伊邪那岐命とJean Henri FABREによろしく
なびき と 乱馬
……ああなんてこった。
またやってしまった。
隣の部屋には名目上の許婚が寝てるってのに。
下の階には許婚の姉さんと親父さん、客間には自分のクソ親父まで寝てるってのに。
おれは一糸纏わずベットの上、髪も乱れて桃色吐息。
「なに脱力してんの」
ショートカットで釣り目の美人がニヤニヤ笑いで煙草のケムリを吹きかける。
「……髪に、匂いが移る」
「あら、ごめんあさぁせ」
ドロドロで粘っこい彼女の唇の中はとげとげしいメンソール煙草の味がした。
1
黙々と朝食を食べる。
許婚さんはまだ起きてこない。
彼女の一番上のお姉さんが起こしに階段を登っていく。
とんとんとんとん。
「おねえちゃん、寝かせといてあげなよ。まだ七時前なんだから」
たまごやきを一口頬張りながら襖に向かって声をかけるその顔は朝の日の光に相応しい笑顔、対面に座っているおれはといえば昨夜の疲れで目の下に隈でも出来そうな夜の顔のまま。
必死に夜の匂いを消そうと何度も何度も髪を洗い、石鹸が半分になるほど身体をこすった。おかげでウインナーを口に放り込んでもシャンプーの味がする。
「毎回ご苦労なことよね、朝風呂なんてさ」
箸でひょいと南京の煮物を掬い上げた。おれの。
「なびきねーちゃんの匂いがしねーよーに気を使ってんだよ」
これが他の奴ならやり返すところだが、特に反応も無くサラダを頬張る箸を休めない。
「あらウレシイ。あんた実はやさしーのねぇ」
けらけらいつも通りに笑う彼女は、おれのことを普段は“乱馬くん”と呼ぶ。
誰も居ないか、誰も見てない時だけ“あんた”という。
きらきら輝く日の光の中でニヤリ、夜の顔の女が眼の奥に闇を湛え現れた。
その笑いに戦慄するおれの正座している足の間に、なびきねーちゃんの細い足が差し込まれる。
「……おっ、おいっ!朝――――――」
「大声出したら聞こえるんじゃない?」
頬杖つきながら咥え箸、右手で俺の左手の指の股をすこし長い爪でカリカリこそばせる。
ズボンの生地は冬服ゆえに厚くて重い。にも拘らず、その向こう側の足指は靴下をものともせずに自在に動いている。まるで小さな子供の手のように。
「朝から元気ィ、昨日あんだけ抜いたってのに」
「やめっ…ここは鍵の掛かるお前の部屋じゃねーんだぞ!」
「声、でかいよ」
くすくす笑い、足の指は止まらない。押したり引いたり、もぞもぞむにゅむにゅモドカシくも巧みに男をいたぶる校則遵守の白いハイソックス。
「顔が夜のままだから一発抜いてあげよーってんじゃない。あたしはキミのことを本当の弟のように大切に思ってるの、居候だからって遠慮しないで思う存分甘えていいわよ」
耳に付く夜の声。
おれの首筋に噛み付く時の。
ゾクゾクぶるぶる、背筋が硬直して腹筋に勝手に力が入っていた。
「お、おめーは実の弟の股間に足を這わすのか…っ!」
「ドラスティック・ケア(抜本的治療)ってやつよ」
「ドメスティック・ギャング(家庭内暴力団)の間違いだっ」
「あらあら、朝から英語のテストでもあるの?」
いつの間にか背後に立っていたかすみさんが、にこにこ声を降らせた。
衝撃。
決壊。
ホワイト・アウト。
「うん、一時間目にね。
それよりあかねはどしたの、おねーちゃん」
「それが今日は熱があるって言うのよ、起きられないみたいだからおかゆを持っていくわ」
二人の会話なんか耳に入らない。
白濁、混迷、消失寸前。
気がついたら足の感触なんて遠に消えてて、残るのは体温と、じっとり最悪な下着。
今朝も負けた。
たった一度も勝つことは愚か、逃げおおせた事さえない。
現状を打破したいと思わなくなってどのくらい経ったかすらもう忘れた。
危機感まで奪っちまって、この女は一体おれをどうしたいんだ?
