はだにのこるきみのささやき
しのぶ+あたる
「化粧してる」
「……うん。」
「へんなの」
しのぶはへんとはなんだ、と思ったがムッとした顔をしただけで何も言わなかった。あたるはそのしのぶの様子を見ていてなんで怒らないんだよとムッとした。
今日は水曜日。デートデート楽しいデート。
二人でお出かけ、ちょっと遠くの水族館まで。
チケットは最初4枚あった。夏休みだから新聞屋も奮発したらしい。あたるは母親から家族で行きたいけどあんたたちはもう嫌でしょう、と言われたので素直に頷いた。母親はあきれた顔をしてチケットをあたるに全部渡した。女の子ばかり誘うんじゃないわよと言いながら。
あたるはまず誰を誘おうかと思いを巡らせて、どうせあいつは絶対付いて来るんだろと、後二枚で誰が誘えるかと考えた。男を誘うぐらいならばあいつと二人で行った方がずっとマシだし、かといって後二人女の子を誘えば恐怖の電撃地獄が待ってるに決まってる。
「ま、因幡としのぶなら雷も落ちるまい」
そう思って連絡を取り付けた。しのぶは二つ返事で喜んだ。暑い部屋で伸びてるより涼しい水族館で因幡と会える方を取るに決まっている。
「でも因幡さんあの格好で入れてもらえるかしら?」
「ダメなら水族館内に亜空間のドアを作って入ればいい、入っちまえばこっちのもんよ」
そんな電話のやり取りをしていたのが月曜日。あたるは電話を切るとその足で部屋に戻ってラムに切り出した。
大喜びするかと待ち構えていたラムはううん、と唸ったまましばらく黙ってしまった。
「……どうした?水族館嫌なのか?」
「お盆だから三日くらい帰って来いって父ちゃんがうるさくって。それに水族館はあんまりいい思い出ないから…」
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珍しい、いつもなら意地でもくっついて来るといって聞かない女が二の足を踏んでいる。
「なんか企んでおるな?」
あたるがラムの顔を覗き込んでじぃっと睨んだが、ラムは目を逸らしもせずに「今回はやめとくっちゃ」と言い切った。
「いいのか?しのぶと一緒だぞ」
「………ダーリン、いい加減にそういうポーズやめるっちゃ」
ラムはもうずいぶん続いているあたるの“ポーズ”に慣れたようで、わざわざ言わなくてもいいことを言うあたるをしれっとかわした。
「……ポーズだと?」
「前のダーリンならうちに何も言わずにとっとと黙ってしのぶでもランちゃんでも竜之介でも誘ってったっちゃ」
あたるはぎょっとした。自分では気が付いていなかったというのだからこの男も相当めでたい奴だ。
確かにあたるは変わった。ラムに反発した、邪険にも扱った、いっそ居なくなればいいとも思った。でもラムが危険に晒されれば助けに行くし、何かが二人を別とうとすれば全力で反抗した。あたるはそれを心のどこかで苦々しく思いつつもやめようとは思わなかった。
「ダーリンはうちを愛してるっちゃ。」
にぃっと悪戯っぽく笑ってラムが言う。あたるはその笑い顔をみて悔しくもむず痒い気持ちになって、それを否定せんとばかりにまた言わなくていいことを言った。
「……しのぶだって愛しとるよ?」
「だからしのぶが本当に嫌がることはしないっちゃ」
それをまたラムがさも当然のことを諳んじるかのように言ったので、あたるはそれ以上何も言わずに後ろを向いて枕を投げた。
その枕がラムの胸に当たってボン、と音がした。その音にちらりとあたるが振り向いてまたすぐに向き直ったので、ラムは「可愛い人」と小さく笑った。
背を向けたあたるがどんな顔をしていたか、ラムは知らなかった。
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火曜日。みんみんとうるさいセミの声が電話の向こう側でも聞こえる。受話器を持ったままあたるが間抜けな声を上げた。
「なんだ、そっちもか」
「そっちもって何、ラムもなんか用事あるの?」
「盆で実家に帰るらしーよ。
仕方ないな、今回はやめとこうか」
あたるはチケットの有効期限が木曜日までだという事を告げて、もったいないなぁと無意識に呟いた。
「いいじゃない、じゃあ二人で行きましょうよ」
