唐突に訪れるもの
大輔とタケルとヒカリ
「……なんか今日、ヒカリちゃん怖くねぇ?」
「怖いねぇ」
「んもう、二人とも遅い! ちんたらやってたら一時間なんてスグよ!」
怒鳴り声を上げるヒカリが恐ろしい男二人組は、少し距離を取って彼女を追いかけている。
白く輝くアスファルトの道はゆらゆら陽炎が立ち上っていて、じっと見ているとなんとも不安になった。
煙のように歪んで消えてしまいそうだ。
……でも一体何が?
「何かあったのかなぁ? 太一さんにもイヤ〜に絡んでたしなー」
大輔が心配そうに、それでいて興味の薄い間延びした声を出したので、タケルは無理をして作っていた笑顔から力を抜く。
「……もしかしてアレだったりして」
「何か心あたりでもあんのか」
てくてくと歩きながら言葉少なげにヒカリを追いかけているのが、二人はなんだか罰ゲームのように思えてきた。何故そう思ったのか、何故そんな事を考えたのか、追及する暇もなく。
「あれ、聞いてない? 太一さんサッカー部辞めちゃった理由」
「ヘェっ!? 辞めた!? き、聞いてないぞオイ!」
「お兄ちゃん学校の寮に入るんだってさ」
いつの間にか二人の間に立っていたヒカリはプリプリ声でそう言った。
「うわっ!」
「……図星だったんだ……」
驚き満面で飛び退く大輔と、クイズに正解した得意と友人の堕落への失望とが混じり合った顔のタケルのコントラストさえ意に介さず、ヒカリはただ感情のままに雑言を続ける。
「誰に何の相談もなくいきなり『進学に目覚めた!』とか言い出してさぁ、スポーツ特待生のくせに今から付け焼刃の勉強してバカがどうにかなると本気で思ってるのかしら?」
仲間外れ憎しで、あんなに慕っていた兄の全部を一気に否定し始めたヒカリを、タケルが静かに窘める。
「太一さん勉強嫌いなだけでバカじゃないよ」
「そーだよヒカリちゃん、本当のバカなら進学に目覚めたりしないって」
パタパタと手を振りながら気楽な顔の大輔に、ヒカリは少しムッとした顔を見られない様に背けた。
「……何があったか知らないけどいっつもそう。なーんにも言わずに勝手に決めて、そんでフッと消えちゃう」
道路脇へ視線を逸らしたヒカリは、口の中で自分でも良く解らないことを何かつぶやいた。
それは兄に対する不満だったのかもしれないし、自分の言い知れぬ不安を形にし損ねたものだったのかもしれない。
喪失、というものへの。
「……大丈夫だよ、家族なんだから」
「タケルくん、家族に過剰な幻想を持つのってよくないよ」
「アハハ、ご心配なく。そうじゃなくて、離れてても家族って自分が思い続けられてたら少しはラクじゃない。そういう意味」
タケルはヒカリの善意を張り付けたような屈折した笑顔があまり好きではなかった。自分の中に全部隠してしまうくせに、隠したものを探し出してくれる誰かが必要としているからこそ、誰かを試すような事を口にする。それはまるで昔の兄のようだ。
……最も、彼の兄は彼女の様にうまく世間と折り合いをつけられず、いつも目を吊り上げていたのだが。
「イイよなー、お前らの兄弟は優しくてさ。俺なんかいつもアレしろコレするな、そんで機嫌悪くなったらキック・パンチだぜ。おやつ残したり分けたりとか夢物語だ!」
「……僕なんか、大輔くんとお姉さんみたいな関係に憧れるけどな。遠慮とかないじゃん。相手の顔色窺って何考えてるのか予想して、間違ってなかったってホッとする兄弟なんて不健康だよ」
せっかく俺がボケに徹してるってのに、なんでお前がヒカリちゃんと同期してんだよアホ! 空気読め! と大輔が内心イライラしながら、それでもけなげに彼は笑う。
「ま、どっちにしろ年下は苦労するって事だよね、ヒカリちゃん」
その気遣いが解らないヒカリではなかったし、人の善意を無碍にするほど彼女は子供ではないから、ぱっと笑顔を作って大輔の方を向いた。
「ほーんと、心配事の多いお兄様で困っちゃうわ」
大輔にだって解っている。彼女の心配が太一への心配だけじゃないことを。
だからといって大輔はタケルの様にその足踏みやしゃがみ込みを否定はしない。頼りになる目指すべき到達点が揺らぐ不安は大輔にだってあったから。
彼は逆に訊ねたいに違いない。タケル、なんでお前はそんなに強いのかね? なんでその強さを自分以外にも求めるのかね?
