ロングロングエピローグS
しのぶ
あたしには幼馴染がいて、その人は宇宙で一番の浮気者で、バカでせこくて小心者で欠点を上げればキリがない。ほんとどーしょーもない人なんだけど、どっか憎めない奴で、そんで……初めての人だ。
でもそんなのは振り切った。
あの人は結局別の人を選んだのだ。
それからどんなに誘ってきても、決してもうときめいたりはしなかった。
できなかった。
恨み言を言うつもりは毛頭ないけれど、そこで道が分かれてしまったのだ。
もう二度と元通りには戻らない。それだけ解る。それだけ大人になってしまったのだろう。
昔はどんなことがあっても、結局元に戻っていた。どんなことを言ってもやっぱり一番だった。
好きだったのだ。もしかするとあたしの方が。
決して器用な人ではなかったが、それでも大事にしようとしていてくれたのが嬉しかった。
だから言えることもある。
あたしはあの人にとって特別だったし
あたしにとってもあの人は特別だった
そしてそれがただ純粋に嬉しかった。
……だから言うべきことを、言ってやろう。
「あたるくん、真面目な話をしましょう」
手を取っていつものセクハラを計ろうとするあたるくんの目をまっすぐ見て、静かにそう言ったあたしは、ああるくんだけが知ってる顔をした。
あたるくんだけが知っている、あたしの叱る顔。
「……なんだよ」
それにさっと気付いて彼はつんけどんの『本当の彼』に戻る。
「なんだよじゃないわよ。ラムはどうしたの」
あたしもそれにつられていつも通りに声をかけられた。この人は人とのバランスや距離を取るのが非常に上手い。自分がどうすべきかを良く知っている。……それに気付いたのは残念ながら、道が分かれた後だったのだけれど。
「かー、まぁたその話かよ…おれはラムの付録じゃねえんだぞ!ったく、みんながみんなおれの顔見るたびラムラムって……」
「当たり前でしょ、あんた達は世界で一番有名なカップルなんだから」
カップル、と自分で言ってしまってからその言葉に違和感がないことに内心苦笑いをした。
「にしたって俺がないがしろにされすぎじゃ!」
彼が窓の桟に頬杖を付く。それは拗ねている子供のようなもんで、まったくばかばかしい。
「あたるくんってヤキモチやきよね」
「…………そっかな。」
彼が知らん振りをするのであたしも気付かない振りをする。
「そうよ。自分自身にまでヤキモチやいて、ばかみたい」
「……は?」
本当に気付いてないのかしらこの男……
「ラムとなんかあったんでしょ」
本当は全て知っている。なぜならラムはうちにいて全て話を聞いたあとなのだから。そして、彼の気持ちすら、多分。
「………ああ、誰かさんが変な入れ知恵してくれたおかげでなー」
やはり気付いた。変にカンの鋭い彼のことだ、いずれ気付くだろうとは思っていたがこんなに早くバレるとは思っていなかったけれど。
「ったく……何言ったんだあの単細胞に……おかげでこっちはえらい迷惑しとる」
けれど彼が“なに”に“どこ”まで気付いているかを確かめる必要もある。しばらく様子を見よう。
「いかんなァしのぶ、人の話はちゃんと顔を見て聞くもんだと習わんかったか?ん?」
くいっと強引に顔を振り向けられて、あせった。ええいしかたない、探りを入れてみるか。
「だってまだしてないなんて思わなかったんだもの!
ラムはプロポーションだっていいし、地球に来る前にレイさんとあったんじゃないかとー」
ったく、お昼休みにする会話じゃないわよこんなの!女の子になに言わすのよ!
「ふん、その方がなんぼか話が単純だったろうにな。
……どーせお前のことだ。おれが優しくなかったとか言ったんじゃないのか?」
話を逸らさなかった。ということはまだあたしの動きに気付いてない、ということだ。もし気付いているのなら、ラムの動向について訊くだろう。ラムの反応ではなく。
それはそれとして何てこと言うのよ!
あたしがそんなに下品で嫉妬深い女だっていうの!冗談じゃないわ!