「……お、いいね!じゃあ二回行こう、泊りで二日!」
また止せばいいのにいらないことを言う。
「…………………ぶぁかっ!!」
一呼吸以上置いて受話器から大きな声がする。電話の向こう側でさぞ息を吸い込んで怒鳴ったに違いあるまい。
「冗談だよ、冗談」
「センスのない冗談なんか聞きたくないわ!」
「怒るなよ、しのぶ。
……久しぶりだな、二人でどっか行くの。」
「…………そうね。水曜楽しみにしてる。……じゃ」
受話器を置いて呼吸を整えた。素っ気無く電話を切るので精一杯だったのだ、この女子高生ときたら。
「厭だ、急にあんなこというから」
頭の中で反芻する。『久しぶりだな、二人でどっか行くの』。いい訳じみたように引きつった笑い顔で、仕方ないじゃない好きだったんだもの、と誰か…形のない誰か…に向かって舌打ちした。
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デートデート楽しいデート。
二人でお出かけ、ちょっと遠くの水族館まで。
相棒はどっちもご用事。仕方ないから二人で行こう。
まずはセオリー通りに駅で待ち合わせ。服の趣味がすっかり変わって、そう高くはない背にちゃんと合わせた動きやすくスタイリッシュな格好をしたあたるを見つけて、しのぶはなんだか変な気分になった。だって一番最初にしたデートのときは全くの普段着で、髪の毛だって今日みたいにちゃんと櫛を通してさえなかったのだから。
しかしその変な気分は同じようにあたるも感じていた。見よう見まねにしてはきっちりと引かれたアイシャドウが決まっている。うるうるしている唇なんか見ただけで頬が緩んでしまいそうなのだ。服だって靴だってチェックの赤いハンドバックだって新品ではないけれど、ちゃんと手入れされていて下手な新品より印象がいい。
「……いっつもそんな格好でデートしてんの?」
「さあね」
しのぶはぷいっとそっぽを向いて駅に向かった。せっかく新作のシャドウ使ってあげたのになんて言いようだ、面堂さんや因幡さんならちゃんと褒めてくれるのに。未練がましくそんなことを思ってみる。
思って気付いた。これが対等というものなんだと。
それでもあたるは電車の席を半人分空けて、しのぶに角席を譲る。
揺られ揺られて40分。しのぶはうつらうつらとしかけた頃にあたるに起こされ、水族館前という駅で降りた。
「そういえば小学校のころ遠足で来たわね、ここ」
「そうだっけ?」
エイとフグがいたのを覚えてないの?なんて言おうとして、これ以上ケンカ腰になっても面白くないと思い直して「そうよ」とだけ言って黙った。
しのぶはちらりとあたるを見た。あたるはチケットをポケットから引っ張り出して受付嬢になにやらくだらない愛想を付いていた。ため息も出ない。
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「ホラッ馬鹿やってんじゃないわよ」
耳を引っ張って水族館の中に引っ張り込む。名残惜しそうにてをひらひらと泳がせてバイバイと受付嬢に愛想を振る。
よくもまぁこんな男と付き合ってるもんだ。自分のことは棚に上げてそんなことを思った。
水族館は夏休みといってもそう混雑はしていなかった。小さな水族館とはいえエイだっているというのにおかしな風だ。
「ほら、特別優待券て書いてるだろ、二日間一般の人は入れないんだよ。そのかわりダイバーと海豚のショーは一回しかやんないスペシャルショーなんだってさ」
手に持ったチケットを薄闇の中で透かすようにして読みながら、同じように人が少なくて奇妙に思ったあたるが言った。
「二人ともくれば良かったのにね」
「うん」
大きなガラスの向こう側にゆったりと泳ぐ名も知らぬ大きな魚がウインクをした。まぶたのある種類の魚らしい。
「やっぱり寝るときは目をつぶるのかなぁ」
「まぶたがあればコンタクト入れられるな」
べったりガラスに張り付いて二人でぼそぼそ言いながら泳ぐ魚を見ていた。ガラスは冷たくて、空から差し込んでいる光がきらきら輝きながら降り注いで、魚が時々吐き出す泡を輝かせている。
「あ、タコ」
「この辺のタコは面堂が買い占めたかと思ったんだが」
「……面堂さんのみたいよ」
