しあわせなからだ
一堂零と河川唯
目の前を一緒に通り過ぎる二人を見る。
声をかけようと思った二人の顔が笑っていて、やめた。
背の高いくせっ毛の男は、同じくくせっけの女の子の頭に手を置いてまた笑った。
女の子は照れたように笑って、男の背中を叩いて笑った。
過ぎていく二人の背中を見て、ぼんやりと声をかけなかったことを悔いた。
何で声かけなかったんだろ。
見えなくなった二人がどこへ行くのかと考えそうになって考えを止めた。
「バっカねぇ〜、零さんにそんな甲斐性あるわけないじゃない!」
「でも見たんだからこの目で!」
「相手は誰よ、この界隈で零さんのこと知らない女の子なんて小学校捜したっていないわよ」
けらけら笑う目の前の親友は、夢でも見たのよ年がら年中考えてるから、とまたけらけら笑った。
昨日見た女の子は、良く知っていた。高校のときからの友達で、社会人になった今でも時々会う。でも敢えて親友には名前を言わなかった。
「くくくっ…ま、まぁ仮に零さんが女の子と歩いてたとしましょう。
で?どーしてあたしを呼び出してまで報告するわけ?ねぇ?どうして?唯。」
高校のときと変わらぬ意地の悪い質問を、顔を覗き込みながらしたので、高校のときと同じように膨れた顔で「意地悪いよ千絵」と返した。
「たま〜に店に顔出しに来るけど、前ほど頻繁に集まったりしてないみたいだしね。みんな仕事もあるし…
でも零さんが……アハハ、あんたの杞憂もここまで…くっくっくっく……
そんなに心配ならさっさと告白しちゃえばいいのに…あははは」
千絵があんまり笑うので、喫茶店の人がこっちを見ている。別の意味で恥ずかしいわよ、もう。
「高校の時みたいに毎日合うんじゃないし、お店に用もなく行くのも変でしょ?急に電話するのもおかしなかんじだし。」
指折り数える言い訳を、片肘つきながら呆れた顔で返してくる。
「なにバカなこと言ってんのよ、あるじゃないの零さんに会うっていう立派な理由が」
ただでさえ零さんはあんたの帰り時間に合わせてラッシーの散歩してるってのにさ。ちょっとは見習ったらどう?
楽しくて仕方ないという風にからかい口調がエスカレートする。
『わたし珍しいもの好きなんです』
『零さんって見かけによらず結構すてきね』
『ねえ零さんたちもさそいましょうよ』
高校時代、そういえば彼女は彼を気に入っていた。校庭で遊ぶ彼を眺めて笑ってる事だってあった。でもそれは気にならなかった。あの時はみんなが近くにいて、全員が全員までの距離が同じだと思っていた。
彼女が本気で彼を想っていたとしたらなんて考えてもみなかった。
好奇心旺盛で、自分と違って勇気もあって。だからここから動けない自分は二人の背中を見送るしかないのだろうか…
「……なぁに深刻な顔してんの唯!
アンタの他に一体誰があの万年日曜日男に付き合ってられるってのよ」
結局最後まで、千絵はけらけら笑って喫茶店の注目を集め続けていた。
……はずかしいなァもう。
「や。今帰りかい?」
いつものように帰り道、彼が“散歩のついでに”私を待っている。
「零さん」
その顔はいつもみたいににこにこしてて…いつもより、にこにこしてるようにも見える。
「今日は随分機嫌がいいのね」
「そうかい?いつもと同じだけど」
笑って歩き出す彼の歩幅は、いつもみたくわたしに合わせて少し小さい。この間初めてそれに気付いた。
それを見て彼より40センチ離れてうつむき加減で歩くわたしは、ぼんやりと考え事を始める。彼がいつものように話を始めて、それに上の空で返事をする。
今日はお客さんが少なくてね、でもビンテージのNゲージの修理を頼まれて。ビックリしたよ、わたしよりずっと年上のおもちゃなんてざらにあるけど、すごく状態がいいのだ。きっとよっぽど大切にされてたんだよ。そういうのを修理させてもらえるってのは光栄なことだよねぇ。
いつも通り、仕事と日常の話。止まらない現実の話。
「ね、ねぇ零さん最近豪くんどうしてる?千絵に聞いてもフツウよって教えてくれないのよ」
「豪くん?…また唐突だな、元気に仕事してるよ。大くんも頑張って仕事してるみたいなのだ。」
指を折りながら、いつものメンバーの名前を連ねながらみんな元気にやってるよと締めくくった。
「唯ちゃんの友達もげんきかね。ほら、織田さんとか物月さんとか」
多分、その気の無いいつも通りの声のかけ方だったんだろうけど、そのときぴたりと足を止めてしまった。先を歩いているラッシーがそのまま歩き続けるので、零さんもそのまま数歩歩いていった。
「……どうしたのだ?」
「…物月さんのことなら零さんの方がよく知ってるんじゃないの?
