終日 或いは「きみは笑え、ぼくは戦う0」
大と淑乃の始まりの日
1
淑乃が微妙に高そうな洋食屋に連れてってくれることがある。
大抵それは金曜日で、例えば歓迎会だとか、仕事祝いだとか、初デジたま単独回収記念だとか、ご大層なお題目を付けて淑乃はグラスを高々上げて乾杯! などと未成年らしからぬことを言う。
アルコールが飲めるはずのないコイツが何故か注意もされずに毎回いろんな酒が出てくるのか謎だったんだけど、どうも淑乃の同窓生の親が経営するこの店はその辺りが緩いらしい。
それにしたってこいつは国家公務員とかのハズ。バレたら洒落にならないのも承知の上だったらそれはそれで凄い。どんだけ酒飲みなんだよ。
酒の席で喋る事は仕事の事やデジタルワールドのこと、デジモンに接する心得とかデバイスを取り扱う上でのタブーなんかも教えて貰った。本部に何げなく置いてある機材の運用方法、コンソールの動かし方、始末書の書き方などなど。
まあ大体、そんなもの。
面白いようで興味深くはない、でも知っておかなければいけないことを就業時間外に、ワンポイントアドバイス的に、時々ジョークや下らないネタを織り交ぜながら、酒の肴に。
だから俺は面白いような、面白くないような。
「お前他にすることねぇの?」
「一番重要なことでしょ、全くズブのド素人を司令室に入れるなんてDATS発足以来、特例中の特例なんだから」
教育係として任命されたからにはビシビシ行くから、覚悟しなさい。
薄いオレンジ色と濃いカシス色のマーブルに混じり合ったとろみのある酒の最後の一口を飲み干しながら、テーブルに広げてあるA4のコピー用紙にマジックで殴り書かれた所内見取り図をトントンと指で叩く。
「取り敢えず今日はこれを全部頭に叩き込むこと。本部は外部勢力の突入を考慮してこんな風にものすごく入り組んである通路に囲まれてるの。正解の出入口に繋がってる道は一本だけ。司令室には緊急用のシューターがあるけど、普段は使えないし屋外に直接出ちゃうから注意ね」
「……へいへい」
緑色のソーダ(これのどこがメロン味なんだろうといつも謎に思う)をちびちび飲みながら上の空で返事をした。
2
嫌々とは言え、飲み食いしながら時間外講習を受けて、さて今日の所は引き上げるかという流れになった。
ミュールとかいう踵の高い・紐の細い突っ掛けを履いた淑乃がユラユラ揺れながら会計を済まし、地下にあるイタリアンレストランのあるフロアから出る為の小洒落た螺旋の鉄階段を上ってゆく。
と。
急に淑乃が腰のあたり押さえて立ち止まった。
時間は午後9時半。
周りに人は居ない。
「早く登れよ?」
訝しみつつ俺は急かすようにもう一段階段を昇る。
「……ど、どうしよ」
「何が」
「ひ、紐がほどけた……」
淑乃を見上げると、ピンクの腹が見えるほど短いチューブトップに丈の短い7分袖のパーカー、ジーンズのショートパンツ&ベルトという涼しげな出で立ち。解けるような紐など見当たらない。
「あー?」
もしかして突っ掛けの事か? と足元を見ると不安定そうな足元はゆらゆらではなくプルプルと小刻みに揺れてはいたが、ひもが切れたりした訳でもなさそうな様子。
「どこのだよ?」
「うっ、うううるさい!」
理不尽の極みだけど、酒を飲んだ後の淑乃に理屈は通じないのはもう慣れたのでハイハイそうですかと流した。
「ともかく上行けよ、こんなトコで立ち止まってたら迷惑だろ」
「わ、わかってるわようるさいなぁ!」
腰を押えながら、さっきの大胆で不安定な大股とは打って変わった歩調で確かめるように淑乃は階段を上ってゆく。
もじもじ、ぷるぷる、ちょこちょこ、そろそろ。
……じれったい。
そうこうしてるうちに下の方でドアが開いてがやがやと人の声がした。きっとほかの客が店を出たのだろう。
「……さっさといけってば」