「ちょ……!見くびらないでよ!そんな無神経なこと言うわけないでしょあたるくんじゃあるまいし!」
「ほー。じゃ、なんとゆーた?」
「最初は痛いとか怖いとか急だとかどうやったって力じゃ敵わないとか」
指折り数えて思わず真実を喋る。……はっ…しまったいらないことを……
「なお悪いわ!……すっかり怯えとるぞあのばか。
へたに触ることも出来ん。なにしろUFOに閉じこもって出て来やせんのだからな。」
この男は本当に何も気付いていないようだ。
自分の心にさえ。
……いえ、気付いていることに、気付いていない。
触ることが出来ないのは、彼女をこれ以上怖がらせたくないから。UFOなんて言い訳だ。彼が本気でそうするのならば、きっとなんとでもしてUFOに迎えにいくに決まってる。彼には“空を飛べる友達”が多いんだから。
「……ヤキモチやき。
ラムに好かれてる自分が羨ましくて手出しできないだけじゃないの。くっだらない」
彼は本当の自分で彼女をこれ以上怖がらせたくない反面、本当の自分を受け入れて欲しいと思っている。
小器用な分だけ、苦労もあるのだろう。
しかし女から見ればそれはただの見栄だ。くだらない意地でしかない。
あたしの前では弱いところもバカで間抜けなところも、みんな見せてくれてたくせに。ラムにはいい格好するのね。……ばか。
彼の言葉を遮ってチャイムが鳴り響く。
そのセリフを聞かなくてよかった気がした。
聞いてたら、殴ってたわ。きっと。
5時間目も6時間目も彼はぼんやりしながら考え事をしていた。
いつもの調子で休み時間中のコナかけもしない。
ふん、たっぷり悩めばいいんだ。
あたしだって、あんたのこと好きだったのに。
ラムに負けないくらいあたるくんのこと好きだった……けど、もうあんたの中にはあたしは居ないのね……
解ってた。ちゃんと、解ってた。だけどこんなに切ないのは何故だろう。ほんとは心のどっかでまだ彼が自分を想っていてくれる事を期待してたんじゃないのだろうか。なんて奴だ。
自分の汚さが情けない。結局応えたりもう出来ないくせに。
彼があたしの自意識を甘やかしてくれていたのをようやく理解する。傷付けないよう、最後まで笑っている気なのか。
「ばか。なんでそんな変に優しくするのよ」
最後にしたキスは優しかった。親愛のキスだった。
それであたしたちの道が分かれたのをお互いが認識した。元に戻れない。
本気であたしを好きだったと言った彼は、元に戻る気もない。それはあたしも同じだけれど。
別れた女の自意識なんかに構ってる場合じゃないでしょうあんた。そんなことしてるから本当に大事なことを見失ったりわからなくなったりするんだわ。
……ま、あたるくんの場合、あたしに気を使ってるだけじゃなくて、地のところがほとんどでしょうけど。
あたしは彼を知っている。
彼はほんとうに生命力と煩悩の固まりなのだ。
誰も知らない彼を知っている。
シャイで優しくて気が小さいところさえ。
家に帰ると、テンちゃんを寝かしつけたラムが神妙な顔をして正座してあたしを待っていた。
「な、なにラム……変な顔して」
「しのぶ、うちダーリンと話し合いするっちゃ」
いつまでも逃げてるのはうちの性に合わないっちゃ、とラムが自分で自分の言葉に頷いている。
「……そりゃいいけど、なにを話し合うわけ?」
そりゃラムは悪い子じゃないけど、方向性の間違った努力をわき目も振らず実行しちゃうからねー、ま、一途でよろしいんだけど。
「だからっ……うち、出来ないこととか……」
ラムはセックスが出来ない。予備知識がないからではなく、カルチャーの違いだ。
話を聞けばラムの星は人工授精を主体とした生殖にほぼ完全に切り替わっており、性的な交渉というのは完全にスキンシップや娯楽にその姿を変えているらしかった。おまけに数世紀、“出産”という事例が星全土でないというのだから、怯える気持ちも分からなくはない。単に恐怖としか映らないのだろう。そういう本来の性が消えかかったカルチャーのなかで育ってきたのだから無理もない。……けどねー……
「……あのねぇ、出来ないんじゃなくて、あんた怖いだけなんでしょ?」
「…………しのぶに…なにがわかるっちゃ……」
「わかんないわよ!いいじゃないの、信じてやれば!
そりゃ怖いわよ!あたるくんアレ好きだもの、何回もするしね!