こないだの日曜日街の方、歩いてたじゃない」
にっこり笑っていつも通りの声を出す。フツウに、フツウに。
「あれっどうして知ってるのだ?」
きょとんとした顔で零さんがこちらを振り向いた。ああどうか顔が笑っていますように。
「ちょっと見かけたのよ。声をかけようと思ったけど、話が弾んでるみたいだったから遠慮したの」
あんまりにっこり笑いすぎたので、零さんの顔があんまり見えなかった。零さんの声はなんでもないようで、それが逆に重かった。
「はっはっは唯ちゃんらしくないな、一緒に喫茶店行くとこだったんだ」
声かけてくれたら誘ったのに、物月さんも唯ちゃんに会いたがってたよ。
能天気に笑ったりする仕草をずっと見ていて、また新しい零さんを見つけた。
この人はけっこう残酷なのだ。
「なにが『物月さんは元気かね』よっ自分の方がずっと親しいんじゃない、わたしなんてもう半年以上会ってないわよっ!大体、物月さんが会いたがってるってことは私に元気かどうか尋ねるの矛盾してるじゃないのよばかっ」
部屋で一人明日の用意なんてしながら寝る準備をしてると、ふつふつとその不条理さに腹が立ってきて、ついぶちぶち文句が出てくる。
「零さんの…ぶぁかっ」
「ねえちゃん、零さんばかってさっきからもう5回くらい聞いたぜ。」
その声に驚いて振り向くと、一平が手をノックの形のまま固まらせて呆れ顔でそういった。
「わっ一平いたの!?」
「居るよ、家なんだから。そりゃいいけどねえちゃんに電話。」
「で、電話?こんな時間に?」
独り言を聞かれていて居心地が悪いのでちょっと声を荒げてしまう。まったく、プライバシーくらい尊重して欲しいもんだわ。
「さぁ。でもまだ10時前だぜ、このくらいの時間なら別に普通じゃねぇのか?……つか姉ちゃんもう寝るのかよ、パジャマ着て」
また呆れ顔でそんなことを言うので、社会人は朝が早いのよっとフテ寝の準備に理由をつけた。
「はい?お電話代わりました」
「唯さん?物月です。ごめんね、忙しかった?」
電話の向こう側から聞こえるのは凛としていて朗らかなあの声だった。
「……こ、こんばんわ…」
「急にごめんねー
今時間いい?…イキナリで悪いけど、ちょっと会って話したいことがあるの。出てこられないかな?」
元気でさっぱりした懐かしい声が耳に障る。…なんでこんなにイライラしちゃうんだろ、こんな気持ちになりたくないのに…
「…い、いいよー」
引きつった笑い声をさらに引きつらせて返事をする。近くのファミリーレストランで30分後に会う約束をして手早く受話器を置いた。
「フリョーだフリョーだ。正月でもないのにこんな夜中に外出て」
「………一平、小学生じゃあるまいしそういうのやめなさい。女の子に嫌われるわよ」
「世界中の誰に嫌われても平気だもんねー」
「そうね、霧ちゃんがいるもんね」
「かっ関係ねーよ霧は!」
…一丁前に赤くなっちゃって。からかいにからかいで応戦することを覚えて、一平との会話が増えた。普通、大学生の弟との会話は少ないと聞いたからいいことなのだと思う。保母になってから毎日が苦戦と発見の連続で、それは確かに刺激的で素晴らしいのだけれども、同時に世界が狭くなったようにも思える。毎日こなす仕事は同じで、でも毎日戦争のような忙しさで、高校の時のようなどこまでも走っていけそうな毎日は遠くて、目の前に山と詰まれた仕事が重力のように身体を地に縛り付ける。その重力を解いてくれるのは、意外にも一平のからかい口調だった。
「マッ霧だなんて!呼び捨て!」