しのぶの指差す魚の種類を書いている看板には面堂家より寄贈、と金縁の文字で書かれている。
「…………………あ、そ」
バカがバカな事やってんなという感想と同時に、なんでこんな水族館くんだりまで来てあいつの名前を見なきゃなんないんだとあたるは溜め息を付いた。
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深海魚のコーナーにはついに人が誰も居なかった。
一番涼しくて一番静かなコーナーで、背もたれのないブロックチェアが六つくっつけて置かれ、自動販売機もあったのでそこで一息つくことにした。
「まるで海の底だな」
壁も濃い紺色に塗られ、時々底面から思い出したように上がる泡ぶくの他には動くものが無かった。タカアシガニもアンコウもじっと物陰に隠れ、何かを耐えているようにも見えないことはない。
「深海魚コーナーだもん」
コインを入れてサイダーのボタンを押すと、怖いくらいに大きな音でビー、と鳴ってストレート缶のサイダーがガコンと音を立てて出てきた。
「あた…っと…諸星くんは、コーラよね」
もう一度音が鳴ってアメリカンタイプの缶が出てくる。
あたるは缶を受け取りプルタブを開けながら他人行儀だな、と思ったので訊いてみた。
「なんだよ、急に苗字で呼んで」
「他人だもん」
「……お前さっきから何を拗ねとんじゃい」
「すっ…拗ねてないわよ。」
拗ねてる、とあたるは思った。伊達に幼稚園からの付き合いをしてない彼は、しのぶが怒りそうな事をすぐに思い浮かべて機嫌をとる事にしたらしい。
「因幡が居ないからってそんな俺に当たるなよ」
「違う」
「じゃあ服褒めなかったことか?」
「違う」
「分かった!化粧してんのをヘンって言った事!」
「違う。拗ねてない」
「違わん。何年お前と付き合っとると思ってんだ」
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しのぶはあたるにそこまで言わせたのを少しだけ後悔したが、彼女も引くに引けぬところまで来たらしく唇をきゅっと噛んでそっぽを向いた。
「……ラムにもそう言うの?」
ぽろっと、出た言葉に一番驚いたのは他でもないしのぶ本人だったが、それに負けぬほどあたるも驚いた。
「…………………………なに、それ」
「……べぇっつに。」
「別にってこたあるまい、なんだよそれ!」
「他意はないわよ、そのままの意味だけ」
そう、他意はない。たったそれだけのぽろっと出ただけの純粋な疑問。出した本人は全く気づいてないが、純粋な疑問も出る場所が場所ならそれは言葉の外や内に意味を持つ。そう、たとえば今のように、今このときにあたるに向かって今までちっとも会話に出てきていなかったラムの話を持ち出すということは、それ以外の意味を持ってしまう。
「……じゃあ聞くけど、お前は因幡にそうやって折角のデートにつんけんすんのか」
デートデート楽しいデート。
二人でお出かけ、ちょっと遠くの水族館まで。
幼馴染でもと恋人同士。積もる話もあるでしょう、今日は両方の恋人は居ませんよ。
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しまった、と思ったが、一度出した言葉はもう取り戻せない。深海魚が生きている事を思い出したかのようにゆっくり動き出した。本当にゆっくりゆっくりブラックライトに照らされながらゆっくり、ゆっくりと。
「どういう意味よ」
「べぇーつぅにー」
やな奴。でもそのやな奴のやな所を許せたりもしてた過去の自分がふっと脳裏に浮かんできたので可笑しかった。
「なに笑ってんだ」
「昔もこんなケンカしてたなと思って」
しのぶはあたるの事を本当に好きだった自分が可愛く思えたが、否定したり貶したりして笑っているのではないと半ば悟ったように確信していた。かといって何故笑ったのかは分からなかったのだが。
「……したっけ、もう忘れた」
さっき怒ってたと思ったら急に笑い出して。アップダウンの激しさは変わらないなと、しのぶとは反対の思いで、あたるもくくくと含み笑いをした。
「なんで怒ったの?」
「怒ってないってば、ほんと」
中庸な…つまり良くも悪くもない…言葉で場を濁した。