でもあたしは信じたわよ!信じて、我慢したわよ!」
文化が全く違うのだ、怒ったって仕方がない。それは分かってる。でも止めようがない。
「そりゃ地球とは事情も違うかもしれない!けどねー、それとあたるくんを信用するのとは別問題でしょ!?
あたしだって怖かったわ、でも怖いってちゃんと言えば怖くないように……」
そこまで言って、ラムの顔が真っ青になっているのがわかった。
「……ご…ごめん……」
ラムは我慢している。いつもの調子で飛び掛って来たいのを我慢している。必死で我慢している。
この単純なラムが黙って耐えているくらいなのだ。よっぽどのことがあったに違いない。
「……でも、信用してあげて?……いいやつじゃないけど、悪い人じゃないって知ってるでしょ?
そりゃすぐ調子にのるし、調子に乗ったまま帰ってこなかったり、意地悪もするけどさ。」
一度くらい、信用してあげてよ。
そう最後にぽつりと言って、二人は黙ってしまった。
側でタオルケットをかけてすやすや眠っているテンちゃんが、寝言であほー、と言った。
きっと彼の夢を見ているのだろう。
「惚れ薬を一緒に作った仲じゃないの。ダメだったらまた話くらいきいてあげるからさ」
あたしはきっと、面堂さんといっしょなんだ。
深く深く巻き込まれた、部外者。
これは二人の問題。
いつだったか、ラムが記憶喪失になってあたるくんが取り返しに行った時みたいに……
だからラムの気持ちなんて本当はわからない。どうしてそんなに怖いのに、惚れ薬を作ってまでしたがるのか。
……女心ってフクザツよねー、ラム。
理解はする。でも本当に分かったりはきっと出来ない。
あたしが分かるのは自分の心の一端だけ。
だからせめて優しい傍観者でいましょう。……あたしには面堂さんみたいに、正面切って戦うなんて出来そうもないもの。
でも、ちょっとは意地悪させてもらうわ。
だってあたしが分かるのは自分の心の一端だけですもの。
あたるくんを懲らしめてやりたい、っていう心のね。
でも、そんな悠長な風に時間は流れてくれなかった。家に帰ってきたラムはぼろぼろ泣き出して、多くを語らなかった。ただぼろぼろ涙をこぼして、小さく唸り声をかみ殺すように泣いている。
「ど……どうし……」
信用するだけじゃダメなのか。苦虫を噛み潰したような顔になるのが自分でも良く分かった。
「……怖かったの?」
問いかける。せめてただの、いつもの行き違いでありますようにと。
「ちがっちが……ダーリンじゃない……」
あんなのダーリンじゃない、とラムはまた大粒の涙をこぼした。
……あのバカ、またつまんない意地でも張ったのね……ったく、ほんと進歩ないんだから。
内心そう罵っても長く付き合ったよしみで、どうしても贔屓目でみてしまう。女ってほんとこういう時、残酷だ。
「いいからしばらく泊まりなさいよ、一人で居たくないでしょ?
おいおい話も聞きたいしね。
テンちゃん、おいで。いっしょにお風呂はいろう」
「せ、せやけど……」
おろおろとラムの側を心配そうに飛び回っていたテンちゃんがしぶしぶと言ったようにこっちにふわふわ飛んできた。
「しばらくそっとしててあげましょ、ね?」
あたしは敢てラムを部屋に一人置いて出た。
ここを一人で乗り越えられなければ、彼女にはあたるくんとこれから付き合いなんて出来ないだろう。
それにあの女は結構打たれ強いのだ。あたしはまた一つ小さな意地悪をした。これでもう、あたしは完全に部外者だ。自分の用は全て済ませた。これからは、優しい傍観者。
「しのぶ姉ちゃん…どないしたん?」
「えっ?なにが?テンちゃん」
「ラムちゃんの涙、うつったんか?」
テンちゃんの小さな手があたしの頬に伝う雫を拭って初めて、それに気付いた。
初恋の終わりに。
「しのぶ、諸星くんよ」
もう時計は9時になろうかという時間。母に呼ばれて一階に降りると、息せき切らせたあたるくんが玄関に立っていた。