トン、と背中を叩いて急かし、先に階段を上って彼女の左腕を引張って階段を昇り切った。
後ろでヤダとかバカとか離してとかゴシャゴシャ言ってたようだが、その数瞬後に数人の男女が談笑しながら階段を上ってきたので何も言わなくなった。
「…………」
「………………」
階段の手すりの延長部分の隅っこに蹲ってごそごそやってる淑乃の隣で、やっぱり手すりにもたれかかって両手を頭の後ろで組む。
踊り場にしてはずいぶん狭いスペースで人間二人が立ち止っているものだから出口が狭いのなんの、階段上がってきた人が睨むこと睨むこと。
露骨に舌打ちしていく男もいて、自分が悪くもないのに思わず目を逸らした。
「……ねね、きみ。お姉さん気分悪いの?」
薄きみどりの透けたボレロを羽織った淑乃よりぐーんと年上の女の人が、何故だか俺の視界に無理矢理入ってきてそう言う。
途端に淑乃の身体がびくんと跳ねた。
……おい何とか言えよ、人様が喋りかけてんだろうが。
それでも身体を硬くして何の反応もしない淑乃を女の人が構うものだから、少し先を言ってた仲間までこっちに戻ってき始めてしまった。
「すいません、すぐどけます」
面倒が重なるのもごめんだし、万が一でも事が大きくなって淑乃の飲酒がバレても困る。
目と鼻の先に坪庭チックなベンチと細い街路樹が5〜6本植えてあるだけのスペースがあったので。
「え! ちょっ……」
「わわっわっ!?」
二種類の女の声がバラバラに重なって耳に届く。
『ヒュー!』
ほろ酔い加減のおじさんの調子はずれな口笛と指笛が騒がしい宵空に響いてパラパラと拍手、感嘆、冷やかしも少々。
「ご心配おかけしました……ちょっと休めば戻ると思います」
淑乃を抱えたままぺこっと頭を下げて、横目でベンチを流し見ながらそのまま関内駅前への道を逆に速足で辿った。
3
横浜スタジアム前の植え込みでようやく淑乃を降ろし、自販機でコーヒーを2本買ったのが5分前。
「なんっ……でこっち側に帰ってくんのよ……」
「人目があるからだバ〜カ」
ようやく淑乃がそばに置いていた缶のプルタブを引いた第一声がこれ。今まで黙って抱えられてたくせになんだその言いぐさは。
市庁舎前周りに歩いている人間は割とまばらで、そろそろ初夏に差し掛かってぬるく湿った夜風が髪をもてあそんでいく。車の通りもさほどない。
「お前ホント大丈夫かぁ? いつもより呂律廻ってねーし、顔赤ェぞ」
こういう時間まで夜に外にいることが特別珍しいわけでもない今日この頃だが、やはり中学生が目的もなくウロウロしているのは不自然だし不健全だと思う。
母さんには一応夕食を外で食べてくると連絡は入れているけれど、もはや9時半に差し掛かろうとしている。もう一度電話をしておくべきではなかろうか?
そんなことを思って淑乃の足元をふと見ると、ショートパンツの裾から何やらひもが垂れ下がっている。
「……ねぇ大、近くに公衆トイレとかない?」
「あー……球場開いてりゃ借りれたかもな」
なんだ、便所に行きたいのか。まぁあれだけ酒を飲んだんだ、自業自得以外の何物でもない。腹の中で笑いながら浅葱色というには少々明るめなその紐がぷらぷら風に揺れているのをコーヒー缶を傾けながら別に何とはなし見ていた。
「最ッ悪なんですケド」
「あんま横浜駅前って来ねぇから知らねぇんだよ、ガッコ中区だし」
変な風に座っちゃったから変に立てない……マジでどうしよう……とブツブツ赤い顔でコーヒー缶を握りしめながら百面相をしている淑乃の太もも裏になびく青い紐。
白い肌にちらちら隠れては現れて、妙に目を引く。
「便所なら関内駅行きゃあるし、こっからちょっと戻ったらコンビニあったぞ?」
「……そ、そーゆー問題じゃないのよ……」
「なんなら後ろの茂みン中で――――――」
言っとくが冗談である。
常識的に考えて、しかも年頃の女、さらに言えば人目もある時間帯なんだからそんなもん当たり前に即却下されるものだと思って普通だろう。
