ。
                 それが眠っている年端も行かない女の子の傍でいい年ぶっこいた大人の男が持つ感想かよ。笑えるぜ。
                 窓にはまだ立て付けの悪い雨戸がギッチリ閉まっていて、その隙間から数本光の帯が床に突き刺さっている。光の帯の中に細かい塵が浮かんでは瞬いていた。
                 あの扉はギッチリと閉じられていて、時々あの光みたいに少し漏れ出るけど、それ以上は押しても引いてもびくともしない。……でも、本当はあの扉が壊れるのが怖いんだ。取っ手を引っ張り過ぎて取れてしまったら?無理に押し開けて雨戸そのものが使い物にならなくなったら?
                 俺はあの雨戸に触れるのが怖い。雨戸の向こうの景色に怯えている。
                 ……何故だ?
                 大切な物を忘れている筈なのに。取り返さなきゃいけないはずなのに。
                 思い出したくない。
                 思い出したらここを離れなくてはいけない。
                 目を閉じて耳を塞いでいれば、ずっと、ここで、たのしく、しあわせに、くらしてゆける。
                 ……はずだ。
                 ヨシコシだって、辛い思いも、悲しい思いも、痛い思いも、しなくて済む。……あの子達みたいに……
                 埃っぽい窓には立て付けの悪い雨戸がギッチリ閉まっていて、その隙間から数本光の帯が床に突き刺さっている。光の帯の中に細かい塵が浮かんでは瞬いて、流れるように舞っていた。
                 ――――――もう少し、もう少しだけ――――――
                 押し込める。あの窓を壊すのは、もう少しだけ先にしよう。ほんの少しだけ、先にしよう。

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                 なにも覚えていない
                 何も分かっちゃいない
                 なにも信じるものがない
                 今自分を取り囲む不安要素、心だけが不安に悲鳴を上げる。別に悲しいわけでもない。混乱が一番ニュアンスとして近い。なのになぜだか無性に胸が押しつぶされそうになる。苦しくて眉を思い切りひそめた顔になる。
                 そんな時は、この子のちょっとつんとした横顔を思い出せば、いい。そしていつものメンバーで酒でも飲んで、ベースを抱えて、それで……今まで乗り越えてこれた。そして多分これからも。
                 眠るヨシコシ、隣でぼんやりそれを眺める俺。
                 女の子の体は規則正しく呼吸を繰り返して、胸は律儀に鼓動と一緒に上下している。
                 生きているのだなぁ、と、ぼんやり思った。触れればやわらかく暖かい。舐めれば汗の味がして、鼻を近づけると石鹸の匂いがするのは、男として鼓動が変になるのとは別に、嬉しかった。何故だか無性に嬉しかった。
                 だからってその鼓動を思う存分直接感じ取りたい欲求がないわけではない。
                 ……だって俺男なんだもん。『自分のベッドで、女の子が、無防備に寝ている』なんて夢のよーなシチュエーションを笑って見過ごせる年頃の男じゃねーんだもん。
                 ため息が出る。そうだ、安い大衆小説のようなこの状況。なのにちっとも……
                 「嬉しくねーのは何故なんだろうかね」
                 まるで裏切られたような気持ち。
                 どこか心がいたたまれない様な。
                 何故彼女がそうするのかも分からない。なのにまるで俺の人格を否定されたかのようにさえ思う。
                 自分の人格さえわからないこの俺が?……笑っちまう。
                 今持っている記憶、昔持っていたはずの記憶。どちらも自分で、どこにも嘘は無いはず。なのに今が失われるのも、昔に何があったか知るのも怖い。見知らぬ嫌なものが掘り起こされ、ようやくしがみ付いている確からしいものをやたらめったら揺さぶられる予感。
                 おれは
                 いったい
                 どうしたいのか

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                 目を覚ますとそこは当然自分の部屋で、見慣れた天井、慣れ親しんだ埃っぽさ、飽き飽きする淀んだ空気。目覚し時計に目をやると、アラームがセットされていないにも拘らずアラームが鳴る5分前。
                 溜息とぼんやりした視界、夢見ごこちの頭の中。
                 「…………。」
                 頭を掻く。
                 昨日、せっかくの休日なのに一日中寝てた様な気がする。
                 まあぁいいか、思う存分ゆっくり寝れたんだし、と毛布とシーツを跳ね除けてドレッサーへ行って鏡に目をやった。
                 『しかえし』
                 サーモンピンクのルージュで引かれたその4文字の隙間に映る自分の顔を見て、もう一度驚いた。
                 「……起きてた、のか」
                 両頬に小さな歯型がくっきり残っている。ここまでバッチリ残ってるって事は、相当強く噛んだに違いない。
                 引き攣る頬と、締まりなく緩んだ口角に自己嫌悪。
                 ああ
                 俺の
                 馬鹿
                 鏡に手を突いて、頭のどこかがまた言った。
                 怯えるな、怖れるな、目を逸らすな。この子を誰が守るんだ?この子の傍に誰が居てやれるんだ?この子の為に何もしてやれないなんて、お前それでも――――――
                 頭がそれ以上言う前に、俺は走っていた。あの、雨戸の前に。
                 俺は深呼吸をして立て付けのクソ悪い雨戸を思い切り蹴り開けた。バン!と砂埃、綿埃、糸埃、その他諸々引き連れて、ボロい雨戸は窓枠ごと向こう側に吹き飛んで生い茂った草の上に落ちる。
                 息が切れて、鼓動が激しく脈打っている。窓の外には雨が降っていて、埃だらけの壊れた雨戸と桟の壊れた窓ガラスに雨粒が降りそそいでいた。
                 「自分がどうしたいか?」
                 そんなもの、ずっと前から決まっている。

                 君を忘れたくない。だから立ち向かってやる。そんだけだ。



                22:44 2008/04/29
                パースペクティヴとは日本語にするなら「観点」といったところ。
                例えば殺人の倫理を例にあげて説明すると【人はなぜ他人を殺してはいけないのか?という問いがある。別に殺したっていいじゃんよー、というのは非常に狭く、近い視点でものを見ているからだ。そこには1対1の関係しか存在しない。視点を広く遠く上げてみると、人を殺してもいいと認める事は社会の崩壊にも繋がるしまた、それは自分も殺していいと宣言している事になる。故に人は他人を殺してはいけない】となる。この例では2つの異なるパースペクティヴにおいて1つの事象を見ている事が判ると思う。途中、視点が変えられているがこれを「パースペクティヴの転換」と言う。

                 


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