腹に一物、背に荷物
そして、太一
京ちゃんと一乗寺の邪魔をして馬に蹴られるのは忍びないと、俺はふらりと教室を出た。
早くも懐かしい中学校の校舎は、あの頃とちっとも変りなく夕陽に輝いている。
夏の湿っぽい風はねっとりと肌に纏わり付き、撫でるように髪を弄んだ。
学校の屋上にはあまり思い出はない。ここから見下ろしたサッカーゴールのある運動場を主な生息地としていた俺に、こんな場所に上ってる暇はなかったのだ。
褪せて元の色が分らなくなったフェンスに手を掛ける。軋んだ音がしてたゆむ錆びた鉄線はザラザラした手触りだった。
「やっぱり居ないか」
独り言を呟いてふと笑った。
居ると思わなかったくせに、やっぱりもないもんだと。
夏の日差しの中、昼休み、秋の木枯らしと共に、放課後、冬の雲陰の下、短い休憩時間、春の花嵐の上。この屋上は光子郎の特等席だった。
サッカー部の活動中、ふと見上げると空を仰いだ光子郎がここに居るのを何度か目にし……その度に俺は目を背けた。
あの空の輝きが再びやってくるのでは、と夢想する弟分を見るのは心苦しかったから。
「……あの時声を掛けてたら、何か変わってたか? 光子郎」
フェンスがきりきり悲鳴を上げた。
まるで何も言えなかった自分を笑っているかのように。
光子郎が逃げ出したとは思わない。……だけど、では他に何なのかと問われても答えられない自分がもどかしい。あいつは弱くない。だけど強くもない事もよく知っていたから。
何故気付いていた自分が何もしなかったのかと言えば、怖かったからとしか言いようがない。
怖かったのだ、光子郎の本音が。
あいつの口から『デジタルワールドへ行きたい』なんて言われようものなら、きっと俺は諸手を上げて喜んだに違いない。そして一緒に連れてゆけとせがんだだろう。
光子郎があの世界に囚われている理由は漠然とだが理解できる。あの世界は自分を呼んだのだ。自分を必要としてくれたのだ。それが嬉しかった。ただただ嬉しかった。生きている気がした。実感できたのだ、自分は今ここに存在しているのだと。
俺はあの時決して孤独ではなかったし、不機嫌でもなかった。
だけどぼんやり寂しかった。だけど何だかつまらなかった。
そんな俺の目の前に広がった未知の世界、頼もしいパートナー、ずっと一緒に居られる友達。夢の世界。希望の世界。
『僕も早く目を覚ましたい』
光子郎がそんなことを呟いて項垂れたことがあった。希望を持ち続けるのは辛いと、夢から覚めた筈なのに、前にも増して夢を見ているようだと。
そんなあいつを辛うじて地に留めていたのはミミちゃんだった。ともすれば霧散してしまいそうな光子郎の理性を、欲望という名の恋で縛っていてくれた。
二人の間にはわだかまりが少ない。だがそれは光子郎がミミちゃんに心配かけまいと、目の届かない場所へ自分の問題を仕舞い込んでいるからなのだ。
光子郎が本当に欲しいものは多分、デジタルワールドにはない。
あいつにはそれが解っているハズだ。
だからデジタルワールドへ確認しに行ったのだろう。納得しに行ったのだ。諦めに行ったのだ。
―――――そうであって欲しい。
逃げ込んだのではないと、俺達の思い出の場所を穢しに行ったのではないと、俺は思いたくて仕方がなかった。俺達選ばれし子供たちの羅針盤は狂ったりなんかしない。
「……まるで願い事だな」
仰ぎ見た空には雲で薄く濁った青が広がっていて、あの空とは……目に焼き付いているあの夏の空とはまるで違っていた。
「……6年、ね」
遠い遠い昔のような夢の冒険の日々は、感傷に浸るに十分なほど淡く穏やかなものに見える。
「――――――――帰ってこい、光子郎」
何故、なんて聞きゃーしねーからよ。
早く、早く……帰ってこい。
俺にはもう、お前を迎えに行くことが出来ねーんだから。
12:51 2010/02/17 11:31 2011/07/12
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