「あ、それナイス」
ポンと膝を叩いて立ち上がり、よたよたした淑乃が今まで座っていた花壇の淵に当然のよーに足をかけた。
「ぅおおい!? お前いくつだよ!? 洒落! ジョークだからやめろ!!」
「ばかばか! 騒ぐな! 注目されちゃうでしょ!?」
じたばた騒いでいたら、ちょうど目の前に青い紐がぶら垂れていたのが思えば悪かったのかもしれない。
我が類稀なる研ぎ澄まされし第六勘が悪かったと言えば悪かったのだろうか。
否。
これは単なる事故なのだ。
痛ましくも不幸な偶然。
何故かそれが呼んだ。
「ひっぱれー」
と。
「きゃあぁあぁぁぁああぁぁ!?」
思ったよりも簡単にそれは出てきた。
よく思い出せないほど何の抵抗もなく、ふわん、と。
小指と薬指にだけ頼りなく絡んだ淡い浅葱色の紐には続きがあって……そう、算数の面積の問題を思い出してくれるといい。
『正方形の中に半球がふたつ押し込まれています。斜線部分の面積を求めなさい。ただし円周率は3.14とします』
「…………あ?」
「かっ……返してェ……ッ!」
見たこともない涙目の淑乃が内股で花壇に掛けた足をどうすることも出来ず、股ぐりの開いたショートパンツの裾をギュッと引っ張った格好。
紐が解けるって……
ああ、そういう……
「――――――――っ!?」
頭がクリアになって今自分が掴んで広げてるそれが何なのかスーッと答えが導き出された瞬間、思わずズボンのポケットに高速で突っ込んだ。
『ばばばば馬鹿か!? な、なんつーもん履いてんだヨ!?』
思いっきり押し殺した叫び声に喉がひび割れそう。
「い、いいから返してよォ〜……!」
ハイヒールみたいにかかとの高いミュールを履いて、ショートパンツの開いた裾を恥ずかしそうに抑えながら大股開きのまま、かなり挑発的な格好の淑乃が顔を真っ赤にして小さな声で泣いている。
それが
なんとも
扇情的この上なく
その上、上に羽織ってる7分袖のパーカーの襟元が大きくたわんで、ピンク色のチューブトップの胸元が……その、なんだ……屈んでるからですね……そのう、あのう。
俺は自分の事を不健全だと思って今まで生きてきた。
でもそれは喧嘩がどうとか、一匹狼だとか、社会になじみにくい性質だとか、そういうものを指してだ。
だがこの瞬間よりも、自分の青さをはっきりと持ち上げて『不健全だ』と思ったことはない。
淑乃のパーカーの生地目だか模様だかが靄のように歪んで、頭を上げればいいのか下げればいいのかが解らなくなってしまったっきり。
それっきり。
何故か解らないが、鼻が息をしない。
いつも無意識でする呼吸を邪魔だとさえ思った。
ひどく息苦しくなった。何か良く解らない苦々しい予感があったのに、止まらない。
「――――――――っ」
俺と視線が合いっぱなしの淑乃は何も声らしきものを上げなかった。
「………………」
淑乃の目に映りっぱなしの俺は何も言葉らしきものを発しなかった。
夜の交差点で、何故か誰も通らぬ異世界のような場所で、数台の車がアスファルトを叩く音だけが何故かくっきりと聞こえている。
4
縺れる足は二人分、コンクリートとタイルと鉄筋のひんやりした廊下をお互い引きずるように、二人分。
ここに来るまでのタクシー中、どちらも言葉を発しなかった。
俺は眠ったふりをしたし、淑乃は窓の外を眺めるのに忙しい振りをした。
心臓の音が聞こえないよう、一人分の席を離して。
本当ならば、いつもならば、普通ならば、淑乃のマンションの前では彼女一人が降りるのが当たり前だ。だってそうだろう、俺は家族と一緒に住んでいるし、中学生は夏の間6時になったら家に帰らねばならず、それに何よりもここは中区の俺の家ではない。
なのに俺はバタンと自動で開いたタクシーのドアから一番先に出た。
何故か? だって俺に近い方の助手席のすぐ後ろのドアがまず開いたからだ。
