Minority
鬼太郎と猫娘
いつもぼんやりしている男の子だった。
争い事が嫌いだった。
心の優しい、親孝行で温厚な変わり者だった。
誰も多分妖怪だなんて思わない。思いもしない。
仲間を裏切り続ける妖怪でも信用し続けるようなお人好し。
そういう子だった。
でも彼は幽霊族最後の生き残りで、絶大な妖力を持っていた。
そして、決して相容れぬ身勝手な人間との共存を強く望んでいた。
彼が何故そうするのかは、幼い私には分からなかった。
正義というのも解らなかった。私が彼を助けたのは、ただ彼が彼だったから。彼の信念に賛同したわけではない。未だに彼が何故そうしていたのかは解らない。
それは私が「人間離れしている」からだろう。
私は人間社会と共存する事を選択し、私は人間に紛れて「人間になった」。
風のうわさで聞くと、彼も「人間になった」らしい。
元々彼は人間に近かったし(何より彼は第一人類だ)、私よりずっと上手く「人間になって」いるだろう。
私はもうずいぶん前から彼と会っていない。
彼は成長する。
私は成長しない。
私は永遠に「猫娘」のままで、彼は人間のように歳を取る。
歳を取らない私は人間に化けることが出来る。だから人間をまねて毎年歳を取るように化けた。妖怪の理屈の通用しない世界で生きるのは大変だったけれど、毎年毎年「人間であり続ける」うちに、何とか形になってきたらしくて、少しずつ「人間離れしている」とは言われなくなった。
その度に、仲間の妖怪達との距離が出来ているようで悲しかった。
彼とは違って帰る家が人間界にない私は、今も人間達の言う「妖怪の森」から人間界に通っている。砂かけのおばばや目玉の親父さんは、人間として生きている私はここに帰ってきてはいけないと言うけれど、私は彼の息子のように「長く人間を演じる」事は出来ない。息抜きをしないと気がおかしくなるからだ。
私は妖怪だから。
最後に彼に会ったとき、彼は言っていた。
「ぼくは人間になるよ」
私はそれを聞いて、少なからずショックを受けた。
まさか彼が妖怪である自分を否定するとは思ってもみなかったから。
今は、彼が言った言葉の意味が分かるような気がする。
彼は、人間に恋をした。
幽霊族は、幽霊族間でしか、子供を作れない。
幽霊族の寿命は、人間よりずっとずっと長かった。
★
「ねぇ鬼太郎」
「なんだい」
まるで骨董品のような古くさいアパートの一室。カビの匂いも古めかしい、昭和初期の映画に出てきそうな年季の入った木の天井。節目がまるで人の目のように見える。
「また会いに行ったんでしょ」
「誰に?」
ぼんやりとした声が聞こえる。疲れたような、やる気の無いような、諦め切ったような、抑揚も感情も薄れた退屈な声。
「夢子ちゃんよ……ああ、もう『ちゃん』だなんて歳じゃないわね」
「………………。」
「結婚して、子どもはともかく孫まで居るんだもの。鬼太郎はまだ高校生やってるけど」
二日三日干していないのだろうか。ぺたんこの布団はいくら体温で暖めても、なかなかぬくくはならなかった。妙にひんやりとした布団は、紅潮した頬には気持ちが良かった。
「……未練がましい?」
自虐的な嘲笑の混じった言葉は、彼らしくもなく同情を乞うているようだった。
「…遠くから見つめてるしかできないのは未練がましいって言うわね。
最近じゃそういうのを『かーすと』って言うんだって。この前テレビでやってたわ」
「…『ストーカー』だろ?
別にぼくは犯罪めいたことはしてないぞ。ただ公園を通る夢子ちゃ…夢子さんを眺めてるだけ。」
「時間をわざわざ合わせて散歩に出て行って?そーゆーのは立派な『かーすと』だと思うけどな。」
そしてそんな彼を頻繁に見ている自分も、多分『かーすと』だと心の中で嘲った。
「…………そうかな。」
「まだ諦めきれない?もう40年も経つのに。」
「……まだ40年しか経ってないのさ。」
たったの4日ほどしか経っていないようだよ、と彼は目を細めた。妖怪が人間の何百倍以上生きれるからと言って、時間の感覚が違うことなんかないのを知っているはずなのに。
「鬼太郎って割としつこい性格ねぇ」
呆れるしかなくなった私は、本当に呆れた声でそう言った。
「それは猫娘も同じだろ?
