空が追いかけてくる
ジュリとタカト
空を見上げて歩くと空は止まって見える。
空を見上げたまま立ち止まると、雲が動いているのが判る。
視界いっぱいの空を後ろ向きに歩きながら眺めていると、焦点があいまいになって雲が追いかけてくるように見える。動いているのは自分なのに。
「どうしたの?」
彼が声をかけた。彼女はその声に耳も貸さず、ただうっとりと空を見上げていた。
「……転ぶよ」
危なっかしくよたよたと学生カバンに重心を揺さぶられながら、紺のセーラー服がゆらめいている。
彼女は見上げた空の先に何かを悟ったような気がするけれど、それはすぐ消えてしまう。
ただ、見上げる空には一番星が輝いていて、気の早い白い月さえ顔を出していたのが物珍しくて面白かった。
夜の始まりはどこかわくわくするのに、西の空に残る薔薇色の雲が切ない。
「タカトくん」
名を呼ばれた彼は億劫そうに涼しさの強い風にすくめていた首を伸ばす。
「なに」
「デジタルワールドでさぁ」
彼はまたか、と思った。彼女が奇妙な行動をする時、それは大抵デジタルワールドに置いてきた心と会話している時だ。
同じように出かけていった仲間たちの誰もがあの世界のことに口を閉ざし続けているというのに、ただ一人彼女だけがあの世界の事を口にする。
日に日に淡く薄れてゆく思い出。親友の顔も声も思い出せないのは拒否しているからではなくて、ただ恐ろしいから。あの幸せに囚われて身動きが出来なくなるのが分かっているから。
彼はその恐ろしさに逃げ惑うばかりで、容易く口に出来る彼女を最初は強いと思っていた。じきにそれは間違いだと知る。
「リアルワールドが空に浮かんでたよねぇ」
「うん、そうだね」
ただ彼女は帰ってきていないだけなのだ。彼女はまだあの甘く幸せな世界にいるだけなのだ。
「じゃあこの世界って、マトリョーシカみたいなのかな?」
「……あの、中からどんどん人形が出てくるやつ?」
「もしそうだとして、このリアルワールドが一番最後だったら……無限に広がる大宇宙〜なんてさ、ちっちゃいよねぇ」
ドサッとボストンバッグ型の制鞄が地面に落ちる音がして、彼はその音の方向に顔を向ける。
赤く錆びた空を眺める彼女は憂いを帯び、しかしどこか期待を失わない微笑をうかべたまま、両腕を天高く広げて夕日に照らされていた。
明るく元気だった彼女、宝物を亡くし時が止まった彼女、必死で伸ばした手にしがみ付いた彼女、そして思い出の中に平静を求める彼女。彼のどの記憶の中にいても、彼女は今のように輝いて見えた。幾多の光に照らされて様々に彩りを変えても、彼女の形はしっかりと彼の中に刻みついている。
何故そう思ったのだろう。
彼にもよくわからないに違いない。
ただ彼は無造作に空に向かって手を伸ばす彼女に苛立ちを覚えた。
「そんなわけないね!」
びく、と彼女が驚いて出していた手を引っ込めた途端、背中から抱きとめられる。
「リアルワールドの方がずっとずっといいし、この世界の方が広いし、地下鉄とかドームとか遊園地もあるし、ごはんも、布団も、学校も友達も家族も家も、ここにしかないもん!」
次第に熱を持ち始めた抱き留められている彼の冷たかった手や、首元で細かく途切れる息、自分の足と同じ方向を向いている煤汚れた白いスニーカーの爪先を、少し面白いと思いながら彼女は目を閉じた。
すっかり単語を羅列するだけになってしまった彼の“この世界がDWよりいい根拠”を黙って聞いていた彼女は、必死になって叫び続ける彼の声が空虚な気もするし、同時に有り難い気もした。
だが「もうやめて」とも「わかった」とも言う気はない。
強く縛り付けられているような彼の両腕を解き、くるりと半回転して彼の胸に耳を当てる。
規則正しい鼓動の音が遠くに聞こえた。
ああ、生きている。
彼女が彼女の中にある何かを彼の中にも確かめているそのさなか、彼女の腕ごと彼は渾身の力で抱きしめた。彼女と気持ちが通じたような錯覚に襲われた彼を誰が責められようか。
「か、とう…さ……」
狂ったように早鐘を打つ心臓の音が恥かしくてたまらない。彼女は自分の動揺を笑いはしないだろうか?幼稚で臆病者だと失望したりはしないだろうか?グルグルまわる彼の頭はそんな心配で埋め尽くされていた。
かすれる声もようやく名を呼んでいることが分かる程度で、ほとんど意味は持たなかった。
情けなくも震える手がいよいよ感覚すら分からなくなってきて、彼の意思とは関係なく動き始める。
「生きてるね」
ただそれだけの短い言葉が、ほとんど動きらしい動きをしていなかった彼の指の行方を制した。
風が吹いている。
この場所にもあの頃歩いた荒涼としたあの世界と同じように。
彼は強く目を閉じ、力一杯込めて抱きしめ続けたい欲求で痺れている腕を解いて言う。
泣き笑いみたいなおかしな声で。
「あ、当たり前じゃない。
加藤さんだって生きてるよ。ほら、手が温いもの。
……僕はね、加藤さんのことをとっても大切に思ってるし、それはこの世界に居る仲間も全員そう思ってる。ルキやジェンやケンタにヒロカズ、もちろんリョウさんだって。……ご両親だって弟だって、みんなみんな加藤さんのこと大事に思ってるよ。
――――――だから、もうやめよ?