よく整備されてつるんと滑らかな濃い灰色の地面を叩く自分のスニーカーの足音に少し遅れて、足元の若干覚束ないミュールがたどたどしいリズムがついてくる。
何度か来た、階数。
何度か行った、ドアの前。
表札のあるべき場所に無機質な部屋番号だけがある理由を知ってる部屋の前。
「……待って……鍵……」
バッグからキーホルダーのついた鍵を口紅だとか携帯電話、なんやかんやと一緒に引っ張り出して、もどかしそうに淑乃が部屋のドアを開く。
煌々と照る廊下とは違い、真っ暗な洞穴のようにぽっかり口を開けたそこの奥からは淑乃の香りがした。
「…………くっ……くる?」
コーヒーはないけれど、紅茶くらいなら出すわ。
擦れたような、確かめるような、少し怯えたような、声、声、声……
「……いく……」
誘われたのか迷い込んだのかは解らないけれど、俺は間違いなく自分で足を進めた。
闇の犇めく、森の中へ。
5
パーカーがすとん、と床に落ちる音とその光景が耳と目に焼き付く。
たったそれだけの事だというのに、それが自分のために為されたと思うと頭の後ろがジリジリして背筋から太腿までゾクゾクした。もちろん寒いのでも気持ち悪いのでもないが、じゃあ何なのかと聞かれたってさっぱりわからない。
ただ心臓が痛い。
息が苦しくて、目がちかちか瞬く。
蛍光灯の光には温度と言うものがまるでなく、締め切っていた部屋のむっとした湿度と温度の残るラグの上に座って、嘘っぽく輝く淑乃の細い肩を見上げるばかりだ。
「……あ、あの……」
もじもじと言いにくそうに俺に背を向け、淑乃が小さくつぶやく。
「なっ……なに」
それに俺は心底驚いて、それでも意地で平静を装い、落ち着きはらった演技で低い声を出したつもりだった。上ずって引き攣って、挙動不審な無様極まりない声が出たけど。
「あ、あんまそう、じっと見られると……」
言われて驚いて唾を飲み込んだ。
静かな部屋に響く音が不快なくらいに生々しくて、ぞっとする。
「み、ら、れると、だめか?」
擦れた野暮ったい声が自分の口から洩れて、それが嫌らしい。……卑怯、と言う意味で。
「……ダメじゃ……ないけど……やっぱ……」
小さな声だ。いつもの元気はどこへやったかよ? すぐ怒鳴り散らして殴る癖に。あの勢いはどこへ置き忘れたんだ?
そんなことをやけくその様に思い、その台詞を喉の奥へ突き落した。
Tシャツの胸元が躍っている。
苦しい。
腰から下に力が入らなくて、まるで溶けてしまったかのように感覚が無かったのにズキズキと痛いのだ。
猛って、戦慄いて、なのに頼りなく震えて、まるで、まるで、電車の非常停止ベルの上に指を置いた時のよう。
「お、お茶……もって、く、る」
むき出しになったノースリーブの袖口を両手で覆いながら(或いは二の腕を隠しながら?)そそくさと淑乃はキッチンの方へ引っ込んだ。
この部屋に来るのは確か3度目か、4度目。
しかし淑乃の生活空間にまで踏み込んだのは初めてだった。
「……………………」
目に映るどこでも売ってそうなパイン材のテーブルと椅子、ラグが敷かれた床の隅っこにTV、カラフルなクッションと壁にカレンダー、申し訳程度の低いチェスト……何にも頭に入ってこない。
無造作にTシャツの胸元を掴むと、父さんのネックレス・プレートがチリッと鳴った。
その音をワザと大げさに無視する素振りで天井を仰いだ。
何故か後ろめたい。
頭をかき混ぜるように髪を乱暴に何度か撫でつけて視線を戻す。
いつも片付いてないだの、寝起きのままだのとララモンが言って玄関で応対していたものだからさぞ汚い部屋なのだろうと思っていたのだが、ぐるりと見回しても綺麗に片付いている。
――――――――いや、それは語弊があるな。
片付いているというよりは、散らかっていない。
散らかるようなものが何もない。
