君にヤキモチ
ヤマトと光子郎
「久しぶりだな光子郎」
声をかけられて光子郎がハッと顔を上げると、くすんだ色の金髪の男が居た。外見は派手だが浮ついた雰囲気はなく、声も落ち着いている。
「お、おはようございます」
何だよ他人行儀な挨拶だな。男は光子郎の態度を鼻で笑いながらも嫌味な感じは全く見せない。
「ヤマトさんもこの電車なんですか?」
「いや、ちょっと出かけるからさ」
視線を蛍光灯附近に持ち上げながら語尾を濁した声。
ヤマトの身形はいつも小奇麗で整ってはいるが、今日は心なしか色気があるような気がすると光子郎は思った。半年も合ってなくたって分かる程度に。
「朝からデートですか?」
「……相変わらず嫌味なヤツだな!」
照れたような歯軋りをしながら、彼は光子郎の頭を小突く。
『そうだよ』
小さな声でヤマトがそう囁いた。聞けば互いの大学生活が忙しすぎて時間が取れずじまいのお陰で3週間も前から今か今かと待ち遠しかったデートなのだと。
「大学生って大変なんですねぇ」
「そう言う光子郎だって受験生だろ、こんな遅い電車に乗ってて大丈夫なのかよ」
つり革を持つ仕草も絵になる長身を折り曲げ、ヤマトが尋ねた。
「今日は課外授業なんです。自主的な」
光子郎が笑って返事をすると、ぎょっとしたヤマトはなんとも言えない渋い顔をして何故、と言葉を搾り出す。
「受験勉強ばっかりしてると息が詰まりますから。今日は一日息抜きです」
「……なんか……お前、変わったなぁ」
「ヤマトさんも随分話し易くなりましたよ」
「…………皮肉屋め。」
眉をひそめながらも、ヤマトが笑った。その笑顔がどこか余所余所しい気がしたのは、光子郎のズル休みに対する引け目のせいだけではない。
「そういやミミちゃんは元気か?」
ヤマトは何の気もなく、天気と同じようなレベルでその話題を出したのだろう。今日は暑いですね、と同じようなニュアンスで。
「さぁ、元気なんじゃないですかね。」
光子郎は電車が止まりそうな事を知ったうえでそう返事をした。
「………………」
絶句する彼をそのままに、光子郎は開いたドアの外に身を躍らせる。生ぬるい湿気を含んだ世界に足を踏み出すと、履いていたジーパンがずっしり重く感じられて全くうんざりだ。
「空さんによろしく!」
ドアが閉まる寸前に、ヤマトが何ともいえない表情でうんと頷いたのを見終えてから、光子郎は駅の待合室のドアを開けて冷えたベンチに座る。古いクーラーの唸る音が狭い待合室に響いていた。
「……知らないんですよ」
頭の中で呟いたのか実際声に出していたのか、本人にさえ分からない程微かに動いた唇がそう言葉を形作った。視線は確かに焦点を結んでいるのに、視界が薄らぼんやりと霞んでいる。光子郎は微動だにしない。
「――――――こんな事でどうするんだ」
ベンチで深くうな垂れ身動ぎしないで停止していた光子郎が短く言葉を吐き出し、溜息をついたのと同時にホームが騒がしくなる。電車が到着したのだろう。
青空に浮かぶ雲はギラギラと照り輝いて、耳には喧しくセミの声。雑踏、暑さ、湿気。そのどれもが光子郎には煩わしく、苛立たしかった。懐かしい地獄の空腹感が蘇ってくるようで。
「光子郎」
声に驚いて光子郎が顔を上げると、そこには息を切らしたヤマトが今にも光子郎の腕を掴まんと手を伸ばしていた。
「えっ……ちょっ、どっ、どうして」
ここに居るのか、と光子郎が尋ねようとする素振りを制する様にヤマトが一言だけ喋った。
「うるせぇ」
ヤマトは停車して開いたドアに光子郎を有無を言わせず押し込み、あの頃仲間内でも辟易していたムッツリとした顔のまま腕を組み目を閉じている。
「空に連絡取った。今日は俺らに付き合え」
「ええええええ!?な、なんでですか!」
「黙って言うこときけ」
「久しぶりのデート邪魔出来るほど野暮じゃないですよ!」
「じゃあお前一体何処へ行くんだよ」
「……と、図書館です。あと電気街とか」
「所在無さげなツラぶら下げて俺の前に出た事を恨むんだな」
「そんな無茶な!」
空と光子郎
「やっぱ飲みモンだけってのも寂しいな。……お前らも何か食うか?」
