去るもの日々に疎し
丈と伊織
足元に落ちる影がとても短い。
アスファルトが焼き過ぎたフライパンみたいにからっからに乾いて、踏み締めるスニーカーの裏が融けてぬかるむような錯覚さえ感じる。丈は額の汗を拭い、片手に下げたコンビニのビニール袋の音を聞いた。
「どうしたの、そんな浮かない顔して」
やっと聞けた、と丈はホッとした。相変わらず僕は意気地がない、と呆れながら。
「丈さんはどうしてだと思いますか?」
突飛な台詞と思いつめた顔。到底小学生がする表情じゃない。
「……光子郎のことかい?」
眼鏡を少し押し上げて、丈は重い名前を口にする。
「そうです。何故DWへ行くなんて、みんなで決めた約束を破るような事を……。光子郎さんを少し見損ないました」
にべもない清潔な感想。少し頼もしくもあるのに、なぜか丈の心は哀しいという動きをした。
「……ま、多分自力で行っただろうし、自分の意思で向こうに留まり続けてるだろうことは疑う余地も無いけどさ」
それは彼そのものだったからかもしれない。あの日あの時あの場所の。
「丈さんは光子郎さんが行方不明だって知ってもあまり驚かれませんでしたね」
たしか彼は今11歳か12歳だったはず。あの夏の僕と同じ6年生のはず。丈は伊織の驚くべき洞察力と丁寧な言葉の奥に潜む焦燥感を少し頭の中で反芻してから薄い溜息とともに答えを探す。
「――――――よく見てるね」
「もしかして理由をご存知なのでは」
眼鏡の向こう側に居る小さな男の子は、仲間内では一番年下だ。年齢に引け目があるかどうか丈に知るすべはないが、彼にはこの男の子の焦れったさがなんだか理解できるような気がした。
自分はあの夏の冒険で、一番年上だった。年上だったのに、上手くやれなくて酷くプライドを傷付けられた。自分がもっと有能なら上手に出来るはずだったのに。自分さえもっとちゃんとしてれば簡単に切り抜けられたはずなのに。
そんなふうに何度思ったことだろう。
「まさか。ミミちゃんですら知らない事を僕が知ってる訳ないじゃないか」
でもそれは違う。
「ですが予感はあったはずです。でなければ仲間が突然消えてあんなに冷静で居られるはずがありませんし、さっきの『自分の意思で留まり続けていることに疑う余地が無い』ってセリフだって……」
それがあの息苦しさの正体じゃないんだ。
「――――――伊織くんは少し光子郎に似ているね。
自分が納得するまで謎を追及する癖なんかそっくりだ。」
丈は大きく深呼吸をしてから、きちんと伊織の方を向いて真っ直ぐ目を見る。あの冒険に飛び込む前は少し苦手だったこと。
「でもそれは時に人を傷付けるよ」
言わなくてはいけない事。しなければいけない事。立ち向かわなければいけない事。そんな事から目を背けていたから僕は辛かったのだと、丈は長年の謎をやっと言葉にした。
自分は無力で、平凡だ。
「…………。」
ぎゅっと口を真一文字に結んだ伊織は丈の視線から逃げるように目を逸らした。その仕草はまるであの頃の自分だと彼は思う。懐かしく、思う。
「光子郎は知りたがり屋だろう?きっと人の心の謎も理解したかったんじゃないかな。
だけど少し方法を間違えてしまうと、それはとても危険な事なんだよ。何もかも手に入れたがってしまう。これは僕の推測でしかないけど、光子郎はその危険な事に挑んで……敗れたんじゃないかな。
それで、ちょっと疲れてしまった」
丈は無能を恥だと思っていた。ずっと隠しておきたかった。誰にも悟らせないように必死だった。
だが、珍妙な生き物がある日彼の目の前に現れてあっけらかんと言う。
『ぼくは丈が大好きだよ!』
眼鏡の男の子はその日少年になった。見栄も臆病もこの日脱ぎ捨てる為に重ねていたのだと言わんばかりに投げ飛ばした。跳ね除けたそれを拾い上げてみれば……なんと軽く他愛もない自己愛だったんだろう。
「だからDWで息抜きしてるんだよ」
丈は言葉を結ぶ。大したことではない、と。だが伊織にはこの事態を深刻に受け止めない丈の意図が理解できない。
「ですが、みんなで決めて――――――」
理解したくない。何故ならば。
「僕もきっとDWから帰ってきてすぐ位なら、伊織くんと同じ事を思っただろうね。ゴマモンに会いにDWへ行きたいのを僕だってこんなに我慢しているのに光子郎だけズルイ――――――って。」
伊織はただ短くそう言うより他がなかった。
「……あ……」
遮られた言葉の先にあった目を逸らしていた真実を述べられて、伊織は初めて丈の言葉の全てを反芻した。随分年上の大人だとずっと思っていた人は、あの日あの時、自分と同じ12歳だったのだ。
「あははは。いいって。同じだよ、みんな。太一だってあんな風に強がってるけどアグモンに会いたくてしょうがないんだから。
光子郎だけが特別でも、僕たちだけが特別でもないんだ。ただ、光子郎の場合はデジタルゲートを開くだけの能力があった。……もし僕がその力を持っていたら、やっぱりこっそり会いに行くと思う」