どこでも売ってそうなパイン材のテーブルと椅子、ラグが敷かれた床の隅っこにTV、カラフルなクッションと壁にカレンダー、申し訳程度の低いチェスト……それだけだ。本棚すらない。
「押入れがでけぇのか?」
ふと部屋に入ってきたドアの方を振り返ると、その開けっ放しドアに隠れるように、同じ色・同じ形のドアが見えた。
「……?」
何の気なしに入って来た方のドアを閉めて、いましがた見つけた双子のドアのノブに手を伸ばす。
もう少しで手が掛かるという瞬間、バン! と音を立てて今し方閉めたばかりのドアが開け放たれる。
もちろん、ドアがいきなり開いたからドアの真ん前に立っていた俺は強かに後頭部を強打した。
「な、なんでそんなとこ立ってんのよ!?」
6
低いチェストの上に、大きさもデザインもメーカーも全然違うマグカップが二つ汗をかいて並んでいる。ご丁寧に氷が浮いているのだろう。時々融けたそれが音を立てるから。
夏なんだからガラスのコップくらい出せば良さそうなものだ。
窓に引かれている薄桃色のレース・カーテンがぴくりとも動かないじっとりした空気は、埃っぽい排気ガスと遠くの騒音を時々思い出したかのように連れて来る。
「……ねぇ、大丈夫?」
心配そうな声を聞くのは2度目。
それを無視するのも2度目。
淑乃の匂いがするクッションに顔を半分埋めて、頭の右斜め後ろに濡らしたタオルを置いたまま。
ころん、とまた低くマグカップが鳴った。
部屋は蛍光灯に照らされて薄暗い。
俺は何かを考えなくちゃと思っている。だけど頭の中は潮が引いたようにまっさらで何もなくて、さっきまで耳の後ろでザワザワ蠢いていた何かは跡形ない。
空気は止まったまま暑い。
だから何かを考えたかったハズだ。
無理やり突き動かされるように焦っていた心臓も静かで、ここが家ならこの体勢のままうたた寝の一つも始まりそう。
俺の顔を覗き込む、蛍光灯で出来た影。
頭なんか痛くない。
ドアでぶつけた程度で俺がしゃがみ込んで唸ると思うか? 言葉もなくダメージを抱え込むとでも?
言いたい言葉が見つからない。
考えたい問題も思いつかない。
ただぼんやり、無為の時間を食っている。
何かしたかったはず、という思いだけが残っていてまんじりともせず、だけどそれを形にもセリフにもしたくなかった。
……本当に、なんかよく解らん。
よく解らんから、黙ってじっとしている。
「……ねぇ、大丈夫?」
「………………」
三度目のその台詞はもう面倒でしかなかった。
うるさい、とも思った。
だから言った。
「痛くなくなるおまじないしてくれよ。痛いの、痛いの……ってやつ」
今思えば馬鹿げてる。
馬鹿げてる。
そいつは女子供の甘えたそら頼みじゃねぇか。
7
身体の一部分をじっと見ていると、だんだん不安になって来たりする事はないか? 爪ってこんな形だったっけかとか、手が言い様もなく不気味な形をしているような気がしたりとか。
俺は時折そんな気分になった。
小学校の時から、そんな気分だった。
当たり前で自然な事がどうしても納得がいかなくて、人とよくぶつかった。自分の譲れないものはことごとくが分からず屋の悪ふざけだったり、不合理な見栄だったり、軽率な我儘だったりしたもんだから自分の正義を信じて殴った。
頭ァ悪かったど、幸いにも力だけは強かったから大体の物事は捩じ伏せられたし。
立ちはだかって、戦って、何度か倒れた。応援してくれてた奴が敵に回ったこともあったし、守ってるつもりだった物に見放された事もあったから、悲しくて泣いた事もあったと思う。
母さんに息子が父親に捨てられたとからかわれる雑音を聞かせたくなかった。
知香に兄貴が学校丸ごとから腫れもの扱いされている異物だと悟らせたくなかった。
父さんにいつか会えたときに胸を張って家族と自分の信念を守り通したと報告したかった。
だから明るく笑って、派手に喧嘩して、一歩も譲らなかった。