ヤマトは光子郎の断りと空のリクエストを確認し、追加注文する為に席を立った。日陰になっているとは言えさすがに夏の昼下がりのオープンカフェは相応に蒸し暑く、レジにはアイスコーヒーやらシェイクやらフローズンやらを求める客が列を成している。
「……なんかすいません、せっかくのデートがこんな事になっちゃって……」
光子郎が前の席に座って胸元を扇いでいる空に恐縮そうに声をかけた。
「あー、気にしない気にしない。どーせヤマトが無理くりにお節介焼いたんでしょ」
ハンカチをぱたぱた振りながら空が気楽そうに笑った。
「そーいやさ」
ミミちゃんと別れたんだってね。
空は単刀直入すぎるかな、と思ったがそう切り出した。光子郎はそのあまりに無体な直球にぐっと詰まって目を白黒とさせ、その様子を確認したかのように空が続ける。
「ミミちゃんから丁寧なメール来たわよ。あの調子じゃ相当ヘコんでるだろうからよろしくお願いしますー……ってさ」
「……はぁ。」
光子郎は空がふっと困り顔で笑ったような気がした。彼の視線は相変わらず膝の上の二つ並んだ握りこぶしに固定されていて、動かないままなのに。
「――――――ねぇ光子郎くん」
ウッドデッキのテラスに置かれている白いテーブルは端のほうが煤汚れていて、ちょっと据わりが悪く、空が少し動くとゆらっとプラスチックカップのアイスコーヒーごと揺れた。カップに砕かれた氷がシャラシャラ音を立ててぶつかる。
「どうしてヤマトの誘いを振り切らなかったの?」
彼女の問いの真意を計り知れなくて、光子郎は思わず顔を上げる。
「ほら、あの人バカだから甘やかすと付け上がるわよ。」
けらけら笑う空は随分伸び伸びとしていて、全身の力がスッカリ抜けているのにどこにも軽薄な感じがしなかった。だが、そんな空の様子に慣れない光子郎は居心地悪そうに調子を合わせることしか出来ないでいる。
「気持ちが先行しすぎると自分に何が出来るのか忘れちゃうヒトだからねー。
……光子郎くん実の所、ヤマトの事ちょっと苦手でしょう?」
テーブルに頬杖をついて、悪戯の相談事でも持ちかけるような表情で空が尋ねた。
「い、いえ……そんな……」
一層縮こまる光子郎の様子に空が笑って背もたれに身体を預ける。光子郎の背後ではいつの間にか長蛇になっている列の後ろの方でヤマトが興味深そうにこちらを見ていた。
「感情的で自分の気持ちをすぐ主眼に置いちゃう。そのくせ他人の感情に過敏で、自分で何とかしなきゃって必死でさ。――――――ホント、太一と正反対よね。」
深い緑のストローを咥え、空は氷の溶け始めたコーヒーを飲み下す。
「でもね、お節介焼きたくなる気持ちも分かるの。だって光子郎くんすぐ考え込んで貯めちゃうでしょ。そういう人には庇護欲を刺激されちゃう。」
押し黙り、じっと組んだ自分の指を見つめて動こうとしない光子郎。風はなく、蒸し暑い。
「迷ってるんでしょ?」
真顔の空に向かって、光子郎は何を、といつものそらとぼけた笑顔で逸らさなかった。ただじっとしたまま沈痛な面持ちで神妙に口を開く。
「……迷い、というか。躊躇いと言うか。
怖かったんです。約束とか、誓いとか、未来とか、そういうものが」
ただ単語を並べているだけの文章を憮然と口にした。単語を繋げる為の感情の糸がまるっきり抜け落ちていて、光子郎のセリフにしては漠然としすぎている。空にはそれが借り物の言葉のように聞こえ、ちっとも人間と会話しているような気がしなかった。
「それは一人で立ち向かえるもの?」
空はせめて微笑んで尋ねた。怖がらせても嫌いにさせてもいけない。――――――人に心を打ち明ける行為を。
「……わかりません。
でも、少なくとも、ミミさんは巻き込まないで済む分、楽です」
頭の中に言葉だけがふわふわ頼りなく浮かんでいる。得意の理性でなく、苦手な感情によって。光子郎はぼんやり取り留めなくそう思った。今こうしている事にさえリアリティがない。
「ミミちゃんは多分、そういうのも全部ひっくるめて光子郎くんと付き合ってるんだと思うけど。人と付き合うって、そういう事だってちゃんと知ってる子だもの。……ちょっと過保護過ぎない?」
