ポップとマァムとメルル、それからレオナのはなし
彼女が農作業の手を止めて空を見上げると、ふわふわと年の頃なら20前後の男が浮かんでいた。青年は彼女と目が合ったのを嬉しそうに小さく手を振った。
「……久しぶりね、ポップ」
「おう、二ヶ月ぶりかな」
ゆっくり鳥が舞い降りるような優雅な仕草でポップと呼ばれた青年は彼女の立つ大地に着地する。
「いやいや、こういうときはまず“ただいま”かね?」
思案顔で唸る彼の、ぴったりと前面で合わせて彼の身体を包んでいるマントの下でなにやらもぞもぞと動いているので、彼女はあきれた顔でマントを捲ろうとした。
「今度は男の子?女の子?」
「男の子」
黄金色のマントを捲ると、青年の腰に必死でしがみつく黒髪の男の子がビクッと身体を震わせて彼女から顔を逸らす。
「……こんにちは。お名前は?」
彼女は腰を落としてできるだけ優しく尋ねたが、男の子は顔を背けたまま身動き一つしなかった。
「無理だよ、こいつ口利けないんだ。パプニカの北西で会ったから姫さんのとこにでも預けようと思ったんだが離れなくってよー。
仕方ないから帰ってきた」
その口調がひどく気楽だったので、彼女はムッとして立ち上がり、彼に食って掛かった。
「あんたねー、二ヶ月もここ空けといて言うに事欠いてそのセリフ!?仕方ないから帰ってきた!?よくもまぁそんな言葉が出たものね!!
フラフラ出てったと思ったら半年音沙汰ないなんてことはザラだし、帰ってきたと思ったら労いの言葉もなく!どーゆー神経してんのよあんたは!」
いきり立つ彼女から少しだけ目線を逸らして、きょろきょろと辺りを窺ってマントを男の子の頭から被せ……彼は彼女を抱きしめる。
「ただいま、マァム。お疲れさん」
H
「おかえりポップー!おかえりおかえりおかえりー!!」
「あーもーただいまただいま、わかったから、こら、もう、やめー!疲れてるんだよ俺はー」
「おかえりーおかえりーおみやげはー」
「あるあるある!だからどけー」
ポップにしがみ、纏わり付く子供達を制して、マァムが声を上げる。
「はいはい落ち着いて、そんなにくっ付かなくてもポップは逃げないわよ」
「うそだねー!逃げるよ、捕まえてないと飛んでくよーだ」
ポップの右肩にくっ付いている7歳くらいの男の子の言葉に、マァムが苦笑いをして頭をはたく。
「あたしが捕まえとくから降りなさい、ほら」
ぶーぶー不満を漏らす男の子はそれに仕方なしに従って、それでも視線はポップから離さない。
「大人気ねぇ」
「ここ帰って来るとうるさくて仕方ねぇや」
ため息を付きながらも嬉しそうな顔をしている彼に、マァムは満足げに頷いて台所へ向かう。
「お昼もう食べた?ロールキャベツとパンくらいならあるけど」
「ん、いや、ガキどもは?」
「もう二時越えてるのに食べてないわけないじゃない」
「そか、じゃあもらう」
彼は纏わり付く子供達を体から引き剥がし、やっとテーブルに着く。周りに居る5人の子供達は我先にと同じく席に着き、興味津々で彼の顔を見ている。
「ポップ、その子ここに来る子?」
ツインテールの目がパッチリとした一番年齢の高そうな大人びた女の子が、いまだにポップから離れようとしない男の子を指差して言った。
ポップはその言葉に少し閉口したが、少し間をおいてその女の子ではなく、腕にしがみ付く男の子に向かって言った。
「ここに来るか?」
H
「……そう、目の前でご両親を……」
夜の帳が下り子供達も眠った後、二人はダイニングでコーヒーを飲んでいた。
「弱肉強食で仕方ねえこととは言え、ひでぇ話だよ。遺体があそこまで欠損してたら流石にザオリクでも蘇生は不可能だ」
沈痛な面持ちでポップがテーブルに顔を伏せた。
「俺がもっと早くに見つけてたら助かったかも知れねぇのによ」
「…あんたが見つけたからあの子は助かったんじゃない。……それでいいのよ」
マァムは彼の握られた手に手を重ね、優しくさすった。ポップはそれが有難いとは思ったが、少し悲しくもあった。
「あの子、引き取るんでしょ?これからいっぱい優しくしてあげればいいじゃない。ね?」
「…………ん。」
そうだな、と力なく微笑みながら漏らした言葉がすこし痛々しかったが、マァムはあえてそれを見ないふりをし、話題を変えた。
「それで、ダイの手がかりは見つかったの?」
「……見つかったら取るものもとりあえずすっ飛んでくる約束だろ」
マァムが話を変えた意味を感じ取り、ポップは少しおどけてそう返した。もう一つの約束を知りながら。
「毎回訊ねるのも約束、じゃない。
どこ行ったのかしらねぇ、あたしたちの勇者様は。……ちょっと顔を見せるくらいしたっていいのに」
そういいながらマァムはコーヒーを一口。
「テランにも寄ったんだ。メルルも…元気だったぜ」
目を伏せて彼がそう言うので、彼女は呆れながらため息を付いた。
「あんたまだ気にしてんの?相変わらず気ぃちーさい男ねー。あたし達二人とも納得してるんだからいいじゃない」
そんなことを言いながらも、彼がきちんと全て報告してくれる事に安心もしていた。
故郷テランに帰った占い師メルルのお腹には、今現在子供が居る。
彼の子供だ。
しかしメルルとポップは結婚をしていない。彼は基本的にマァムと暮らしている。だが、マァムもまたポップと婚姻関係にはなかった。
H
マァムは故郷ネイル村に帰り、村から少し離れた場所で孤児を引き取りながら生活している。初めに孤児を引き取ると言い出したのはポップであったが、ダイを探す事をライフワークにしている彼には無理だと自分が請け負う事にした。
「夏にはポップもお父さんかー。こりゃ頑張らなきゃね」
「…………ん。」
しゃんとしなさい、男でしょ!マァムがポップの背中を叩きながら発破をかけたが、ポップは複雑な顔で忍び笑いをしているだけだった。
「やー、実感ないしさ……ほんとにこれでよかったのかなぁって思うし……
俺が好きなのはマァムなのに……メルルは嫌じゃなかったのかなぁ……」
うじうじうじうじとテーブルに突っ伏したまま、ポップが言っても仕方のない事ばかりを繰り返す。
ああもうなんて根性の無い男なんだろ、鬱陶しい。内心イライラしたが、優しい彼らしい愚痴にほんのちょっとホッとする。
「メルルが望んだ事よ。あんたが決めた事よ。あたしが納得した事よ。
メルルの忘れ形見、託されたんだから……しっかりしてよ!残り五年、メルルが天に召されるまで泣き言いわないって誓ったんじゃないの!?」
メルルは死に至る病気を患っている。様々な医者に掛かったが、確立された治療法もなく、残された命の年数しか分からなかった。
ポップは命をかけた戦友の病に対する自分の無力を嘆き悲しみ、何とか力になりたいと言った時に、彼女は仲間が全員の集まるテランの謁見広間で彼に告白した。
私のこの未来を見る能力を残せるように、ポップさんの子供が欲しいです。
それは大層衝撃的な告白であったが、彼は男を見せ、浅く頷き承諾した。
「当たり前だろ、メルルにこんなこと言えるわけねーじゃん。……おれがヘタるのはお前の前だけさ……」
沈んだ声で甘えごとを吐く彼にマァムは一層ムカムカしたが、彼を叱ったり怒ったりするのは違うような気がした。
「お前の前で格好付けるのはもうやめたんだよ、どうせ上手くいかねぇんだから。
弱くてヘタレでダメで……ごめんよ」
H
彼の顔を捕まえ、まぶたを親指で軽く抑える。
「泣かないで。涙見たら殴りそう。
久しぶりに帰ってきたんだから、そんな、あたしに弱いとこばっかり見せないでよ。
弱くてダメなあんたも許してあげるけど、やっぱり強がって意地張ってるポップの方が、ちょっと好き」
それで、メルルは意地張って強がってる彼ばかり見ていてて、弱音吐いてヘタってるポップの方がちょっと好きなんだろうな、とマァムは思った。
「……ごめん」
「あたしあんたのママじゃないわ。
メルルだってあんたの子供じゃないのよ。
だから、そんな……どっちと会ってても苦しいみたいな顔しないで」
自分の言ってることもきっとわがままだ、メルルと同じように。こんな時にダイが居てくれたらきっとポップだって今みたいに辛くないのに。ダイが、ダイが居てくれたら――――――
そこまで考えて、マァムははっとした。
ポップは寂しいのだ。
ダイでしか塞げない穴を抱えていてて、ずっとずっと、寂しいのだ。自分でもメルルでもアバン先生にもマトリフおじさんにも塞げない、穴。心に穴がぽっかり開いている。
――――――嫉妬するわ、ダイ。
「ねぇ……ポップ……あたしと子供、作る?」
彼はその言葉を聞いて、身体を大きく振るわせた。死の呪文のように聞こえたから。
「お、おめぇな!こーゆーときに、そんなことゆうなよ!