そうして偽物の友達と本物の嘘を知り、一人になった。
ずっと一人だった。
アグモンと遇うまで。
「痛いの痛いの飛んで行けー……」
頭を摩られるのは気持ちがいい。
一端の男のつもりで得意になってた自分がちゃんちゃら可笑しくなる程。
掠れ声と、手の生ぬるさ。汗と部屋の匂い。
「痛いの痛いの飛んで行けー……」
瞼が自動的に降りて涙腺が勝手に膨らむ。
女なんて嫌いだ。すぐに茶々を入れてさ、正しいって思った事よりも数の多い方が好きで。誰かに賛成してもらえなきゃ言い返しても来ないくせに、陰でこそこそ徒党を組む。
女なんて嫌いだ。出来る、やれると意気込んだって途中で綺麗な言い訳を張り付けて居なくなる。
女なんて嫌いだ。ずるくて臆病な癖にそれを恥じもしない。
女なんて嫌いだ。見栄っぱりで口ばっかり。
女なんて嫌いだ。
「まだ……痛い?」
自分の首元にある金属の擦れる幽かな音がとても耳に重くて煩わしい。
近くをバイクが通ったのだろう。ビリビリと鼓膜が震える。
ころん、とまた低くマグカップが鳴った。
部屋は蛍光灯に照らされて薄暗い。
8
俺は何かを考えなくちゃと思っている。だけど頭の中は潮が引いたようにまっさらで何もなくて、さっきまで耳の後ろでザワザワ蠢いていた何かは跡形ない。
空気は止まったまま暑い。
だから何かを考えたかったハズだ。
顔を覗き込む。蛍光灯で出来た影は暗くて、落ちた場所を底なし沼みたいにした。
言いたい言葉が見つからない。
考えたい問題も思いつかない。
ただぼんやり、無為の時間を食っている。
……本当に、なんかよく解らん。
よく解らんから、黙ってじっとしているのをやめにした。
「あっ」
俺を撫でていた淑乃の手首を握って膝枕から頭を上げて、視線は彼女の眼から動かさないまま覆いかぶさる。
パーカーの襟元がたるんで、ピンク色のチューブトップがまろび出た。
床のラグに突き立ててたもう一方の手でパーカーをもう少し開かせる。
何とも言えぬ、まろやかで温かい匂いが立つ。
清潔なそれとは違う、背筋がピンと張り詰めるような。
暗い蛍光灯の光を自分自身の身体で遮って出来た影は濃く、その簡単な真っ暗闇にしばし目を凝らす。
どちらも、何故か声は上げなかった。
ただ、ただ、マンションの窓の外から聞こえる風に乗って来た雑踏・雑音。
それだけ。
鼓動や呼吸の音も聞こえない。
自分の口から何か生ぬるい物が垂れているのにようやく気付いた時には既に遅く、受ける事も掬い止める動作も間に合わなかった。
カラメルを作る時に煮詰めた砂糖水があぶくを上げるくらいの、サラサラでもなくドロドロでもない粘度の涎が、つつぅと尾を引きながら蜘蛛の糸に似た軌跡を唇の縁に残し、淑乃のいましがた開かれた胸元へボタリと落ちる。
全身全霊がめちゃくちゃ疲れて倒れ込んだ事も忘れるような状態で寝たりすると、唾液が勝手に口から垂れたりするだろう? あんな感じだ。あんな感じに、感覚も自覚もなく、ボタッて。
寒々しく少し薄暗い蛍光灯に照らされて、零れたシロップのようにしばらく表面張力で頑張っていた水滴と呼ぶには少々大きなサイズの透明の池が、崩れて川が出来た。
その小川はゆっくりと、しかし迷うことなく、淑乃の胸の谷間を通って首筋の方へ流れてゆく。
「あ、ああ……っ」
小さな小さなビー玉が転がりながら光の筋になってゆくのを、俺は術なく見送る。追えば良かったのかも知れないが、指をさし出す事は酷く躊躇われた。
淑乃の表情が、今まで見たこともない程、赤く火照って艶めいていたから。
9
ヒクヒクと震える眉と眉は悩ましく顰められているのに、薄く開かれた熟したトマトの様な張りのある唇からは脳がマヒしてしまいそうな意味のない感動詞が高いトーンで出てくる。汗をかいている色白な胸は3秒も見ればわかるくらい脈打っていた。
唇から胃までしびれるように瞬いてわき上がって鎌首を擡げた。
何が?