「心配と言えば光子郎さんだけど……どうしちゃったんだろ」
大輔の思惑を知ってか知らずか、タケルは茹だる様な太陽光線に照らされた歩道に落ちた黒い影を目で追いながらぽつりと言った。
「光子郎さんがこういう時一番頼りになるのになー。弟子の京はまだまだ力不足みてーだしー」
話題が思いもよらず変わったのを受けて、大輔はホッとしながらすこしおどけた声を出す。
「ミミさんもね。……アメリカなんて遠いよ」
「遠距離恋愛なんて遠い未来の大人の話だと思ってたのに、自分のすぐ隣で起こってたりして摩訶不思議過ぎる―――」
大輔がのほほんと喋ると、言葉尻に噛みつくみたいにタケルが悲鳴に近い叫び声をあげた。
「うそっ! えっ!?」
「な、なんだ……?」
「ミミさんと光子郎さん付き合ってんの!? ……いつから!?」
愕然とした声のタケルは、二人をともすれば睨みつけかねないような勢いだ。
「……お前ヒカリちゃんと一緒にアメリカ行ったんだろぉ? なんも気付かなかったのかよ」
「そ、そんな前からなの?」
「アメリカ引っ越す時にお見送り行ったでしょ? あの時光子郎さん居なかったの覚えてない?」
「……お、覚えてない……」
タケルは太一と兄にくっついてスターバックスや売店をウロウロとし過ぎ、ほんの少しだけ集合時間に遅れたのを思い出したが、ミミと別れる時はみんなで整列して手を振っていたはずだ。……そこに光子郎が居たか居ないかは……確かに思い出せない。
「あの時、空港ロビーでギリッギリに滑り込んで搭乗ゲートまで入ってって告白したらしいわよ」
「選ばれし子供たちの間で伝説になってんぞ。なんで知らねーんだよお前」
思い切り『がーん』というオノマトペを張り付かせたような表情のタケルが声もなく固まっているのを、二人は少し面白いと思いながらじっと見ていた。
「大輔くんいつくらいから怪しいなと思った?」
「えーと、お見送り前の8月1日キャンプ、二人来なかったじゃん。あの時かな」
「私はディアボロモンと戦った時、視聴覚室に二人だけ居たの。入りにくかったー」
二人が指折り数えながら先輩の恋愛談議に花を咲かせるのをぼんやりと見、自分はちょっと薄情なのかも知れない……とタケルは若干落ち込んだ。
「あの冷静沈着の光子郎さんがそのくらい取り乱しちゃうんだから、よっぽど好きなのよ……なのに遠距離なんて可哀想」
「いや、愛に距離は関係ないよ。どんなに離れても二人は夜空に浮かぶ同じ月を見るのさ」
「大輔君ってロマンチストなのね、見かけによらず」
「ヒカリちゃーん……」
「うそうそ。でもさ、好きって難しいよね。プラス向きだったら何でも出来る力になるけど、マイナス向きだと引きずられて何も手につかなくなっちゃう」
「ひ、ヒカリちゃんもやっぱ、そんなことあるの?」
尋ねられて。
「……どうだろ?
でもマイナス向きの力の恐ろしさは解る気がする。
……光子郎さんがそのマイナス向きの力に引きずられてるってことも」
妙に千切り、わざと途切れさせ、明言を避けるかのようにヒカリがとこともない虚ろを見ながら言った。
「―――――デジタルワールドに居るよ、光子郎さんは」
「―――――解らないわよ、そんなの」
まるで暗号で話す共犯者のように眉をひそめて難しげな表情の二人。
「―――――なんの話してんだ? お前ら」
それを愚か者のフリをして(或いは愚か者のまま)大輔は質問に少しだけ満たない言葉を投げかける。
「……実はこの世界っていくつもあるんだよ。デジタルワールドはその内の一つにしか過ぎない。で、ヒカリちゃんは光子郎さんが、もーっと別の世界に落ちたんじゃないかって心配してるわけ。
でも光子郎さんが一番望んでるのはデジタルワールドへ行くことだよ? 迷いなんてなくて、いつも真っすぐ僕らを導いてくれた。……だから大丈夫」
親切丁寧に、暗号を暗号で解説するかのようなタケルの言葉に、少し大輔は辟易した。
相変わらず持って回った言い方をする奴だ、と。
「――――タケル君は相変わらず厳しいわね」
「今だに太一さん太一さんなんて言ってるんだから、成長ないよねヒカリちゃんは」
「ヒカリちゃんは兄弟思いで優しいんだよ!」
ぐっと言葉を失い黙り込んでしまう直前で大輔が助け船を出してくれる。ヒカリはそれをいつも有り難いと思う反面、便利だなと落ち込んでしまう。
ああ、なんと無垢は自分を打ちのめすことか!