「うっうるせぇな!さっさと行けよ、黙っててやるから」
シッシと手を振った一平はこっそり耳打ちするようにお父さんとお母さんの居る居間の襖を閉めた。
「じゃあ姉ちゃんも黙っててあげましょう」
そう言ったときには、少し気が軽くなっていた。…ほんと、一平には敵わないね。
……ありがとう。
彼女はコーヒーを飲みながら、コーナーソファのある席で雑誌片手に暇を潰していた。
「お久しぶり。待たせてごめんね」
「なに言ってんの、こんな時間に急に呼び出してこっちが謝るとこよ」
少しなんでもない話をして、仕事の愚痴を聞いて、それから少し沈黙が出来た。
その沈黙を破るのは物月さんの仕事のような気がして、黙っていた。やがて意を決したように彼女が口を開く。
「来てもらったのはちょっと話があるからで。
……その話ってのは、零さんのことなんだけど」
きた。
出来るだけ重々しくならないようにした声が、逆にひっくり返って高くなって変な感じだ。まるでさっきの電話でのわたしの声みたい。
「実は前々からちょっと、そのう、交流などがありまして。
交流ってもそんな大げさなもんじゃなくてね、高校の時に一度、二人で遊園地とか行った事とかある程度で。」
彼女らしくもなく固まった声で、少し顔を赤くしてそう言った。その声が変に緊張しててちょっと笑ってしまう。
「やだなー、普通に喋ってよそんな緊張しないで」
言った自分の声も緊張してるのがなんだかおかしい。やだ、なんでこんな二人ともお見合いみたいに緊張してるんだろ?
「高校の頃、告白したことあるのよね。まぁ零さんは全然相手にしてくれなかったんだけど。
で、この間会ってもらってもう一回同じセリフで告白したの。」
ぎくり、と身体が震えた。手に嫌な汗がじわりと広がったのと同時に、顔が引きつった。汗が引くんだか汗が出るんだかよくわかんない。だけど次のセリフまでの時間がひどく長いように感じた。
「零さんをずっと見てたい、ずっと見ててもいいですか?って」
「……はぁ。」
「唯さんはど……」
「あれ?唯ちゃんと物月さんじゃないか。どうしたのだ?こんな時間に」
声の主は、いつものジャンパーに手を突っ込んだまま足を止めて能天気な挨拶していた。
「……えーと……」
困ったような笑い顔で、コーナーの席に座らされて両端を固められた零さんが4回目くらいの「えーと」をまた繰り返した。
何か言わなきゃとは思っても、なにを言っていいのか分からないどころかなんで零さんがここに座ってるのかもわからない。物月さんが半ば強引に零さんを座らせて、零さんがオレンジジュースを頼んで飲み終わって、5分ほど全員が空気も重く無言なのだ。
「……えーと……」
おろおろと落ち着きの無い様子で周りを見回したりストローをいじくったり、ひたすらもじもじ動いている零さんは、何度かわたしになにか訴えるような視線を送っていたけれど、こっちが助けて欲しいくらい。
ふっと何か諦めたみたいな顔で物月さんが口を開いた。
「ねぇ零さん、こないだの返事、まだもらってないよねぇ。
今ここに聞かせてもらっていいかな?」
「……ええっ…?なにがっ!?」
その一言で緊張がピークに達したのか、零さんがでたらめな方向を向いて裏返った声で引きつった声を出した。
それを見てめまいと頭痛といたたまれない気持ちがいっぺんに襲ってきたので、つい席を立ってしまった。
二人がびっくりした顔で私を見る。
「ごっ……ごめーん、ちょっとオフロ付けっ放しで来ちゃって……悪いけど帰るね!