何かが。
堪らない、我慢ならない、暴力的で格好のつかない不可解なものがベタベタ貼り付きながらやって来る。
視界に写るすべてが1サイズ小さくなったように見えて、蝉が鳴いてるみたいな耳鳴り、強い回転性めまい。そういう物が一斉に襲いかかって来ててヤバイ。
舌の上が熱くてネバネバ鬱陶しい。
声を出そうとすると、接着剤のようにニチャ……っという小さな音がした。
涎を垂らした筈なのに口の中が乾いて張り付いていて、いる。
何か言いたい。
喉の下の方が震えて気持ちが悪かった。
何か言いたい。
自分の身体の下敷きになっている淑乃に。
でも何を伝えたいのか、自分でも解らない。
気が急く。
早く、早く、と目が回る。
「あ。ア…………」
喉が切れたのかと思うほど低い声が出た。
「よし、の」
……なんとか名前が呼べる事を確認してから、もう一度慎重に声を出す。
「お前……今、パンツ穿いてないんだっけ?」
一呼吸置いて
ばっちぃんと頬を張られた。
「ばばばばばばっかじゃないの!?」
痛くて目の前がクラクラしたけれど、不思議と怒りが湧いてこない。
涙目で真っ赤の淑乃はいつものしれっとした平気のへいちゃらより随分可愛らしくて(年上にこんな事を思うのは初めてだ)必死に何かを取り繕おうとしている様子に、むらむらと熱を持った何かが腹の底を擽っている。
「……ってぇなぁ……」
殴られた手首を掴んで、そのまま掌に指を這わせてから力の入ってない淑乃の手に自分の手を重ね合わせる。
「あ……や、やだ……!」
……それは手を封じられることが? それとも、俺に脈の速さがばれる事が?
10
汗が滑ってカユイ。
服がじっとり湿って気持ちが悪い。
覆い被さっている自分の身体は重くはないだろうか?
いろんなことが頭をめぐるけれど、少しも離れようという発想が見当たらない。
触りたい。
色んな所を、この柔らかい体の隅々に手を這わせてみたい。
欲望を検証し、分類し、断罪するまでに、もっと向き合う物があった筈だと思う。あった筈なのだ。例えば、何でこんなに俺は興奮しているんだろう? とか……早く家に帰らなくちゃ、とか……アグモンはどうしてるかな、とか……そういう物。
「あ、イヤッ……」
でも両手は何故か淑乃のケツを揉んでいた。
耳元で途切れる忙しない息がくすぐったくて面白い。
「ばかっ! や、やめなさ……っ!」
いつもの怒鳴り声じゃない、囁くような掠れ声。必死に押し殺しているのであろう、その艶やかで力の籠った震動がますます俺の中の衝動をいきり立たせる。
股ぐりの開いたショートパンツ。
布は柔らかで、多分ジーンズではなくそういう柄の綿なのだろう。装飾が少なくてさらさらした感触はその下の肌を想像させるのに非常に優秀だった。
指が簡単にめり込むのに、全ての指に力を込めて揉むと笑いが込み上げてくるほど弾力を感じる。
「あハ…ッ…………あっ、やだ、もう……!」
淑乃が苦しそうに何度かもがいたので、俺の身体はするすると滑り、淑乃の身体からずり落ちた。
但し、足だけが。
生地の薄い俺のズボンは呆れるくらい汗と湿気を吸っていて、暑く蒸れている。その間に、淑乃の太腿が絡むようにあった。実際左足は少し折り畳まれているから、絡んでいるとも言える。
ザカザカと衣ずれの音。
背を滑る汗が徒競走を始めて、シャツが面倒臭いことこの上ない。
「おしり、やめてよ……離してってば……!」
「……うっせぇ……だったら、足、退かせよ」
互いの耳元で囁き、その度に相手の血液の流れまで解る。
いい匂いだ。
クラクラ来るぜ。
「……ばか、違う……お、お、お……押し付けないでって言ってるのよ……」
「……………………黙って……」
スボンのこちら側とあちら側。
どちらも擦りつけるかのようにずっと蠢いている。
なんとなく、黙ってそうしたかった。
視線も交わさず、ただ行動のみで求めたかった。
……求められたかった。
11
唇から胃までしびれる。
食道の奥底から掛け昇ってくるみたいな戦慄き。
どうにかなりそうだ。
どうしてこんなに淑乃にひっつきたいのか解らない。こいつの柔らかさに身体全部沈めたい、というおかしな欲求が止まらん。