これ以上俺がダメになったらどーすんだ、ただでさえ、もう、いっぱいいっぱいなのに!」
心が崩れている時、人間は弱い。
大魔王を倒した男でさえ、こんな風に意図も容易く揺らいでしまう。
彼女は力ずくで自分の手から逃げ出す彼の後姿を見て、メルルも彼がここへ帰ってゆくときに……こんな風に見えるのかしら、と天井を仰いだ。
涙がこぼれそうになったから。
G
「夜中にご挨拶ねぇ。
パプニカの選りすぐられた近衛兵に見つからないなんて、流石は大魔道士サマ、ってところかしら」
天蓋付きのベットの足元に人の気配を感じて、レオナはむくりと起き出す前にそう言った。
「いやいや、カーテン開けずに俺が誰だか分かるんだから賢者さまこそ油断なんねぇよ」
カーテンの向こう側にはいつも羽織っている黄金色のマントもなく、トレードマークの緑のジャケットだけの彼が居たのでまったくしょうのない男だなぁと一人ごちてレオナは頭をかいた。
「マァムに放り出されたの?」
……ほら、油断なんねぇ。
口の中で笑うようにして彼は短くそう呟いたが、顔はちっとも笑ったりしなかった。それを情けなく思う。
「間男なら間に合ってるわ」
「とんでもない、ダイと姫さんを取り合う気はねぇよ」
ひひひ、と引きつり笑いをして彼がカーテンの向こうで肩を揺らす。レオナはそれを見て、あたしとアンタでダイ君を取り合うって言うんだったら絶対に引かない癖に、と鼻を鳴らした。
「諸国漫遊の調子は如何?何か新しい情報でも持ってきてくれたわけ?」
「いや。手がかりなんて無いに等しい。
ただ最近どうもクロコダインのおっさんを見なくてよ。ブラスじっちゃんが言うにはフラッと託もなく出てったらしいからそのうち帰って来るのかも。あとは……そうだな、ラーハルトとヒュンケルの野郎の足取りは全く掴めてねぇ。どこ消えやがったんだか」
流れるような言葉を、まるで咀嚼しないで居るのかのようにどんどん垂れ流す彼のセリフに違和感を覚えたレオナだったが、その違和感は手に取る前に霧散した。
「男の子ってズルイわ。自分ばっかり先に行って……あたしだって男の子に生まれればよかった。
そしたらダイ君にずっと着いて行けたのに。探しにだって行けるのに。…お姫様なんかに生まれるんじゃなかった」
くやしい。最後にそう呟いてレオナは沈黙する。この5年、待って、待って、待って……もう飽きた。罠を張ってもきっと彼は掛からない。会えないという確信だけが日増しに強くなっていく。彼の居ない苦さばっかり身に染みて嫌になる。
どうして帰ってきてくれないの、こんなに待ってるのに。まだあたしキミに言ってないよ、何も、何も……大切な事を一つだって言ってない。
G
「…………姫さん……男だって、置いていかれちゃうんだぜ?」
探しても見つからない絶望だって一緒なんだから、自分を否定するなんて姫さんらしくねぇことすんなよ。ポップは天蓋から垂れ下がるカーテンを開けたりなんかせず、レオナの居るベットからそっぽを向いたまま吐き捨てる。
「一番最初っから一緒に居る俺だって置いていかれたんだから、仕方ねぇよ」
「なに言ってるの、ダイ君に会ったのはあたしが先よ。初めての人間の友達なんだから」
「年季が違わぁ、俺はあの三ヶ月間ほとんど24時間休み無くずーっと一緒にいたんだぞ」
「あら、それで自慢のつもり?あたしなんかダイ君が帰ってきたら一生ずーっと一緒に居られるんだから」
そうよ、一生、一生、もう一秒だって離れないくらい、ずっと一緒にいるんだから。
あまりに彼女が必死な調子で断言するものだから、ポップはああ、そうだ、もちろんだ、俺は一度逃がしたから選手交代といこう、と言葉を細切れにして宥めた。
このところどうも彼女が情緒不安定気味なのは、多分メルルに子供が出来たからだろうな、と思う。時間が無常に過ぎてゆく焦燥は俺だって同じだが……きっと女にゃ、あいつを好きな女には――――――もっともっとすごい重圧なんだろう。
彼女は軽く頭を振り、細く彼に聞こえないようにため息を付いて話題を変えた。
「まぁそれはいいけど、何でマァムに放り出されたの?どーせまた一人で勝手にヘタって弱音ぶちまけて呆れられたんでしょ」
ベットから立ち上がってカーテンを開け放つと、眉を八の字にしたポップが窓と同じ形をした月のスポットライトの中心に立っていた。あれから五年、彼の身長はもうずいぶん前に自分を追い越し、髪形も少し変わった。あのダサいバンダナは元のままだけれど。
「やだねぇ、女ってどうしてこう鋭いんだろ」
「男が鈍感なだけよ。特にアンタが」
「俺は姫さんの前でもそんなに情けないか?これでもあんたの前じゃ一生懸命特に意地張ってるつもりなんだがね」
分かるわよ、鏡の前のあたしと同じ顔してるんだもの。
彼女がそういいながらテーブルに腰掛け頬杖を付き、窓の外の景色に視線を這わした。周りに気を使ってばっかりで消耗してて、逃げ出せない顔。あたしは国、あんたは女と子供。身に余る重量背負ってるって条件は同じよね。
G
「そんでほんとは、そんなモン投げ出してダイを探しに行きたいってのも同じだわな」
そうそう、そんなこと言ったって絶対に投げ出さないくせにね。あたしたちは無いものねだりと理想論、それから威勢のいい事ばっかり出る口に困ってる共犯者ってとこかしら。レオナがくくくっと嘲笑にも似た笑い声を上げた。
夜風がカーテンを弄ぶ。何度もくるくると清潔な白い薄絹が翻って微かにハタハタと音を立てている。
「ねえ、マァムを…メルルを……捨てないでね」
視線を外したままぽそりとこぼした彼女の言葉を彼が拾う間もなく、レオナはさらに続けた。
「みんなを捨てないでね。あたしも捨てないから、絶対、あんたたちを捨てたりしないから……お願い、もうこれ以上誰も居なくならないで……お願い……」
ポップはぎくりと固まったまま、身じろぎすらしなかった。呼吸も止まり、ただ心臓の鼓動だけが早鐘のように脈打っている。
「知ってるのよ、最近、隠れて禁呪の研究してること。魔界に通じる穴を開けるつもりでしょ?
そうよね、こんなに世界中探し回っても見つからないんだから、推論は当然地上に居ないかも知れないってとこに行き着くべきだわ」
だからみんなの目の前でメルルの告白受けといて、いざ子供ができた時にあんなに取り乱したんでしょ。あんたのつまらない企みは全部分かってるのよ、そんな風にレオナがどうでもいい口調で言うので、彼はぐっと俯いた。
「あたしは投げ出さない。ここに居て待つ。苦しいけど、そうしなきゃいけないような気がするの。ここで待つことがあたしの使命なんだわ。
ダイ君が帰ってきたときにここに居て迎えてあげる事が一番いいことだと思うの……思いたいの……だから、あたしの心を崩さないで……決心が揺らいじゃうじゃない……」
はらはらと、あの負けん気の強いレオナが涙を零していた。俯き加減でもそのことが肌に刺さるようにポップには理解でき、彼はますます俯いてしまう。
「もしかしてもう二度と会えないかも知れないけど……待つってあたしが決めたのに……横からくだらないチャチャ入れないでよ。あたしあんた達が思ってるほど意思強くないんだから」
ダイの元に行きたい。ダイに会いたい。元気なことを確かめたい。この身がどうなってもそれだけ確認できたら、いっそ死んだっていい。
G
その思いは二人とも同じだった。身が焦げそうなほど――――――強く毎日願っている。
「メルルだって知ってる。だからあんたを引き止めようと思ってあんな……」
「黙れ」
「……子供が出来たのよ、あんたは父親なの」
「黙れよ」
「もうこの世界から逃げられないんだから」
「…黙っ…頼む…」
「観念して、ここに居て頂戴」
分かってるよ、分かってる、分かってるのに、体がいうこときかない。今だってこの窓を飛び出して探しに行きたいんだよ、あんたと同じようにもう二度と戻れなくたっていいと思ってる。ポップは必死で歯の裏にまで出掛かったその言葉を押さえ込み、半ば叫ぶように掠れた声で言った。
「俺は!マァムと家庭持って!ささやかでも人の役に立って!実家継いで!アバン先生とマトリフ師匠の幸せな最後を見取るのが夢なんだよ!だから!だから……」
魔界なんか、行かねぇよ、行くわけねぇだろ、馬鹿だな姫さん、そんな危ないことするわけねぇじゃん、馬鹿だな、ほんと、何を突拍子も無い事を。くだらねぇな、本当に、ツマんねぇ空想だ。
そのセリフはほとんど怒鳴り声だった。まるで自分に言い聞かせるかのような怒鳴り声。
「ったく、誰も俺を甘やかしてくんねんだから、よく出来た女共だよ。みんなで俺を追い詰めやがって…ほんと……なんてひでぇ奴らだ」
大きく深いため息を付いて、ポップがこれ以上ないくらいの苦笑いをした。
「当たり前じゃない。
一応、この地上で唯一大魔王と張り合った世界最強の人間なんだから。一度甘やかしたら手が付けらんないのよ」
ふん、と鼻で笑いながら、レオナもようやく一息付いた。
「……一応、な。」
相変わらずの手厳しい彼女の批評に厭きれたポップだったが、彼女らしい調子に安心した。
「もし本当に行くのなら、あたしにだけは黙って行かないで。絶対、一緒に連れてって。じゃなきゃマァムとメルルにあたしの寝室に夜中音もなく忍んで来るってバラしてやるから」
こわー、と大げさに身震いしながらポップが窓辺に身を翻す。
「分かった、行くなら一緒に。」
G
そのセリフを残して、彼は月明かりの届かぬ闇に溶けて消えた。レオナは彼の消えた窓辺に立ち、しばらく月明かりを眺めていたが……ため息を付いて窓を閉める。
この窓の鍵はダイ君用に開けてるのにすっかりポップ君の専用出入り口になっちゃったわね。
カーテンを握り締め、気付く間もなく涙が頬を伝った。
ダイ君、あたし、毎日身体キレイにしてる。髪形はちょっと変わっちゃったけど、あの時のまま……ずっと待ってるのよ。背も高くなって、胸だっておっきくなったけど…なにも変わってない。
なのに男の子はどんどん変わって行っちゃう。ポップ君を見た?あんなに頼りなかったへっぽこ魔法使いクンが、あたしもビックリするくらい男の顔になっちゃって。あたしの弱さだって受け止められるくらい強くなったんだよ。
ずるいじゃない……ずるいでしょ?あたしも連れてってよ。ねぇ。
「迎えに来てよ!あたしあれから強くなったの!ポップ君には敵わないけどベホマだってもう完璧なのよ!……絶対に、絶対に足手まといになんかならないから……おねがい……連れてって……」
ガラス越しに射す月光が、降り落ちてゆく銀色の雫をきらきらと輝かせたが、レオナはその美しさなど全く意に介さなかった。がくがく振るえる自分の体が止まらない。
「あたしまだ、ダイ君に、好き…言ってな……っ」
わあああ、とその場に崩れ去るようにして大声を出して彼女は床にへたり込んだ。ぼたぼたと、流れるというよりは撒き散らすという表現が似合うほどの大粒の涙をネグリジェに降らせながら。
一年目はひどかった、二年目に気を取り直して、三年目にため息付いて、四年目に絶望した。そして五年目。もう我慢なんか出来ない。あたしこんなに弱かったっけ?こんなに、ダメな女だったっけ?