笑う丈の表情を伊織はじっくりと観察するように注意深く見ると、そこには確かにある種の諦観と潔癖がせめぎ合っている。自分と同じように。
「――――――僕も、きっとウパモンに会いに行くと思います」
妬ましかったんです。綺麗な言い訳で覆って得意な顔をしていたけれど、本当は羨ましくて悔しかった。何故、あの人にだけ許されるのか、と。丈は重罪を白状するかのように歯を磨り潰さんばかりの声でそう唸る伊織をおどけた声で宥めた。
「辛い時や苦しい時、パートナーが傍に居てくれると思っただけで勇気が湧いてくるよね。だから頑張れる。自分だけじゃきっと今の僕にはなれなかった」
耳を澄ませば街の喧騒。灼熱の太陽。アスファルトの道。コンクリートの林。
「第二のふるさとみたいな場所ですよね、僕たちにとって」
目を閉じれば思い出す。バグだらけの世界。意味を成さぬ看板。不思議な友達。
「古き良き懐かしの故郷。……そこに留まり続ける光子郎は今何を考えてるのかな」
丈はコンビニの袋をガサガサ探ってお茶のペットボトルを取り出し、伊織に手渡して歩き出した。伊織はそれを受け取り、後をついて来る。丈はもう一本、同じ種類のお茶のペットボトルを取り出して蓋を捻った。
「……ミミさんのこと、ですかね」
「――――――ミミくんのこと、か」
今度帰国されるんですよ。しかも一時国じゃなくて、大学はこちらの学校を受験されるそうです。これで全員、選ばれし子ども達が揃うんですよ。
そうはしゃぐ伊織の横顔を丈はじっと見つめていた。太陽に輝く陽炎の立ち昇る道で。
「嬉しそうだね」
「はい。ミミさんは僕が落ち込んだ時に元気付けてくださいました」
「へぇ、あのミミくんが。ずいぶん先輩らしくなったもんだ」
「ずいぶん、とは?」
「DWの冒険の時はたっぷり手を焼かされたよ。暑ぅーい!寒ぅーい!お腹すいたー!疲れたー!ってね」
懐かしい声。今はもう随分落ち着いてしまったけれど、心を静めればいつでも再生できる。
あの日の彼女の台詞の一つ一つを。上書きせずに保存してある、あの声を。
「そうなんですか?」
「そうとも。一時は戦線離脱したこともあるんだから」
「ええー!?」
「優しすぎたんだ。戦うのが嫌だって、京くんみたいにたくさん悩んだよ。……もちろん、僕たち全員もそれぞれね。だから今、伊織君たちにアドバイスが出来るのさ」
とぷん、とお茶が音を立てて揺れた。暑い。程よく冷えたお茶がとても美味しい。あの日渇望したこの喉越し。まだ忘れない、あの空腹と焼けつく肌を。
「……光子郎さんは、ミミさんとお付き合いしてるんですよね」
不意に後輩が同じようにお茶のペットボトルを傾けながら尋ねるので、丈は一瞬言葉に詰まってしまったが、そこは年の功。なんとか落ち着いた声で返事する。
「あ、ああ。そうみたいだね」
「ちょっと妬けちゃいますよね」
「う、まぁ、そうだね」
こういう話を丈は得意としない。引っ込み思案であがり性の性格はまだ完全克服には至っていないらしい。
「ミミさんが居るこの世界より、DWがいいんでしょうか」
みん、みん、みん、みん。頭痛を誘発するセミの声がたっぷりワンコーラス流れてから、丈は口を開く。
「――――――だとしたら光子郎を見限るね」
「えっ!でもさっき……」
慌て、意外な声を上げる伊織を意識的に無視して丈は続ける。
「自分一人で生きてる気になってるなんて、馬鹿馬鹿しい。自分にはミミちゃんが居るくせにさ。ズルイじゃないか。何もかも欲しがったって――――――手に入るわけが無いのに」
意図せず眉が寄る。素直な顔の筋肉を丈は少し忌々しく思う。
「丈さんも、ミミさんのこと、好きですか?」
「ヘェッ!?」
「僕は好きです」
伊織は真っ直ぐ進む先を見据えたまま、きっぱりと言った。あまりに凛とした声で主張するので、一瞬丈は伊織が怒っているのかと思ったぐらいだ。
だが丈は伊織の行動の意味を程なくして悟った。伊織のコンビニ袋を握り締める手の震えを認める事によって。
「――――――僕も好きだよ。でも、光子郎も好きなんだ。好きな二人が幸せなら、幸せな限り、僕は二人を許すさ」
丈は伊織に倣うように前を向いた。太陽はいまだに彼ら二人を焼けつくアスファルトをホットプレート代わりにして焦がしている。億劫だが、死ぬほどじゃない。面倒臭いが、絶望的ではない。
「――――――丈さんは立派ですね。僕はダメです。光子郎さんが今、すごく、嫌いです。僕の欲しいもの全部持ってるくせに、これ以上何が欲しいんですか……!」
いつか来るよ。ある日許せる時が。憑き物が落ちるかのように、やっかみでも諦めでも皮肉でもなく、穏やかな気持ちで祝福できる瞬間が。
丈は苦しむ伊織を見つめながら、自分と同じように失恋の入り口に立ち、痛みに竦む後輩を慈愛に満ちた表情で背を二度叩いた。
13:57 2009/01/22
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