これ、払っとくから」
伝票をひったくるみたいにつかんで走ってレジまで行った。
……誰も追っかけて来たりしないでくれたのをありがたいと思った。
ハァハァ言って帰ってきたのはそれからきっかり10分後で、布団を引っかぶって脳みそを真っ白にしてムリヤリ眠った。真っ白にするまでもなく、考え事なんか出来る状態じゃなかった。とにかく頭痛とめまいがして…自己嫌悪に捕まらないように眠るしかなかった。
明日も仕事だし、することはいろいろあって、時間は止まらない。
勝手に考え事をしないように適当でむちゃくちゃな明日の予定を次々たてて、疲れるまでそんなことだけを考えて眠った。
夜が明けて、ぼんやりする頭で朝食を作って出勤する。いつもの道をいつも通りに辿っていく。いつもより5分早く。
夕方には帰り道になるこの道には小さな児童公園があって、そこで毎日零さんは“ラッシーの散歩”をしている。なんとなく目をやると、あのジャンパーが丸くなっているのが見えた。
声をかけるべきかどうか迷ってやめた。視線を元に戻して早足で通り過ぎる。
背中で走ってくる靴音が聞こえたけれど、あえてそのまま通り過ぎた。
それ以上靴音は追ってこなかったのでそのまま保育園の門を逃げ込むようにくぐった。出勤カードをタイムレコーダーに入れる。そうすれば安心なような気がした。
……意気地なし…日常に逃げ込んでるのは自分じゃないか……
ため息をついて深刻な顔をしたところで、今日も仕事はある。仕事に私事を持ち込むのは先生のやることじゃない、と保育士の先輩にありがたい言葉を頂いたことがある。我々は人間である前に先生なのだと。
タイムレコーダーの上に下がっている鏡に向かってにっこり笑う。
しっかりしろ、仕事だぞ。このくらいでめげててどうすんの。
笑うのは仕事かもしれない。けどこの仕事を夢見て選んで、子供たちに接するのは自分だ。負けるもんか。
気合を入れなおして更衣室のドアを開ける。
「おはようございまーす!」
「あら河川さん、随分遅くまで残ってるのね」
園長が声をかけてくれたのはもう夜の7時も回った頃だった。
「園長先生…ええ、明々後日っての健康診断の準備をしてたらいつの間にか……」
そう言いながらも健康診断表にチェックを入れて整理箱に分類する。全く時間を気にしていなかったわけではない。どちらかといえば帰る時間を引き延ばしていた。なんせ家に、今日は遅くなるから夕食が作れないと電話したくらいだ。
「まぁまぁ、そんなの月曜日にみんなでやればすぐに済むのに」
生真面目なんだから、ふふっと園長先生が笑ってから少し怖い声で言った。
「でもこんな時間まで残ってちゃ危ないでしょう、毎日元気で来ることも先生の勤めよ」
「はい、すみません。3クラス分まで終わったからもう帰ります。」
外を見るともう真っ暗で、電話して弟に迎えに来てもらうように頼もうかなと呟くと、園長先生はそれには及ばないと言った。
「…どうしてですか?」
「迎えならもう来てますよ」
だから呼びに来たのよ。早く用意してあげなさい、もう随分待っていたようよ。そう言って園長先生がにっと笑って職員室を出て行った。
その笑いの意味が分からないまま服を着替えて園長室に行くと、そこにはあのジャンパーが朝の格好とそっくりに丸まっていた。
「やぁ、遅かったね」
二人は無言で歩いていく。
朝、一人早足で辿った道をそっくりなぞって。
頭がぼんやりする。ぼんやりするというよりは頭が考えることを全て拒否している。
視線はずっと足元のままで、でもちっとも前に進まない。足取りが二人とも重い。
「きょ…今日はお店どうだったの?」
「いっいつも通りなのだ」
「……そ、そう…」