レオナは自分が必死で突っ張っている事に自信がなくなっていた。人の上に立ち、平気よ、大丈夫、心配ないわと言い続ける苦悩。自分が一番懐疑的でいても続く職務。たまらない。
あたしまだ19にもなってないのに未亡人?やだよ、こんなの、あたし、やだ。
一気に噴き出した今までで貯め抜いていた子供っぽい感情が暴走する。
吹き荒べ醜悪なエゴイズム、思うさま暴れ狂うがいい。ひどい嵐、でも身を任せるとなんて気持ちいいんだろう。
「好きなの、大好き、ダイ君となら魔界でもどこでも平気」
その空々しく響く自分の言葉にレオナはさらに泣いた。
ハウリングする自分の泣き声が、まるで伝わることのない言葉を嘲っているようだと思った。
K
手をつなぎましょう、と彼女は言った。
怖いから、手を、手をつないでいてください。離さないで、お願い。
片手は背中に、片手はぶら垂れた左手に。細くて冷たい柔らかな手。筋肉が少なくて頼りない腕が自分の身体に回されていて、変な感じ、と思った。いつも身体に回されるのは筋肉質で、別に太くはないけど、無駄な肉の一切付いてない均整の取れた腕だから。
「……うん。離さない」
手を握り締めて体を埋める。ゆっくり、ゆっくり、確かめるみたいに。
苦痛に歪む彼女の顔が目を閉じて浮かぶ間は、マァムとはとてもじゃないけど出来なかった。悪いとか後ろめたいとかそんなんじゃなくて、もう、なんというか。吐き気さえする。
自分の短絡的な行動に嫌悪感が立たなくなるまで、7ヶ月半掛かった。今でもすこし、マァムを抱く時に思い出してしまうのがもっと嫌だ。
俺は彼女を愛していたか?
――――――もちろん。
世界中の誰よりも?
――――――いいや…。
何万回と繰り返される問答に毎回苦虫を噛み潰したようにしかめっ面をする癖にも慣れた。
「……ごめんな、頼りない父ちゃんでさ……まだ自信ない…決められねんだ……どうしたらいい?なぁ、どうしたらダイを諦められる?」
まるで恋みたいじゃねぇかよ、なんて一笑した。限りない飢餓感、助けられなかった無力感。そんなもん抱えたままで俺が親父になるんだってさ、笑えるだろ、ダイ。まったく、信じられねぇよ。この俺が、親父だって。
ジャケットが矢のように空を翔るポップの耳元でバタバタと啼いている。うるさい風の音が思考を止めてくれる様な気がして、彼はもっとスピードを上げた。
ここに居たい、身重のメルルの、多忙なマァムの傍に、美しく平和な地上にいつまでも。
……でも、ダイ、お前が、お前が姫さんの隣で笑ってなきゃそれだって意味ねぇよ……
俺をここに引き止めるだけに生まれる子供なんてかわいそうだろ、そんなの、ねえじゃねぇか。ひでぇだろ、そんな人生ねぇじゃねえかよ!そんでその母親は、そのまま望む愛も受けられず死んじまうんだぜ!
「……クソッタレ!クソッタレ!クソッタレ!!」
H
うつらうつらとマァムは玄関先にすえつけてあるベンチに腰掛けて船を漕いでいた。黄色いショールを身体に巻きつけ、こっくりこっくり体が揺れている。
ポップはそれを見つけてすこし眺めていたが、マァムの体が殊更大きく揺れた時、とっさにその身体を支えた。
「っ!?……あ、なんだ、早かったわね」
驚いた顔を隠すように平静を装ってマァムはにこりと笑った。
「夜も遅いから心配したのよ。マントもなーんにも持って行かなかったでしょ」
帰って来ると思ってたから待ってたの。早く中に入って寝ましょう。彼女がそう言って家の中へ引っ込もうとするので、ポップはその腕を掴み、呪文を唱える。
「えっちょっ…やだっ!どこ行くのよぉぉ!!」
舞い上がる身体と逆方向に舞う黄色いショールが急激にその場に置いていかれる。いつの間にか腰をしっかりと抱かれていて、頬を叩く闇の風に吹かれながら高速で飛んでいた。
「もう、馬鹿、ドアの鍵開けっ放しなのに、ちょっと、なんなの、こらポップ!返事を……」
そこまで言ってマァムは口をつぐんだ。ポップの顔があまりに鋭く前を睨んでいたから。
……そんな顔しないで……五年前みたいな顔、もう見たくないのに……
何もかも睨むみたいに、荒れていた五年前。自分の無力に我を忘れるほど怒り狂っていた五年前のポップ。マァムはその顔に頬を寄せて何も言わずにキスをした。
どうしたの、何があったの、どうして肝心な事は何も言ってくれないの。そんな言葉が頭を何度も過ぎったが彼女は一切何も言わなかった。ただ彼を抱きしめてキスをするだけ。
そのキスを無言で受けていたポップの顔が、ゆっくりゆっくり落ち着きながら柔らかい表情を取り戻していく。
――――――ああ、やっぱ、俺ぁ……コイツじゃなきゃダメだ……
マァムを連れて向おうとしていた先を変え、ポップは大きな弧を描いて少し戻り、小さな滝のある場所でようやく地に足をつけた。
「……ここ……」
「覚えてるか?俺が……お前、襲った場所」
ばつが悪そうに彼はそう言って、マァムに向き直る。
「……覚えてるわよ。背中が痛かったのだって……思い出せる」
滝を見て、まだあったなんてね、と彼女が目を伏せながら呟いたのが合図だった。
I
「本当は言わないつもりだったけど、言うよ。もう、言う。
俺はダイを探しに魔界へ行こうと思ってる。……多分、帰れない確率のほうがずっと高い。禁呪を数回試した。恐らく師匠より寿命が短いと思う。
姫さんも連れて行くつもりだ。もう、俺たち二人には後がないんだよ。姫さんも、もう正気を保てなくなってる。最後のチャンスなんだ。……どうか……許して欲しい」
固い声でポップがそう言い終わった時、マァムは沈痛な表情のままそう、と呟いた。
「風のうわさで聞いたの。ヒュンケルもクロコダインもラーハルトも居なくなったんですってね。……きっとみんなダイのところへ行ったんだわ。
その場所が魔界なんでしょう」
問いかける言葉ですらなくなった独り言を止め、マァムは彼の体を抱く。
「いいの……いいのよ、もう、我慢しなくたって……
けど、約束して。メルルの子供が生まれるまでは行かないって、メルルが逝くまでは……ここに、お願い……」
彼女の事を愛してるんでしょう?だったら、お願いだから。押し殺す涙声でマァムが彼の胸に言葉を残す。
「俺……いや“おれ”は…メルルをお前ほど愛してない。けど、やっぱり……心のどっかで好きなんだと思う。卑怯でホントやな奴だと自分でも思うけど…ほっとけないんだよ。二股だろうなって思うし、否定もしない。これが罪なら喜んで裁かれる。どんな罰だって感謝しながら受けるよ。
だから……無理を承知で頼む……子供を見ないまま行かせてくれ。“おれ”は意志が弱いだろう?見ちゃったら、多分、行けない。そんで一生後悔する。一生、一生、死ぬより後悔する」
固さの変わらぬ彼の言葉を理解した時、マァムが動いた。
「……変わってない、全然成長してないじゃないの、ポップ。」
ガン、と厳しい声でマァムが言い放ちながらポップの顔を拳で殴った。そういえばこの場所では彼を殴ってばかりだ、と冷静な心のどこかが笑う。
「辛い事から逃げてばっかり。嫌な現実から目を背けてばっかり。
あたしの知ってるポップはそんな腰抜けじゃないわ。必死で食い下がって、不可能を可能にしちゃう勇気の使徒なんだから!
アンタなんかポップじゃないわ!アンタなんか、大っ嫌い!」
思い切り叫んだ。声が滝の音にかき消されてしまわないように、全身全霊で。
I
返して、あたしのポップを返して!ここであたしのこと無理やり抱いた、強引で優しい彼をあたしに返してよ!
返して、返して、あたしのポップを今すぐ返して。俯き、地面にかなりき声で涙と共に彼女が何度も叫びをぶつける。叩きつける。殴るように、叱るように、怒り狂いながら。
「もう、あの時の……お前の事だけ考えてたら世界だって救えると思ってた頭の悪いクソガキはもう居ねぇんだよ。今お前の目の前に居るのは、使徒も親父も魔道士もやめた単なるワガママなクズ野郎だ。
……すまん」
闇の中に広げられた言葉がマァムをどうしようもなく絶望させた。溢れる前に涙が流れる。止め処なく熱い雫が頬を伝う。
「謝らないで、アンタに、謝られる筋合いなんてないわ。
あたしに謝っていいのはポップだけよ。アンタなんか、知らない」
振るえる唇を無理やり動かして言えたのはそこまでだった。マァムはその場に全身の力を使い果たしたかのようにへたり込み、ぐったりと動かなくなった。
「……俺はこのまま行く。明日の朝には姫さん共々お前の大嫌いな男は消える。
だから、もう、泣かないでくれ。……地上で最後に見るのがマァムの泣き顔なんて……俺ぁ…たまんねぇよ……」
これ以上の傲慢もないものだ、と彼は自分のセリフの自分勝手さに大層辟易したが、ただ本心だけをつむいだ。最後に嘘を残して行くのが躊躇われたのだろうか。
「自分の子供を宿してるメルルのことより愛してるあたしを捨てていくの?