「なあ、何でこんなこと……おれ何かしたか」
下着もズボンも取り替えたあと、彼女が学校に誘うので並んで歩く。いってらっしゃいと微笑むかすみさんを背に、首に鎖をつながれたイメージで玄関を出た。
「……なにかですって?あんたまるで心当たりがないの?」
低く暗い腹の底から押し出されたような声。まるで呪いみたいな。
「い、いや……」
数歩後ずさりをしながら、頭の中で心当たりを探ってみても別段思い当たることなどない。どうせまたいつもの言いがかりな様な気がするのに、見たこともない彼女の怒気に気圧されて動けない。
「言っとくけどあたしはあかねみたいに単純でもお人よしでもない。
一度怨んだらしつこいんだから――――――覚悟することね」
「う、ウラミ?覚悟ってなにを……」
舌が顔とシンクロして引きつり、声がみっともなく裏返った。背にじっとり汗をかく。策略・知力・政治力、どれをとってもおれが敵いっこない。
「心当たりが思い出せるまで精々のた打ち回るといいわ」
ほっほっほっほ。
高笑いが遠ざかっていく。
道端に取り残されたおれは何度も何度も頭の中をフル回転させながら彼女に関する記憶を探ってみたが、近頃特に何もない。
そのはず。
「お、おいなびき!おれが一体なにしたってんだよっ」
「さぁね」
離れていく素っ気無い背中は振り返る素振りも見せない。
「インケン!ケチ!根性曲がり!」
「幾らでも遠吠えてなさいな」
余裕しゃくしゃくでタバコ屋の角を曲がって彼女は見えなくなった。
……あかねならこのくらいの挑発にすぐ乗ってくるのに。
2
「よお、九能センパイ」
「うぉのれ早乙女乱馬!昼休みの鍛錬中に気軽に人の爽やかな頭を踏みよって!」
空を切る鋭い木刀の突きが滅多らに繰り出されて音を出す。毎度思うけどこんだけ軽がる木刀振り回せる力で狙い定めて突いてくるなよ。うっかり一般人に当たったらどーすんだ。
「まあまあ、ちょっと折り入って話が」
「無礼千万の輩の話など聞く耳持たんわ!成敗!」
「なびきねーちゃんの話っ!聞け!」
振り下ろす直前のポーズで一旦停止した後、ゆっくりと木刀の切っ先を下ろして闘気を強制終了する。九能センパイもあのねーちゃんは苦手なのだ。
「―――手短に話せ。今の天道には積極的に関わりたくないが―――」
木刀を防具袋の鞘に収めながらくるりと背を向ける。どうやらまともに話を聞いてくれるらしい。訝しげに眉を顰めるおれの顔を一瞥して言う。
「同じ家に居て解らんか?ぼくは近くの席に居るだけでも恐ろしいぞ。
一体何に向かっていきり立っているのか知らんが抜き身をぶら下げて闊歩しているようではないか」
「……こっちが聞きたい」
「あの家でお前が一番下の身分だからな、どんな折檻を喰らってるのか想像するだに身の毛がよだつ」
ぞわぞわ総毛立つ背筋を庇うようにセンパイは小さく頭を振る。
「なんにせよ下手に逆らわんことだ。あの女は意外に温厚だが一度怒らせると死ぬまでいびり抜くぞ」
過去にそんなことがあったのか、何かを思い出すように青い顔をしたまま出来るだけ簡潔に話を済ませようと結論を急ぐセンパイが防具を担ぎ、ドアに向かって数歩進んだ。
「センパイ、本気で好きな女いないわけ?」
その後姿に出来るだけ気楽な声をかける。
「――――――天道あかねとおさげの女、それでは不満か?」
ぴたりと歩みを止めて少しの敵意を孕んだ言葉が背越しに向けられる。ぽかぽかぬくい日の光。頬を撫でるすこし冷たい北風。
「どっちも手に入らないって知ってんのに?」
防具が落ちる音が聞こえる前に胸倉をつかまれていた。何たる踏み込みの速さ、さすが自称風鈴館高校の青い稲妻。
「ぼくはデリカシーの欠片も持ち合わせない鈍感なウスラトンカチがこの世でいちばん嫌いなのだ。
貴様と天道あかねがどういう結論を出そうが最早ぼくに関与する手立てはない。だが天道あかねを泣かすような真似をしてみろ、その身体を史上類を見ないほど正確に蜂の巣にしてくれる」
冷たい目と淡々とした声に怒りは感じない。ただ底知れぬ恐ろしさと威厳にも似た迫力はおれを圧倒するには十分だった。
「貴様が泣かせる人間は片手では足りんことを肝に銘じておけ。
個人的には天道なびきを応援してやりたいところだが孤立無援の人間を突き放すのは性に合わんから忠告はしてやる、が援護を頼もうなどと浅ましい考えは起こすな」
真面目にしてればいいセンパイなのにな。ヘンタイだけど。
ぼんやりそんな事をうわの空で思った。
「もしかしてグルだったりするわけ?」
「……フン、現実逃避か?見苦しい。
貴様は美学すらないのか。苦し紛れのその場しのぎと、醜い見栄しか感じない。天道あかねも何が良くて惚れたんだか理解に苦しむな」
投げ捨てるようにおれの胸倉を突き放して手を払いながら、今度こそ淀みなくドアに向かって歩いていった。防具を掴んでいまいましげにドアノブを引き開ける。
「いいか早乙女乱馬、お前の周りに居る人間は笑いたくて笑ってる奴ばかりではない。
そいつがどういう意味だかわからないなら天道なびきの怒りも収まることなどないだろうよ」
バタンと鉄のドアが閉まる。
屋上に取り残されたおれはひとり、ぽつんと立ち尽くして視線を落とした。
11月の低く暗い空、すこし冷たい風、自分の短い影、コンクリートの床、擦り切れた上履き。
3
スチャラカの親玉みてぇな九能センパイに真面目に説教されたあとのことは良く覚えてない。
気付いたら自分の布団に包まってた。頭の中が真っ白で、そのくせずっと正体不明の何かがグルグル渦巻いてて気分が悪い。
悶々としていたら廊下で足音がした。身を隠すような忍び足に背筋が凍る。
襖がすっと音も立たぬ間に閉じられて、おれの布団を見下ろすところで足音が止まった。
「お父さんとおじ様は町内会の寄り合い、おねーちゃんは友達と旅行で今日は帰らないそうよ」
次第に布団以外の重さが増えてゆく。
「あかねは風邪薬でよく寝てるし、今日は手ぬぐい噛まなくて済みそう」
ゆるゆると布団の中に差し込まれる細い腕がおれの服をそっと掴む。ズボンを捲り上げて冷たい指が腰骨を辿っている。
「あ、や、やめ……っ…」
「あたしウソツキって嫌いじゃないわ」
頭の中がめちゃくちゃで気分最悪だってのに、律儀なおれったらいつも通り鎌首もたげちゃって嫌になる。
「あは…もうこんなにしっちゃって。
そりゃトイレに篭っちゃう16歳だもんねぇ、大変よねぇ、女所帯だしねぇ」
くすくすくすくす耳をくすぐる甘く掠れる囁き声。なんてエロいハスキーボイス。
細く冷たい指が鈴口をくりくり撫でる。指紋の凹凸がビリビリ電気を発してるみたいにズクズク腰のあたりがひどく疼いた。
「あ、あぁ、ああぁ…っ…く…ィ…」
親指がシャープペンシルをノックするみたくに、ぱちゅ、ぱちゅと何度も叩く。シャフトを握っている全ての指はそれぞれ別々の生き物のように強く弱く側面を擦り扱きながら。
「最初からこんなに擦ってんのに痛くないのぉ?あんたってほんとマゾよね」
「だ、誰がこんな身体にし……っくぅッ」
「乾いたまま無理矢理擦られてカウパーどばどば出してる人間が何言ってんの?