たまに出る会話も10秒で終わってしまって、それが余計に無言を甘やかす。二人とも足元を見ながらもくもくと歩く。
ついに児童公園に差し掛かってしまった。児童公園をこえて少し歩けばもう家だ。
「ゆ、唯ちゃん良かったらちょっと話していかないか」
ちょっと裏返った声が頭の上でしたので、うなずいて児童公園のベンチに腰掛けた。零さんが自動販売機でコーヒーを二本買った。
「はい。熱いから気をつけてね」
コーヒーを受け取って二人で飲んで、しばらくやっぱり黙っていた。なんと声をかけていいものか分からない。
「……えーと、昨日のこと…
説明させてくれると嬉しいんだけどな」
いつになく真面目な顔をして零さんが切り出したので、私は相槌を打って声を出さなかった。急だったので出せなかっただけなんだけど。
「昨日は急に物月さんに呼び出されたのだ。唯ちゃんが来るってのは知らなくて」
「それだけであんなにオロオロしてたの?」
「唯ちゃんはビックリしないのか?そこにいるはずのない人がいたら」
「……ちょっとはビックリするだろうけど、あんなにずっとオロオロしないと思う」
そうぼそっと呟いてからまた二人は無言になってしまったので、仕方なく口を開くことにした。
「零さんって、物月さんと付き合うの?」
「ばっばかな!」
「高校の時も告白されたんでしょ?ついこないだもおんなじ様にまた告白したって言ってたわよ」
「……高校の時?」
眉をひそめて訊き返してきた。
「ずっと見てていいですかって、告白されたんでしょ?」
負けずに眉をひそめてそう訊くと、うーんと唸って必死に何かを思い出そうとしているようだった。
「物月さんには卒業式のとき、奇面組の連中と一緒に写真を撮った時にずっと見てていいですかって言うから写真くらいいくらでも見てくれと────」
ばたっ
「おおっどうしたのだ唯ちゃん急に倒れて!?」
「れっ零さん!それは写真のことじゃなくて零さん自身のことよ!普通そんな間違いしますか!?」
「だっだって写真撮るときに聞くからてっきり…」
「二頭身になってもだめです!
…それに、ついこないだはそれじゃ説明できないでしょう」
立ち上がって突っ込みを入れると、いつもの調子でにゃははと笑った。
「いやー、さすがに唯ちゃんが本気になるとコワいのだ。
高校の時はホントに全然気付かなかったんだよ。そりゃぁ遊園地に行った時は物月さんも…いやその。
つまりっ神に誓って物月さんとわたしはなんでもないのだ。」
「…物月さんが零さんを好きでも?」
意地悪なものの言い方をしてみる。きっと知ってるはずだ、あのストレートな物月さんのことだからちゃんと意思表示したに決まってる。
「…………うん。
わたしは唯ちゃんが好きだからって、昨日ちゃんと断ったのだ」
全身の血が
逆流した。
血が逆流すると凄い音がするだろうななんてお思いかもしれないが、逆。全く音が聞こえなくなる。現に虫の音も自分の心臓の音も零さんの声の余韻さえ聞こえなくなった。
「───気付いてた?」
「…いっいいえ……」
「よかった。
……ちゃんと自分から言いたかったのだ。」
頭がガンガンする。目の前がちかちか瞬いて、耳鳴りまでしてきた。
不意打ちで、直球、おまけにストライクなのだから無理もない。そういう風に冷静に自分を見ている自分でさえ手に汗なんか握っちゃってる。
しばらく二人とも固まったまま微動だにしなかった。
一人は自分の発言に、もう片方は相手の発言にショックを受けたらしい。
片方が両手を振りながらやっぱ今のナシ!ナシ!ねっ!と大慌てで静寂を打ち破った。
「めっ、迷惑だったらこうやって迎えに来るのもやめ」
「……めっ迷惑なんかじゃない!