もう二度と戻れない場所に、居ないかもしれないダイを探しに行くの?
そんなのあたしに許せって言うの?
ポップが居ないあの家であたしに生きていけって言うの?
なんて身勝手、最低だわ、こんな男に惚れてたのかと思うと虫唾が走るわよ。
あたしアンタを一生許さない。
アンタなんか大嫌い。魔界でもどこでも行って勝手に野垂れ死ねばいいわ、その死体はきっと魔界の大烏がしかめっ面で啄ばんでくれるでしょうよ」
マァムが罵詈雑言を吐き捨てながら怒りで力漲った表情をして立ち上がり、ポップに口付けた。
I
「慈愛の使徒は今死んだ。ここに居るのは嫉妬と憎悪に駆られた鬼女よ。
お前の一番引き裂かれて苦しい脆い心を泥だらけの汚いブーツで踏み潰してあげる。
今ここであたしを抱きなさい。昔、恋焦がれた女を犯したみたいに日が昇るまで何度も抱きなさい。
今度は忘れてなんかやるもんか、一生、一生、お前の苦痛に歪む顔を肴にして毎晩舌なめずりしながら笑い声を上げてやる。気狂うお前の顔をいくらでも思いついて腹を抱えて転げてやる」
それは狂気ではなかった。
まごうことなき確かな正気。彼女の優しかった目はまるで鬼岩城の紋章のように吊りあがり、その口から出てくるのは聞くに堪えない汚言ばかり。しかしポップはそんな彼女から目を逸らしたりなどしなかったし、耳を塞ぐ事もなかった。
「分かった」
ただそれだけを言い、ジャケットに手を掛けてジッパーを下ろす。規則正しく動く手が月明かりに照らされて鈍く光っていた。
「さあ、好きにしてくれ。」
まるでこのまま殺せと言わんばかりに無防備な裸体を晒して彼が落ち着いた声で言った。その声が少しも震えたりしていなくて、それどころか今までマァムが聞いたどのセリフよりも優しい口調だったことが、さらに彼女をどん底へ叩き落す。
「……いい度胸ね、さすがは腐っても勇気の使徒サマだわ」
頬を叩き、その乾いた音が治まらぬうちに彼を地面に引き倒す。いかに大魔道士といえど肉体的には普通の人間と強度はそれほど変わらない。武道家たるマァムが懐に入れば、喉仏を砕かれて呪文も唱えぬまま死ぬだろう。
すげぇ、息を整えるヒマさえないな……おっそろしいスピードだ。
ずきずき軋む頭の痛みに耐えながらゆっくり目を開くと、虫けらでも見下すようなマァムがスカートを持ち上げ下着を引きちぎっている。
「そら、自分で性器を扱いて立てなさい」
冷たくそう彼女が言ったので、彼はそれに従い下半身に垂れるそれを握り、軽く上下に擦る。次第に硬度を増してゆくそれを冷めた目で見つめていた彼女は言う。
「ふん、よくもこんな状況で立てられるもんだわ」
I
まるで潤滑していないそこに自分の身体が埋まって行くのを、彼は痺れた頭で見ていた。無理に動く彼女が引きつった顔で自分を睨んでいる。すこしも楽しくなさそうに。
「ポップと暮らして5年、一度も子供が出来ないのは不妊薬を飲んでるからよ。ダイが居ないのにあたし達だけ幸福になっちゃいけないような気がしたから。
ダイが帰ってきたらポップにあたしからプロポーズするつもりだった。ふつつかな女ですけど、どうぞ末永くよろしくってね。フラれても良かったの、メルルの方が俺には必要だって言われたって良かった。
……ホントはそう言って欲しかった、彼女を、心から愛してるんだって、あたしじゃ太刀打ちできないって――――――でももういい。そんなセリフ聞いたら今すぐあんたを殺す」
彼女は身体の一点に集中する痛みを無視するかのごとくに身体を動かしている。彼の身体の上で弾んでいる。
「たくさん出してね、あの家に子供がまた一人増えるわ、その手に抱きたいでしょう?でもアンタは魔界へ行くのよね。
あははは、いい気味。お前になんか抱かしてやるもんか、あたしとポップの子供、抱かしてやるものか」
よほど堪えていたのか、大粒の涙がぼろっと大きな瞳から流れ出た。
「メルルは優しくて家庭的でいい子よ、あんないい子をフッてがさつですぐ暴力ふるうあたしなんかと一緒に暮らして、アンタ馬鹿じゃない?
恥ずかしくないの、子供だって居るのに一度でもメルルの家に泊まった事ないじゃない。メルルと寝た日だって夜中に帰ってきてたわよね、知ってるの、全部、知ってる。
なんて男だろうって思ったわ、こんなひどい男が帰ってきて嬉しかったもっとひどい女の方が好きだって言うんだから気が狂ってんじゃないかしら」
胸に涙が降る。しとしとと涙が途切れることなく降っている。
自分と彼女の胸に降る暖かい雫を見つめながら、ポップはぼんやりマァムの声を聞いている。これはきっと彼女の懺悔なのだと思うから。
偽悪的に次々と繰り出す言葉の端々にある自分を引きとめようとしている感情が透けて見えても、心を落ち着けて彼はじっと耐えている。
二回目の最後のセックスは、一回目とは逆に強烈なレイプであった。彼はマァムに犯され、日が昇るまで実に七度絶頂に至った。
K
日が昇る。山の稜線が輝いている。
「……帰って来る、マァムの元に、ダイを連れて、必ず、戻ってくる」
「……………………」
服を正し、背中越しにそんな言葉を掛ける。彼女は動かない。虚ろな目をしてぐったりと岩に腰掛けているだけだ。
「……アンタを信じたっていつもろくな事がない……」
ぼそぼそとかすれる声で聞き取れないような独り言を口の中で言うマァムはゆっくり目を閉じた。
「俺……“おれ”、マァムのことが好きだ。大好きだ。愛してる。他の誰より、愛してる。
この五年間ほんとに幸せだった。お前と暮らせて、幸せだった。毎日お前の元に居ればよかった。一日だって離れないで居ればよかった……
帰ってきたら……きっと毎日べったり鬱陶しいほどお前の隣に居るよ」
「……どうせ帰ってこないくせに……」
「――――――――――――メルルに言付けを。
悪い男で済まなかった、子供をよろしく頼む。名前は好きに付けてやってくれ……平和を喜び、人を愛する優しい名前を。……愛してる」
彼は言い終わるとふわり宙に浮かび、二度と振り返ることなく疾風のように朝日の中に消えた。
「……最初からそう言いなさいよ、馬鹿」
言葉が唇の外に出た途端、マァムは声を上げて泣いた。
息を吸い込み思い切り声をあげてしゃくり上げる息が途切れて呼吸が出来なくても。
どうしてあたしの愛する男はみんな不幸になるんだろ、みんな死に急ぐんだろ、せっかく平和になったのに、せっかく平和を勝ち取ったのに、こんなんじゃ意味ないわよ、どうして、どうして。
身体が震える。
今の今まで慈しむみたいな彼の指が滑っていた肌が、血が噴き出しそうに痛んだ。
「行かないで、あたしのこと一人にしないで、あんたが、ポップがいなきゃ、あたし、ダメなの、だめなの……行かないで、いかないでよぉ……」
マァムが泣き崩れながら叫ぶ声を、全てを見ていた滝が哀れむかのようにかき消した。
「あんたなんか嫌い、キライ、だいきらい!」
&
雨が降る。
地に冷たい雨が注がれる。
風が吹く。
草原を駆ける風が抜ける。
雪が降る。
倒れた樹木にも皆平等に。
日が昇る。
人の営みを司る光の女神。
毎日、毎日、変わりなく、全ての事象は時間というモンスターに襲われる。
全ての人間が平等に、それに浸食され、過去を少しずつ失ってゆく。
英雄の冒険譚が神格化された伝説になることすら止める事は出来ない。
人は老い、物は壊れ、永遠というものがないことを知る。
だが消え去る事を恐れてはならない。失われるものを嘆いてはならない。
そんなことをしていては目の前に萌えいずる若葉を見失い、一番素晴らしいものに気付けない。
さあ目を開け、足を前に出せ、お前の手は動く。
例え鼻先に広がる闇が全てを覆っても、闇ある限り必ず光もある。
伝説の中の勇者がたった一人と一匹の仲間を連れて大海原に漕ぎ出したように。
雑念を振り払え若き勇者。
今こそお前の未来を切り開く時だ。
「――――――今こそお前の未来を切り開く時……か。」
少年はロマンチックでセンチメンタルな言葉の並ぶ本を力なく閉じ、同じように目を瞑る。
「おれに未来なんてねぇよ、この先進んだって光もねぇ。……あるのは憂鬱でクソッタレなひどいメロウだけさ」
母さん…おれは行くよ、母さんの時代から続く反吐の塊みてぇなクソ親父の物語に終止符を打ちに行くんだ。二人の女を捨てて自分だけの人生を勝手に謳歌してやがるあのクソッタレを殴りに行くんだ。
「……母さん、あんたの愛して止まなかった男を殴る息子を許してくれるかい?」
ポップという男が地上から消えて、15年の月日が流れていた。
M
自分の蔵書に埋もれて術の解説書に辞書とノートを片手にかじりついている少年に向って、マトリフは静かに切り出す。
「リュウ、外道にゃなんにもねぇ。禁呪はずっと昔にオレが全部さらったがアバンを助けられるようなもん一欠けらだって無かった。外道ってのはおまえみてぇなガキが覗いて済むような世界じゃねぇんだよ。」
その気配に初めから気付いていたのか、少年はちょっと解説書から目線を外して彼を一瞥しただけで何も言葉を発しなかった。その様子が予想済みかのように固い表情を全く変えずにマトリフはもう一度言った。
「いいかリュウ、おめぇは平和の使途として生まれた時から正義の金看板背負ってんだ。アバンやダイ、おめえのクソ親父がやっとの思いで手に入れたもんを軽々しく扱うな。だいたい平和を求める奴が外道で手に入れた力で勇者様を救っていいと思ってんのか?」
鋭い眼光で睨まれた少年はそれでも体勢を変えようとはせずに、ただ口の端を持ち上げて笑った。
「……やだねぇ師匠、この臆病者がそんなおっかねー魔法に手ぇ出すワケねーじゃん。そろそろモウロクかい?」
クソ親父と一緒でおれは腰抜け野郎なのさ。少年は言いながら本を閉じてノートを隠すようにカバンの中に手早く仕舞った。その様子を咎めようともせずにマトリフは続ける。
「お前のクソ親父もたいがいの天才だったが、お前さんはその上を行く頭を持ってる。未来を見通す能力だってあるんだ、そんなものを軽々しく扱うことの恐ろしさなんか言われなくても分かるだろう?」
“禁呪”とラベリングされているケースに解説書を収め、棚に戻す少年は少しの間身動きを止めたが、まるで意に介さぬといった風に身支度を済ませた。
「へいへい、分かってるよ、師匠。今日はフライの誕生日なんだ、目出度い日にお説教は無粋だぜ」
身体の側をすり抜けながらリュウと呼ばれた少年が部屋の外に身を躍らせる。