虚ろで焦点の浮遊している光子郎の目に気付いた空が、光子郎の取り付く島を作った。感情論が苦手な彼には具体的な事例を提示した方が言葉を引き出しやすいと考えたのかもしれない。
「いえ」
だが赤毛の少年はその助け舟に手すら掛けなかった。
「や、だって、光子郎くんはミミちゃんのヤな所も含めて好きになれたんでしょう?だったらミミちゃんだって……」
いけない、と彼女は慌てて言葉のフォローに走る。たった一言の短い返事によって彼にはもう無いことを知ったから。助けてくれと懇願する、気力が。
「いえ、そうじゃなくて。自分の嫌な所が彼女と居るとすごくすごくハッキリ見えて、その嫌な所が、その、つまり……何と言うか……
ミミさんと居るの、しんどいんです。」
言わせてしまった。恐らく、彼さえ信じたくなかった事を。
空の背に一筋の滴が走った。冷たく大粒の、汗が。消えていた背景に色彩が戻ってくるには十分な時間が流れ、その間、二人は沈黙しかすることがない。
「――――――そう、なの……」
唇をかんだままそう唸り声のように空が零した。しまった、やり方を間違えた。この子の結論を急ぐ癖を忘れていた。空はそれっきり黙ってしまった光子郎の手をじっと見ている。語る術も述べる言葉も無く、憐れに佇む後輩の手を。
「……仲間だからって、先輩だからって気を使わなくていいのよ。
怒ったっていいの。『今は一人で居たいんです』ってヤマトに言ってみたら?
――――――大丈夫、そのくらいの後始末してあげるから。」
意を決するように空が少しだけ声を張り、俯いた光子郎の顔を覗き込むようにして続けた。
「私ね、光子郎くんがどうしたいかは光子郎くんが考えないと意味がないと思うの。ヤマトに流されてちゃダメよ。一人を選んだのなら一人をやり抜かなきゃ!……好きで自分が空けた穴を恨みがましそうに見てるだけじゃ、私たち思う存分お節介焼いちゃうわよ。」
笑い顔。大丈夫、変じゃない。空は心の中で何度か唱えながら、そんな素振りは全く見せずに、いつもの顔で喋る。空には光子郎の揺らぎが恐ろしかった。予測できない方向へ転がり、一度弾みがついたら誰にも止められなくなる、光子郎の一途さの象徴として。
「……本当に心細くなったらいつでも言っておいで。だけど寂しさを怖れないって決めたのはあなたでしょう。だったら、寂しいままで生きてかなくちゃね」
それがあなたが選んだ道よ。空がそう言葉を結んだ。突き放す事は一種の賭けだと彼女は自覚している。そして同時に信じていた。仲間が破滅と忘却ではなく、幸福を願い望んでいる事を。
空とヤマト
「……怒られちゃった」
カップに満載されていた筈の氷は全て溶け、ぬるく薄くなったアイスコーヒーのなれの果てを啜りながら空がちょっとだけ笑った風に前の席に座るくすんだ金髪の少年に向かって呟いた。
「空がなんか言ったんじゃないのか?」
「さぁて。」
見ていた事を主張することもせず、ヤマトはそれ以上の追求をやめた。無駄と悟り、また無意味と思ったのだろう。言葉を濁す空の表情からはヤマトの苦手な感情のアピールがされている。つまり、よろめき、具体性の欠如、曖昧なニュアンスである。年頃の男の子からすれば、好きな女の子の腹に一物抱えた表情ほど手に余るものはない。
「……ま、どっちにしろ仲間が手出しできる範囲内ではやることやったつもりだからさ、後悔はねぇよ」
シナモンバターのオープンサンドを齧り、ヤマトは事も無げに空の笑い顔をあしらう。それは必ずしも虚勢だけとは言い切れない堂々とした態度だった。
「電車、折り返して来たんだって?びっくりしてたわよ光子郎くん。」
ヤマトの自信たっぷりな様子を見、ハニーロールを一つ摘んで空が弄ぶ。指先にベタベタとぬるく甘ったるい蜜がまとわりついた。
「――――――ヤマトってさ、もっと他人に興味ないんだと思ってた。意外」
に、と笑って茶化すように彼女がそんな事を言うので、ヤマトは少し顔を顰める。いくらか腹立ちの混じった言葉が出かけたが、ヤマトはオニオンフライと一緒くたに飲み下すことを選択した。