何度もぼくと会っては無駄なことしててさ。……駄目なんだよ、何度しても幽霊族は幽霊族とでしか子どもは出来ないんだから。」
ぼんやりと天井を仰いで、私の頭が乗っている左腕を動かした。
「あら、猫はしつこいものと相場が決まってるのよ。」
その左腕に食らいつくように、私は彼を放さない。それとなく腕にしがみついている。
「……そんなに頼りないかな、ぼく」
「なによ、藪から棒に。」
「猫娘が僕の家に来るのは、僕のこと心配してるからだろ?」
私のことを決して見ず、夢も現もわからないような不安定な声でそう言った。
「父さんやみんなは元気かい?もうずいぶん会ってないな、しばらくぶりにみんなに会いたいよ」
「…またそんなこと言って…どうせ帰ってこないじゃない。
親父さん、ずいぶん心配してるわよ。最近手紙が来なくなったって言ってたわ。手紙くらい書いてあげなさいよ。砂かけのおばばも子泣きの爺さんもずっと気にしてるんだから」
「……ああ、うん。
でもヒマが無くてね……これでも一応受験生なんだからさ。」
「浪人生、の間違いでしょ…」
4年に1回の閏年に肉体的な歳を取る幽霊族の鬼太郎は、もうじき18歳になる。
……本当は、もっともっと歳を取っているはずなんだけど、人間の戸籍上はそうなっている。どういう操作をしたのかは知らないけど、まぁねずみ男のやることだから、相当手抜きして適当にでっち上げたのだろう。それでもまかり通ってしまうんだから、人間界なんて出鱈目なところだ。
「受験、結局しなかったくせに」
「……結構大変なんだよ……特待生とかは」
ぼんやり、ぼんやり、口を動かして、のろのろと言葉を綴る鬼太郎は、まるで何か別のことを考えているようにぼそぼそ喋る。
「…今度こそ、出来てるといいね、赤ちゃん」
半妖怪と幽霊族の子どもってどんなのだろうね、まぁぼくは元気なら妖力なんてどうでもいいや。鬼太郎は今までと同じ調子で続けた。もう妖怪とは縁の無いような、ずっと遠い場所に行ってしまった彼は、しばらく天井の端に目をやっていた。
「ねぇ……どうして帰ってこないの?
まだ夢子ちゃんが忘れられないからなんて事はないんでしょ?どうしてこんな狭い人間の住処から離れないの?親父さんも、みんな心配させてまで居る意味があるの?
……私じゃ、だめ?」
…わかってる。
……わかってる。
………わかってるよ。
解ってるけど聞きたいのよ、あなたの口から。
何度も何度も聞きたいのよ。いつか何かの拍子で変わっているかも知れない、変わらない答えが。
「…何度も聞くんだね、猫娘は。
僕がここにいるのは、人間の側に居なきゃ、解らないことだってたくさんあるからさ。
夢子ちゃんは、長い間僕と一緒にいたから、ちょっかい出す妖怪がまた現れるかも知れないだろう?だからちょくちょく挨拶に行くだけだよ。」
さすがに孫もいる人を思い続けるほど気は長くないよ、僕。忍び笑いをしながら、鬼太郎はこっちを向いて「好きでもない子と、こんなことするもんか」と、私の頬を摘んだ。
「…いっつもこうやって騙されてるような気がする…」
私は今日こそ言おうと思っていた言葉を、また飲み込む羽目になった。
本当は言いたくない言葉。
だからなんだかんだと理由を付けて言わないように仕向ける。
言ったが最後。終わってしまう。
長い間この世にいる妖怪は、人間の言う「死」とか「破滅」とかに鈍感だ。
でも私は違う。
私が人間の世界に行って真っ先に覚えたのは、そういう負の感情だった。
負の感情は心を敏感にさせる。臆病者ほど長く生きるものだと、一体誰に聞いたんだったかな…
「騙してなんかないよ…猫娘…」
私には名前がない。
人間用の名前がない。
同じ所にずっと居続ける事が少ないから、いつもその場しのぎの名前を使っている。
だから私には名前がない。
『猫娘』というのは便宜上の呼び名で、名前ではない。
名前を呼んでもらえないということは「そこに居ない」ということだ。
私はどこにいるの?
『田中ゲタ吉』の隣で寝そべっている私は誰?
「ねぇ鬼太郎、私、名前が欲しいわ」
★
「猫娘は人間になる気なのかい?」
「……そんなんじゃないよ」
「急に名前が欲しいなんて言い出すから」
「鬼太郎だけが呼んでいい名前を付けてよ。そしたら私、鬼太郎の物になる」
「…物になんかならなくていいよ。猫娘は猫娘の好きなように、生きていけるんだから」
「生きてなんかいないよ、生きてなんかないよ!
鬼太郎が居なくなってから、私はずっと人間でも妖怪でもない……何だか解らないものになっちゃったんだから!
鬼太郎が居ないと、私は居なくなっちゃうのよ。ここから、消えるんだから!」
そうヒステリックに叫ぶと、鬼太郎はきょとんとした目でしばらく私を見ていた。
「鬼太郎の側に居たいよ。
誰にも渡さないように、ずっとそばに……」
じいっとしばらく押し黙っていた彼は、急にまたぼんやりとした声で言った。
……僕たちはもう会わない方がいいよ。
これ以上僕が猫娘の近くにいると、猫娘までおかしくなるから。
僕は人間になるよ。
その言葉が言った鬼太郎本人にもひどく上の空で、私は何だか泣けてきた。
鬼太郎は本当に妖怪とも生き物とも違う「なにか」になってしまったんだと思った。
人間になんかなれるわけないのに。
鳥が魚になれるわけないのに。
涙も出ないのに私はひどく泣きじゃくった。
それから鬼太郎には、会っていない。
会いに行くのを、私がやめたから。
私はもうずいぶん前から彼と会っていない。
=了=
題訳:未成年・少数・少数民族
9:37 01/04/08
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