「お前はおれと違って親や兄弟、仲間だって大勢居るんだ。そいつらに泣かれるなよ」
捨て台詞のようなそっけなさで彼の背中にそれだけ言うと、背中越しに少年が手を振る。
「心配ねぇって。おれも女は泣かさねぇ主義だから」
「――――――クソガキ、そういう奴が一番泣かすんだよ」
H
「まさかあんたの誕生日に逝く羽目になるとはねぇ。あたしもヤキが回ったものだわ」
ぐったりとベッドに横たわる彼女を見つめる8人分の目玉は、彼女の挙動の全てを記憶するかのように一つたりとも微動だにしない。
「ごめんなさいね、フライ。あたしいいお母さんじゃなかった……心配ばかりかけたわね」
そんなことない母さん、あたしはずっと幸せだった。毎日毎日、とても幸せだったわ。彼女の手を握りながら、14・5歳の彼女に良く似た女の子がぽろぽろと涙を流しながらそう言う。
「アンナ、あなたが一人目だったわ。ポップがリンガイアの森で出会った時にはまだほんの小さな子供だったのに……今、もう赤ちゃんが居るなんて不思議ね。影に日向によく支えてくれたわ。」
「いいえ母さん、私こそ母さんに勇気を貰ったわ。ポップには、優しさを。」
「ロラン、フラン。あなた達兄弟はロモスの北西の泉で倒れていたのをポップと二人で見つけた。正直二人とももうダメだと思ったけどこんなに元気に育ってくれて……あたしの誇りよ」
「母さん…おれ…ポップみたいな素晴らしい魔法使いに、きっとなるよ。約束する」
「おれは魔法は使えないけど、たくさん勉強して王宮に採り上げてもらえるような学者に。必ず」
「エレノア、あなたがここに来たのは4歳の時だったわね。今でも覚えてるわ。嵐の日にここのドアを叩いたのよ。あたしに武道を教えてください、強くなりたいのってね」
「ええ、ええそうよ母さん。父をモンスターに殺された復讐に狂ったあたしを毎日抱き締めていてくれたわ。だからあたし真人間に戻れたのよ」
「キュロス。あんたには本当に苦労させられた。ちっとも懐いてくれなくて、ポップが居なくなって荒れちゃってね……ごめんなさい、引き止められなくて……」
「いいんだ、いいんだよ母さん。おれ馬鹿だった……ひどい言葉をたくさん言ったね。今でも本当に後悔してる。一番辛かったのは母さんなのに……ごめん、母さんごめん……」
「……ステフ。ついにあなたはたった一日しかポップと一緒に居られなかったわ。やっぱり命がけででも引き止めるべきだったっていまだに後悔してるのよ……馬鹿ね、止められるわけないのに」
「……………………。」
青年は軽く頭を横に振り、目を閉じて母の張りのない手に口付けをする。
「リュウ……お前は本当に頭のいい子だわ。メルル母さんに似て本当に優しい子。一度だってあたしの手を煩わせた事はなかった。……本当はもっと甘えて欲しかったのよ」
「……おれも、マァム母さんに甘えたかった……けど、甘えたら、おれ、すんげえ甘ったれになりそうで怖かったんだ。……歯止め、利きそうもないから」
H
そしてゆっくりと全員を見渡し、彼女は更にゆっくりと切り出す。
「……ステフ。あなたは本当に剣の鍛錬を良く頑張ったわ。あたしの古い友人に剣の達人が居たけれどもまるで彼と見間違わんばかりよ。
フライ。エレノアと一緒に毎日武道の稽古に明け暮れて、そのうえ僧侶呪文までマスターしてしまった。大魔王と戦った頃のあたしよりきっと強いわ。
リュウ、あなた本物の天才よ。マトリフおじさんも認めるほどのね。ほとんど全ての魔法を会得している。……禁呪、も。」
名を呼ばれた三人はぎくりと固まり、沈黙。その様子を満足げに見回し、彼女は言う。
「でもお願い。魔界になんか行かないで。あそこはあたしの大切な人を全て飲み込んでいった地獄なの。もう、あそこにあたしの知ってる人が向うのは耐えられない。しかもそれがあたしの子供達なんてもっと許さないわ。
約束して頂戴、絶対に、行かないって。母さんの最後のお願いよ。……おねがい」
そう言う彼女の顔は微笑んでいた。まるで言ったって仕方が無いことを悟っているかのように。
三人はそれに応えるかのように同時に浅く頷く。その様子に彼女は諦めたように笑った。
「フフ…嘘つきの顔が並んでるわ。
帰って来るって言ったポップと同じ顔をしてる。……行くんでしょ、どうせ。
いいわ、好きになさい。もう引き止めて後悔するのは止めにする。思う限りやってらっしゃい。でも……必ず戻ってきて。それだけは嘘を付かないで。お願いよ」
そう言うと、深くため息を付くように深呼吸をした彼女は目を閉じた。
「彼達に……ダイやレオナ、ヒュンケル、クロコダイン、ラーハルトに会えたら伝えて頂戴。最後まで待てなくてごめんなさいって。
――――――もし、彼に……ポップに会うことがあったら……思い切り頬を叩いて、嘘つき、って言ってやって。
それから――――――――――――」
微かに唇が動き、声なき声が引きつるようにして途切れ途切れになって、彼女は動かなくなった。
誰も声を上げては泣かなかった。誰も何も言わなかった。
8人は沈痛な面持ちで一人一人胸の前で十字を切り、祈りの言葉を思った。
“いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う彼の人にあれ”
M
……そうか、逝ったか。くだらねぇジジイばかりが残って、若い連中は皆逝っちまう。長生きなんざするもんじゃねぇ。マトリフはそう言って全くくだらねぇ、ともう一度苦々しげに吐き捨てた。
「約束どおり、母さんの葬儀が済み次第おれ達はデルムリン島の魔窟を通って魔界へ行く。」
「……師匠の言うことも聞けねぇバカは破門だ。もう二度とこの洞窟に足を踏み込む事はゆるさねぇ」
ずるずると重い足取りを引きずって、マトリフが宝箱に掛かってある布を取り去った。
「餞別にくれてやる。お前ら三人分の装備だ。この地上で考えうる限り最高の素材を使ってある。マジックアイテムもオレとアバンが趣向を凝らしたモンばっかりだ」
深々と三人は頭を下げ、流れる涙を彼に気付かれぬようにさっと拭った。
「ケツの青いクソガキ共だが、オレのトコに最初に来た時のお前らのクソ親父よかマシに育てたつもりだ。
オレがもうちっとシャンとしてたらぶん殴ってでも止めるんだがな……さぁオレの気が変わらぬうちにとっとと出て行け。」
シッシ、とまるで犬でも追い払うかのように手を振り、マトリフはソファに横たわって目を閉じた。頭の中には様々な思い出が過ぎったが、彼は何も言わなかった。
三人は黙って部屋から出てゆき、ドアが閉まる。乾いた音がして後は耳が痛いほど静かになった。
「……待つのは嫌だ、性に合わねぇ。とっととケリをつけて帰って来いバカ弟子ども。
――――――死ぬなよ」
呟いて目を開くと開いた宝箱の中に一通の書簡が見えた。それを拾い上げ広げる。
『今までどうもありがとう御座いました。アバン国王に直々に教えを請えたのも師匠のお陰です。言葉の不自由なわたくしに根気強く戦いの基礎を教えてくださって感謝しています。
わたくしは三人の中で長兄役をやっておりますが、おそらくメンタルが一番弱いのはわたくしでしょう。わたくしも一度ヒュンケル様にお会いしたかった。不死身の秘密を教えて頂きたかった。
必ず二人をこの命に代えても守り、全ての人を連れて戻ります。ですから、どうか我々が帰るまでご健在でおられます様に。ステフ』
文字を辿るマトリフの目尻からぽたりと雫が落ちる。
「……クソガキ、師匠を泣かすたぁ何事だ、おめえらなんか、破門だよクソッタレ」
マトリフは流れる涙を拭こうともせずに震える身体を押さえ込んだ。
何故平和になったこの時代に15や20の子供があんな場所に行かなきゃなんねぇんだよ、ええ、神様とやら。テメェの性根の悪さには反吐が出るぜ。まったく、クソッタレだ。
E
よう。クソガキ共、音には聞いたぜ。全く末恐ろしい奴らだよ。俺達がどんだけ苦労してここに立て篭もったと思ってやがるんだか。ふざけやがって。
玉座に構える大魔王のように、長い足を組んだままつまらなさそうに三人を見下ろしている男は数度頭を振りかぶって眠気を振り払う仕草をした。
「いやだいやだ、どんどん正気に立ち戻る時間が減っていく。俺の魔力もここまでかね」
男は黄金色のマントを持ち上げて肘掛に腕を置き、固まったまま動かない三人の少年少女を一瞥して笑った。
「どうした、この身体が恐ろしいか?無理もねぇ、こんな醜悪な生き物は地上にも魔界にも居ねぇからな。これが本物のキメラってやつだよ。サラマンダーと大魔神、サタンパピーとアークマージがそれぞれ半身に混ざっている」
玉座の近くにある5つの墓を見、リュウはプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも気丈に叫び声を上げた。
「何故勇者の仲間であるお前が魔道に身を堕とした?答えろ!」
「……そうだな、勇者様を守るためってとこかな。……正確にゃ、死体を。」
魔界の連中は行儀が悪くてよ、死肉を食えばそいつの力が宿るなんて野蛮な迷信が残ってるんだ。やだねぇ教育のなってない奴らは。男は軽薄な口調を崩したりは決してしない。
「姫は、レオナ姫はどうしたのよ!一緒に行ったんでしょう!?何故命に代えても守らなかったの!」
リュウの威勢に心を奮い立たせ、フライが雷鳴の杖を強く握り締めながら震える声で叫ぶ。
「おやお嬢ちゃん、えらく可愛らしい顔をしてるな。……俺の初恋の女に瓜二つだ。いい女になるぜ、お前さん」
あっはっはっは、と片手で顔を覆いながら大笑いする男を三人は睨みつける。笑っている男から発せられている重圧のなんとすさまじい事か。全身から汗が吹き出て止まらない。
「姫さんはダイに会う前に死んだ。いい女だったのにもったいねえ。
ダイは……勇者様は出合ったときには昏睡状態だった。ベホマもザオリクも効果がねぇ。あの時ほどドラゴニックオーラを怨んだこたぁねぇな。
でも我らの勇者様はやってくれたぜ。もうここには大魔王も魔竜王もいねぇ。地獄は平和そのものさ。
で、お前達は一体何をしにここへ来たんだ?もうここには何もねぇよ。人間の居る場所じゃねぇ、とっととママの所へお帰り。」
E
そのセリフが一斉に彼らの呪縛を解き放った。三人が流れるような連携で男に襲い掛かる。
「ベギラゴン!」
「バギクロス!」
極大呪文同士が互いに干渉し合い、真空の刃を携えた熱線の巨大な火柱が玉座から立ち上がり数歩前に歩み出た男を包み込む!