「妬いた?」
「ばぁか」
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ブラックライトの光はゆらゆら揺らめかない代わりにぼんやりと濁っている水の中を不気味に照らしている。その不気味さが見た事も無い深海の底のようで、しばらく言葉も無く水槽を見つめていた。
「久しぶりだなぁ」
あたるが所在なさげな声でそんな事を言うので、しのぶは面倒くさそうにそうねぇとだけ答えた。無用なアクティブが売りのくせに、自分と二人きりになると途端に大人しくなるあたるのことを少し可愛いと思う。だからといってその可愛さにほだされるほど、もうしのぶは子供ではない。
「因幡とはうまくいってる?」
何故そんな事を聞くの、と言いかけた途端に理解した。もう共通の話題が無いのだ。二つの道が分かれた後、共通の映画も音楽も共有しなくなったから。
「うまくいってるわよ。
わたしはわたしのことが一番好きな人が好きなの。
嘘でもホントでも、裏でも表でも、わたしが一番じゃなきゃ嫌なの。だからうまくいってるわ」
男なんて単純に見えてそんな単純じゃないよ。あたるは困ったような笑い顔。その顔をしのぶはなんて卑怯な、と思ったが口には出さなかった。
「単純よ。相手が自分の事好きかどうかさえ解らないほど悪い男に騙されちゃいないわ」
好きという気持ちほど伝わりにくいものもないはないのに、そうでないという気持ちのなんと解りやすいものか。そしてその気持ちがわたしにバレたのはあんたじゃないの。それなのにあんた自分のこと単純じゃないなんていうの?
「…それ…おれの事?」
「さぁね」
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サイダーの炭酸の音がもうずいぶん小さくなっている。相変わらず深海魚のコーナーには誰もこない。深く静まり返っているブラックライトで照らされた一角で、二人の男女が淡く濁った水槽を見つめながらぼそぼそと喋っている風景というのは、お世辞にも青春のメモリーといった趣ではない。
正直、しのぶにももうあたると話す事は見当たらなかった。昔話などしたところでくだらない過去の感情がよみがえって来るだけだというのは容易に想像がつく。何か話題が無いものかとキョロキョロ視線を動かしていると、あたるの首筋に紅の跡がついていた。
…たった一つ、遠慮がちに。
しのぶはそれを見て、急に背筋を這い湧き上がる何かを感じた。嫌悪より先に。
「あんたラムと結婚すんの?」
「……ハァ?」
なにそれ、とでも言いたげな間抜けな表情であたるは言葉尻を思い切り上げた。急に何を言い出すかと思えば、この女は。
「おれまだ高校生よ?どーやって生活すんの」
「今じゃないわよ、ゆくゆく」
げーっという顔でコーラをあおってまた再び苦虫を噛み潰したように渋い顔をしたあたるは、ほんの少しだけ考えるような素振りをして、首を振った。
「なるようになる。今はそんなこと考えとりゃせんわ」
もう二度とないこの年齢を今謳歌せんでなんとする?一人の女に縛られてこの貴重な17歳という年齢を無駄に消費してはこの世に生を受けた意味がなかろうて。あたるはここぞとばかりに主義主張を振りまいた。きっと誰にも解ってはもらえないことを彼は自分でも良くわかっていたが、それでもこれは貫き通さなければならないような気がした。
しのぶはその良く動く口をじっと黙って観察していたが、終いに湧き上がる衝動を押さえていられなくなった。せめて笑いながらさァねなんて軽く濁してくれれば落ち着きを取り戻せたかもしれないのに。もう口は止まらない。
「手段が目的になっちゃってるわよ。
あんた最初はただラムをからかって遊んでただけなんでしょ?でももう引っ込みがつかなくなったのよね?ラムはいい手使ったわよね、押して押してたまに引く。それもものすごく強く引く。そしたら押されてた相手もびっくりして振り向」
鋭い目。怒っているというよりは、警戒している。
しのぶはその目に射抜かれてそれ以上喋らなかった。喋れなかったわけではない。ただ、喋らなくてもよいと感じた。
「……あの単純女がそんな計算出来ると思うか?」
ぷつん。
確かにそんな音がした。