「思うのと依存は違うと思うけど」
「なんでお前はそうやって人の嫌がる事ばっか言うんだ!」
ヒカリは二人のやり取りを聞きながら、クラス中の女子がタケルのことを誤解していると思う。優しいだの、カッコいいだの、思いやりがあるだの。
本当にそれに適うのはこのツンツン髪の男の子だというのに。
だがヒカリはこうも思う。
大輔の優しさは多分、自分の栄養には一生ならない。タケルの誹りはこの胸にひっかき傷を残すけれども。
――――――――私達はまるで平行線でちっとも交わりはしない。
「僕は単なる事実しか言った覚えはないね。太一さんが進学するのだって――――――」
言ってからはっと表情を変えるタケル。
「―――――なによ、それ」
一炊の夢に耽っていたヒカリが、思わず気遣いや体裁を取り繕う前の声を出してしまった。言ってからしまったと思ったが、もう遅い。
「……言うなって、言われてたんだけど」
「……バカ。」
歯切れ悪く二人が苦虫を噛み潰した顔で小鼻を顰めている。
「……なに、私だけ知らないの?」
場の空気が最悪になったのを気遣ってか、大輔が出来るだけ明るい声を絞り出しておどけた。
「太一さんには俺が言ったって内緒な」
口の前に人差し指を立ててから、大輔は細く長い溜息の後に切り出す。
「ヒカリちゃん、高校って太一さんと一緒のトコ希望してるじゃん。それ知って太一さん、ヒカリちゃんにもっといい学校目指して欲しいんだって、大学のランク上げたんだよ。
でも今の時期から普通にやっても追いつかないからって……サッカー部辞めてたとは俺も思わなかったんだけど……レギュラー取ったってついこないだ喜んでたばっかりだったから」
唸る大輔。
「……いい加減、太一さん離れしなよ。……解るけどさ、太一さんが頼りになるの。
でも太一さんの後ろを付いてばっかいたら、ヒカリちゃんの夢が泣いちゃうよ?」
突き放すタケル。
その二人のコントラストに、怒りよりも先に疎外感を覚えてしまう。まるで整えたかのように息の合う二人。
「……いいわよね、男の子は夢に向かって進んでいければそれでいいんだもん。じゃあ後に残された人間はどうすればいいのよ!」
兄も、共犯者も、憧れのあなたも。
結局体よく、私を置いてゆくのだわ。
言外に恨み辛みを追いやりながらも背負わせて、嫉妬と失望と孤独を張り付けたまま、ヒカリはただそう言い切った。
ああ、締まらない。
なんてみっともない。
下らないゲームオーバー!
「追いかけてけばいいじゃん」
「……はぁ?」
間の抜けた声に、ヒカリはまたも見栄も行儀も伴わない声を上げてしまった。
「ヒカリちゃんって保母さんになるんだろ? 今は保育士ってんだっけ。それ追いかけてったらいいんだよ。
太一さんが先に行っちゃうのが悔しいなら、追い抜かしてっちゃえ」
ぎゅーんてさ。
両手を飛行機の翼に見立て、大輔は子供っぽい仕草でその辺りを少しだけ旋回した。
そのステップの軽やかさは蒸す湿度や焼ける気温を一瞬だけ無効化する。
「簡単じゃん」
「……す、すごい……大輔君って……すごい……」
「ありゃ、高感度アップ?」
てひゃひゃひゃ。文章化しにくい不思議な調子で大輔が笑う。
「なんか、本当の意味で大輔君って大人物だよね」
「お前ソレ絶対褒めてねーだろ」
タケルの関心し切った称賛に大輔は少々照れ気味に眉を寄せて怒ったポーズ。
「いや、本気で尊敬したよ今」
「太一さん居なくなって寂しいかも知んないけどさ、俺だってタケル居るし、京も賢も伊織もみんな居るから心配ねぇよ」
大輔が少し何かを考えるように躊躇して、だがしかし伸ばす腕に迷いなくヒカリの頭を、ぽんぽんほん。
柔らかく汗ばんだ熱い髪を、ぽんぽんぽん。
「……大輔君は強くて優しいね」
ヒカリが心から思ったままを口に出した。
「太一さん目指してっから」
それを受ける大輔も、ただ心から口を動かす。
「光子郎さんは私のお兄ちゃんみたいな人なの」
「皆にとってそうだよ」
そんな二人をちょっぴり羨ましげに見ていたタケルが、それでも自らのプライドと立ち位置を違えることなく笑った。
「ううん、そうじゃなくて……似てるって言うのかな、考える向きが。常に最悪を考えて行動しちゃう所とか、つまんない所でつまんない物に引っ掛かって引きずっちゃう所とか」
交わらない三人はヒカリの言葉にほんの少しだけ呼吸を置いた。
一人には自戒であったかも知れないし、一人には自虐であったかも知れないし、一人には自害であったかも知れないその言葉を救ったのは、その言葉を吐き出した少女だった。
「……だから助けてあげなくちゃ。私が大輔君やタケル君にそうして貰ったみたいに、もう一人のお兄ちゃんを」
「そうだね」
「そうそう。さっさとパソコン借りてこよーぜ!」
「うん」
熱いアスファルトの上を交わらない三人がそれでも歩いてゆく。
同じ場所を目指しながら、いつか別れるこの道を。
18:00 2011/07/11
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