「この俺を舐めるなよ若造ども!」
たったそれだけの気合で男は真空の刃を押さえ込み、熱線をかき消した。しかしその真後ろには白銀の矢のように隼の剣を構えた男が突っ込んできている。
「甘いなクソガキ、遅ぇよ」
ばきいん、ということさら鋭い金属の爆ぜる音がしてステフの身が凍る。
「人間の頃は確かに弱かったが、今はこの魔界で最強のキメラなんだぜ?スピード重視の隼の剣如きで貫ける訳ねぇだろ、もっと考えろよ。腰の雷神の剣はお飾りか?出し惜しみして死んじゃあ意味ねぇだろがボケ」
ぎりりと腹にめり込む男の拳がもう一度インパクトを生んだ。接触状態のまま振りぬいてステフを身体ごと投げ飛ばしたのだ。
げほげほと咳き込むステフに慌てて駆け寄ったフライが即ベホマを唱えると、全く戦意を喪失していないステフは少しだけ頭を下げて自分の位置に立ち戻った。
「……ほぉ、お前言葉がないのか。通りで嫌に無口だと思った。――――――そういや、お前らと同じくらいにゃ成長してるかな。俺の子供にも一人言葉のない奴がいてなぁ……あいつぁ…ちゃんと生きてるのかねぇ」
くっくっくっく、と忍び笑いを漏らして男はまた玉座に腰掛けた。
「お前らは討伐隊というわけか。地上で俺はなんと呼ばれてるんだ?わははは、愉快だなこりゃ」
魔王だ、大魔道王と呼ばせよう、あっはっはっは、混沌の大魔道王がいい、男は声を上げて本当に楽しそうに笑った。
「地上で、あんたの名前は大魔道士ポップという。その昔世界を救った勇者の使徒だ。いまだに語り草さ、平民の出から素晴らしい功績を立てたとランカークス王国では英雄になっている。」
リュウの言葉を聞き、一瞬きょとんとしてまた男は大笑いをする。今度はさっきよりもずっと長く。
「わははははは!こりゃあいい、あの田舎村が今じゃ王国になってやがるのか、すげぇな、刻の流れを感じるよ!ぎゃっはっはっは、親父や母さんもさぞいい暮らしをしていることだろうな」
E
「お婆さんもお爺さんも、お前が地上を出てったその日に死んだのよ。可哀想に、孫にも会えずにさ、さぞショックだったんだろうねぇ。親不孝な子供を持ってまったく心の底から同情する。」
「………………なん…だと」
「ばあちゃんは心臓発作で死んで、じいちゃんが毒を煽ったそうだ。ひどい話だぜ」
「……婆さん、じいちゃ…」
目を大きく開き、男はぶるぶると震えだした。
「そうだ。おれの名前はリュウ、という。強く純粋で誰からも尊敬されたドラゴンの騎士さまにあやかって付けられた。悪かったな、平和でも愛されもしない愛想のない名で」
「あたしの名前はフライ。こっちはステフ。どっちも父にあやかって付けたと母さんから聞いた。
父親の名前は、ポップという。」
「……ばかな……そんな、バカな……」
「バカはお前だ。マァム母さんは死んだぜ、つい3ヶ月前の事だ。病名は心労。お前が殺したんだよクソ野郎!」
両手にイオラの魔法力を溜め、セリフから一呼吸も置かぬうちにそれを男に向って開放する。スパークする電流カーテンの向こう側で、全くの無防備だった男の身体が蠢いた。
「いける!あいつは動揺してるわ、身体のモンスターを引き剥がしさえすれば何とかなるよ!」
「ばかやろ、よく目を凝らせ!サラマンダーの身体が電撃を吸収してる!お前の雷鳴の杖は封じられたな」
「……くッ…やっぱダメージは打撃とヒャド系と真空だけか……あのマクロベータのおっさんの言う通りおそらく補助系も効かな……と、大魔王には元から効かないか」
「逃げろ!」
軽口を叩くフライを突き飛ばし、そのセリフを合図にしたように三人の居た場所に音がする前に大きな穴があく。
「ベタン!?……キャアアアア!」
声を上げたフライは足をバタつかせてその場から逃げられない!それを庇うようにステフがフライの身体と地面の間に滑り込んだ。
「……くっくっくっく……そうか、お前ら、俺の子供か……
どおりで俺の女どもの面影があると思ったよ。そうか、お前、あの時パプニカで拾った子か……そうか、そうか……生きてやがったのかよ……くっくっくっく……こりゃあ、笑えるなァ」
あっはっはっはっは。清々しいような笑い顔で男―――ポップ―――は天井を仰いだ。
マァムが死んだ、死んだのか、あいつ、あれほど待ってろと言ったのに、先に逝ったか!
E
ぼろぼろと涙を流しながら、ポップが一人だけ地に立つリュウに視線を向ける。
「お前らはお母さんの無念を晴らしに来た訳だ。泣かすねぇ、実に泣かせる。俺はこういう話に弱いんだよ。お人よしなもんだからさ!」
ひっひっひっひっひ、まるでしゃくり上げるかのような引きつり笑いを押さえもせずにポップが笑い転げる。その様子にリュウの視線はより一層きつく鋭くなった。
「俺は待ってろと言った、待ってろと、必ず帰る、ダイを連れて必ず帰ると……言ったじゃねえかマァム!何故俺を置いていった!なんて女だ!俺はどこへ帰ればいいんだよ!俺が……帰る場所がねぇだろうが!!」
「うるさいなクソ野郎、黙れよ。元々おまえの帰って来る場所なんか地上と共に母さん達を捨てたその瞬間からもうどこにもねぇ。愚かな魔法使い、その場で一人朽ち果てるがいい」
右手にメラ、左手にヒャド。両方の魔力を平等にバランスよく活性化させ、合わせる。大丈夫だ、俺は天才だ、出来る、一発勝負だ……落ち着け、落ち着け……
リュウは何度も深呼吸をして両手を合わせた。光のアーチェリーが出来上がる。
「……ヒュウ、素晴らしい。おめぇメルルの子だろ?よくもまぁそこまで極めたものだ、感心した。どこでその呪文を手に入れた?」
「バルジ塔の対岸洞窟の中のマトリフ師匠の書斎だ。お前が精度を増した術をベースにオリジナルスペルをアレンジしてある。マホカンタでは弾けないぞ」
これか賭けだ、一度外せばもうおれには打てない。相殺なんてマネは絶対にやらせない……引っかかれ、ハッタリ大魔道士!