嬉しい、嬉しいんだけどちょっと、その、嬉しさをかみ締めてまして……」
また二人が黙った。
街灯のショートするパチパチッという音と、虫の音が嫌に大きく聞こえる気がする。
「そっ……そうか、わたしはフラれてないのだな?
よ、よかった…」
よかった、と一人満足げに頷いてしばらくうつむいていた彼は、すっくと立ち上がった。
「も、もう遅いのだ。家まで送ろう」
わたしの手を取って立たせた零さんがそう言ったので、小さく呟いてみる。
「それだけでいいの?
ちゃんとした答え、聞かなくていいの?」
そうそうきけるもんじゃないわよ、わたしの告白なんて。精一杯の虚勢を張って、彼の顔を見る。困ったような赤くなった顔で、是非、と言った。……ははは、墓穴掘った……
「好きよ、零さん」
「……まいった。」
いつもわたしは唯ちゃんに置いてけぼりを食った子供みたいだったのだ。ちょっとは追い付けたかな。そう頭の後ろをぽりぽり掻きながら照れたみたいに笑った。
「中学、高校の時はいつも迷惑かけっぱなしだったし、それが居心地良くて。甘えっぱなしだったのが自分でも不甲斐ないなーと。
だから今の今まで言えなかったのだ。父ちゃんの仕事の真似事なんて始めて、問屋とかのいろんな人と会う機会もあってちょっと考えるところもあったから。」
街灯に照らされている零さんの顔にはちょっと影かあって、それは多分弱い街灯のせいじゃないと思う。
「まだ自分で何か出来る段階じゃないけど、今まで頼ってばかり居た自分よりは多少マシになったし、千絵ちゃんにずーずーしいとか言われちゃったし」
力なく笑ってまだわたしの方を見ない。目をあわせない。
「物月さんのこと、ちょっとは好きだった?」
零さんはパッと弾かれたように私の顔を見て、ふっとため息をついてからゆっくり笑った。
「唯ちゃんには負けるけどね」
唯ちゃんも物月さん好きだったんだろ?だから今まで知らんぷりしてたのだ。
お見通しだよ、というふうにそう言う。
「……しらんぷりって、わたしが?それとも零さんが?」
さあね。
背の高い青年が茶目っ気たっぷりにウインクして、さぁ帰ろう。親父さんが心配して泣いちゃうのだと、私の手を引っ張った。
日曜日。一通りいつものように食事の用意と家事をして、一息ついた頃に電話が掛かってきた。
「…説明させてもらえるかな?」
照れたような声で物月さんがそう言ったので、喜んでと返事をした。
「本当は会って話したかったんだけど、会っちゃうとちゃんと言えないような気がして」
そう言ってゆっくり話し始めた。
「零さん、わたしのこと最初から知ってたみたい。
でもフラれてすっきりしたのよ。今までの呪縛が解けたっていうか…わたしと零さんのね。
……羨ましかったの。零さんはもちろんだけど、なにより唯さんが。
長年悩ましてごめんなさいって零さんに伝えてくれる?」
電話の向こう側の声は明るくて、それが切なかった。
「わっわたし…わたしの方こそはっきりした物月さんにあこがれてたんだから」
「そう?こんな性格だから結構敵も居るんだけどね、高校のときみたいにはいかないわ…
……零さんはね、辛いことみんな溜め込んじゃうと思うの。でね、それを上手に隠せちゃうの。わたしは開き直っちゃったんだけど、零さんは優しいから全部隠しちゃったんだわ。
現にわたしのことだって全然気付かなかったでしょう?」
毎日会っていたのにそんな素振りを見せなかった。いつも笑ってて。…気付かなかった。
「優しいの。その優しさに甘えちゃったバツね。」
からっと笑って「大人になるわ」、最後に言い残して電話は切れた。
電話の向こう側の声がちっとも湿っぽくないのが彼女らしいと思った。
「物月さんだって優しいよ…すごく……」
そう呟いた時に、出かけた涙を食いしばった。
「やぁ唯ちゃん、迎えに来たよ」
今日はいつものジャンパーにジーンズじゃなくて、珍しく柄もののTシャツにYシャツなんか羽織っちゃっててなんだかおかしい。いや、おかしいっていうのはヘンって意味じゃなくて……
そういうわたしも出勤するのよりもいい服なんか出してきて、メイクだっていつもより時間をかけていたりしててね。
「じゃあ行きましょうか」
玄関でそんな会話なんかしてると、奥から歯ブラシをくわえたお父さんが出てきた。