「……どっ……どうしたのよ、こんな時間に……」
「ラ…ラム、知らない?」
その声がひどく焦って、弾んで、急いでいた。
きっとそこらじゅう駆けずり回った後なのだろう。服装は乱れて、汗が流れている。
「ど、どうかしたの?」
「……いや…知らんならいい。すまんな変な時間に」
手を上げて軽く会釈すると、重そうな足取りでまたすぐにドアに手をかけた。
「ちょっと……ねぇ、説明しなさいよ!なんなのよ一体!」
「もし見つけたら知らせてくれ。言わにゃならんことがあってな」
それだけ一言云うと、薄闇の外に飛び出していった。
「……ばぁか。タイミング逃すからそんな目にあうのよ」
閉まったドアに一言呆れ声をぶつける。
「しのぶ、なんだったの?」
「あしたの授業の連絡ー。近くまで来たからってさ」
「電話で済ませればいいのに。しのぶに会いたかったのかしら?」
「……だったら良かったのにね……」
ぽつりと一人ごちて、二階に上がった。
「大丈夫、帰ったわよ」
「……よく引き渡さなかったっちゃね」
「いくらあたしでもそんな真似が出来ますかって。
ま、きっちり聞かせてもらおーじゃないの」
ベットに腰掛け、あたしは膝を抱えて縮こまるラムに声をかけた。……こりゃ長引きそうね…テンちゃん、お母さんに預けて正解だわ。
「聞かすもなにも、話すことなんかないっちゃ。
ダーリンが怖くて逃げてきただけだっちゃ。」
ぼそぼそそれだけを言うラム。つま先を見つめて、長い睫毛が伏せがちに下ろされている。
「……同情なんかしないわよ、大丈夫かなんて慰めてやんないわ。
ぜんぶあんたが決めることなんだもの。
ただ大きく巻き込まれてる者としては、状況の説明が欲しいだけ。」
お風呂からテンちゃんが出た後に一人で泣いて、すっかり吹っ切れてしまった。
ラムに嫉妬もわかない。妙におおらかな気持ちになってしまう。かくも世界は簡単なものだったか、というほど。
「ね、ラム。
あんたあたしのこと嫌いでしょ?あたしもあんたのことキライなの。」
弾かれたように顔を上げるラムに、にひ、と笑って見せた。
「あたしのあたるくん取っちゃったんだもの。
でもねー、もういいの。あたしの手には余るし、あたしはもっと優しくて、頼りがいがあって…あたしだけ見てくれる人が好きなのよね。
それに、あたるくんが今必要なのはあたしじゃないの。
あたるくんがこれから必要なひとはあたしじゃないの。
だからもういいのよ。」
ベットに腰掛けたまま倒れて、天井を見上げた。いつも見る天井が、今日は少しよそよそしい。
「しのぶ…おまえ……」
かすれた声がする。
「あたるくんも面堂さんも、みーんなあんたに取られちゃったあたしって、ほーんと貧乏くじよねー
あんたの影にかすむばっかりでさ、いいとこぜーんぜんないんだもの」
「終太郎はしのぶも好きだっちゃ」
「あたしはあたるくんと同じタイプは金輪際好きにならないって決めたのよ。」
いつか振り向いてくれるかもしれない。でも去って行ってしまった彼と似た人は、もう嫌なのだ。
「だから因幡なのけ?」
「因幡さんはお友達。まだそんな感情ないもの。
それより今はアンタの話でしょ。一体どうしたってのよ?無理矢理押し倒されたってくらいなら怒るわよ」
ベットから起きて、ラムの沈黙した顔を見る。まだ口を開こうとしない。……手のかかるライバルだわね。
「いいわよ、とにかくなんかあったんでしょ?
で逃げてきたわけでしょ?……あんたそれでいいの?ラムらしくもないじゃない。
あたるくんが探しに来てたってのに……」
「うち!うち!やめてっていったのに……うち……口…押さえつけられて……」
……あっちゃぁ……あのぶぁか……
しっんじらんない!ふつー初めての女の子にそーゆーことする!?なぁに考えてんのよあいつぅ……!