俺達には本当に服一枚二枚の隙間しかないのに、いくつも いくつもの からっぽが わきあがってくる。
それは本当に恐ろしかった。
けれど、どういうわけか、同時に心強くもあった。
からっぽが怖いから、いつもだったら自分でさえ笑ってしまうような、現実味のない、こんな事をしてしまえたから。
……淑乃にだだっ子みたいにひっついて、おしり触る、とか。
…………冷静に考えるとやらしいな、これ。
……………………うん、すっごくやらしいぞコレ。
はっと我に返ってしまったらもう駄目だった。全身から血の気が引いたし、どこにどう力を入れたらいいのか全く分からないし、どうやって謝ろうとか、そんな事ばかりが頭をぐるぐる旋回して止まらない。
「……大?」
淑乃がふとももを俺の膝の裏で二・三度擦りつける。
普段、俺に絶対向けないような熱っぽい目で彼女にその仕草をさせた自分がとても恥ずかしいような気がして、うっかりケツを思う存分揉んでた両手を床に突き、腕立て伏せの格好で起き上った。
起き上がってしまった。
「……ど、どしたの大……そんな真っ赤な顔して……」
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
声が出ない。
汗が浮き、噴き出す。
ぽたぽた垂れる雫が悲しくて、みっともなくて、腕で鼻から下を隠すように覆った。
顔の火照りは引かない。
眩暈もする。
耳鳴りもする。
「すっ……すまん……! お、俺……っ! エッチなことしてる……!」
自分でも何言ってるのか解らん。
さっぱりだ。
余りの挙動不審に少し驚いた風な顔をした淑乃は、一呼吸だけおいて自分の両腕をそっと上げ、俺の顔を覆っている腕を解いた。
そして冷汗でベタベタの俺の頬に指を滑らせて。
「いいよ」
と言った。
12
一枚一枚、交互に服を脱いだ。
儀式みたいに。
淑乃がショートパンツのボタンを外してファスナーを下したのと同時にショートパンツが床に音を立てて落ちる。
ショートカットのお姉さんは、ピンク色のチューブトップの他には何も身に付けていない。
それが、合図。
残った理性をかき集めて、再び捨てる、合図。
「………………淑乃」
「なに?」
「好きだ」
心臓がうるさい。目がちかちかと瞬く。
ぎこちなく体を進めて、淑乃を壁際に追い詰めてキスをしようとする。すると少し顎を動かしただけで俺の挙動を制し、眉を顰める俺の顔を見た淑乃はにんまりと笑って、後ろ手に部屋の電気を消した。
あとはただ、もう、ただの、ほんとうに、ただの、セックスをした。
何度かさっきみたいに両手でおしりを掴んで揉みほぐしたりしたけれど、不思議と今度はあの異常な興奮は感じなかった。
面白かったよ、淑乃があんまりエッチな声を出すから手で塞いだら『そうしてて』って言われて、ずっと淑乃の口に手を当ててた。ビリビリ震える掌がびしょびしょになって痒くて愉快だった。
気持ちも良かったし、心が満たされたんだと思う。
それでも、何故だか「いくつもいくつものからっぽがわきあがる」のは止まらなかった。
それがすっかり終わって、俺は淑乃が眠るのを見るのに飽きたから、淑乃に背を向けて無理やり眠ろうとした。けれど目が冴えて胸が騒いで眠れない。
セックスの間、ずっと返事待っていたけれど、結局あれ以上淑乃は何も言わなかった。
問いかけて無理やり言わせるのも違うような気がしたから、ただ待ってたんだ。
そろそろ何か言えよ。独り言みたいで嫌なんだけど。
胸の中だけでそう四度ほど言った。
五度目を未練たらしく頭の中で言おうとした時、淑乃のうわ言が聞こえ。
「好きぃ……」
何度か頭の中で反芻して呆れてムカついた。
どうしょうもないけど、本当はどうしょうもなくなんかない。
だから腹が立った。
何だそれは。
だったら何故。
言いたいその先を呑み込んだ。
俺はこの日、世界って奴に見殺しにされたよーな気がした。
15:40 2012/10/31
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