「なんだ昨日は夜遅く帰ってまだ出かけ…おや零くん、おは…………………デっデートか!?」
パジャマのままわけの分からないテンションでお父さんが聞くので、私が言い返そうとした次の瞬間に零さんが遮って言った。
「デートです。娘さんお借りしますのだ。」
「もう、あんなこと言って!」
「恥ずかしかったら帰らなきゃいいのだ。手狭でよければウチは大歓…………あいやその」
しばらく他愛のない話をしながら電車に乗った。
「ところで唯ちゃん」
「なんですか?」
「電車で一体どこに行くのだ?」
ばたっ
「おおっ唯ちゃんどうしたのだ急に倒れて!?」
「れっ零さんが久しぶりにどこか行こうって誘ったんでしょ!?」
「ははっそうだったっけ?」
「もう、せっかくのよそ行きが…
で、みんなはどこで待ってるの?」
「みんなって?」
ずざー
「…唯ちゃん朝から元気だねぇ」
「誰のせいですか!」
「今日は二人だけなのだ。たまにはいいだろう?」
デパート、遊園地、レストラン、動物園、喫茶店……目が回りそうなくらいに走り回ってぐったりしながら夕方の電車に乗った。
一応市に向かう人々はこの時間帯少ないらしく車内はがらんとしていて、ほんの二、三人が椅子に座っているだけだった。
揺れる電車の振動が懐かしくて、少し目を閉じる。何か変な感じだ。零さんと二人でこの電車に乗るなんて、高校のときは思ってもみなかった。
「いやー今日は久しぶりに遊んだのだ」
満足そうにニコニコしながら零さんがそう言いながら動物園のパンフレットを読んでいる。
まったくもう、こんなに走り回るんだったらもっと動きやすい服装で来たのに。
「唯ちゃんもしばらくぶりに走り回って疲れたんじゃないか?」
「あ…あら、保育士の基礎体力ってけっこう凄いのよ」
このくらいでへばったとあっては、昭和の根性娘の名が廃る。
「…じゃあもう一軒行こう!」
しゅぴっと人差し指を立てて、零さんが提案した。
……い、いいけどね……
駅に着いて見渡すと、そこはなつかしの通学路だった。
「うわっ懐かしー。ねっみて零さん、あそこの駄菓子屋まだやってるよ。
ホラあのラーメン屋さん、みんなでラーメン食べたとこ」
懐かしい建物を指差しながら思い出に浸っていると、ようやく校門にたどり着いた。長く見なかった学校は少し古くなっていたようだが、あのときのままそこに佇んでいる。
「ねぇみて零さん、この桜。おっきくなってるー
うわーすごいねぇ、卒業式のときは咲いてなくて残念だったけどまだ元気なんだ」
見上げる葉桜は枝葉を伸ばし、随分大きな影を地面に落としていて時間を感じる。
「……ここで気付いたのだ」
振り返ると、懐かしそうな顔をほころばせて彼がわたしを見ていた。
「今でもその場所に焼きついてるよ、そうやって桜の木を見上げる女の子が涙を拭くのを見てたのだ。
風が吹いて髪が舞い上がる。左手で髪を押さえながら呟いてた。
……よく覚えてる」
遠くでクラブの掛け声が途切れ途切れに聞こえる。零さんの視線は高い桜の木から動かない。
「……みてたんですか?」
「見てたよ。」
「なんて言ってたか、分かった?」
「…いいや」
まだ零さんの視線が桜の木に向かっている。夕日が零さんの影を長くしている。
影を見て、思い出す。
奇面組と並んで話をしながら帰っていく零さんの後姿を、千絵と一緒に何度も追いかけたこと。
くせっ毛の影を遠くから見ていたこと。
「……零さんのこと、考えてた」
なんて考えてたっけ……もう毎日会えなくなるなぁって……ううん、それも考えてたけど……もっと……
「……そう……」
零さんはそれ以上何も聞かなかった。黙って桜の木を見ていた。
さわさわと風に揺られて桜の葉が静かに音を立てる。
「そ、そう言えばここで何に気付いたんですか?」
沈黙を破って尋ねてみる。感傷に耽って桜を見つめていた零さんが急に現実に引き戻されたような顔をして、照れ笑いをした。あの時と同じ、でもあの時と違う……零さんの照れ笑い。
「唯ちゃんが好きってこと」
自分でも鈍いなぁって思うのだ。認めるのに6年掛かるのはいくらなんでものんびりしすぎかな?言うのに5年もかけてりゃ世話ないのだ。
零さんがそう言って頭の後ろを掻いた。
「気付かなかった?