耳の奥か、頭のてっぺんか、首の付け根か、場所はもうどうでもいい。ただそんな音が聞こえた。
「男って本当に単純よね、自分の信じたいようにしか信じないんだもの、女が何の計算もないわけないじゃないの、そりゃラムが計算完璧だなんて思っちゃいないわ、でもあんたがまさかそんな風に盲信してるだなんて思ってもみなかった、信じることは尊いけど疑わないのは無知でしかないわ、それを純粋だなんて誇らしげに振りかざさないでよ!」
始まりはただ羨ましかっただけだった。
何もしないでもみんなに愛されてるラム。大好きだったあたるを諦めなければならないほど、あたるを掴んで放さなかったラム。自分に嘘を付かなくてもいいラム。
そのあたるが目に見えて引きずられて、ついに振り向いてしまった時、彼はまだ自覚さえしていなかった。
恨めない程よい子だったラムが羨ましかった。ラムになりたいと思った。それがどんなにばかげた願いだか解っていても願わずにはいられなかった。
好きだという心がねじれて、取り返しがつかなくなった。嫉妬して悩んで泣いてる自分が嫌いだった。まるで当て付けみたいに別の人を好きになろうとした。あたるがラムにそうするように、あんたなんか平気もう相手になんかしてないわというポーズばかりが上手になった。
一時は自分さえ騙しおおせるほど。
★☆★☆★☆★☆
身体を丸めて押し殺したように泣くしのぶの背中を抱きしめたい衝動に駆られたが、あたるは我慢した。今そんなことをしたらぶっ飛ばされるだろうな、と思ったから。
「あー……そのー……
なんだ、うん。あの。えと、泣くなよ。」
ワガママでいやしくて無鉄砲で考えなしでバカでスケベで浮気者で甲斐性なしでその場しのぎでプライドなくて頑固でマメでたまに思い出したみたいに優しくて。あんたみたいに馬鹿な男、あの鬼娘にノシつけてくれてやるわよ。しのぶは口の中で誰にも…自分にさえ…聞き取れないような不鮮明な声のまま早口で言った。
あたるはそれを聞いていて、しのぶがなんと言ったかは解らなかったが、何を言いたいのかが解った様な気がして、これは儀式なんだな、と思った。女には儀式が多い。誰かが作った通過地点という看板にいちいち印を書いて、自分がここを通ったんだと自分に認識させなければ次に進めない奴が多い。それは少し貧しいような気がするが、自分にも身に覚えが無くもないので、黙っていた。イニシエーションは日本文化にも古く深く根付いてることだし。
「幸せになれとは言わないけど、楽しくやろうや。
泣いてるのも面白いけど、やっぱ笑って怒って元気な方が楽しいって。
元気なしのぶがいいよ」
…もうじきこの涙が出尽くして枯れたら、多分すーっとした気分になるから、そしたらもうなんか全部、片が付くと思う。ぽたぽた床に落ちる涙を見ながら、しのぶはぼんやりそんなことを考えていた。
★☆★☆★☆★☆
外に出たら晴天で、入道雲がえらく大きくなっていて、このままで行けばもうすぐ夕立が来るだろう。
「ごめんね、急に泣き出しちゃって」
「……うん。」
「…そういう時は“いいよ気にしないで”って言うものよ」
しのぶはまだぐずぐずいう鼻の奥を出来るだけ気にしないようにして思い切りイーと顔をしかめてやった。
「よくないし気にするだろ普通。
理由も分からず女の子に泣かれたら」
あたるがガラにもなく心配そうにいうので、しのぶはすぅと息を大きく吸って、背伸びしながらあたるの頭を二度ほどぽんぽんとやった。
「心配しないで、わたしもう一人で立てるわ」
にっと笑ったその顔をあたるは一瞬驚いた顔で見たが、何かを理解したのかゆっくり笑った。
「そのしのぶがいいよ、やっぱり」
無責任な口調であたるがそう言ったので、しのぶはそれについてまた少し反抗心を持ったりもしたが、まだ背伸びをすれば届くあたるの背に免じて許してやる事にした。
もしいつか、自分の手があたるの頭に届かなくなった時には―――――もう笑って取り合わなくなるんだろう、この感情に。
ポンポン、と二度頭を叩いて手のひらに残る君の囁き。
「元気な君が好きだよ」
……わたしもあなたが好きだった。
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