リュウがどんどん膨れ上がってゆく光の弓を極限まで引き絞り、ポップの真正面から見得を切る。
「……ほぉ、そりゃあすげぇ。どんな魔法でも反射されちゃあお終いなのにそれを克服したのか。とんでもねぇガキだな、師匠はなんて言ってる?」
「アンタ以上の天才だと、そしてその才能でいつか滅びるだろうと。死にたくなければこの呪文は使うなと言われた」
「……俺と死ぬ気か?」
「へっお前と心中なんてゴメン被るな。おれは生きるんだ。生きて、地上に帰る。母さんに怒られるのが怖くて魔界でひねくれてるお前とは違う」
E
そうか。では全力で応えるとしよう。ポップはそう言ってマントを外した。隠れていたモンスターの肉体が凶悪にひしめき合っている。
「お前はラッキーだったな、この身体になって俺は人間の頃に使えていたほとんどの魔法を失ったが、たった一つだけ全く変わらぬ威力と効果で使える魔法がある。それがメドローアじゃなくて本当にラッキーだった。
俺が使えるのは、一番最初に師匠から譲り受けたベタンだけなんだよ。
――――――でも知ってるか?人間ってのは一旦外から体勢を崩されると精神集中を持続できねぇんだ。これは生理学的に証明されているそうだぜ。
……サテここで問題です、お前の身動きできない身体に重圧が一気に掛かった場合、その光の矢はどうなるでしょう。1、消滅する。2、減退する。3、暴走する。
ピッピッピッ、ブー。正解は3番。
お前一人が消える。」
ベタンの呪文が発動する直前に呪文を解けば助かるだろうが、見たところお前そんなに魔法力が残ってねぇから二発目は撃てない……チェックメイトだ。お前らの負けだよ。
ポップがにやりと笑って魔法力を片手に集める。
「命乞いをするか?俺はお人よしだ、まだ正気が残ってるうちだったら逃がしてやれる。さぁ、どうするかね現役世界一。」
「……すると思うか?お前の血が混じってるんだぜ、意地っ張りでプライドのバカ高い自信家の血が」
「する。師匠に言われなかったか?魔法使いはパーティの露払いなんだ。自分勝手なセンチメンタルで全員を危険に晒すような真似は教わってねぇはずだからな」
ぶつん、とリュウの中で何かが途切れた。一気に両手の魔力がスパークする。
「今そのムカつく鼻っ柱をへし折ってやらぁ!!」
「くっくっくっく、クールに、クールにな、ボク。そんなに顔真っ赤にしてちゃ地上のドラゴンでさえ倒せねぇよ」
「うるせぇ!!……くたばれ腰抜け魔法使い!!」
「フン…バカが。」
そうポップが呟いた次の瞬間。
E
背中に何かをぶつけられた。二回、三回。軽い衝撃が続く。
「……嬢ちゃん、兄ちゃん、そんなショボい攻撃しかねぇのか?つまんねぇことせずにおとなしく隠れて……な」
「引っかかった!やっちゃえリュウ!!」
がくん、と身体の動きが急激に鈍る。ここではじめてポップは焦った。
「なっ!?なんだこれは!!」
振り返るポップ、その瞬間をリュウは見逃しはしなかった。
「メドローア!!」
ドォオオン!重苦しい魔法の発動する音に弾かれて顔を元に戻すポップ。目の前に迫る光の矢。しかし身動きが取れない。
ステフとフライが背中に投げつけて飛びのいた物、それはまだら蜘蛛糸だった。蜘蛛糸の玉はまるで生きているかのようにポップの身体に巻きつき、もがけばもがくほど絡まりつく!
「し、しまった……クソ、くそったれぇええ!!」
光の矢が彼を飲み込む。
大魔道士、ポップを飲み込む。
腐った血の色をした赤黒いアークマージの法衣から放たれるマホカンタの光の壁がギラリと光った。
ギィン!
「なっなにぃ!?」
そう声を上げたのはポップ本人だった。確かに魔法力が弾かれる音がし、衝撃が体中を駆け巡ったのだ。
「リュウ逃げてえーーー!!」
少女のカナリキ声が広間に響き渡り、いち早く茫然自失の状態から抜け出したポップが遠ざかってゆく光の矢を見ていた。
「……あのクソガキ…なんて根性だ……こんな状況でハッタリかましてやがった…っ!!!」
オリジナルスペルだと、笑わせやがって。そうだ、有り得るはずがねぇ、そんなことは魔法物理上ありえねぇ、ちくしょう、こんな初歩の初歩でこの俺が騙されるとはな、敵ながら天晴れだぜ。
どおおおおおん!大広間の壁を、ドアを、窓を光の矢がまるで熱されたナイフがバターでも切るように楽々とえぐって突き進んでゆく。
E
魔法エネルギーを全て弾くように構成されているマホカンタに弾けない魔法は存在しない。マホカンタを素通りするならそれは呪文ではない。だがスペルで力場を作れるのは呪文でしかありえない。
たった数秒の間に目まぐるしく思い描いた魔法理論方程式の大前提、魔法とはエネルギーそのものであるという言葉をポップは数十回口の中で唱えていた。
つまりあいつは「呪文ではありえない呪文を作った」とハッタリをかましたんだ!チクショウ、ウカレてノっちまったぜ……嘘は規模がでかいほど騙されやすいか……師匠の言うこたぁ万に一つも無駄がねえ!!
「……は、は、ははは…はははははははは!!
残念だったな息子ォ!この身体に埋め込まれているモンスターは自分の身体を守ろうと勝手に動くんだよ!勝手に、勝手に動…動くんだよ……だから地上に帰れねぇ…誰も近くに寄れねぇんだ…よ、クソが」
がっくりと膝を折り、その場に力なくうな垂れたポップの右斜め前から鋭く雷神の剣が切り込んでくる。耳元で空間を切り裂くようなほどのスピードで刃が唸った。すばやく身体を逸らし、人間ではありえない跳躍力でポップはステフから間合いを取る。
「ハァッハァッ…あ、あぶねぇ…っ……
さっき腹を殴った事を根に持ってんのか?案外恨みがましいんだな……ステフとか言ったっけ…?
…嬢ちゃん、あんた策士だねぇ……まだら蜘蛛糸といいさっきのベタンに引っかかったフリといい……とても俺とマァムの子とは思えねぇ。なんて頭の回転が速ぇんだ…この俺が恐怖すら感じるぜ」
「ありがとう。あんたにそう言ってもらえると自信がつくわ」
雷鳴の杖を構え、冷静にこちらを睨んでいる少女は一片たりとも隙を見せない。
「だがどうする?もうお前らの切り札はドアと一緒に消えちまったぜ。お前ら二人でこの俺を倒せるとは到底思えないがね。それとも命乞いをするか?嬢ちゃんはかわいい娘だ、クソ息子よりは優遇してやるよ」
じりじりと迫るポップからフライを庇うようにステフが一歩前に踏み出る。
「くっくっくっく、お前、嬢ちゃんが好きなんだろ?
いいねぇ青春だ。俺にもそんな頃があったよ。マァムの為に命張って何度も死にかけた……懐かしいねぇ」
でもダメだ、お前に娘はやらん。ポップの冷たいセリフと共に彼の身体から頭を出しているサラマンダーがその口から炎を噴き出した!
E
「フバーハ!!」
パキイイインと、薄く大きな氷が割れるような高い音がしてフライとステフの目の前に光の壁が張り巡らされる!
「……ワオ、お前さん僧侶かい?まさかそんな高等呪文まで使いこなすたぁ……侮れねぇ、実に侮れねぇなァ俺の子供は」
「あたしは武道家僧侶。母さんと同じくね。
それに勘違いしてもらっちゃ困るけど、あたしがステフを好きなの。」
だから彼は誰に許しを請う必要もないわ。当然アンタにだってね。気丈にも自分を睨みつけながらそう軽口を叩く少女に、ポップはくっくと笑った。
「やだね、俺は戦士って職業がどーも好かねぇんだ。昔の恋敵と同じなもんだから」
口の端を持ち上げた時、部屋の隅でがたん、と音がした。全員が一斉にそちらを振り向くと、法衣のぼろぼろになったリュウが荒い息を吐きながらずるずると這うようにこちらに向っていた。
「リュウ!!」
いち早く駆け出したフライがあっという間に彼の元に駆けつけ、ベホマを唱えようとするが、彼に制された。
「無駄だ、もう俺には魔法力がない。戦闘不能者に…無駄な魔法を使うな」
ぼそぼそとかすれる声で声を絞り出す少年の前に庇い立てするようにステフが立ちはだかる。
「よくぞあの至近距離からかわしたな、さすがに驚いた。そんな芸当が出来る奴ぁ先生だけかと思ってた。……ま、先生は人間二人を抱えて逃げたんだけどな」
「…ア…アバン先生が…二人もかかえて…?………ったく、あの人ホントに人間かよ……」
ゆっくり歩み寄るポップにぎっと鋭い視線を投げかけ、リュウが二人を遠くに離れさせる。
「同感だ。特別製にしても度が過ぎる。俺も常々疑ってた」
ずるずると身体を起き上がらせて少年は必死の形相で立ち上がる。
「殺せ……もう魔法力は空っぽ…メラの一発も撃てねぇ……クソッタレ、自動魔法防御だと……面白おかしい機能付けてんじゃねぇっつーんだよ」
ひひひひひ、と引きつった笑い声でポップが身体を振るわせた。
「望み通りにしてやろう、どの呪文で殺されたい?メラゾーマか?マヒャドか?お前のハッタリは素晴らしかった。最高の呪文であの世に逝かせてやる」
E
そうだな、願わくばメドローアと言いたい所だがそれも叶わないみたいだし、オマカセするよ。
少年が不敵な笑みを零して精一杯の強気を見せたが、それが数秒後に砕け散る事になる。
「分かった、望みをかなえてやろう」
ポップの両手が輝きながら燃えた。
「……なっ!?な、何故!?」
「ハッタリってのはこうやってやるもんだ。……なんてね、アークマージがほとんどの魔法を使えることは知ってるだろう?
こいつの力を使えば……こんな芸当だって可能なのさ」
光の矢が、生まれる。
「ただアークマージの魔法力は人間の時に比べると出力のコントロールが難しい。とても実戦じゃ使えねぇ。それに反発もあってか理由は不明だが本来効果が持続する魔法も消えちまう。魔法力が回らなくなるのかね?どう思う天才クン。
……だいたい規模も小さくてカッチョ悪いし、ホントはあんま出したくねぇんだけど…まぁいい、大サービスだ」
リュウの生み出したメドローアの三分の一にも満たない小さな魔法の弓矢が的を狙う。
「心配するな、規模は小さくても確実にお前の身体の半分をえぐってくれる。……即死だ。痛みも感じんだろ、有難く思え」
引き絞られる魔法の弓。光り輝くエネルギーのカタマリ。
「どこがいい?胸か?頭か?好きなところをリクエストしな」
「……じゃあ、胸で……頼むわ、しっかり狙えよ」
ぎりっと遠く離れるステフやフライにもリュウのかみ締める歯の音が聞こえた。そしてその後平静な声のリュウが言った。
「フライ、ステフを今のうちに全快にしておけ。
ステフ、俺が撃たれたら即人間部分の首を刎ねろ。恐らく身体を統合しているのは人間の頭の部分だ。キレイに切れ、失敗するな」
「舐めるなよクソガキャアアアア!!」
二人の距離は5メートル。
「消し飛べェ!」
最後のチャンス。
「メドローア!!」
神様、お願い、最後の、お願い。
バッシュウゥーーッ!!