ねえ、イきたい?まだ2分も触ってないのにもうイきたい?
外から帰って氷みたいに冷たかったあたしの手が真っ赤になるほどギンギンなこれをイかせて欲しいんでしょ?」
あはははは、みっともない、あんた懐炉代わりに擦られてイっちゃうんだ?悲惨、こんな事いやだって泣くくせに、こんな事されて感じちゃう?
あんた九能ちゃんにチクろうとしたみたいじゃない、バカねあんたの味方になんかなってくれるわけないでしょ。九能ちゃんって意外に真面目なのよ、あれでもあかねのこと真剣に心配してんの。
絶望的で無慈悲なことを珍しく饒舌になっている彼女が嬉しそうに言う。その言葉が脳みそに引っかかるかどうかという寸前に、怒張の上を踊る指が力を込めたりスライドしたりするのでおれは気が気ではない。
丹田にあらん限りの力を込めて声を殺そうと身体を緊張させるほど、首筋に降る生ぬるい舌のナメクジが七転八倒した。
「ま、まずいって、ここじゃ、ほんとに」
引きつり震える喉がひどく間の抜けたことをセリフにしている。
「いいのよここで。
さあ顔を上げなさい、なにしてんのほら顔をあげな、あんたが見て貰いたいのは張り詰めてるコレじゃなくてその表情なんでしょ?」
くいと伏せていた顔を人差し指で持ち上げられて、彼女の切れ長で吊りがちな目が厳しさを増し、眉がギリギリ引きあがる過程を見せ付けられた。何より恐ろしい眼差しはどんどんおれを追い詰める。
くっと瞳の瞳孔が広がったのを見た気がした。
びし!ビシ!びし!ビシ!
「ほら、ほらァ!なに目ェ閉じてんの!武道家が攻撃から目を逸らすなんてご法度なんじゃない!」
平手打ちが何発も何発もクリーンヒットした。なんともしなるいいビンタ。力が無いなりに激しい音と執拗なラッシュが頬を打つ。
びしびしびしびし、時々失敗して耳も打たれるから耳がキンキンいうし、ダメージ自体はさほど重大でないものの、やっぱり痛いものは痛い。何度も頭を左右に持っていかれて焦点が定まらないことも脳を撹拌するいい材料だ。
「ビンタされてんのに勃ちっぱなしじゃん、こんなことされて萎えないわけ?
ははっやっぱあんたヘンタイだ。サイテーよ。こんなんじゃあかねに嫌われるのも時間の問題、手っ取り早くバラしてあげてもいいのよ。あんたの許婚ってのは真正のマゾ野郎だってッ!」
何度となく許しを乞うセリフが唇の裏まで出かかったが、それさえ許さないように何発も何発も、濡れた彼女の手が唸って降り注ぐ。視線を走らせると彼女の手はもう燃えるように真っ赤に晴れ上がっていて、打たれているこっちが不憫になった。
息切れを整えもせずに何かを言っているらしいのだけれども、耳は純度の高い金属をぶっ叩いたみたいな音しか聞こえないし、よしんば聞こえたとしても吃音だらけの発音がちゃんと意味を成すとも思えない。
音がほとんど聞こえないまま適当に相槌をうっていたら吊り上がってた彼女のまなざしが融けるように柔らかくなって頬を撫でられた。ビリビリ電気を帯びるように痛んで触れられるだけでもひどく苦痛だったけれど、やめてくれと叫ぶ気など起こさせてはくれなかった。
体温が上がって真っ赤に染まっている唇が眼下で動く。
『したい?』
ぬるぬる鈍く光る舌が握るそれを遠くから舐め上げるようにちろちろ見えた。色の魔力、おれはすっかりエロ野郎。あの器用に動く舌で思うさまこのままらなぬ怒張を嬲って欲しい。
ああおれときたらなんてマヌケな薄情者だろ。あんなに頭に渦巻いてた九能先輩からの忠告なんかすっかりふっとんで、気が付けばおぼつかぬ言葉を搾り出していた。
「し、したい、です。」
けらけらけら彼女が笑う。いいわ、させてあげる。正直に言ったご褒美よ。
柔らかい身体を組み伏せて顔も見ず、何度も何度も何度も何度も、声を殺して手ぬぐい代わりに指を彼女の口に無理矢理突っ込んで、何度も何度も何度も何度も。
両方の手持ちのスキンが品切れになるまでずるずるだらだら、結局2時間近くもお互いの体をむさぼっていた。
ただでさえなびきねーちゃんのにおいは全身に染み渡ってもう二度と抜けないような気がしておっかないのに。
4
照り渡る夕日が消え去って久しい。家々の屋根は日が落ちたあとの青に染まっていていつも通りに無表情だった。ヒリヒリ熱い頬は冬を控える乾いた冷たさの風にさらすと心地よかった。
なびきに責められたあと、おれはいつも屋根に登る。
天道家で誰もこない場所といえばここくらいしかない。ぼんやり黙って町並みを見ている。
「乱馬、どしたかこんなとこで」
不意にあの独特のイントネーションで声を掛けられた。振り返るでもなくべつに、と素っ気無い返事。
「……近頃よく屋根のぼてるな。なにかあたか」
おかもちを下げながら彼女がそんな事を聞くのではっと咄嗟に頬を庇うように俯いた。
「屋根に長く居ると風邪引く、家に入るよろし」
「――――――シャンプーは……おれのこと、好き?」
「なに当たり前のこと言てるか。わたし日本来たの、乱馬のため。ここに居るの、乱馬のためね」
「じゃあおれがお前のこときっぱり振ったら、中国帰んの?」
きゅ、と背後で唇を噛む音が聞こえたような気がした。空気が軋む。
「……わたしのこと、きらいか」
「嫌い…じゃねーけど……好きでもないと思う」
「…………そうか……」
「殴ってくれよ。気ぃ持たせて……悪かった」
「乱馬はあかねが好きなのか?」
「分からん。どうなんだろな。今そんなこと考えらんねえんだ。」
台詞にかぶせるようにすわりの悪い声でシャンプーは訊ねる。
「待ってたらダメか?」
「……かわいーこと言うな、これ以上ひどいセリフ言わせる気かよ」
「立派立派。見直しちゃったぁ」