ずっと見てたのに。……物月さんも……」
ふとその名前が思いがけず口からとび出る。慌てて手で口を押さえるも時既に遅し……
「……唯ちゃんは物月さんが好きなんだね。
だからそんなに辛いのだ。」
今日あっちこっち走り回ってもちょっと上の空だったしね。
「わたしが物月さんにフラれるのが一番いいかなと思ったんだけど、それは卑怯だと千絵ちゃんに怒られちゃったのだ。
ちゃんと三人とも傷つきなさいって……ははっ、千絵ちゃんには敵わないな」
「……千絵が……」
いつも迷うと、困ると、強く手を引いてくれた友人を思い浮かべる。
「きっと豪くんが言いつけたのだ。全くあの夫婦は人の騒動が好…」
ぽたり。
「……あ、あれ?
おっおかしいな……あれ?
……なんで涙なんか……」
慌てて手で拭っても、後から後から涙が出てくる。溢れて……止まらない……
「……辛かった?泣けなくて……」
呟く零さんの声が優しくて、もっと泣けてきた。優しい手がハンカチで頬を拭いてくれる。ため息と小さな嗚咽で窒息しそうになる。
「確かに卑怯なのだ。唯ちゃんまで泣かしてしまうとは」
違う、違うの……
物月さんの優しさにも、零さんの優しさにも、千絵の優しさにも……気づかなかった自分が情けなくて……
「……物月さんに唯ちゃん泣かしたら承知しないからって言われたのだ。もう破ってしまった」
家に帰りたくないと言ったワガママを、零さんがきいてくれた。
初めて家に連絡も入れずに外泊をした。
優しくすべる零さんの手を本当にいとおしいと思った。
手のひらを合わせて二人の弾む鼓動を聞く。
心臓の鼓動とは裏腹にひどく落ち着いている自分のココロがおかしかった。
この人を好きになってよかった。変な実感だけれど、そう感じる。
……零さんも不安だったんだろうか……
『……零さんはね、辛いことみんな溜め込んじゃうと思うの。でね、それを上手に隠せちゃうの。わたしは開き直っちゃったんだけど、零さんは優しいから全部隠しちゃったんだわ。』
ふと物月さんの言葉が蘇る。
わたしなんかより、よっぽど零さんを分かってた。
でも……
「ね、零さん」
「……ん?」
背中から優しく抱きしめられているからよく分かる。返事をする彼の声がすこし沈んでいた。
「零さんもこれからは一人で辛いこと溜めなくてもいいのよ。
一人で泣くより、二人で泣いた方が賑やかでいいじゃない?」
そういうと、背中で小さく「うん」と聞こえた。
辛かったことも
悲しかったことも
ぜんぶぜんぶ、大丈夫。
今日、わたしは、しあわせなからだになった。
涙も痛みも全部詰まったしあわせなからだになった。
だからもう、大丈夫。
おわり。
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