「あんたもしかして口で無理矢理させられたんじゃないでしょうね!」
「さっ最後は無理矢理…」
「いやーフケツ!信じられない!なに考えてんのぉ!?頭おかしいわよ!なによそれ!」
「しっしのぶ、もう夜も遅いっちゃ!声!声!」
「あんたももっと怒りなさいよ!人権無視よそれ!」
「途中まで同意の上だったんだっちゃ!それより声!声!」
もう怒りと呆れ果てとで、それどころじゃない。
「……しんっじらんない……もぉ……あのバカ……」
「うちも調子に乗りすぎたかなーとは思ったっちゃ……」
「あんたそれトラウマになるわよフツー。電撃の一発でもお見舞いしてやりゃよかったのに!」
力なくラムがははは、と笑う。ったくもう、変なところで気が小さいんだから。
「いいわ、しばらくここに居なさい。UFOもどっか隠してさ。反省させるべきよ!
あんたが居なくなったら、この地球で一番困るのはあたるくんなんだから!」
力説するあたしの顔を見て、ラムがぷっと笑った。
「しのぶ、ホントにダーリンのこと好きだったったのけ?」
「かっ可愛さ余って憎さ百倍よっ」
学校での彼は変わりない。そう、全く。……そんなに器用じゃないくせに。
「ねぇ面堂さん……どう思う?」
「……健気で泣けてきますよ」
小馬鹿にするようにフッと笑いながら彼がそう言ったので、実に的確な返事だと思った。
「どうしてあそこまで大騒ぎしてまで引き止めたくせに、くっだらないことで意地張るのかしらねぇ」
呆れ果ててものを言う気にもなれない。
「まぁ僕にはあのいい加減な性格も、引き伸ばし続ける答えの理由にも興味はありませんが、あのアホが一度意地を張るとどんだけしつこいかは知ってますからね。あそこまで貫徹すれば別の価値でも出てきそうじゃないですか。」
まるであたしには理解できないだろう、とでも言いたそうな口調で面堂さんが言った。
「面堂さんにはわかるの?諸星くんの答え。」
「さぁね。
アホの考えを一般人が理解しようってこと自体が間違ってます」
目と閉じてまるで瞑想するように彼が黙ってしまった。
彼はもう諦められたのだろうか、彼女を。強い人だ。
「もしよ。もし…このまま……ラムが現われなかったら……」
「大丈夫です。それはありません。
あのアホが探し続ける限りラムさんは必ずここに帰ってきます。」
まだ目を閉じたまま、静かにきっぱりと彼は言い切った。あたかも昔々から決まっている予定をそらんじているかのように。
「……言い切るのね」
「諸星の執念深さと運の悪さは世界一ですから」
その言葉を聞いて私はやっと気付いた。彼は諦めたのではなく、負けたのだ。執念と執着に。
だから彼にはわかるんだろう、どんなことをしても引き裂けないものがあることが。
でもそれは辛くないですかと訊ねようと思って、止めた。
口にしないのではなくて口に出来ないのだ。それをわざわざ問いただすほど私は心配性でも悪趣味でもない。
乗り越えようとしているのは誰も同じなのだ、それが心強くもあった。
「……そうだったわね。」
「…………しのぶさん、諸星はあなたが思っているよりも脆いかもしれません。ですが同時にあなたが思っているより執念深い。思い煩いなど無用です。」
最後の彼の言葉に、あたしは少し救われた。
毎晩、毎晩、夜10時15分前に彼は訊ねてくる。
毎日毎日、夜になると友引町中を探し回っているらしいと聞いた。時には隣町や海にまで出かけているらしかった。
窓から帰ってゆく彼の背中を眺めて、意地っ張り、と嘲ってやった。強がりばかり、ほんとは小心者で暢気な普通の人のくせに。
どうして
どうして
そんなに探すのならどうして手を離したりするの。
ジャンパーに手を突っ込んで、背中が少し曲がっている。決して背が高いわけではないけれど、少し見上げる顔はいっつも暢気で明るかった。
そんなに探すのならどうして邪険にしたりするの。
遠ざかる背中へ問いかけても返ってこない答えに安心する。問いかけて返ってくる答えが想像付く分だけ、安心する。
毎晩毎晩夜10時15分前はこの部屋の空気を重くする。
あたしは黙って毎日「来てないわよ」と同じ返事しかしない。それ以上何も言えない、言ってしまったら、言ってしまいそうだ。
少し疲れた顔をして毎晩あたしの部屋の窓を見上げるあたるくん。