松の木に背中を預けて足の爪の手入れをしているショートカットの女がわざとらしく声を上げる。おれは返事もしない。
「さっきの今でさっそく有言実行ってとこが素直でいいじゃなーい」
耳とかバシバシやっちゃったから適当に返事してんのかと思ったら案外冷静なのね、ちょっとガッカリしちゃった。ぱちんぱちんと爪を切る音を静寂が妙に耳に残す。
「それともあたしがここに居るのを知ってて強がっただけ?単なる本音だったりして。苦悩に煩う自分に酔うのはさぞかし気持ちがいいんでしょうねえ」
次は誰かなー、うっちゃん、あかね、九能ちゃんの妹なんて厄介なのも居るわねー。聞こえるはずのない爪ヤスリの音や粉を吹くまで聞こえてくるような気がする。しゃかしゃかしゃか、ふーっ。
目の前には青、闇の寸前の青。西の空はまだ気持ち明るくて雲がない。胃がもたれている。全身に蔓延するオーバードーズが逆巻きもせず乱れもせず、整然と並んで胃を押し上げているのか。
この人はこうやって、いちいちおれの後をつけ回してはおれの脳みその中身を予言する。決して物知り顔でも寛容でもない、まして忠告なんかでは絶対ない冷たい言葉で。
目の前に広がる今にも消え入りそうな西の光に向かって当て所なく走りたい気持ちになったけど、その前にまず言えない言葉を形にする作業から始めなければいけなかった。ここで逃げ出したらもう自分の無知と臆病に一生勝てない気がするから。
けれどどんなに一生懸命頑張っても胃を重くしている何かに姿を与えることは出来ないのだ。少なくともおれ自身には。語りえぬことには沈黙せねばならない。
「あんたのは言葉足らずでも不器用でも、当然ナイーブなんて高等なもんでもないのよ」
気味悪いほど優しく柔らかい口調がふた呼吸ほど置いて聞こえた。
「単なる卑怯もん」
言い方を変えた方がいい?原理的童貞、精神未熟、思考ロジック陳腐、思いやり貧乏、内証不全、想像力欠如、自己愛過多――――――
指折り数えるように単語を折り重ねて最後に「あ、片仮名二文字にいい単語がある。ゲス。」と締めくくった。
「ここにあかねが居たらきっと言うでしょうねぇ。『ひどいよお姉ちゃん、乱馬にだっていい所あるわ。ときどき優しいし、危ないときは助けに来てくれるし、なんだかんだ言って根は善人なのよ』」
わが妹ながらそのいい子っぷりに寒気がするわな。ぴしゃりと断罪しながらも声はすこし和らいでいて、ほんのちょびっと救われる。
「でもね乱馬くん、あたしは思うのよ。優しさと優柔不断は別物だし、甘えと弱さは同列に置ける単語じゃない。それを混同してなおかつ出すべき場所を適確に選択出来ないでいるバカ野郎こそハタ迷惑だって」
こんなこと言ったところで意味ないんでしょうけど。九能ちゃんがあんだけストレートに物言ってるのにまだ理解してないんだからね、それだけ言い捨てた後は静かになる。
はっと気付くともう西の空はすっかり闇が始まっていていくつか雲が浮いていた。
わかってる、わかってる、もううんざりするほど解ってる。緩急付けて気を抜いた所へ鮮烈な言葉のパンチ、見事に急所を捕らえてて一言だって返せやしない。
落ち込んでるわけじゃない。爪先や皮膚や髪の毛や、そういう些細で取るに足らない場所がジクジク慎重に切り取られていくような心地で、これは自分の良心やら反省やら自尊やらが上げてる悲鳴なんだなと他人事のように思う。
なびきのように「違う言い方をすれば」、希望とかいうやつが堪えているのだ。
挫ける?なんて高尚な響き。今のおれにはその侮蔑すらもったいない。
5
「乱ちゃんはなー、うちが言うのもおかしな感じやけどええ男やで?」
そら怨んだこともあったけど、逆に言うたらそない恨みが残るくらいうちが好きやったってことやしな。コテを振るう腕も勇ましくぺしぺし次から次へとモダンミックスをひっくり返す。
お好み焼きうっちゃんは最近店にお持ち帰り用の小窓を付けてご近所の評判も上々だ。ちょっと頼めば個人ニーズに合わせた変わり焼だってお手の物。こないだは小麦粉アレルギーの人でも食べられるようにと米粉のお好み焼きを作ったそうだ。おれとは違って世の中を渡るだけの器が滅法大きい。
「……そお?」
「せや、まあその代わり悪いとこも売るほどあるけどなー」
あはははは。明るく笑いながらも商売の手は緩めたりしない。お持ち帰りモダンミックス5枚、3750円になりますぅー毎度おおきに、また来たってなー。
「例えば都合が悪くなったらこないしてうち頼ってくるとことかサイテーや。」
にこにこ顔は崩さないし、口調だってちっとも湿っぽい所なんかない。笑い話の延長のまま話が続いている。
「うち乱ちゃんの愛人とちゃうで」
午後8時半、店内にはもう人が居ない。店じまいももうすぐだ。配達に行った小夏もじきに帰ってくるだろう。
「…………やっぱおれって最低?」
「それでもええて言うのうちくらいのもんや。
あかねちゃんはそらええ子や、うちかて嫌いやない。せやけど乱ちゃんは手に余ると思うわ。これから先結婚して、子供生んで、人生やってくにはええ子過ぎて耐性ないんちゃうか」
恐ろしくも的確なことをずばずばいう彼女は鉄板の上で持て余しているおれのお好み焼きをすこし切り取って口に放り込んだ。
焼きすぎや、せっかくのソースが焦げ臭うなっとる。
「それでも乱ちゃんがうちやのうてあかねちゃん選ぶ、ゆうんやったら、そらしゃーない。せやけど、もしそないな事になったら絶対、一番にうちにゆうてな。
一番最初に乱ちゃんにヤキ入れんのだけは、ぜったい……うちやないと…いやや」
じゅう、じゅう、と二回水滴が蒸発する音が聞こえた。おれはもう居たたまれなくなってせつなくて、俯くしか仕方がない。
「……なんでうちやないんかなぁ。うちのどこがあかんのやろ?
