二人の恋のヒステリー
賢 と 京 の話
泣いている。
泣いている。
ふさぎ込んで泣いている。
僕は人に泣かれるのがどうも苦手で、もちろん誰だってそうだろうけど、でも僕は特にダメなんだ。
その上泣いているのが女の子で、しかもその女の子を僕が好きで、トドメに泣いてる理由が僕じゃない男のこと、というもう手の尽くしようすらない最悪の状態。慰めても、放って置いても、逸らしても、彼女は泣き続ける。悲しくて悔しくて寂しいんだろう。
何故そんなことが分かるかって?簡単だよ、僕と同じ気持ちに決まってるからさ。
僕の場合はそこに情けないと空虚を足さなきゃなんないけど。
秋も深まり、夕暮れの光が柔らかく反射する寒さの無い教室の片隅。黒板には消し忘れた文字が掠れて置き去りになっている。埃っぽさと粗悪な紙の匂い、時々混じる古い木と鉄の香り。
目を閉じても背景はくっきりと瞼に映り、自分の通い慣れたリノリウムの床が輝く教室の風景は現れなかった。机と椅子の素材はここと然程変わりがないのに。
「……京さん」
自分の声にはっとした。何を言うつもりも無いのに、口が勝手に動いたから。
もちろんその程度の呼びかけに反応する筈も無く、当の彼女はずっと嗚咽を続けている。
「僕じゃダメかな」
もう一度驚いた。僕は何を言い出すのだろう。頭の中がオロオロと取り乱すのに、何故か心臓も手も穏やかで震えてすら居ない。
「光子郎さんの代わりにはなれないかな」
君が望むなら僕は何にだってなろう。……いや、なりたい。君が望む何かになりたい。義務や同情や責任なんかじゃなくて、自分の欲望の為にそうしたい。君に笑って欲しいという欲望だけの為に。
「……無理……きまってるじゃん……」
塞ぎ込んだままの君は顔を上げようともしない。
「今は君を一人には出来ない」
僕は必死で道化を演じる。
「……意味わかんない」
これが最良かなんて僕にはわからない。
「間に合わせでも身代わりでもいいから側に置いてよ」
けど
「――――――やだ……」
けど
「一人にさせたくないんだ」
けど
「――――――やだ」
君に殺されるなら本望だよ。
「泣いてる君を見たくない」
ピエロの格好のまま刺し殺されたって構わない。君が笑ってくれるなら。
「――――――もっと他に言い方ないの?……天才少年なんでしょ?」
やっと顔を上げてくれた京さんは拗ねたような怒ったような悲しいような、色んなものが混濁した顔で僕を批難した。いつもの声で。
「っ……!………………そのっ……つまり、だからっ……」
教室の温度は冷たい。止まったままの空気がゆっくり僕と彼女の呼吸に酔ってかき混ぜられている。それはまるでミックスジュース。甘くて酸っぱくてとろとろと滴る混合液。時間が経てばまた果汁と牛乳に分離してしまう。早く飲み干さねば、この一瞬の奇蹟を。
「君が好きなんだ。ぼくと、付き合ってください」
何十回心の中でそう言ったのだろう。まさか、本人の目の前で口にする日が本当に来るとは!
「恋敗れた乙女に告白とかデリカシーゼロ過ぎ」
膨れっ面で涙を擦りまくったどろどろの顔をした京さんがブー垂れた。
僕はその仕草があんまりにも可愛らしくて、年上のお姉さんなのに、いつも明るく楽しい僕達のリーダーなのに、どうしようもないくらい自分のものにしたくなってしまった。
普段の僕ならきっとお行儀のいい理想を語り、とんちの効いたしっぺ返しをしたに決まってる。
でも僕は
でも僕は
でも、僕は。
肩に腕を回して抱き寄せた。軽い身体。香る長い髪。温かい唇。涙の味がする。
唇を少し開けて少し吸ってみた。京さんの味。ぬるい唾液。粘つく。
制服を掴んでいた彼女の手が僕を引き付け、空いてた手に、指に、絡む。彼女の手が。細い手が。
ああ、僕を許してくれるんですね。卑怯者の僕を、裏切り者の僕を、臆病者の僕を。
カチリとお互いの歯があたる音がして、ようやく上気した京さんの唇を離した。眼鏡に映る自分の顔がまるっきりみっともなく発情してて、冷や汗が出る。
「ひどい男、デリカシーが無い上にファーストキス泥棒」
「……あ、謝らないよ。絶対、謝らない。……謝るもんか」
ブレブレの声で抱いたまま離せない肩に少しだけ力を入れた。みっともなくたっていい。僕は今幸福だ。この幸福感が少しでも君に伝わればいいのに。
「そういや、まだ言ってなかった気がする」
「何を?」
僕が尋ねたら、京さんが少し身を乗り出して僕の口の中で言った。
「答」
教室のドアを閉めて、鍵を職員室に返して、僕達はポクポク歩く。見知らぬ通学路で下げてる鞄が重い。足が重い。空気が重い。
「私は泉先輩の誰かの受け売りじゃない独創的なとこが好きよ」
「…………」
手を繋ごうとして無碍に断られたと思ったら、京さんがそんなことを言った。
コンクリートビルディングの林に沈んだ夕日の残滓が灰色の狭い空に残っている。すこし涼しさの多い風が吹き、彼女のスカートが揺れて。
「もっと情熱的に口説いてくれたら考えるわ」
京さんがそう言って振り返った。
「結婚したら選ばれし子供たちの誰よりもたくさん子供を作ろう」
僕は出来る限り真っ直ぐ彼女の目を見据えて一気に述べ尽くした。
「……天才の考える事ってわかんない……」
困ったみたいな照れたみたいな呆れたみたいな顔をして彼女が笑ったので、僕は天才で良かったと初めて心から素直に思った。
13:20 2009/01/20
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