光の矢に向ってリュウが踏み込む!
「死に急ぐかバカ息子!あばよクソ野郎!」
「うるせえぇ腰抜け魔法使い!!跳ね返れメドローア!!」
「………な…なあっ!?」
ギィン!!
E
「……な、な……何故……!」
「はぁっ……ハァッ…ハァッ………く、クールに…クールにな、魔法使い」
二人がその言葉を交わした次の瞬間、既に行動を起こしていたステフが雷神の剣でポップの首を刎ねる!
…ド ン ッ !
短く鈍い音と共にスローモーションのごとくゆっくりとポップの首が床に転がった。
それを待ち受けていたフライが両手に翳した魔法力を注ぎ込む!
「ザオリク!」
呪文を唱えた本人も、目を疑うような光景がその場に展開された。ポップの生首はまばゆい光の中で急激に細胞分裂を起こし、影も形もなかった身体がどんどん再生されてゆくのだ。
「……すごい…蛙の実験の時と…同じ…」
光が全て治まった頃には、完全に人間の形になっているポップの身体が現れた。ステフはマントを外し、ポップの身体にかける。
「ほらな……お前、やっぱすげえよ……人間、しかも……生首を再生させちまったぜ…普通…30パーセントが欠損していたらザオリクでも生き返りゃしねーってのが定説なのに……はは、やっぱお前も天才の血を受け継いでんだよ……」
天才ついでに、ベホマ頼むわ。リュウがそう言って倒れこむので、とっさに身体を受けたフライはリュウの胸の上で粉々に爆ぜているオリハルコンの胸当てを取り損ねた。
がしゃん!金属が割れる音がして粉々になった胸当ての形が永遠に失われる。
「…よく保ってくれたわね。まったくひやひやしたわよ。心臓が止まるかと思ったわ」
師匠と先生が作ってくれたんだ。万に一つだって失敗しやしねぇさ……リュウは満足げにそう言ってふっと気を失った。
「……お疲れ様、リュウ……よくやってくれたわ。あたしたち兄弟の誇りよ、あんたは」
ステフはこくりと頷いてフライの頭を撫でた。
その大きな手がひどくゆっくり何度も何度も自分の頭を撫でてくれるので。フライはずっと我慢していた泣き声をあげた。
「うわぁあああ……こ、こわ、怖かったよぉぉぉォ……ステフ、あたし、あたし、怖かった、こわかったのぉー」
リュウの身体に顔を伏せるようにしてフライは泣き出した。ステフはそれを少しだけ困ったように抱き締めている。
E
「くっくっくっく…そうか…シャハルの鏡か。あの二人ならやりかねぇ…くっくっくっく」
横たわり動かないポップを三人が囲むようにして腰を落として見下ろしている。
「そう言えば話したことがあったな、シグマ戦のこと。すっかり忘れていた。
おれの身体を再生したのはどいつだ?ああ、嬢ちゃんか。無駄な事だ、どうせ俺の身体にはもう生命力など残っちゃねぇんだ。無理に復活させたところですぐに尽きる。
さてお前らは何を聞きたいんだ?それとも復讐か?……好きにするがいい」
ポップは相変わらず失笑気味の顔つきのまま喋っている。
「別に。ただ新しく覚えた魔法の実験台になってもらっただけよ。
それと……伝言をね。
マトリフ師匠からは“お前のようなバカな弟子にはたっぷり灸をすえてやるから先に地獄で待ってな”ってさ。
アバン様からは“済まない”って一言だけ。……泣いてたわよ、国王様」
少女の言葉に沈痛な面持ちになったポップはそうか、と一言だけ言ってごほごほと激しく咳き込んだ。
「じゃあ俺もお前さんに言っといてやる。何故30%以上欠損している生物にザオリクをかけてはいけないか。
細胞には各々寿命がある。それを活性化させることで新陳代謝を促して治癒を得るのが回復呪文というのは知ってるだろ?
だがザオリクやザオラルという復活呪文は違う。死んだ細胞そのものを活性化させるんだ。
だから細胞自体の絶対数が少ないと肉体が薄まったような状態になる。ちょうどジュースをコップ半分だけ入れて水を混ぜてのばした感じだ。それで復活させたって寿命が縮まるだけっだっていう理屈は理解できるだろ?
つまりそういうわけさ。分かったら他人にかける場合は気をつけるんだぜ。運が悪けりゃ生き返った次の瞬間に即死だ。わかったな」
ええ、分かったわ。フライは深く頷いた。
「それから、ステフといったな。お前のあの太刀筋は痺れたよ。もしかしたらアバンストラッシュよりもすげぇ技を習得できるかもしれん。鍛錬を怠るな。……一発で仕留めてくれて嬉しかったぜ」
目を閉じ、ステフは深くお辞儀をした。
E
「リュウだったっけ?
俺ァお前にやられて……しかも、あんな格好のいいやられ方…大満足だ……本当に……感謝している。お前の母さんには申し訳ないことをした。心からすまなかったと思っている。
もし墓前に手向ける言葉を許してもらえるなら、ポップがすまなかったと言っていたと伝えて……ああ、もう目が…仕方ねぇ、タイムリミットだ。
……さて、マァムとメルルに怒鳴られてくるかね」
ポップが引きつる声でそう言って浅い呼吸を繰り返しているところに、今までじっと黙っていたリュウがぼそっと一言いった。
「お前なんかが母さん達の居る天国へいけるわけないだろ」
その言葉にポップは失笑し、ちげぇねえ、素直に地獄でハドラーと酒でも飲むかとため息を付いた。
「……マァム母さんの遺言だ“大嫌いなんて嘘よ”」
ポップはリュウの素っ気無いセリフににやりと薄く口の端を持ち上げ、呟くように一人ごちた。
「最高の呪文だ。まるで俺の全てを浄化しちまう。俺は偉大なる僧侶戦士の初めての男になれたことを誇りに思うよ」
安らかに笑い、ポップが閉じた目から止め処なく涙を流しながら震える言葉をやっとの事で搾り出す。
「さようなら世界最高の大魔道士、さようなら地上最低のクソ親父」
リュウはすっくりと立ち上がって見下すように言葉を吐きかけた。
「……なんだ、俺をクソ親父と認めてくれるのか……………………ありがとよ」
最後にそう呟いて、ポップは事切れた。実に静かにあっけなく動かなくなった。
「一発くらいなら回復したか……メラ!」
まるでそれを待っていたかのようにリュウはポップの身体に火を放ち、めらめらと紙くずのようによく燃えるその死体を見ていた。二人も何も言わなかった。
あっという間にケシ炭になったその身体は、まるで黒い土塊の様にぼろぼろと崩れて人の形を容易に失う。フライはその土くれを一掬いポケットに忍ばせて立ち上がった。
「……さて、魔王の宝箱でも拝見しましょう」
玉座の下にまるで隠すかのようにあった宝箱の中には、ポップが人間だった頃の衣服とアイテム、バンダナが丁寧に畳まれて収められていた。そして小さな銀の箱にはアバンのしるしが四つ、何かの魔法の武具の宝珠が二つ並んでいる。
「……帰ろう、あたし達の家に。母さんに報告しなくちゃ……ね。」
H
三人は魔界から地上へ帰ってすぐに取るものもとりあえずルーラを何度も唱え次ぎ、一直線で自分達の家にたった二日の間に帰り着いた。
ここにはもう誰も暮らしていない。三人が出てゆくときに、残りの家族はそれぞれ別々の場所で生活を送る事になったからだ。
「……やっと帰って来たわ…長かったように思うけど……三ヶ月のことなのね…永遠みたいな気がする……ね、父さん」
フライが、持っている黄色いバンダナにそう語りかけているのを横から見ていたリュウがすっとバンダナを取り上げた。
「なっ……リュウ!なにす」
ブチブヂブチッという鈍い布の裂ける音がして、バンダナはリュウの手の中で左右に分かれて真っ二つになった。
「ちょっとぉ!あんたなんてことするのよ!それはあの人のトレードマークで小さな時からずっと…」
カッといきり立ったフライはリュウがそれぞれの墓前に二つに分かれたバンダナを置き、膝を折って両手を組み合わせて深く祈る様子を見て、吐き出しかけた言葉を収めて同じように膝を折り、祈った。
「母さん、クソ親父がようやく帰ってきたよ……もう、二度とどこへも行かない……」
ステフは二人を唇を真一文字に結びながら見つめ、まるで黙祷のように目を閉じた。
H
ようやく終わった寂しい魂の追いかけ合いに打たれたピリオドは少し物悲しかったが、生きて彼らを知る者はため息をついて納得した。
そして連れ帰った三人の希望通り、本当の墓の場所も公表されずに人々に忘れられてゆく。
今、三人の眠る墓の上には優しい風が吹いている。日が昇り、雨が降り、星が瞬き、雪の積もる朽ち果てた家と共にゆっくり時間を経ている。
ほとんど誰も彼らの名を思い出さぬようになった頃、ネイル村に一つの言い伝えが生まれた。
林の向こうの崩れかけた小屋に、気楽そうな線の細い男と優しい目をした黒髪の女、少し怒りっぽい桃色の髪の女の幽霊が楽しそうに三人でベンチに座りながら談笑している、という他愛もないうわさが作った言い伝え。
そしてネイル村の母親は、自分が母からそう言われたように子供に言うのだ。
「幽霊の邪魔をしてはいけないよ、あそこはあの三人の魂の入れ物なんだからね」
『魂のいれもの』
おわり。
16:10 2004/05/04
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