料理は職やけど、洗濯も掃除も繕い物も、みな出来るように頑張ったんやけどなぁ……」
乱ちゃんは根っからの武道家やから銭稼ぎも上手ないやろし、うちら最高のカップルや思うで?
うっちゃんはぐしぐし、と何度か啜り上げてはぁ、と溜息をついた。
あかん、男の前で泣くなんてうちの美学に反するわ。こないな卑怯くさい涙はいかん、いかん、思ても止まらんから……ほんま、いかんねん。彼女は何度もいかん、いかんと独りごちる。
ごめん、と幾度となく口の中で反芻した。鉄板乗り越えて抱きしめてやりたい衝動を押さえるのが大変だった。背中を抱いて優しいセリフの一つでも言えたらどんなにか楽になるだろう。
でも、しなかった。そんなことしたらよけいうっちゃんが泣き出すような予感がしたから。
「乱ちゃん、うちが女やて知ってから、うちのことちょっとでも好きになったことある?」
浅く短くおれは頷く。軽く細く唸り声を上げる。
「あかねちゃんのことよりも?」
なんでみんなおれとあかねを関わらせたがるんだ?許婚ってんならうっちゃんのが先なのに、と口の中でもごもご言いつつ、その不鮮明な言い訳に黙って耳を傾ける彼女に返事をする。
「あかねなんか関係ねーだろ。許婚なんて親が決めただけだし、今んなの考えてる余裕ねえよ」
誰から何度訊かれたってそう言うよ、とおれは返したが、彼女の凛とした声はそれを許さない。
「……言葉と態度が心を伝えるなんて思い上がりや」
真実と現実がすべてや、言うのと同じくらいあほらしい。うっちゃんはきっぱりそう断言した後、おれをついに一度も見なかった。
6
「今日はもう帰ってこないのかと思った」
セリフとは裏腹に全てお見通しでございというにやけ笑いが張り付いた顔も恐ろしく、玄関先に待ち構えていたのは大ボスさま。
「逃げ込んだ別宅にも振られちゃったんだ?その顔で『シャンプーと同じようにケジメつけてきました』なんて言うならその度胸誉めてあげるんだけど」
やあね甘えったれでみっともなくって。傷付いたボクを優しく慰めてくださいってかぁ?嫌でちゅねー、傷付くのが怖い人は他人を傷つけることに鈍感で。
「一番ヤなタイミングで一番ヤな役目負わされちゃって。便利使いも程ほどにしなさいよ。あーあうっちゃんったらカワイソー。」
べらべら滑らかな彼女の口調はそこでぴたりと止まってさっさと台所へ引っ込んだ。毎度そうだ、おれの忍耐が切れる寸前でやめる。おれの顔も見ずに彼女はそれがわかるのだ。
追い詰めて追い詰めて、自分の身体でがんじがらめにして、なびきは一体おれをどうしたいんだ?