デジタルワールドばっかり見るの、もうやめよう?
あっちに行けるようになる日までリアルワールドを捨てちゃダメだよ。
だってこの世界にしか、僕たちの居る場所はないんだから」
震える声が心底情けないなと彼は思った。せめて目を見て言えればよかったのに、せめて彼女が手を握り返してくれれば、もう少し自信を持っていえたのに。
彼は数度そんなことを繰り返すように思って、後は沈黙した。
「……どうして泣くの?」
頬をぬるい水が伝う。潤んだ視界の向こうで不思議そうに首をかしげる彼女の顔が歪んで見えた。
「悔しくて」
「……なにがくやしいの?」
「どうしてもっと上手く言えないんだろうと思って」
もっと上手に言いたい。君はこの世界に必要なんだよと。君はこの世界に生きているんだよと。この世界を見捨てないで、この世界を諦めないで。
「ワン!タカトくんは泣き虫さんだワン!そんなことじゃジュリの弟にも笑われるワン!」
楽しそうなその声にふと顔を上げた彼の目に、右手で狐を作りながら笑う彼女が見えた。
スローモーションのようにその指が広げられて頬に触れる。その手のぬくもりを楽しむ間もないまま、流れるような動作で頬を引き寄せられた。少し首を垂れるその格好で、二人の間を抜けていった風が奪った彼の頬の熱量が、倍以上になって戻った。
ぬるく這う少女の唇。
涙の軌跡を手繰るかのように続く舌の感触。
目尻に溜まった水分を啜るように熱い唇が押し付けられる。
彼女は彼の涙を水っぽいな、と思った。もっとしょっぱくて、悲しい味がすると思ったのに。
街灯に燈が灯る。ぱちぱちと瞬いて低いバイブレーション。後は静かに輝くばかり。
「……あの時のタカトくんは凄くかっこよかったわ。頭の芯が痺れて胸がどきどきした。擦り傷と痣だらけで血も流れてたけど、ちっとも頼りなくなんかなかった。
あのタカトくんはどこ行っちゃったの?おっきくなったのは背だけ?」
白い西の空に気付いた時は既に遅く、帰りの放送が流れていた。
『小学生、中学生の皆さん。6時になりました。外での遊びをやめ、家に帰りましょう』
途切れ途切れ、風に乗って聞こえてくる蛍の光が掠れて、伸びている。歪んだ時間を象徴するように。
「泣きたくもなるよ。」
彼が震える声でそれだけ言って彼女の身体に手を回して抱きしめ、どこにも行かないでと囁いた。
初めて肌に触れた彼女の唇の感触の暖かささえ今は煩わしい。それよりも色気のない制コートとごわごわ硬い制服に包まれている小さな身体を押し留める事こそが彼にとっての急務なのだから。
『小学生、中学生の皆さん。6時になりました。外での遊びをやめ、家に帰りましょう』
彼女は今一度彼の肩越しに空を眺め、流れてゆく雲に目を凝らしたが、空に何を見い出したいわけでもなかった。空を眺めていると、何もない夜空を眺めていると吸い込まれそうで、世界からはじき出されそうで……怖い。……でも本当は世界から出てしまいたいのかも知れない自分の方が……
『小学生、中学生の皆さん。6時になりました。外での遊びをやめ、家に帰りましょう』
……そうだ。帰らなきゃ。家に、家に帰らなきゃ。
車のエンジン音、自転車のベル、雑踏、雑音、風の音。少女は急に音に意識を取り戻されたような気がした。自分がどこに居るのかを、音で思い知らされたのだ。
ドアの中に暖かなランプの光があちこちで光っている。視線を下にずらせば、背の高い黒の箱に何百もの光のブロックが幾千本ものロープが渡された空の中に浮かび上がっていた。
小さな世界の小さな空の下で小さな自分が立っている。
彼と一緒に。
「空が追いかけてくるの」
独白するように出た言葉にはっと彼女が正気に戻り、何言ってるんだかわかんないよね、とおどけたが、彼が地面に放り出された彼女の鞄を拾い上げながら真顔で応える。
「じゃあ一緒に歩こう。追いかけてくるヤツと同じスピードで歩けば捕まらないよ」
少年が手を伸ばし、少女がその手を取る。少年の手は暖かく、少女の手は冷たい。
離さないで、と彼女が呟き、任せといて、と彼が笑いながら前を向き、二人は下校を再開させた。
13:35 2008/01/10
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