そこにあたしはいない。
どうしてそんなに探すのに素直にならないの。
不器用な男だ。ラムにだけ反応する意固地な彼が居る。
あたしにだけ見せるあの顔の彼と同じように。
馬鹿な男だ。
本当に馬鹿な。
部屋でじっと嵐が過ぎるのを待っているラム。目を閉じて何かに耐えるように、ただじっと座って微動だにしない。
馬鹿な二人だ。
本当に、馬鹿な。
「来てないわよ。」
窓から顔を出す。今日で最後のいつもの返事。そっけない最後の返事。
「ああ。」
「あんたもバカね、毎日毎日探し回るくらいなら最初から素直になればいいのに」
あたるくんは、あたしの言葉に困ったような顔をして少し笑った。
「……ね、ちょうどいいからコンビニまでボディーガードやってよ。」
もう早速着込んであったことを悟られないように、ゆっくりと階段を下りる。階段はたった15段しかなくて、ちっともインターバルになりゃしない。
「早いな。」
案の定、指摘が入る。
「つ、ついでよ、ついで。」
月の光を背に受けながらはっきりしない自分の影を踏み踏み、二人で無言のまま歩き続ける。
意を決してゆっくりと言葉を押し出す。これじゃまるでみたい告白じゃない。そんなばかばかしいことを頭の隅が勝手に思った。
「謝らなくていいわよ。」
視線をずらすのも、歩幅を変えるのもなんとなく憚られる雰囲気であたしがやっと口を開く。
「だってそうでしょ?誰だって最初はコワいもんよ、あたしだって怖かったわ。でもあたるくんだから…我慢できたのよ。怖くてしかたなかったけどあたるくんのこと信じてたもん。
ラムは信じられなかったから逃げたわけでしょ?謝る必要なんてないわ。むしろあたるくんが」
月の光が背中に痛い。遮られた言葉が肌に痛い。
「違う。
あやまんなきゃならんのは俺の方だ。
怖がってるの知ってたのに」
……わかってんじゃないのよ、ぶぁか。
わかってるくせになんでわかんないのよ。なんであたしにばっか素直なのよ。なんでそんなにカンがいいのよ。
はっとした顔半分、疑問だらけの顔半分であたしの顔を見る。なんでこんな話を始めたのかにも気付いたのだろう。
「黙っててごめんね。うちにいるのよラム。
一ヶ月経ったし随分落ち着いてきてるから迎えにいってあげて。」
笑った顔が歪んでいるような気がした。
この歪みは、もう完全にただの同情でしかなかった。
かわいそうなあたるくん、という。
「帰ろう。」
うずくまるラムに彼が手を差し出す。コンビニの袋を提げたまま、彼らしい暢気で気楽な声で。
「明日ちゃんとお礼に来るよ。すまんな迷惑掛けて」
ラムの様子をまるで気にしていない素振りで引き起こして部屋を出ていった。ラムは嫌がりはしないが目もあわせない。引き寄せる方向に足を引きずるだけ。まるで帰りたくないように。
……ばか、こんな時にあたるくんの真似なんかするんじゃないわよ。
「こういう時はお互い様。
よかったわねラム、あたるくんが迎えに来てくれて」
追いかけるだけが能じゃないでしょ?とは言わないでおく。意外といい薬になったようだ。
「……しのぶ、お前まだ俺のこと好き?」
急に振り返った彼がそういった。
「自惚れてんじゃないわよバカ。」
呆れ顔でため息をついて笑った。その言葉にちっとも心が動かないのにさえ安心した。乗り切ってしまった実感。
「ひでえな」
困って安心した笑い顔に、よほどデコピンでもしてやろうかと思ったけれど。
それより先に玄関のドアが閉まった。
ドアの向こうで二人が歩き出す小さな靴音が聞こえた。
目を閉じ、その靴音が消え去る前に部屋に戻ることにした。なんてことはない、感傷に浸ることすら出来なかっただけだ。全て終わってしまった後というのは、意外になんの感慨も沸かないものというのを知った。
「あー久しぶりに一人だわー」
大きく伸びをして、一人呟いてみる。そしたらスーッと感覚もなく涙が流れて、センチメンタルな自分に思わず笑った。
なんで元彼女の前で今の女と使うコンドーム買う男なんか好きになったのかしらね。
これもきっといつか笑い話になるんだろう。
だからせめて今は、泣いてもいいわよね。
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