ぴかぴかに磨きこまれた玄関の御影石にはぼんやり情けない顔の自分が映っている。茫然自失って四文字熟語の一番に合うマヌケ顔だ。
おれは無言で導かれるように二階へ上がる。下の階でなびきが何かを言ったようだが最早それが日本語としておれの耳に認識されることはない。足音を忍ばせ…呼吸も止めていたかもしれない…とにかくおれは出来る限り大人しく二階へ上がる。
静かに静かにドアをノックする。二回、とんとん・とんとん。返事はない。
ドアノブには触れず、白いドアをずっと見ていた。
頭の中には単語が渦巻いているというのに、そのどれも繋ぐ術がなかった。何を言いたいのかも解らなかったし、一体何を言えばいいのかも解らない。
ただおれは何が何でもここに来なければならない気がして、でも銀色の取っ手は恐ろしくて触れないから、本物のバカみたくにぼーっと立ってる。
7
どれくらい時間が経ったろう、気が付いたら隣に湯上りのなびきが居た。
「あかねが起きて来るまでそうやってる気?あんたストーカーの気もあんの。コワー」
普通の顔してそんな事を言う。がしがしタオルで髪を拭きながら顎で自分の部屋に入れと言った。おれは抗う気力さえなくて言われるがままふわふわラグの敷かれたなびきの部屋に入る。
ぱたんと彼女の後ろ手でドアが閉じた。それからは無音。
なびきは何も言わなくて黙ったままベッドに腰掛けてドライヤーのプラグをコンセントにさしこんで、胸元のジッパーを少し緩めながらスイッチを入れた。耳に付く温風の吹き付ける音。
おれはじっと黙って相変わらず入り口の前で突っ立っていて、身動ぎもせず、だからと言って何も考えないままなびきの身体を見ている。
まだ少し水滴がついているくるぶし、鍛えてない女の細いふくらはぎ、白く柔らかそうな太もも、黄色とエメラルドグリーンのくたびれた短いトレパンが包む尻、嫌味でない程度に細い腰。
開いた胸元から見える形のいい胸から、なびきのボディシャンプーの匂いがする気さえ覚え。
腰から尻にかけてのラインにはブランド物のランニングシャツが湿気でぺたりと張り付いてるもんだからくっきり形が浮き出ていて、その曲線は極限まで柔らかそうだった。
上気した顔は桃色に染まり首筋には幾本か濡れた髪がへばり付いている。ドライヤーの温風で後れ毛が何度もうなじを隠しては舞い上がり、ダンスを踊っている。
部屋の温度が少しづつ上がってゆく。
身体の体温もそれに釣られて。
鏡に映るなびきの顔は、なびき自身の身体に阻まれておれには良く見えない。
さらさら流れるショートカットは見事な天使の輪を輝かせてドライヤーの電源を落とした。また耳が痛くなるような沈黙。呼吸の音さえ煩わしい。
おれは意を決して痺れる交感神経を奮い立たせる。
一歩、足を進めてもう一歩、引きつる踵に鞭打ちさらに一歩。
「……どしたの、乱馬くん」
音がした後に身体が震えた。声と認識したのは数瞬後れたように思う。
「あかねまで袖にするつもり?全くあんたと来たら涙ぐましいわね」
それとも一番面倒くさい小太刀に集中する気なのかしら、まああんたの立場と根性から考えてそれはないか。案外いい子よ、分かりやすいし情熱的と言えなくもないし。
適当な調子で適当なセリフを無神経で無責任に言い放つなびき本人には既に大した執着もなかった。ただ脳みそが命令するままに筋肉が動いている。勝手に、ひとりでに、無意識に。
「や、やだ、なによマジな顔しちゃって」
引きつる顔と声におれの手が持ち上がる。緩慢な動作で細い両手首を掴んだ。
「ちょっとぉ!痛いじゃない!」
「お前、なんか勘違いしてるだろ」
脳みそは停止したままだと言うのに摩訶不思議、言葉が出てきた。自分の中に無い言葉が。一体誰がおれを喋らせているのか、そして何を言おうというのか、興味半分不安半分で他人事のように遠いどこかで眺めている。
「何のことよっ」
「おれはね、べつに女どもなんかどーでもいいんだよ。
そりゃあちやほやされるの好きだし、良牙やらムースやら久能センパイやらの嫉妬丸出しの顔とか見るのも好きだけどさ。そんな簡単に手に入るもんなんか別にいーんだ。」
「……ははん、大きく出たわねェ」
薄く掠れた低い声。警戒している不安な声。
「今はおめーの羞恥と快楽に歪む顔が一番欲しい」
「フン、復讐ってか?腕力で?アンタほんとにオリジナリティってもんがないわねー。」
嘲笑とも動揺とも取れる曖昧な言葉を置き去りに、卑怯な女が逃げようとする。
「復讐?何勘違いしてんだ、おれァ告白してんの。早乙女乱馬一世一代の本音を」
それを見越してゆく手を遮った男の身体に彼女は音も無く唇を噛んだ。
「そりゃどーも。でもご辞退させていただくわ、あたし理想高いのよね。ブランド志向ってやつ?あんたのパワーと柔軟性は認めるけど経済観念がまるで合わないもの。付き合ってもお互い後悔するだけよ」
片手で身体を押しのけようとしたのだろう。そんなもんお見通しだよとばかりに手首を掴む。
「何勘違いしてんだ、愛の告白じゃねえよ、本音っつんてんだろ」
そう言った途端になびきの表情が消えた。きょろきょろと目玉だけがせわしなく動き、くっ付いてしまった唇と唇は細かく震えて何かを言いたそうだったがついに返事が返ってくることは無かった。
静かな部屋に心臓の音と唾を飲み込む音が嫌に大きく響く。
じりじり力を込めてなびきをベッドに押し倒すと、スプリングがぎしぎしと軋んで弾んだ。ふわりとシャンプーの匂いとなびきの匂いが舞い上がって霧散した。
「あ、あんた、正気なの?」
「何でそんなこと今さら訊くんだ?おめーと同じことしてるだけじゃねぇか」
「急に威勢いいじゃない、何事?」
「あいつらはえらいよ。嫉妬を嫉妬のままずっと持ってられるんだから。おれはダメだ、さっさと憎悪に変換しないと狂いそうになる。人間小さいんでね」
何の話よ、独り言ならよそでやって頂戴、顔をしかめながらなびきが珍しく取り乱した様子で身体をよじった。当然腰骨をガッチリ固めているおれから逃げられる訳が無い。武道の心得もないから抜け方さえ知らない。
ちょっとは型の稽古くらいやってりゃ良かったのにな、こんなのあかねならあっという間に返してくるぜ。
ぼんやりしてる頭の中に勝手に突然湧き出してきた許婚の名に、おれはなんだか笑ってしまった。
8
「あっはぁっ……あっ……あっ!」
やだ、やだ、やめて、そんな、だめよ、となりに、いるのに……!