「他人に興味ないんだったら、スタジオキャンセルしてまでここに居るボクは何なの」
「あたしって……愛されてるぅ」
にへへへー、としまりのない顔で空が笑い、そのだらしのない笑顔を見たヤマトが呆れと喜びと居心地の悪さが入り混じった表情で応えた。
「……ミミちゃん歯痒いでしょうねぇ。光子郎くん見てるの」
「俺は多分、ミミちゃんが手を離すのを許したんだと思うけど」
「どういう意味?」
「別にそのまんま。光子郎が結論ありきで先走るのなんて毎度の事だろ。それをあんな風に野放しにするってことは、ミミちゃんの意思じゃないと少なくとも俺は納得いかない」
空はあの二人の関係、光子郎が主導権持ってるように見てるけど、舵取ってんのは完全にミミちゃんだぞ。うまい具合に手の平でコロコロ転がされてんじゃねーか。ヤマトがサワークリームのついた指を舐めながらそう言い、アイスティーの入ったカップを引き寄せて口をつける。
「……そう?アレで結構光子郎くんて自己主張激しいのよ」
得意分野には、と空が心の中で付け足すより早くヤマトが返事を返した。
「普通に考えたら自分の主張を譲らない光子郎とわがままの権化たるミミちゃんとがカチ合わないハズがない。でもうまくいってたってことは、そーゆー事だろ」
俺の視線でしか物言ってないから合ってるかどーかは知らん。ずずず、アイスティーが音を立ててヤマトに吸い込まれていった。
「ウチは?」
「はぁ?」
「うちはどっちが強いのかしらね」
なんだか空は意地悪をしてみたくなった。訳知り顔で浪々と持論を繰り広げるヤマトに。
「そりゃ、俺だよ」
「あら、どうして」
しかしヤマトはそれにすら怯まず、にやりと笑って返した。
「昔から色恋沙汰は惚れた方が負けって言うの」
「……じゃあイーブンじゃない」
「――――――言うね、お前」
いひひひ、空がはしたなく口角を持ち上げてニヤつく。ヤマトはそんな空の表情を見て、妙に自分が満たされたり癒されたりしている事に気付いて、まんざら言い過ぎでもないなと思った。……が、悔しいので口には出さない。
「あっ……京ちゃん!」
急に空がおーいとヤマトを飛び越して大きく手を振った。ヤマトが振り向くと、遠くの和菓子屋の軒先から、和風の店には似つかわしくない白い大きな帽子を被って、これまた帽子には少しちぐはぐなパンツ・ルックにロングへアーの女の子が走ってくるのが見える。
「……お前どーゆー目ェしてんだよ。あんなのよく気付いたな」
「あの帽子お気に入りなの、この前の8月1日に光子郎くんが褒めたから」
「――――――つくづく罪な男だねぇ……」
ぼそっとヤマトが独りごちて、カップの中の小さくなった氷を口に放り込んだ。
「やー!デートですかぁ?お安くないですねぇ」
きひひ、とさっきの空のような子供っぽくて品のない笑い方で京が笑う。ヤマトはもしかしてミミちゃんやヒカリちゃんもこの妙な仕草をするのかと、おかしな既視感を持った。
「京ちゃんこそどうしたの、こんなとこで」
「あそこの店の水羊羹がもう絶品!で!ホントすっごく美味しくて!限定品だから買い溜めしとこうと。ついでだから泉センパイん家に暑中見舞いでも行こうかって、その手土産です」
ほら、かわいいでしょう。小さな手提げの紙袋を見せびらかすように、最近PC部に顔出すときも元気ないんですよねーなどと京が零す。
「……今はそっとしといた方がいいわ。カミナリ落ちるかもよ」
空がきょとんとしている京に続けた。
「さっきヤマトが余計なお節介焼いて、怒られた所だから。……ねぇ?ヤマト」
気楽に微笑みながら意地の悪い話題を振る彼女の軽やかさにヤマトはほんの少しだけ嫉妬心を抱いたが、やっぱり口には出さない。
――――――所詮男は女にゃ勝てない、ってのも言うな。昔から。
ヤマトは残り少ない氷を噛み砕きながら何の変哲もない天を仰ぎ、そんな事を思っていた。
17:13 2008/04/01
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