そんなセリフが聞こえなくなってどれくらい経ったかな、服の上から揉みしだく胸は風呂上りのせいかいつもより柔らかくて感度がいい。四つんばいにさせてズボンの尻の方から差し込んだ手で茂みを人差し指でくるくる掻き分けてやると鼻に掛かった甘い声を押さえてなびきが鳴く。
首筋に彼女の真似をして舌を這わせると、鼓動と同じリズムでぴくぴく動く血管がエロい事を知った。なるほど、なびきがおれの首筋を舐めるのはコレが面白いからか。
ぞくぞくビクビク、卑猥な腰つきで逃れようとしているのか、それとも諦めておねだりしているのか、責める経験の浅いおれには判らない動きで薄く痙攣する。まだホットパンツは脱がさない。下着もランニングも。
焦らしてる訳じゃない。これから先どうすればいいのかわからないわけでもない。これ以上進むことに意義を見出せないだけだ。それともおれは怖いんだろうか。だとしたら一体何が?
「ああ……あっあぁあぁぁ…ッ…」
ひっく、ひっくとしゃっくりみたいに言葉にならない声を上げながらがくがく震えている腰を無理矢理立たせながらおれは一心になびきの身体を思う存分いじった。いつもなら決してやらせてもらえない方法で。
「見ろよ、指がふやけちまった。綺麗にしてくれんだろ?」
あそこに突っ込んでた中指を半開きの唇に無理矢理突っ込んで歯をこじ開けて口を犯す。熱い舌が嫌がるように急に進入してきた指を押し返そうと反発していた。
「どうする?突っ込むのが礼儀か?さっきゴム使い切ったから生だなぁ」
そのセリフを聞いた瞬間、指が強い力で吐き出された。べっ、まるで唾でも吐くように。
覆い被さってたおれの身体を振りほどき、大人の女の仕草で首元におれの舌の軌跡どおりに張り付く髪を払い、久しぶりに見るような気がする氷の女王の表情をしてしりもちを付くおれに言った。
「ふざけんなよクソガキ」
「人が大人しくしてりゃつけ上がってくれちゃって。あんた自分の立場弁えてないんじゃないの?アタマ蹴って勘違い吹き飛ばしてやろうか?それともいつも通りビンタがいい?
あーあ、ズボンのゴム伸びちゃったじゃない、この下着それなりの値段するのに」
せっかくお風呂入ったのが台無し。責任とってくれるんでしょうね。言葉尻は確かに柔らかいのに、イントネーションにこびりつく威圧感は決して叱っているなんて穏便なものじゃない。
ビシィばちん!
鋭い往復ビンタ。脳みそが一瞬で撹拌される。くらくら眩暈とも立ちくらみともつかぬ視野の揺らぎがおれを襲って、眼界が正常復帰する前に爪先で腹を蹴られた。サッカーでもやればいいのにこのキックで。
打撃とも呼べぬ軽いものはずなのに、まともにダメージを受ける。体が反応する前に基本のなってない攻撃が降って来るのはいくら鍛えてても純粋に恐怖だった。何故おれは型を取って防御しないんだろう?疑問に思うだけで体がちっとも動かない。
「あんたまだわかってないの?身体はこんなに正直なのにねえ!」
「!!!!っ!!!!ッ!?」
衝撃。悲鳴。声が出ない。ぶわっと涙が飛び出すビジョンが見えた気がする。背筋が凍りついて汗が全身から噴出した。
踏みつけられた股間をあの足が容赦なくぐりぐりと踏みにじる。準備万端とは行かないまでもそれなりに膨張していたそれが、べったり自分の臍に付くほど強い力で。いやそれより踵で踏み潰されている“twins”が二次元化寸前だ。
女にゃ死んでも解らない内蔵を掴み潰されているような重苦しい圧迫と鮮烈な鈍痛。痛みを超えてもうショックしか感じない。声が出ないどころか息も出来やしない。痺れた唇は自分の意思では全く動かなかった。
「今まで手加減してやってたからノボせた?……返事もないなんてあたし舐められてんのかしら?」
死、という一文字が頭の中が灰色の砂嵐に埋め尽くされている中、ぽつんと浮かんでいた。死……?そうだ、死ぬ、殺される。今さらながらのように気付いた。なびきは加減を知らない。人間の身体には無茶の効く部分とそうでない部分があることを素人のなびきは知らないのだ。
殺される!殺されてしまう!
頭の中が痛みと恐怖ともっと根本的に魂を揺さぶる何か強大なものに揺さぶられて、おれは理性が吹っ飛んだ。人間死ぬ気になれば何とかなるもんだな。
「た、たすけて!!」
幼児退行を起こしておれは叫んだ。力の限り、助けを求めた。現実にはかすれて大した声ではなかっただろうが、おれはあらん限りの力で声を上げたのだ。
部屋の隅で小さく縮こまりながら何度もたすけて、たすけてと悲鳴を上げた。もたれかかっていた壁の向こう側からあわただしい振動が響いて、部屋のドアが力任せに開く。
「うるさああい!乱馬ァ!」
はあはあと苦しそうに息を途切れさせてパジャマのままのあかねがなびきの格好とおれを見て息を飲んだ。
「おっ……おねえちゃ……なに、してんの……?」
「……見てわかんない?いじめてンのよ」
せせら笑うようにはん、と踵を返して勉強机の引き出しからいつも吸ってるメンソル煙草を引っ張り出し、絶句するあかねの目の前で火をつけて煙を吐き出した。
「熱、まだあんでしょ?もう静かにするから寝てらっしゃい。悪化するから」
そして 高く 足を 上げて 力一杯 おれに向かって 振り下ろ
「え?……ちょっ!…やめ……やめてえ!」
ダン!
「……ったあぃ…」
衝撃は果たして来なかった。代わりになびきがくわえ煙草のまま本棚に背を向けてしがみ付いている。唇にくっ付いてたフィルターが剥がれ落ちるように床に落下した。
「はぁ、はぁ、はぁ……ちょ、ちょっとまって……頭回んなくて……待って、待って……整理するから……」
あかねがイライラした声で頭を掻き毟りながらまってよ、もう、ちょっと、えぇ?なんなのよ、と何度も何度も小さく短く苦々しい声で呟いた。
あかねの焦燥をよそになびきが落ちた煙草を拾い上げて、やあだ、このラグ気に入ってたのに焼けちゃったじゃないのよぅ、と平気な顔で焦げ目の付いた毛足をぶちぶち毟っている。
おれはと言えば開放された安堵感からほとんど放心状態で全くアタマが使い物にならない。嫌な汗に濡れた背中が冷たかった。自由になった呼吸に感謝する。
「……やだ、また熱が上がりそう……もう、ワケわかんない、なんなの、何がどーなってこうなってんのよ乱馬!」
ヒステリー気味にあかねが声を荒げておれの胸倉を掴んだが、当然おれは返事なんかできる状態じゃないから荒い息と涙目で言葉にならない何かを訴えた。訴えた内容?そんなのおれにわかるわけねぇ。
「何か言ったらどうなの、ねえ、教えてよ、なんであんたなびきおねーちゃんの部屋に居るの?……なんであんたあたしの部屋の前に何時間も居たの?答えなさいよ乱馬ぁっ!」
べーと舌を出してあらあら気付いてたのぉ、となびきが忍び笑いをする。
「何いってんのよ、あんだけ大声張り上げてたら隣の部屋で寝てりゃ馬鹿でも起きるよ!」
そうあかねの声が聞こえたとき、足の甲に雫が垂れた感覚があった。ぽたぽたぽた。耳を澄ますと窓の外に雨が降る音をようやく認識できた。
胸倉がふっと緩んだ拍子に顔を上げると、膝で立っているあかねの顔が近くにあって、その顔が泣いているのが視界に入る。
……なに泣いてんだよあかね……別に泣くほどのことじゃねえだろ?おれもなびきも死んでないんだしさ……
まだ何かに感電したように不鮮明な意識でそんなとんちんかんなことを思っていた。
「泣いてんの?やっぱ乱馬くんが惜しーんだ。だったらもっと大切にしてやんなよぉ」
「おねーちゃんが吸ってるそれのケムリが目に染みるのよ!」
なびきの顔は決して見ずにおれに怒鳴るようにあかねが声を荒げた。なびきはそれに少し肩をすくめ、窓を開けて軒の一番端から滴り落ちる雨粒に薄く紫煙巻き上げる“それ”を近づけると、ジュ、と微かな音を立てて紙煙草はおとなしい棒になった。
あかねはそれを見届けるようにして力ないかすれた声で囁くように言う。
「あたしこの家出る……許婚もおねーちゃんがやればいい。道場売るなり何なり好きにしなよ、あたしもう、二人の顔みたくない」
軽い声でなびきがどして?と訊ねる。
「信じてたほとんど全部に裏切られっちゃったもの」
また大粒の涙がこぼれた。声は震えてひどい吃音だらけだ。
「あらやだ、どれを裏切りそこねてた?もしかしてそいつが生きてるのがマズかったのかしら」
唇から笑みさえこぼれるような弾んだ声でおれを見るなびき。それに反応してあかねがキッとなびきを睨みつける。
「―――乱馬を殺す気?」
そのセリフも予測範囲内、という感じで余裕たっぷりになびきがゆっくり口を開いて。
「ファーブル昆虫記によるとね」
訝しげに眉を顰めるあかねが精神を緩めたところに、おれが何発も飽きるほど喰らった言葉の暴力をなびきがひどく冷めた顔のまま、せめてもの愛情とばかりに皮肉を込めて実の妹に向けた。
「ある種の蟲は意地を張って死ぬのが好きだそうよ。特にメスが」
いいじゃない、クソッタレ蟲カップルで。周りの気持ち無視できる図太い精神の両親そっくりな幼虫でも生んで頂戴よ。あはは、ほんとあんたら自分のことで手一杯なのねぇ。みっともないったらないわ。
「な、なんなのよ虫って!何であたしが虫呼ばわりされなきゃなんないの!?」
「これもファーブル昆虫記の受け売りなんだけど、虫ってのは地球上で唯一人間と意思疎通が出来ない肉眼で確認できるイキモノらしいから。あんた人間様と意思疎通ロクに出来ないじゃない。
良牙くんがあんたのこと好きなのも解ってないんでしょ?鈍感もそこまで行くと罪よねー」
「……なっなっな…!?」
真っ赤だか真っ青だか判断のつかない奇妙な表情であかねが言葉を詰まらせる。
「――――――うぁあ救えない、なによマジで気付いてなかった?きっしょくわるぅー」
うえーっ、と吐く真似をしながらなびきがあかねとおれに向かって犬でも追い払うようにさっさと出てけとドアを示し、窓の外に向かって新しい煙草に火をつけた。
あかねはそれに何かを言おうとして無理矢理言葉を飲み込み、部屋を出て行った。ああやっとこの地獄から開放される。おれはのろのろと立ち上がってドアの外へ逃げ出そうとした。
「乱馬くん。」
冷たい声で呼び止められておれはつい振り返る。……何故振り返ったりしたんだろう、黄泉の国から帰るときは決して振り返ってはいけないって古事記にも書いてあったのに。
いつの間にか目の前に立っていた女に全身の血が引いて、最後微かに耳に残るなびきの囁き声。
「痛さや圧力で屈服させるなんて三流がやること。一流ってのは全員を掌の上で遊ばせてこそよ」
にやりと笑ってなびきがドアを閉める。がちゃり、と向こう側から鍵の締まる音がした。
−終了−
16:21 2005/05/18
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